歎異抄講読(後序について) 細川巌講述 より

第六節


 三、智 慧

 「煩悩具足の凡夫」とは私自身のことであり、「火宅無常の世界」とは、わが人生、わが世界のことである。自己及び人生に明らかに目がさめるところに智慧がある。
 自己は煩悩具足の凡夫、人生は火宅無常の世界。それがそらごとたわごとまことあることなしである。
 先ず言葉の意味。凡夫ということについて、聖人御自身が八十五才の時と仰っているところがある。『一念多念証文』に、「凡夫というは、無明・煩悩われらが身に満ち満ちて欲も多く瞋り腹だちそねみねたむ心多く間なくして臨終の一念にいたるまでとどまらずきえずたえずと水火二河の譬にあらわれたり」と。凡夫の反対は聖者。聖者でない人を凡夫という。凡夫は菩薩に非ず、求道者でないのをいう。普通の人、つねの人、世間道の中で右往左往している者である。これに又二つある。一つは外凡、これは全然仏法に関係のない所で右往左往しているもの。も一つは内凡、仏法には入ったけれどもまだまだ初歩の人。十信というところを内凡という。要するに聖者まではいかない段階の者をいう。
 その状態は、「無明・煩悩われらが身にみちみちて」、貪欲、瞋恚、愚痴という煩悩が体いっぱいに満ちあふれている。そして具体的な姿としては「欲も多く(いか)り腹立ちそねみねたむ心多く間なくして」、しかもそういうのが次々と起ってきて無くなることなく、臨終の最後の最後までやむことなく消えることなく、絶えることがない。それを水火二河の(たとえ)にあらわされている。これは善導大師の誓である。
 我々が求道の旅に出発する時直面する問題は、大きな火の河と水の河にぶつかることである。火の河が瞋恚、水の河が貪欲、この両者に代表される煩悩の問題である。善導は、火の河と水の河の川幅が百歩あるという。百歩というのは「人寿百歳に喩う」というように、生まれて死ぬまでの人間の年令を表わす。即ち生まれてから死ぬまで、欲と瞋り腹立ち無明・煩悩は無くならないということを表わしている。この河は「深くして底なし」である。そしてこの火の河の炎は常に燃え上がって白道を焼き、水の河の渡はいつも逆巻いていて、白道を洗い流して止むことがない。これから聖人が、「無明・煩悩われらが身に満ち満ちて……」と言われた。これを煩悩具足の凡夫という。まことにこの通りである。
 源信僧都の横川法語には、又別の表現で出ている。「妄念はもとより凡夫の地体なり、妄念のほかに別に心は無きなり、臨終の時までは一向妄念の凡夫にてあるべきぞ」。妄念といえば妄念妄想であり邪見(間違った考え)である。邪見憍慢、妄念妄想を繰り返すばかりである。その妄念が本当の凡夫の地の姿である。「もとより」とは、もとからそうであること。一部は炭で一部はダイヤモンドであるということはない。始めから全部が炭なのである。我々の地そのものが妄念であって、考えることはすべて顛倒の妄見である。我々の考えが皆ひっくり返っている。しかしそれをやめず考え続ける。邪見憍慢が我々の地であり本体であって、それより外にわが心はない。まことに「妄念はもとより凡夫の地体なり、南無阿弥陀仏」「妄念よりほかに別に心はなきなり、南無阿弥陀仏」である。
 前のは無明・煩悩は死ぬまで無くならないと言われ、あとでは、それがわれらの本体だと言われている。
