十一、罪悪

『歎異抄講読(第一章について)』細川巌師述 より

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1.罪悪深重

 罪悪とは何かといいますと、一般的には非理のこと、理にあらざることといいます。この反対を順理と申します。理に従うということです。天地の間、道理というものがありまして、それは時代が変りましょうと場所が変りましょうと、どういう立場にあろうと、守るべきことと申しましょうか、当然そうあるべき道理というものがあって、その道理に従っていくというところにこれを善と申します。その道理にたがう、これを非理と申します。理に非ざるということを罪悪と申すのであります。
 罪悪ということを考える場合には、幾つか基本になる問題があります。第一は非理を罪悪と申してみても、それを罪、悪と感ずるには力が要るということであります。精神的な深さというものが必要である。これが根本の問題である。例えば最近は小学校、中学校の子供達の盗みという問題があります。私のいます福岡の方でもよく新聞に出ていますが、スーパーマーケットのように自由に子供でも入れる買物の場があって、そこには欲しい物が沢山ある。そういう所で盗みをして警察に挙げられた。その時何と言うかというと「ついてなかった」という。ついてなかったというのは、皆もやっているのに自分だけ見つかって運が悪かったという。皆やっているのに自分だけ見つかって損をしたという心を、ついてないという言葉で表わしている。盗みをするという事は、自分の物でない物を持ってくることで、時代が変ろうと場所が変ろうと、そういう事は道理にたがうたことでございます。けれども、「お前は悪いんだ」と言ってみても、「いいや、みんながやっていることと同じ事を私もやっただけで、あの子もやっている、この子もやっている。別に私だけが悪いんじゃない」という。悪い事だと感じとる深さが足りない。したがって、自分が悪かったというには精神的な深さというものが要るわけでございます。それがなければ罪悪ということもありませんし、まして罪悪深重ということは出てこないわけである。
 もう一つ罪悪というものを考える場合、いわゆる理に従うとか、理に背くとか、理に非ずとか言いますが、その理とは何かという問題であります。具体的に申しますと、何を基準にしていうのかという基準でございます。その一番上の方、つまり浅い方は法律であります。法律というものに基準をおきまして、法律というところにやってはならん事の基準があると致しますと、法律に背いたのが罪悪であるということになる。そこに法律的な罪というものがあるわけである。もう一つ深い基準は何かというと、それは法律では罪にならなくても人間の道徳、或いは倫理、又は人間のいわば常識的なものからみて、してはならん事というものがあるわけです。更に深い所では良心というものがありまして、自分の良心に恥じるということがある。そういうふうにだんだんと深い基準がある。最も深い基準、それが神である。今は仏という。神様に対して、仏に対して深い罪を感じる。こういうことがあるわけでございまして、そこに何を相手にして考えているか、或いは生きているか、法律を相手にして考えているのか、或いは道徳的な、社会的な、又は世間の人の批判というもの、或いは更に深い自己自身というものを問題にしているのか。罪悪という問題は一言で片付けられないような複雑なものを持っているのであります。
 亀井勝一郎という人が『わが精神の遍歴』という書物を書いておられますが、その中に小盗の精神という項目があります。いわゆるこそどろという。人の留守を見はからって、こそっと持って行く。人の置き忘れたものをこそっと持って行く。こういうふうな小盗というものはなかなか直らない。これはどんなに責めたててみても、一時は後悔しているようだけれども、又同じようなことを繰り返すことが多い。これに対して兇悪犯、人を殺したりした者、これはやった事は非常に兇悪でありますけれども、直るという点になりますと、俺が悪かった、もう今後はこういうことはしないということになりやすいということが書いてあります。この亀井さんという人は、戦前に一年何ヵ月間、未決で刑務所に入って、そこで色々体験された。その時の事が書いてある。まことにそういうものであろうと思う。
 罪悪というものを考える際に、仏法ではどういうかというと、その罪悪には必ず報いがある、その報いとして地獄があるという。それは罪悪によって起きてくるその苦果を地獄という。罪によって堕ちこんでいく世界を表わすのであります。それは死んでから先にあるのではない。悪い事をした時に堕ち込んでいく場所、心の状態を十大地獄という。一番軽い地獄は何か、それを等活地獄という。これは殺生(人の命をとる)、或いは暴力をふるって相手に怪我をさせた罪でおちる地獄を申します。これが一番軽い地獄である。その次が偸盗。泥棒をしておちる世界で、この方が重いのである。邪淫ということが更に重いのである。その下に又更に重い妄語の地獄。法律的に考えるならば人を殺したというような罪を、嘘を言ったという罪、或いは物を盗んだという罪と比べると、勿論明らかに人を殺したという方が罪が大きいのである。けれども仏法ではそれが一番罪が軽いという。嘘を言った方が更に罪が重い。
