『仏の教えに出あうということ』 寺岡一途
第五章 人生の設計図
 
 第一節 人間生成
人生の設計図/人間が人間になる道
人生の設計図
 設計図というのがありますね。家を立てる時や物を作る時、前もって描く図面です。設計図なしに思いつきで家を建てていったらとんでもない家が出来てしまうでしょう。では君たちは自分の人生の設計図は持っていますか。高校、あるいは大学までの設計図はそれぞれ持っているかもしれないですね。でも、それは自発的に描いた設計図ではなく、他の人の設計図を真似て描いたにすぎないかもしれません。だから大同小異、部品の名前が少しちがうぐらいです。しかし大学を卒業したならば、それから先は自分で自分の設計図を描かなくてはなりません。さあ、どのように描きますか。
 普通は、就職し、結婚し、子育てをし、海外旅行をし、余裕があればボランティアをし、やがて退職して趣味の世界を楽しみ・・・、それぐらいのイベントを柱にして設計図を描くでしょうね。それを世間道の設計図というのです。その設計図に基づいて歩むならば、それぞれのイベントでどのような幸せを手にいれようと総じて六道を流転し、空過におわると語るのが仏の教えなのです。このことについては最初の日の六道輪廻というところでお話ししました。
 しかし、まだ自分が生きていないのだから設計図を描けと言われてもこれは難しい課題ですね。それで、ある方は、若い時に偉い人の伝記をしっかりと読みなさい、と勧めておられました。すぐれた人の生涯の歩みをたどることは多くのことを教えてくれるからです。いくらか読んだことのある人はいますか。・・・そうでしょうね。私の勤める学校の図書館にも伝記のコーナーがありますが、あまり読まれた形跡がみられないですね。昨日、釈尊と何人かの仏弟子たちの歩みを紹介したのは、実は、それらの方々の歩みを通して、色んなことを考えてほしいと思ったからです。

人間が人間になる道
 亀井勝一郎という方は『愛の無常について』という本の中で、この方が考える人生の設計図を詳しく語っておられます。それを紹介しましょう。
「生まれ変わるということを私は人間の根本条件としております。人間は母の胎内から生まれたというだけでは、未だ人間には成らない。普通に言うこの誕生は、動物においてもそうなのであって、なんら人間の特色とならないのであります。人間が人間に成るためには、一生のうちでも、幾度か生まれ変わらねばなりませぬ。人間として「生まれる」ということは「生まれ変わる」ということです。そしてその最初の徴候が即ち青春時代で、この時期に、はじめて「我」を自覚し、自発的に考えることを始めます。・・・人間はいかにして生まれ変わることが出来るか、換言すれば、人間が人間に成るための条件を考えてみたいと思います」。
 この方の設計図は「生まれ変わる」ということを目標に作られているということです。そういう設計図を教えてくれる人は一般的には少ないものです。これから、この方の考えるところをたどってみましょう。
 まず、考える。何を考えるかというと、
「自己と人生と実社会、そこに向かって、まず疑問を発します。自己とは何か、恋愛とは何か、神とは、死とは、社会とは、その他無数の疑問が次々と生じるはずですが、考えるとは、つまりこうした疑問を自己に課するということなのです。自己はかかる疑問によって妊娠せしめられ、かくて自己を生む」
 たいへん漠然としていますが、思春期において他人の目の中に入って行くとき、人はさまざまな感情に揺り動かされます。希望と不安、優越感と劣等感、愛と憎しみ、成功と挫折、それらはすべて「我」というものを強烈に自覚させます。世界に一つの「我」、かけがえのない「我」、しかし、やがてうたかたに消えてゆくであろう「我」、それゆえに深い孤独に出あうのもこの時期です。そして考えることを始めます。
 住岡夜晃という方が次のような言葉を残しておられます。

  青年よ 哲人であれ
  ものを深く考える哲人であれ
  一切を疑う苦悶の日を持て
  而して明確なる断案を握る哲人であれ
  青年よ 強者であれ
  名刀のごとき強者であれ
  失敗してもいい おびおびするな
  七転八起の強者となれ

 つぎに、迷う。
