歎異抄講読(後序について) 細川巌講述 より

第六節


二、火宅無常の世界

 自らへのめざめが同時に、火宅無常の世界という人生へのめざめである。
 『法華経』に「三界無安猶如火宅」(三界安きことなし、なおし火宅の如し)とある。三界は欲界、色界、無色界。我々のへめぐるどのような世界にも安定ということがない。不安動揺である。それはちょうど火のついた家のようなものである。その中で悠々としていることのできないような不安定な世界である。
 「煩悩具足の凡夫」というのが自己へのめざめであり、「火宅無常の世界」というのは人生へのめざめ、外なる世界へのめざめである。それを見出した、これを智慧という。「煩悩具足の凡夫 火宅無常の世界は、よろずのことみなもてそらごと、たわごと、まことあることなき」というと、仏教の憂うつな、何か無常感の強調という感じを受ける。こういうお粗末なていたらくで生きている。これではどうしようもなく、浄土を願うしかないという厭世観をまき起こすような言葉である。が、そうではない。厭世観でもなく絶望感でもない。
 『大経』を頂くと下巻の始めに東方偈がある(1-43)。そこに、「一切の法は猶し夢幻響の如しと覚了すれども……かくの如きの刹を成ぜん」とある。これを菩薩の願いという。一切の法とは万法、生きとし生けるものがら全てである。人生は火宅無常であり、すべてのものは丁度夢、幻、やまびこのようなもので、とりとめのないものである。実体がなく幻のようなものですぐに消えてしまう。そのことはよくわかっている。この人生でどれ程努力し、どれ程積み上げていっても、はかないものであるということはよくわかっている。賽の河原で石を積んでも積んでもガラガラと崩れていくような、とりとめのないものであることはよくよくわかっている。けれども、この人生にどうしてもみ仏の国のような国をつくりたいと願ってやまないもの、実行してやまないものを菩薩道というのである。そのことを言ってある。
 「法は電影の如しと知れども菩薩の道を究竟す」。すべてのものは稲妻の光のように、今光ったかと思うとサッと消えていくようなはかないものであるということはよくよく知っているけれども、どこどこまでも菩薩道を究めて自利々他の行を徹底していく。そういう菩薩の願いを出している。
 流れる水の上に満身の力をこめて、石に刻みこむ思いで字を書いていく。教育とはそういうものだ、と誰か言ったのを聞いたことがある。教育というのは、どんな効果が上がるかという結果は放下して打ちこまねばならない。自分が言った事を受け取ってくれる生徒がいるかいないかわからない。たとえ受け取ってくれたにしてもどこまで続くかわからない。それは夢、幻、やまびこを相手にしているようなものである。そのことはよくわかっているけれども、どうしても仏の国のような国をつくりたいと願って、流水に石に刻む思いで文字を書き続ける努力をする、これを菩薩道という。
 煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界、この中で何をやっても長続きするものでもなく、効果のあがるものでもない。けれども絶望しているのではない。たとえ電光の如きものであろうとも、どうしてもその中でやらねばならぬものがある。そのことを『大無量寿経』によく言いあらわしてある。
 厭世観ではない。夢幻響であるということはよく認識しているのだ。その中で頑張っていくのだ。やってしまって人生は空しいと言うのではない。人生は空しいということは初めからよくわかっている。その上で最後まで頑張るのだ。それを菩薩道といい、仏道という。そういう人間を一人でも多く生産していこうとするところに仏教の使命がある。で、頑張らなくちゃとなる。厭世観に非ず、絶望感に非ず、どんな中にも飛び込んでやっていこうという心を持っている。
 『大経』のここは非常にいい文句ですね。私は好きです。「法は電影の如しと知れども菩薩の道を究竟す」「一切の法は猶し夢幻響の如しと覚了すれども、諸々の妙願を満足して心ず是の如きの刹を成ぜん」。実に勇ましい。とても好きな文章です。
 この世は駄目じゃ、火宅無常じゃと悟りすまして言っているようでは仏教ではない。「法は電影の如しと知れども……」ということが背景にあることを知っておかねばならない。満身の力をこめてこの世を生きぬこうとするものを与えるのが仏教である。
 仏教は絶望ということを知らない。私を含めて人間がどれ程堕落していてもかまわない。社会がどれ程混乱していようとも少しもかまわない。なぜか。それは人間の世界は混乱しても、それを包む大きな世界の働きかけは無限であり、やむことがない。この人間の世界は無常で、どうなるやらわからない人生であるけれども、本願は常に燦々として輝き照っていて下さるのであって、これ一つが確かであるその確かさが本当にわかった時に人間は、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界はよろずのことみなもてそらごと、たわごと、まことあることなし」ということがよくわかって、しかもその中で働きかけずにはおれないものを持ってくる。絶望でもない、楽観でもない、これ平常心である。南無阿弥陀仏である。こういうものを(はら)んでいるのだということを申しておきたい。
 後序には三つの「聖人の仰せ」がある。その二つ目、「聖人のつねの仰せには……」というところに、「今また案ずるに」という言葉がある。