 われらの存在をこのような凡夫であると誰がいうのか。人間が言うのではない。人間ではこうは言い切れない。言い切る力がない。必ずもう少し頑張ったらよくなるだろうと言う。人間の発想は理想主義であり、楽天的である。今は駄目だ、が、そのうちによくなるだろうと思う。凡夫とはいうものの頑張れば立派になるのではないか、またそれだけの努力はしなければいけないではないかという。やればできるんだといつも考えているが、しかし徹底的にやったことがあるわけではない。けれども「妄念はもとより凡夫の地体なり……」などとはとても思えない。凡夫とは仏法用語であって、仏の悟りの言葉である。
 仏法用語は全部悟りの言葉である。凡夫とは仏の眼にうつる私の姿である。仏陀が明らかにされた人間の姿を凡夫という。我々は一如と聞き、涅槃と聞くと、何かそれなりにわかる気がする。が、実際はいくら聞いても少しもわからない。なぜなら、釈迦の悟りの言葉であるから。南無阿弥陀仏も弥陀の本願も同じ。聞いていけばやがてわかると我々は思うが、自分の力でわかるのではない。
 悟りの言葉とは何か。いつも言うように、我々が生まれてきた姿は卵である。殻の中に入った形でしか人間は生まれてこない。自己中心というか無明というか、いわゆるナルシシズムの殻の中の存在(卵)である。殻の中ではいくら考えてもわからないことがある。例えば、「大きな世界があるのだ、そしてそこには光が満ちており、沢山のすぐれた人達がおり本当の僧伽がある」などと言っても、「ああそうですか」というだけで、何のことか実際にはわからない。
 悟るとはどういうことか。卵が適当な熱を得て嘴がはえ、眼と足がつき毛並みが揃って、ひよこになって穀を出る。その時大きな世界がわかる。それを悟りという。架空の世界ではない。悟った人が実際にいるのである。歴史上には第一に釈迦である。以来インド、中国、日本と伝わってきていよいよ明らかになった。そして、まことに釈迦のおっしゃる通りだとわかった。源信もその一人であり親鸞もその一人である。凡夫いうことがわかったのである。「妄念はもとより凡夫の地体なり」とわかった。卵がひよこに成長しなければわからない言葉である。
 卵がひよこに生まれ変って殻を出た時に、自分の入っていた穀がわかる。その殻にめざめたのを、自己にめざめるという。「煩悩具足の凡夫」というのはめざめであって、単なる知性の言葉ではない。
 仏の眼にうつる私の姿が私において、これが私とわかる。これを智慧という。これを信心といい、念仏というのである。「妄念はもとより凡夫の地体なり」とは仏の眼にうつる私の姿である。私が凡夫とわかるということは、既に凡夫を超えている。穀を出ている。凡夫を超えたらそれを仏という。仏の現実世界における姿を菩薩という。菩薩とならなければ、凡夫とわからない。
 正定聚不退の菩薩という言葉があるが、菩薩としての誕生、これがひよこである。卵からひよことして誕生することが、凡夫とめざめることである。それを智慧を与えられるという。「煩悩具足の凡夫」とわかったところには、仏智が輝いている。
 「妄念はもとより凡夫の地体なり」、それが「善し悪しということをのみ申しあえり」「如来の御恩ということをば沙汰なくして、我も人も善し悪しということをのみ申しあえり」である。これが妄念妄想であり、私の地体である。本当の生地であり本体であって、これより他に別の心はないとわかって南無阿弥陀仏と念仏する。それを智慧といい、仏智の働きという。