 どうしてこういうふうに言うのか、そのところを初めに考えてみたい。感じとる力がなければ、どんな事を致しましても罪悪を感ずることができない。それには精神的な深さが要るわけである。我々は人を殺すということが一番重い罪ではないかと思いますが、仏法ではこれを軽いという。それが感じとるということに関係があるわけである。氷山があるとその一角が海上にあらわれている。誰からでもどこからでも見えるのが氷山の一角であります。誰からでも見える罪というもの、どこからでも見える罪というものは一番上にある。一番上を殺生という。その次が偸盗、邪淫、だんだん深くなるわけですが、十悪のうち殺生は誰からでもわかる、見ただけでこれは悪い事だとわかるようになっている。これがいわば露頭である。出ている部分である。だんだん深い部分が盗み、邪淫、妄語でありまして、だんだん見えにくくなる。色々な暴力、又は人の命をとるというようなものは、いわば一番上にあってよく見えるのである。見えるものは人もよくわかるし自分もよくわかるのである。そして「しまった。悪い事をした。」「こういうことはよくなかった」ということが出てくる。それが殺生である。海の中にかくれている部分、それは見えない。邪淫とか妄語はなかなか見えにくい。したがって人も気がつかない。しかし自分にはわかっているということがある。従って十悪というのは深いものほど、それが罪とわかるためには、深い精神的な教育を受けなければならない。深い自覚、めざめが必要である。深い深い世界を持って初めて、深い深い自分の罪というものがわかるようになってくる。
 十悪とは殺生、邪淫、妄語、その後に綺語(卑しい言葉を使って人の胸を突き刺すようなことを言う、人の聞きたくないようなことを言う)、悪口、両舌、そして貪欲、瞋恚、愚痴。それを十悪という。中でも最もわかりやすいのが上のものです。下ほど罪とわかりにくい。
 その人の心の深さというものが深い所に基準をもって、深いものを相手に生きてくると、その深さが氷山の更に深い所を見出すようになっている。これを五逆という。五逆というのは何かというと、さからうことである、又、反逆という。反逆とは背中を向け、強い反撥心を持って従わない。そういう姿勢を逆という。誰にかというと、父に、母に、師に、友に、更に仏に反逆する。我々に最も近い間柄、それは父であり母であり肉親であります。更に友であり更に師であり、大きくいって仏である。父と母がなければ今日の自分というものはないのであって、生まれたばかりの赤ん坊が大きくなっていくには両親の力というものがなければできない。そういう深い間柄にありますけれども、人間我々は或る年令の頃から、親に対して強い反撥心を持つようになる。又、父母だけでなしに、よき師よき友がなければ、自分というものが教えられ励まされて今日の私になるということはできなかったわけであるのに、師に対し友に対して軽蔑し或いは反撥する。そういう心が我々の深い意識の中にあるのであって、それを五逆という。こういう問題は、いわば氷山の深い下層にあるものであって、なかなかにわかるものではありません。
 私どもの先生はこう言っておられる。「庭を掘ってそこに畑を作ろうと思ってくわを入れてみると、カチンという音がした。見るとそこに石ころがある。この石ころを除こうとしてその石を掘っていく。掘っていくにつれてその石がだんだん大きくなって、そしてとうとうそれが庭いっぱいに広がってしまった。どんどん掘っていくとそれが地軸に達するような、そういう取り去ることのできないような大きな深い深い岩盤であった。そういう大きなものにつながっているということは、掘ってみないとわからない。それは隠れている。それを掘るには、教のくわがないとできない。」と話されたことがある。表面に出てきておる所は、すぐにカチンと響くわけである。しかし深い問題は深い教に遇わないとわからない。最も深い問題を誹謗正法という。誹謗正法とは何かというと、そしる、正しい法即ち仏法をそしる。仏の教というものに対する深い反撥心、それを謗法という。法を無視するという。曇鸞大師は()みするという言葉を使っておられる。仏とか、或いは正しい教に対して、これを全然問題にしない、無視している生活、これを誹謗正法という。
