『仏の教えに出あうということ』 寺岡一途
第四章 仏弟子たち


 第二節 親鸞聖人

夢告/法然上人との出会い/念仏/浄土/親鸞聖人がされたこと

夢告
 親鸞聖人は今から約八百年前の人です。正確には1173年に生まれ、1262年に亡くなられています。時代でいえば鎌倉時代の人です。龍樹菩薩に比べれば最近の人ですから大体のことはわかるのですが、当時は決して有名な方ではなかったようで、生涯についてあまり詳しいことは分かっていません。
 京都の下級の役人の家に生まれ、しかし両親は早く亡くなります、それで九才で出家し、比叡山に登ります。つまり僧として歩むコースにのったわけです。九才ですから、今だったら小学三年生ぐらい、だからそれほど主体的な決断の中での出家ではないと思います。たぶん僧となるしか生きる道がなかったのでまわりがそう仕向けたのでしょう。それから二十九才まで比叡山で勉強をします。
 この間のことでかすかにわかっていることは十九才の時、夢告を得たということです。夢告とは夢の中で語りかけられるお告げです。どういう夢告かというと「あなたの命はあと十年しかありません」というものです。夢とは心の奥底の思い、それは恐れや願い、さまざまなものがあるでしょうが、それが映像、あるいは言葉となって眠っている間に意識の表層に浮かび上がってくるのです。だれもが一つや二つ、青春において見て、決して忘れることのできない夢をもっているものです。君たちもやがてそのような夢を見るかもしれません。その夢を大切にしてください。その夢の中には自分にとって本質的なものがひそんでいるからです。
 その夢を見て十年がたって、親鸞は比叡山をおります。十九才の時に見た夢のお告げを、その間、彼は片時も忘れることはなかったでしょう。いや彼が忘れても、夢の方が彼を忘れなかったでしょう。その夢は彼に人生の有限性を語りかけると同時に、永遠なるものへの出会いを迫ったのでしょう。それを彼は自分が学ぶ仏の教えに中に必死で求めたはずです。しかし、比叡山では生死出づべき道はどうしてもみつからない・・・。かれは比叡山を降りて、京都の吉水に法然上人をたずねます。それが二十九才です。あの夢告からちょうど十年が経過していました。人生にはすべてに時があるのかもしれません。青春の夢は、その人だけに設定されたタイムスケジュールを、その旅立ちのときにかすかに知らせ、忘れることができない鮮明さで魂に刻みつけるのかもしれません。

