『仏の教えに出あうということ』 寺岡一途
第四章 仏弟子たち


 第三節 住岡夜晃

宿善/僧伽/聞の人

宿善
「仏弟子たち」という題で話をしてきましたが、最後に住岡夜晃という方についてお話します。この方は前の二人に比べればごく最近、と言っても約50年前に亡くなられたのですが、ごく最近の方です。生まれたのが明治28年(1895年)、亡くなられたのが昭和24年(1949年)です。生まれた所は広島県の山県郡というところで、広島県でも中国山地寄りになります。全国的には当時も今も決して有名な方ではありませんが、最近の方ですから多くの資料は残っていて、その生涯についてかなり詳しく知ることはできます。
 家は代々の安芸門徒で、安芸門徒といってもわからないでしょうが、安芸というのは昔の地名の呼び方で、今の広島のあたりをそう呼んだのですね、そして門徒というのはお念仏の教えを聞く人々ということで、広島あたりは長い年月、代々親鸞聖人の教えを聞き続けられた家庭がたくさんあったようです。そういう家庭に生まれた子は宿善をもっていると言われます。宿というのは過去ということで、先祖の方が熱心に聞法され、それによって得られた徳を受け継いでいるということです。そういう人は仏法にたいして親近感をもつといわれます。
 みなさんはどうですか。しかし、問うまでもなく、この会に参加されたという事実が、みなさんが厚い宿善をもたれていることをあらわしています。春休み、したいことがいっぱいある中で、はるばる長門まで来て、この会に参加されたのですからね。
 宿善はまた「考える力」となってあらわれます。宿善がある人は考える力をもっているといわれます。考えると言っても、数学や理科の問題を考えるということではありません。自分の生き方について深く考えるのです。しかし、考えるとは疑うことです。目の前にあるものが本当のものであるかどうか疑うことです。そしてどこまでも真実を追及してゆくことです。疑う力がない人は、表面だけを見て、目の前にあるものにすぐ飛びついてしまいます。疑うことは、そのまま未決断、迷うことにつながりますから、疑うにはなかなか力がいるのです。「考える、疑う、迷う」この三つは同じことをあらわしているのです。釈尊にしても、龍樹菩薩にしても、親鸞聖人にしても、みな疑うことにおいてすぐれ、迷うことにおいて徹底した方でした。しかし、やがて長い思索をくぐって発せられた言葉は深い陰りをおびていて、わたしたちの心の奥底に響いてきます。
 住岡夜晃、この方も安芸門徒の厚い宿善の大地から生まれた方です。この方はもとは小学校の先生をされていたのですが、やがていろいろな事情の中で、29才の時に仕事を辞めて仏教の布教活動に専念されます。そうして多くのお念仏者を育てられ、54才という若さで亡くなられます。この方は僧籍を持たれなかった方です。つまり在家の身として一生を送られたということです。しかし、まぎれもなく仏弟子であった方です。
 この方も多くの書物やお手紙を残してくださっています。どの文章からもお念仏の教えにたいする深い領解と私たちに対する厚い呼びかけが感得されます。この方にとって書くということは本願の教えを仰ぎ、本願の教えに照らされることであり、また苦しむ人々にかぎりなく同感してゆくことだったのです。二十巻の全集が残されていますので縁があれば是非この方の書物に触れてみてください。