 先に申します地獄の一番下、その一番深い地獄を無間地獄という。無間地獄というのは、もはや絶対にやむことのない苦しみの世界を表わしておりますが、誹謗正法の罪を無間地獄の罪と申すのであります。氷山の一角が深い深い底の世界につながっている。罪悪というものを自らの上に深く感じとるところに罪悪深重という問題がある。それは教のくわで堀られて深い深いめざめに立ち、精神的深さも与えられなければ出てこないものである。我々は初め法律を問題にしていた。やがて道徳或いは良心という所まで考えることができるようになる。そこに深い思想というものがあるわけであります。罪の意識があるわけであります。しかしながら更にも一つ深いもの、それを罪悪深重というのであります。
 さて、この罪悪ということ、これを深いと感ずるには、もう一つ言わなければならないことがあります。昔から一日一善という考えがありまして、善い事をして一日一日善を積んでいく。又、もし悪い事をしたならば、その償いに善い事をする。そうすると、その罪は善い事をやったことで償われてそれで丁度チョンになる。悪い事をしたならばそれを補うだけの善い事をしなさい、しかし悪い事をしても又悪い事をしたならば帳消しになりますよ。そういうふうな考え方があります。この考え方は非常にわかりやすい。しかし深く考えていない。そういうものであります。こういうことに執われている人も沢山ありますから、一言いっておかなければなりません。
 ある人がいまして、自分自身を反省してみると善い事をやっていない、悪い事ばかりやっているような気がする。そこで悪い事をやったら柱に釘を一本打ちつけることにした。善い事をしたならばその釘を一本引き抜くことにした。これをやっている間に柱一ぱい釘だらけになった。そこで、これではいけないということになって、善い事をしてその釘を一本一本引き抜くことに努力した。とうとう最後に釘が一本も無くなってしまった。やれやれと思って柱を見ると、釘は無くなったのですが、その釘の跡が柱いっぱいについてしまった。深く考えさせられたという話があります。これは作り話でありましょうが、面白いですね。悪い事をした、釘を打つ。善い事をした、釘を抜く。釘だらけになったけれども、とうとう善い事をして引き抜いてしまった。×と○がチョンになったという考え方ですね。しかしあとには釘の傷跡がいっぱい残っていたのであります。
 我々は非常に浅い考え方をする。グサッと人の心を突きさすようなことを言って、後でハンカチの1枚でも送っておけば帳消しになると思う。又、そういうように教える所もあります。何教でしたか、天の神様がありまして、我々のやることをみんな見ておられる。それをみんな帳面につけておられる。悪い事をした者は×、善い事をした者は○で、それを一番終りに神様が全部を計算して、○が残っておるならば天国へ、×が残っておるならば地獄へ入れる。そういう考えが一日一善というものである。子供には非常にわかりやすい。しかし悪というものは一遍それをやったならば、果して何かで帳消しが出来るのか。このことは、はっきり知っておかなければなりません。必ず釘の傷跡が残るのであります。因果応報ということがある。
 しかし、罪は必ず罰を受けるということを強調すると罪悪感に陥る。罪悪感というものは、俺は悪い事をした。ああいう事もした、こういう事もした、実に自分は生きる甲斐もないというような深い無力感につながって暗い思いをする。こういうこともあるのでございます。特に若い時代と申しますか。中学、高校、大学一、二年生という時期、或いはハィティーン、二十才前後のこういう時には、特に自分自身の罪悪というものに対して、深い悩みの中に沈むことがあるのであります。自分は生きる資格がないのだ、死ぬ方がましだという考えに陥って」或いは自殺していく人もある。罪悪という問題はこれを軽く考える人もあれば重く考える人もある。自分の生命を捨てて自分の罪を償おうと考える人もある。
 罪はなくならないのである。しかし罪は必ず救われる。深い目覚めの世界に生きて必ず救われる。罪悪感というもの、これと無常感というもの、この二つは昔から宗教に入っていく入口であるといわれておったのであります。罪悪感と申しますのは、今申しましたように、いわゆる自分自身の罪というものを考えて、実に罪深い自分というものにだんだん深まっていくことですね。無常感というのは、いつ死ぬかわからん、それはもう目の前に死というものがころがっておって、その死というものを考えたならば一寸先は闇ではないか、そこに人間は無力なんだ、神仏というものを考えなくてはならんじゃないか。このような無常感、罪悪感というものが宗教の入口とされておったのであります。蓮如上人の御文章「朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり」という文も強い無常感が入っておる。現在の時代でも、宗教の入口としてはこういうふうなものがあるのだと思います。私自身にも全然なかったというわけにもいかん、あったわけであります。しかし現代の宗教への動機というものは、こういうものよりも、「君はそれでよいのか」という問いが、一般的、現代的な宗教に入る門ではないかと思います。「私はこれでよいのか」罪悪感とか無常感とかいわないで、これらをひっくるめてこの一言がものすごい力を持っている。この言葉に対して我々は皆、「これでよい」と言い切れないものを持っている。そこに、自己の罪を感ずる者も感じない者も立ち上がらざるを得ない問いかけがある、大事な意味があると思います。