 「火宅無常の世界」、無常という時には無実であり、無浄である。清らかさというものがない。煩悩が常に混っている。そして無真実。真実なし、それを虚仮という。空しく空っぽ。丁度流れる水の上に文字を書くように、どんなに力をこめて書いてみても、何もあとには残らない。全て一過性なもので長続きしない。どれ程心をこめて作ったものも、やがては流れ去っていく。それを虚仮という。
 煩悩具足の凡夫が住む世界が火宅無常である。凡夫が主体でそれを正報という。火宅が環境で依報という。主体と環境は依正不二といって離れない。豚がいる所が豚小屋である。どんな所に豚を置いてもそこが豚小屋になる。その主人公がその世界をつくって、両者は丁度一致するようになっている。ごみ箱の中にきれいな蝶がいたということはなくて、ごみ箱にはハエが集まる。主体が環境を作り、又環境が主体と丁度マッチする。
 現在は社会が悪いから人間が悪くなる、子供の教育も環境作りを考えなければいけないという。環境が大事で、良い環境の中から立派な主体が育つのだという。確かにそういう一面もある。それでは環境さえよければ人間はもっとよくなるのかというと、そうはいかない。主体が環境を作っていくという一面がある。これを忘れてはいけない。この両方があるのだ。主体が環境を作り、環境が主体に働きかけるのである。
 依報と正報、主体と環境がつり合っている。主体が凡夫であり、それによって廻りが汚されてくる。又、環境の汚れによって主体が汚されてくる。それが繰返されているのを「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界」といい、曠劫来流転という。
 それならば、こんな世界に生まれても生きる価値がないという人がある。
 朝日文化事業団の一つが福岡で「心の教室」をひらいている。たのまれて毎週一回、これまで七年間『歎異抄』の講義を続けてきた。その受講者の中に一人の女性があった。三十才位だったが一年でやめた。その時感想文を書いてくれたのを見て驚いた。自分は結婚して何年かになるが子供がない。実は子供を生みたくないので生まないようにしている。なぜかというと、この世の中、環境汚染、試験地獄、学歴社会。この中で子供を生んでも子供は幸福になれないだろう。こんな汚れ果てた世の中で子供を生む気になれないという。うーむと私は考えた。そんな人もいるのかなあと。それからそのことを頭において話をしたのだけれど、とうとうその人はやめてしまった。もう少し何とか言ってあげればよかったと、心にしこりが残っている。「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界はよろずのことみなもてそらごと、たわごと、まことあることなきに」。それならばもう生きる甲斐もないと仏教は言っているのか。
 決してそうではないそうではないのだということをよく知っておかねばならない。智慧は現実を明らかにすると共に、真実の世界を明らかにする。丁度磁石が、一方が北をさせば他の一方は南をさすように、北がはっきり定まることによって南がはっきり指示される。人生の現実をはっきり示す、それが「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界」である。と同時に、真実にして清浄なる智慧の世界、真実の世界をはっきり示す。片方だけということはない。片方だけならば人間は生きる望みを失い、絶望し、どうしてこんな人生に生まれたのかと悲歎するしかない。「よろずのことみなもてそらごと、たわごと、まことあることなき」不実虚仮の人生だけならば残念千万ということになる。そういう人生ならば早くおさらばするしかないであろう。仏教は、この現実人生を生きぬく力を与えるものである。この人生がどれ程汚れ果てていようともそれに取り組んで、少しでもそれを改善しようという意欲をわき立たせる力を与え得るものが仏教である。
 厭離穢土、この穢土、そらごと、たわごと、まことあることなき汚れたこの人生を厭い離れていく。穢土を捨てて清浄真実を求める。この厭離欣求を聖道門という。仏教は初めこのようなものとして理解されていた。仏教は先ずこれであった。即ち此の世はお粗末な人生で、この世でどれ程幸を求めようと、この世でどれ程金を持っても家を建てても無常である。だからこれを離れ、職業を捨てて出家して本当のものを求めていこう、これを出家得道という。これが聖道門である。これは人生の現実を捨てて真実清浄なる世界に行こうといういき方である。
 欣求が先で厭離が後、これを浄土門という。浄土門とは、真実清浄なるものは何か、本当のものは何かを明らかにしていこうする。それを求めることによってこの世の実相というもの、即ち私の相を知ってそれを厭い離れていく。われらが無明・煩悩を知らされて、妄念妄想の塊であるということを知らされ、本当に無自覚なことである、お粗末なことであると、それを痛み悲しんでいく。そしてそれを少しでも離れていこうとする。それを厭離という。人生を捨てるのではない。人生の底に沈没していくことを厭い、少しでも本当の道に立たしてもらわねばならぬと念じていく。そしてこの人生に沈んでいる人々に、少しでもこの道を明らかに勤めていこうという行き方が生まれる。それを浄土門という。
 本当に求めていくべき方向が与えられることによって、自己と人生を知っていく。そして、嘘を言いつまらない事を積み重ねていく、そんな虚仮を厭い、本当の道に立とうとするのを、「欣求を先とし厭離を後とす」という。ここに、自分自身が人生での生き方を正すと共に、人生に沈んでいる人に働きかけたいという積極性が生まれてくる。それが浄土門である。

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