僧伽
 しかし、ここではその方が残してくださったものという視点からお話ししてみようと思います。龍樹菩薩はたくさんの論書を書き、大乗仏教という世界を知らせてくださいました。それによって滅びかけていた仏教がふたたび興り、現在にまで伝わっています。親鸞聖人は『教行信証』という書物を書くことでお念仏の道が大乗の仏道であることを一般社会に認知させてくださいました。そのことによって現在、お念仏がわからない人でも、お念仏が邪教だと言う人はいません。
 また『教行信証』という書物は非常に難解な書物ですが、時代々々にそのお心を尋ね、お念仏の本当の心を明らかにして下さる方があらわれています。龍樹菩薩が海底深く竜宮に大乗経典をたづねて行き、ついに釈尊の本当のお心に出会い、大乗仏教を宣揚されたように、この難解な書物に自己の全体をもってたづねてゆき、お念仏という宝を持ち帰り、紹介してくださる人が必ずいるのです。住岡夜晃という方も、そのお一人でした。ではその方が残してくださったものは何なのでしょうか。
 もちろん「お念仏である」ということは出来るのですが、わたしはさらに具体的にいえば僧伽ではなかったかと思うのです。僧伽とはサンスクリット語のサンギャの発音をそのまま漢字であらわした言葉ですが、仏法を求めて歩んでゆく人々の集まりをあらわす言葉です。その方は本当のお念仏者をたくさん残してこの世を去ってゆかれた方でした。お念仏と言っても人を離れてはないのです。またお念仏は人を生み出してゆく教えなのです。
 わたしが広島でその方が残された僧伽に初めて出会ったのは、その方が亡くなられて二十年ぐらいたった時でした。しかし、その時にもまだたくさん、その方に出会うことによってお念仏の世界に生きるようになった方がおられました。当時、私はその方の書物に初めて触れ大変感激したものですが、その方が残された人々についてはあまり関心をもちませんでした。どうしてかというと、それらの人々は特に有名なという方々ではなかったからです。もちろん著名な方はおられましたが、多くはごくあたりまえの人たちでした。私は、それらの人たちにしきりにその方がどんな方であり、どんな出会いをされたのかを聞きました。みんなその方の姿を、その方との出会いをなつかしそうに語ってくださいました。しかし、今、思えばその方は、その思い出話の彼方にではなく、目の前のお念仏者の上におられたのですね・・・。若い私は驕慢でしたから、今でも同じかもしれませんが・・・、それが見えませんでした。それらの人々がもつすぐれた徳を拝むことができませんでした。

聞の人
 その人たちは一様に「聞く姿勢」をもっておられる方でした。どんな話でも深く頭を下げて受け取っておられました。だから、ある意味で目立たない人たちでした。しゃべる人、批判する人、攻撃する人、そのような人はよく目立ちますね。しかし、聞く人は目立ちません。まるで愚者のように自分の意見を持っていないようにも見えました。しかし、そうではなかったのですね。教えに関してお尋ねすると、その人なりの言葉でていねいに教えてくださいました。そうして「お念仏申そう」と勧めて下さいました。その人たちは深い智慧をもたれた方たちでした。
 当時、わたしはそれらの徳は、それらの人々のもって生まれた性格だろうと思っていましたが、そうではなかったのですね。その「聞く」という姿勢は、住岡夜晃という方に出会い、お念仏の世界に生きられるようになってから獲得されたものだったのです。その方が残された僧伽にはいつもなにか静けさのようなものが漂っていました。たくさんの方が集まられてもそうでした。しかし、それは事実において静かだったのではなく、あるがままに受け取って念仏申して生きておられる僧伽の方々の姿勢が、その場に香りとなって漂い、私にそのような感じを抱かせたのでしょう。
 その方の残された言葉に「念仏しておらんようになれ」「念仏して自己を充実して国土の底に埋もるるをもって喜びとなすべし」という言葉があります。そのお言葉どうりにその僧伽の方々は生きておられたようです。その方々こそ住岡夜晃という方がこの世に残された希有なるものではなかったかと今思います。
 釈尊に発した教えは、龍樹菩薩によって大乗の教えとして明らかにされ、法然・親鸞聖人によってお念仏の教えとしてあらゆる人が歩める道として開かれ、その教えがお念仏となって人の上に真に届くとき、どのような現実をもあるがままに受け取って、念仏しつつ国土の底に生きる「聞の人」を生み出したのです。釈尊の教えは決して人を縛る倫理でも、世界を解釈する論理でもなく、また世間から退き心の安定を求める道具でもないのです。真実清浄なる世界を仰ぎ、かぎりなく自己自身を照らされながら、深い懺悔と感謝によって貫かれた生に生かしめる教えなのです。それがお念仏が開く世界なのです。

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