法然上人との出会い
 ここで法然上人について語ると長くなるので出来ませんが、一言でいえば、日本で初めて本願念仏の教えを他の仏教の諸宗派から独立させた人です。つまり、浄土宗を立てられた方です。「なんだ、そんなことか」と思うかもしれませんが、これは歴史的にも社会的にも大変な事件だったのです。事実、そのことによって、やがて法然上人は四国に流され、親鸞も罪人として越後、今の新潟県に流されます。しかし、それは今は置いておいて、親鸞と法然上人の出会いということにポイントを絞って話をしましょう。
 この出会いということについては亀井勝一郎という方が次のような内容の文章を書かれています。
「出会いは求めて得られるものではない、しかし、求めずして得られるものでもない。それはある時期、向こうより殺到してくるものの如きである」
 私たちは日々多くの人と出会っています。出会いは偶然であり、やがて縁がつきれば別れて行き、後には色あせた写真とかすかな記憶以外には何も残りません。その出会いと別れの積み重なりで人生というものは成り立っています。しかし、親鸞と法然上人の出会いは、そういう出会いとは少しというか、大きく違うのですね。どこが違うかというと、法然上人はどうしても伝えたいというものを持っておられ、親鸞にはどうしても解決したいという、深く求めるものがあったということです。その二者が出会ったのです。そういうものを背景にもった出会いだったということです。
 「求めずして得られるものでもない」というのは、親鸞をさしていますね。親鸞は二十年間、比叡山で必死に求めたわけです。親鸞が求めたものは生死出ずべき道、つまり死によって断ち切られる生の有限性を超える道です。昨日の話でいえば六道を超える道、まあ、やさしい言葉でいえば、自分が生きる本当の意味と言えるかもしれません。親鸞はそれを仏の教えの中に求めたでしょう。仏教とはまさにその課題について人類が取り組んだ壮大な記録であるからです。後に書かれた多くの著作から親鸞は経典を読む人並みすぐれた能力を持っていたことがうかがえます。「親鸞のように経典を読んで、その経典の本質を正確にくみ取る力を持った方はこれから先もうあらわれないかもしれない」とある方が感嘆とともに述べておられますが、そのような力を親鸞は持っていたのです。
 比叡山で僧としてなすべき学問といえば仏典を学ぶこと以外になかったでしょうから、親鸞は必死に経典を読み、生死出ずる道を求めたにちがいありません。そして教えにしたがい行に励んだでしょう。19才から29才までの十年間、迷いのただ中の青春の十年間というものは限りなく長いものです。その長い時間、親鸞は未解決の課題とじっと向き合いながら過ごしたのです。しかし、いくら学んでも、いくら行じても「これが仏の教えだ」というものに出会えない、生死出ずべき道を見いだせなかったのです。その親鸞が吉水で新しい仏法を説かれる法然上人の噂を耳にしたのです。
 のちに法然上人との出会いをふり返って、おそらく親鸞は「向こうより殺到してきた」と思われたにちがいないと思います。つまり、法然上人と出会う縁が整ったということです。縁なくして人は人に遇うことが出来ません。その縁は親鸞の求める心が引き寄せたわけでしょうが、いくら求める心があっても、会うべき縁が整わなければ、たとえその人が隣に住んでいても会うことはできません。龍樹が大乗経典に出会うことができたのも縁が熟せばこそであったのです。「出会いは求めて得られるものではない」、しかし会うことができた、そこには会いがたいものに会うことができたという深い感動があります。

念仏
 法然上人がいのちをかけてまで伝えようとしたものは何かというとお念仏です。念仏を人々に伝えるために法然上人は浄土宗という宗派をあえて独立させたのです。晩年、親鸞聖人は関東からはるばる京都にたづねてきたお弟子の方々に向かい、自分が法然上人から教えられたことは「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」ということだと述べられています。親鸞は法然上人が伝えようとしたことを、その出会いにおいてしっかりと受け止めたのです。なぜなら、それのみが親鸞が永年求め続けていたものに真実に応えてくれたからです。後に親鸞聖人は次のような和讃をつくり、法然上人との出会いを語っています。
 「曠劫多生のあいだにも 出離の強縁しらざりき 
       本師源空いまさずば このたびむなしく過ぎなまし」
 親鸞聖人は『教行信証』という主著の最後に「建仁辛の酉の暦、雑行をすてて、本願に帰す」と書いておられます。建仁辛の酉の暦というのは法然上人に出会った年です。西暦で言うと1201年です。雑行というのはそれまで比叡山で行ってきたさまざまな学問や行を指しています、また本願というのが念仏です。本願念仏と続く言葉で、法然上人は『選択本願念仏集』という本を書かれています。
 お念仏・・・、私の後ろのお仏壇の中央に軸がかけられていますね。そこに南無阿弥陀仏と書かれています。ナムアミダブツと口で称えること、それが念仏です。みなさんも勤行の時、いっしょに念仏するでしょう。でも、どうしてこんな言葉を言うのだろうか疑問に思っていると思います。それは当然の健康な疑問ではあるのですが、念仏申すことの中に人間の問題の一切の解決があると見いだしたのが法然上人であり、親鸞聖人なのです。
 念仏はたしかに口にナムアミダブツと称えるだけですが、その言葉が本当に人の上に届く時、念仏はその人の内面に限りなく深い世界を開きつづけてゆくのです。あるいはその心の中に開かれた深い世界からナムアミダブツという言葉は出てくるのです。聖人の主著である『教行信証』は「悲しきかなや」という懺悔と、「慶ばしきかなや」という感謝、その二つの調音で貫かれているのですが、特に深く心を打たれるのは、その懺悔の深さです。「感謝を語って深い人は世界にたくさんおられる、しかし、懺悔の深さにおいて親鸞聖人より深い人はおそらくいないのではないか」と語られた人がいます。たとえば次のような和讃があります。
 「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 
       虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」
真実の心がない、清浄の心はさらさらない、わが身は虚仮不実である・・・なぜこのような痛切な表白がなされるのかというと、聖人がその時、真実、清浄なるものの前に立っているからなのです。