 「罪悪深重」ということを明らかにするには、もう一つ次に「本源的な罪」ということを申したい。一番根っこになる罪、他のものはその枝葉末節である。そのような一番根本の罪とは何か。ギリシャ哲学では、罪とは欠如ということだそうであります。欠けておる。どういうことかと申しますと、円満なものが、備わっておるべきものが欠けておる。その欠如しておることが根源の罪という。これは非常に面白い。面白いというのは、仏教の考え方と非常によく似ているのである。一応欠如性を申しておく。ある満たされない部分がある。それが根源的なもので、そこから色々な悪が出てくる。
 キリスト教では、御承知のように原罪というものを説く。神への反逆ということを言う。即ち神の教に背いて、アダムとイヴが楽園を追放される。そこに原罪がある。それは神に背いて自分自身の幸せをむさぼろうとした、そういうところを根源的な罪と言っている。
 仏教ではどういうかというと、無明という。根本無明と申します。それはギリシャで申します欠如性とよく似ている。即ち光のない状態、深い深い心の闇がある。光の届かない世界にいる。具体的には、すでに光は照っている、陽は燦々(さんさん)と輝いているのに人間は自分自身の穀の中に閉じこもっていて、そのために自分の中に深い闇を形づくっている。ここに根本的な罪というものがある。これを無明という。根本無明というものが、色々なものを生んでくる一番底にあるのである。この穀を自己中心といい、人間の持つ自我、エゴという考え方そのものが、大きな世界を自分から遮断する穀となっている。この中では物の道理がわからない。たとえわかっても非常に浅い。穀の中におると人間は知性を頼りにし、知性を基盤にして色々な判断をやるほかないが、その判断全体が闇の中である。その殻を又、我見、我執という。自己自身に対する深いとらわれである。このとらわれは誰か一人だけが持っているのでなしに、人間全体が持っている。そのとらわれによって、明るい光を受け入れないではね返している。我執が迷いであり、これが色々な問題を起こしてくるのである。惑、業、苦という惑が先にいう無明です。これが迷いです。自己中心の迷いを無明という。この迷いがあると、そこから悪業、或いは罪業即ち罪悪、こういうものが出てくる。これ位の物を黙って持って行ったってかまわないだろう、誰でもやっているではないか、というのが惑である。我見である。そこから持ち出すという行為が起ってくる。これが罪業である。
 誰も見ていないと思っていたが隣の人が二階から見ておった。それがわかって警察に捕まえられた。それが苦果である。幸いに説諭だけで許されたが、勤め先は首になった。それから毒を食わば皿までという気になった。これが又惑である。我見である。また悪い事をして今度は刑務所へ送られた。このように惑業苦、惑業苦と繰り返す。この一番根本は惑である。
 ギリシャ哲学で欠如というのは、何が欠如しているのか私にはわからない。キリスト教は神への反逆ということを言っているのであるが、天地創造の神というものを設定されると、我々はついて行けないところがある。無明、即ち自己中心の執われが一番中心であるという、これは我々の心を打つものがある。なる程と思うところがある。色々起ってきた問題−−殺生、殺人、盗み、嘘等があろうけれども、その根本には深い迷いがあるのである。これを無明という。この無明こそ問題であって、罪悪というものを考える場合には、表面にあらわれた行為について善い悪いということを十分に吟味しなければならないけれども、その根本に無明があるのだということがよくわからねばならない。
 この無明、或いは我執、或いは自己中心とは何か。それは我々が物を考える基礎、基盤、生きる基盤を誤るところから生まれる。生きる基盤を我々はどう考えているかというと、自分の知性、自分の人生観、体験でやってゆくしかないと考える、そういうところに基盤がありますが、我々は基盤としてはならないものを一番もとにして、その上で物事を考えているのではないか。基礎にしてはならないものを基礎にしているのではないか。