「ゲーテの『ファウスト』の冒頭に「人間は努めているかぎり迷うにきまったものだ」という天上の言葉があります。子どもに迷いはなく、考えることを停止してしまった大人という子どもにも迷いはありませぬ」
 迷うということをわたしたちは否定的にとらえることが多いのですが、この方はゲーテの言葉を引いて讃えています。迷うということは、ある意味で、限りなく自分に厳密であろうとする精神のたどる軌跡と言えましょう。釈尊の迷い、龍樹菩薩の迷い、親鸞聖人の迷い、「迷う」とは「求める」ということと同義なのです。
 そして、一念の発生。
「考える、迷うことは、人間をして星雲たらしめる。換言すれば、それは可能性なのです。何になるかわからぬが、何ものかに成る未来をそれは暗示し始めます。この渦巻く星雲はそれ自身のエネルギー(懐疑と絶望)によって、その中心核を次第に形成して行く。かくあれかしと願う一念というものが次第に結晶してくるのです。絶望による自己否定を絶えず伴いながら、一念は次第に凝結したり分解したりしながら、強くなってくる。これが星雲の中心核となって、やがて人間を一個の星たらしむるのです。人間の生命とは何か。私は端的にそれは一念であると答えたい。すなわち人間の一念が、人間の生命だと言いたいのです。・・・一念とは祈りなのです。自己自身への祈りといってもよい。星雲として現在する自己の中の星たるべき未来像、いわば可能性に対する祈りなのであります」。
 私が付け加えることはありません。
 そこに、出会いが生まれる。
「人生には様々の不思議がありますが、私は考え、迷い、一念形成の途上における邂逅を最も重視するのです。いついかなる時、いかなる偶然によって、誰とであったか。そこでどんな影響をうけ、どんな友情が、あるいは恋愛が成立したか。そういう経験をもつ人は、ふりかえって運命の不思議に驚くでありましょう。それによって一生が決定する場合も少なくない。邂逅こそ人生の重大事であります」
 不思議という言葉を使われていますが、先に紹介した住岡夜晃という方も親鸞聖人と法然上人の出会いを書いた文章で同じような表現をしておられます。読んでみます。
「偽れぬ心。自分で自分をだまさぬ心。この人の前だけ、真剣な求道がはじまる。古い殻を破って、たぎりたつ生命が吉水の法然上人を中心に湧いている。不思議な力が親鸞を法然へと結びつける。・・・衷心から心から何かが動く。動いた力が何かをひきつける。衷心の願望は何か。願望に似かようた世界がひらける。・・・真剣に生きる者に真実の悩みがある。真実の悩みにのみ真実の疑いがある。真実の疑いにのみ真実の問いがある。真実の問いに真実の答えが与えられる。真実の答えによって真実の道が開ける」
 「願望に似かようた世界がひらける」・・・一念形成途上の激しく渦巻く星雲は、その強力な凝集力によって限りなく鋭敏なセンサーと化し、自分が求めるものをさがしだし、わが身に引き寄せるのでしょうか。それとも、その祈りの真剣さに世界の背後の目にみえぬ力がそっと手を添えてくださるのでしょうか。ふり返る時、出会いはまさに向こうよりこちらに殺到してくるが如きものに思われるのです。ある方が「出会いは私からみれば偶然だが、向こうから見れば必然なのです」と語っておられます。これも考えさせられる言葉です。
 その出会いによって獲得されるものは、あるいは自分の未来の形とは言えないでしょうか。出会いにおいて人は相手の上に自分の未来の形を発見するのです。シッダールタは北の門を出た時出会った修行者の清らかな姿の上に、自分の未来の形を見たのでしょう。だから、シッダールタは一切を捨てて城を出たのです。親鸞聖人は法然上人の人格の上に自分が求めていたものを感じとられたのでしょう。だから比叡山を捨て、吉水の僧伽に身を投じられたのです。
 一つの作品との出会いが芸術家の一生を決定することが多々ありますね。一枚の絵、一つの楽器、一片の詩、一つの建物、一枚の織物、著名な芸術家にして青春の出会いを語らない人の方が少ないかもしれません。芸術家は出会ったものの中に共感するものがあった時、自分でそのような作品を創り出したいと強烈に願います。フィルメールの小さな、しかし宝石のような絵を見て、絵画の道に旅立った若者はおそらく多数にのぼるでしょう。