浄土−−−三界を超えた世界
 八木重吉という詩人が次のような詩を書いています。

  わたしみずからのなかでもいい
  わたしの外の せかいでもいい
  どこかに「ほんとうに美しいもの」は ないのか
  それが 敵であっても かまわない
  およびがたくても よい
  ただ 在るということが わかりさえすれば
  ああ ひさしくも これを追うに つかれたこころ

 この詩人は痛切に美しいもの、本当に美しいものに出会いたいと願ったのですね。この場合の美しいものとは、精神の領域に属するものと思えますから、清浄なるものと考えるといいでしょう。その願いはこの詩人だけではなく、すべての人がもっている願いかもしれません。そのために人は新年を迎える毎に、清らかな生への誓いをたてるのでしょう。しかし、その願いはやがて自分自身によって破られてゆきます。三界の中には本当に清浄というものは存在しないからです。なぜなら三界は人間の煩悩によって汚染された世界だからです。いや、人間の煩悩によって限りなく汚染された世界を三界というのです。
 親鸞聖人の深い懺悔の表白は、三界を越えた世界に立ってなされているのです。人間が求めてやまない清浄なるものとの出会いがそこに成就されているのです。それだからこそ、聖人の懺悔はまた「慶ばしきかな」という感謝とともにあるのです。今は触れることはできませんが、浄土というものが親鸞聖人の教えには切り離せないものとしてあるのですが、その浄土は三界を超えた世界をいうのです。
 このお念仏はさかのぼれば釈尊をさえ越えて、人類の根源にまでいたると考えることもできます。ということは無限の時間、人類の歴史を貫いて、人から人へと受け継ぎ伝えられてきたものであるということです。その無限の時を貫いて伝えられてきたものが、今、きみたちの前にあるのです。なかなか難しい話です。

親鸞聖人がされたこと
 親鸞聖人は29才で法然上人に出会うのですが、やがて35才で別れられます。それは、前に述べたようにお念仏の教えにたいする厳しい弾圧がはじまり、法然上人は土佐へ、親鸞聖人は越後に流されるからです。それから80才で亡くなられるまで、人々の苦しみに寄り添いつつ、越後から関東、関東から京都へと移り住んでゆかれます。しかし、親鸞聖人がなされた大きなお仕事は、お念仏もうすことが仏道である、しかも大乗の仏道である、ということをさまざまな経典に照らして明らかにされたことです。そうして『教行信証』という書物を残してくださいました。そのおかげで現在ではお念仏する道が仏道として一般的に承認され、無視されることはあっても邪教扱いされることはありません。しかし、当時は「ただ念仏すれば仏道が成就する」という教えは邪教のごとく受け取られ、人を惑わすものとして社会の厳しい批判にさらされたのです。批判された人の中には明恵上人とか道元禅師のような現在でも著名な方もあったのです。
 龍樹菩薩は大乗の仏道を明らかにすることによって釈尊の本当のお心を明らかにされました。それにたいして、親鸞聖人は法然上人のお心を受け取り、お念仏申すことが本当の大乗の仏道であることを経典に照らして明らかにされたのです。しかし、たたえておられる世界はともに同じなのです。親鸞聖人は仏道の歴史の流れの中でお念仏というものを明らかにしてくださった方を七人取り上げて讃えておられます。それを浄土の七高僧と言いますが、その第一番目は龍樹菩薩で、第七番目は法然上人です。これらの方々に遇うことができたことを「ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしきかなや、西蕃月氏の聖典、東夏日域の師釈に遇い難くして今遇うことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり」と深く喜ばれています。
 「なぜ念仏申すのか、なぜ念仏申すことが私において仏道が成就することなのか」それを聞いてゆくのを聞法といいます。きみたちは今、そのスタートラインに立とうとしているのです。ともに誘い、ともに勧め、ともに励ましあい、どうか最後まで歩みきってください。

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