 案ずるのは「聖人のつねの仰せ」であり、これは聖人がいつも仰有っておったことである。一番目には「故聖人の御物語」とあり、最後は「聖人の仰せには」で、「今また案ずるに」は、二番目だけにあるけれども、それが全体に通じていると思う。
 「今」でありましょう。「聖人の仰せ」というのは聖人の御存命中でありお達者な時の話である。『歎異抄』が書かれたのは聖人が亡くなられて約三十年後のことであるといわれている。そうすると、聖人が仰有ったのは少なくとも三十年前である。それを「今また案ずる」。三十年経った今日、それを考えているのである。
 「案ずる」とは、思案という言葉のように、深く考えることである。が、単に深く考えるというのではない。前序には、「(ひそか)に愚案を(めぐ)らして粗古今を勘ふるに」とあり、ここにも深く深く考えると言っている。「案ずる」という言葉は、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば」というように使ってある。これは信心をあらわす言葉である。これを推求という。本当の意味を繰り返し繰り返しおしはかり求めることをいう。又は何回も何回も思い出し思い続けることをいう。憶念という。推求といい憶念という。信心の働きを言っている。三十年前に聞いた教を今、深く思う。始めてでなく「今また案ずる」。聞いて以来、何回も何回も考え思っていた。それを今また再び案ずるのである。その内容がこの「仰せ」である。
 今のところは、「聖人の仰せ」を「今また案ずるに」善導大師の教と少しも「違わせおわしまさず」である。その善導の仰せは更に、曇鸞…釈尊というように、遂は弥陀の本願につながるような長い長い歴史、背景をもっている。それを案ずる度に「われらが身の罪悪の深きほどをも知らず、如来の御恩の高きをも知らずして迷える」私の現実を仰ぎみる世界を持ち、一方、自分自身にめざめていくという世界がある。それが「案ずる」である。
 これが三つの物語に皆共通している。「今また案ずる」という言葉自身は一回しか出ていないが、その内容とつながりを見ると、そうなっている。そのつながりから見ると、「されば辱なくわが御身にひきかけて、われらが身の罪悪の深きほどをも知らず如来の御恩の高きことをも知らずして迷えるを思い知らせんが為にて候いけり、まことに如来の御恩ということをば沙汰なくして我も人も善悪ということをのみ申しあえり」という自己にめざめた。そういう自己を思うにつけてまた、「聖人の仰せには、善悪の二つ総じてもて存知せざるなり」とつながる。「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は云々」という自己を知らされ、深い深い目ざめを与えられる。それが「今また」続いていくところを信心という。
 信は何かを信ずるというのではない。私が仰がずにはおれない言葉、思い出さずにはおれない言葉を憶持の言葉という。憶は憶念、持は念じたもつ。憶持せざるを得ない言葉を頂いているということ、その言葉により自分自身がいつも照らし出されて、自分の何であるかを明らかにされるというような言葉を賜うた、教を頂いたことが信心である。
 そうすると、前にも申したように『歎異抄』後序は、信心を明らかにするものであるけれども、別の面から言えば、私がよき人の仰せを被ってそれを一生、憶持していくところに、信心の具体的な姿がある。それを明すところに『歎異抄』の結論があるとも言える。
 金子大栄先生は、「宗教とは、一生をかけて悔いることのない一つの言葉との出合いである」と言われたと聞くが、これはこういう所から出ているのかも知れない。一生をかけて「また案ずる」ような仰せを頂いて、深く深く自己を知らされていく。「今また案ずる」ものを持っているのが仏法であり信心である。信の具体的な姿である。
 さてお前はどうだと自分自身を問うと、唯円というお方はとてもとても優れた人だなあと知らされる。唯円は先生が亡くなられて三十年経った後に、このように克明に仰せを書き記された。これは実に大変なお方だということが益々わかる。いわんや後序だけでなく『歎異抄』全体、特に第一章から十章までは、まことに珠玉のような言葉が連ねられていて、聖人のお言葉をそのまま承るようである。これも唯円が推求し憶持念持しておったお言葉であったに違いない。唯円自身を本当に照らす言葉であったのである。
 そういう唯円に較べて、お前は自分の先生から長いこと教を(こうむ)ってきて、今何を憶えておるか、何を今また案ずるかと言われると、とてもこんなに沢山は出てこない。まあ一つか二つしかないような気がする。それにつけて唯円というお方は本当に偉い人じゃなあと敬服しますね。実にすぐれたお方だ。親鸞聖人というお方とまことに一体のお弟子であったと仰ぎみることである。我々も又、「今また案ずる」というものを持たねばならないと教えられる。
 それは「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界はよろずのことみなもてそらごと、たわごと、まことあること無きに、ただ念仏のみぞまことにて在します」となって、われ人ともにそらごとたわごと、まことあることなき現実を知らせる。これが後序のしめくくりとなっている。

一、煩悩具足の凡夫に戻る/メニューに還る/三、智慧に進む