 つまり、私がここで言いたいのは、青春における出会いにおいて人は初めて自分が歩むべき方向を見いだすということです。仏教においてそれが成り立つことを発心というのです。仏道に向かう方向性がそのとき定まるのです。
 自分の言葉を持つ。
「自分の言葉をもつということは、自分が生まれるということです。・・・はじめて発した自己固有の言葉は、その人の生命のあけぼのである。・・・自分の言葉をもつこと、すなわち自分の生涯の始まりなのであります」
 最初にこの人は「人間の根本条件は生まれ変わることである」と言われていましたね。「自分の言葉を持つ」ことと、「自分が生まれる」こととはどういう関係があるのでしょうか。
 先程の芸術家の歩みを考えてみましょう。天啓の如く自分の魂の奥底に語りかける作品に出会った若者は、必ず、その作品を模倣しようとするでしょう。よく言われるように学ぶとは、まねぶ、つまり、真似をすることなのです。絵画の世界では優れた作品を模写するという学習があります。模写においては自分というものを出してはいけません。どこまでも向こうの作品の前にひざまづき、向こうの作品に忠実に従わなくてはなりません。また優れた作品はそれだけの権威をもっているのです。「なんだ写すだけなら簡単さ」と思うかもしれませんが、そうではないのです。やってみると分かるのですが、模写すると表面的には似たものが出来るのですが、しかし、それは似て非なるものなのです。
 そこから長く苦しい修行の時代が始まるのです。もし、その旅において、途中で「まあ、これぐらいでいいか」と自分に妥協して座り込むと、結局、真似に終わってしまうのですね。真似に終わった作品は一時はもてはやされても永続性をもちません。その作品には本物がもつ他者の魂に直接語りかけるものがないからです。あるいは途中から、模倣することの困難さに疲れ、自分を旅立たせた作品の導きを放棄し、自分の個性を主張しはじめる人もいます。やがてその人は歩むべき道を見失い、荒野をさまようことになるでしょう。その人は本当の個性の深みにまで錘を降ろしていなかったからです。
 その二つの誘惑をしりぞけて、「自分を旅立たせた感動」と「自分自身」にどこまでも忠実に歩む人の上には、やがて必ず訪れる日があるのです。それが自分の言葉をもつ日です。亀井勝一郎氏はその日のことを作家の島崎藤村の言葉を紹介しながら語っています。
「はじめて発した自己固有の言葉は、その人の生命のあけぼのであるということを。「生命は力なり。力は声なり。声は言葉なり。新しき言葉はすなわち新しき生涯なり」 これは若き島崎藤村が、その最初の詩集にしるした序文の一節です。自分の言葉をもつこと、即ち自分の生涯の始まりなのです。そうあるためには、私がさきに述べた「沈黙」を重視し、これに耐えねばなりませぬ。この沈黙とは、正確さへの意志と言ってもよい。沈黙は意志の強さの尺度であります。多くの沈黙に耐えた人の言葉ほど美しい」
 その時語られる言葉はもはや模倣ではないのです。たとえ同じように見えても、それは模倣ではありません。それは表現なのです。みずからのいのちの源泉から無限に湧き出ずる水のほとばしりなのです。ですから、その言葉、その表現にはおのずからなる権威があり、個性を装おわなくとも、それ自身において個性的であるでしょう。
 「自分の言葉を持つことが自分が生まれることである」とこの方が言うのはそういうことだと思います。それまでは他人の言葉をかりて使っていたのですね、だから不自由で窮屈だったのです。生まれるとは生まれ変わることであり、表現の主体者になることです。それが「自分の言葉を持つ」ということです。
 「多くの沈黙に耐えた人の言葉ほど美しい」というこの方に言葉に耳を傾ける必要があるでしょう。出会いから、自分の言葉を持つまでには、長い長い沈黙の歩みがあるということを忘れてはいけないのです。
 最後に死という文章を置かれています。
「人間生成には必ず死の自覚を伴う。そこに人間たることの特色があると言ってよいでしょう。人間として自己を発見するとは、自己の有限性を自覚することであります。・・・死とは厳粛に考えるならば、我ら人間がそれへ向かって成熟して行かねばならぬ一種の完成ともいえます。一人間の完成とは死、生とは未完の死、妥協です」。
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