 我々の人間構造は、知性を基盤としている。そこで一生懸命に知性をみがきあげて、その知性を中心にやっていくならば、決して悪いことはない筈だという。これに対し仏法でいう人間構造は非常に面白い。それは、基礎は人間の知性や考え方ではないんだ。人間構造というのは何の上に成り立っているかというと、仏の誓願、仏の本願の上に成り立っているというのが仏法である。それを如来蔵という。人間とは如来によって蔵せられている。これを如来縁起、或いは如来内存在という。如来の内なる存在として人間はあるという。キリスト教では、初めに神があって、神が人間を創りたもうたというが、仏教ではそうはいわない。如来と神とは同じ概念ではない。如来はなぜあるかというと、それは衆生あるためである。衆生があるから如来がある。これを如来内存在というのである。親と子はどちらが先にあったかというと、勿論親が先にあったから子が生まれたのだというが、そうではないんです。親と子は同時にあるのです。子がいなければ親とは言わないのであり、子供というからには親があるのであって、子供が生まれた時にその親が親になるのである。如来というところに深い意味があるのである。如とは一如、真如、大いなる世界、如なるものである。その如なるものがなぜ如来になるか。そこに衆生という存在があるために来って如来となるのである。これを阿弥陀如来という。如来と衆生は離れない。同時に生まれて同時にあるわけである。それを如来内存在、如来蔵という。そこに人間を成り立たせるものは如来なのである。それが人間の最も根本的な構造である。
 妄想顛倒とは何かというと、自分の最も根本とすべきものはわからないで、自分自身の考え方というものを根本として考えるところにそれを惑という。これを根本無明という。基盤としてはならないものを基盤としているところに惑というものがある。それを根本惑という。根本惑というものは妄想顛倒にある。更にもう一つ言い換えると、人間を支えているものは本願であるということがわからない。人間を成り立たせている基礎がわからない。これを根本惑という。如来を無視しているという。これを誹謗正法という。如来を知らない所に根本的な罪がある。それを謗法という。人間が仏を無視し、如来に対して全く無関心であり、自分自身を中心に考えている。このような根源の問題がだんだんと明らかになってくるところに罪悪深重という問題が出てくるのでございます。
 罪悪深重とはどういうことか。それは、この根源的な自己自身に目覚めるということに外ならない。その罪悪深重ということを知るには、幾つかの段階を考えてみなければならない。我々は始めて仏法を求めていく立場に立つ。「君はそれでよいのか」という問いをもって、私が仏の教に向って進んでいって、聞いて実行して、仏法の精神に近づいてゆく努力をする。
(1)罪悪深重に対する第一の立場――前進者の宗教(対面者の宗教)
 先ず第一の立場は、前進者の宗教という。対面者の宗教と言ってもよい。私と仏とは向き会っているのであって、私はいつも仏というものを相手にし、まともに取り組みながら生きてゆこうという生き方である。それを資糧位という。資糧位とは、『成唯識論』、或いは法相宗という所に出てくる。資糧位とは、もとでになりかてになるものを集めていくということ、話を聞いて考えて実行していこうとする生き方。我々には罪がある、或いは足らん所がある。決して完全ではない。「君はそれでよいのか」と問われてみれば、胸がドキンとするような思いがある。何とかして深い反省を加えて直して行きたいという心がある。この資糧位には二つの問題点を頼っている。それは、やればやる程行きつもどりつとなりやすい。前進又前進であるが、同時に後退又後退である。油断をしているとすぐ元の木阿弥になる。ゆきつもどりつになりやすい。も一つの問題点は、いつの間にやらエリート化するということである。それは、やっているぞという意識が残る。俺はみんなと少し違うんだ、色々言われるし誤解も受けるけれども俺はやっているんだ、そういう意識がどこかに残る。このような貴族化する一面を持っている。この段階では罪悪深重というのはあり得ない。たとえあっても、俺はつまらんなという意識である。俺はやってもやっても出来んなという意識はある。けれども、罪悪深重というのとは違う。これはこの段階では出てこないものである。
(2)第二の立場――反逆者の宗教
 第二の立場は反逆者の宗教である。これは非常に深い立場である。これは、自分は仏に真向きになって進んでいると思うているのであるが、実はそうではなしに、私は仏に背中を向け、仏の喚びかけに対して背いている。仏の教に対して従順な生き方をしている者でなしに、自分自身は人生の幸せという方向を向いている。人生の幸福を求めている。仏に対し背を向けた反逆者であったということにだんだんと気がついてくる。これは非常に高い段階であって、こうなるには相当の求道を要する。この段階を明らかにするには、次の問いを出さねばならない。「如来生きてましますか。」かねて申しますように、この問いは実に鋭く我々の胸を打ち貫く言葉、問いかけであります。「如来生きてましますか。」この問いの前に我々は、仏を背中にし、仏を無視して、私は私の幸せだけを求めているという深い懺悔、反省というものを持つようになるのです。これが加行位というべきもの(二十願の世界)である。この問いは痛烈な問いである。更にも一つ大事な問いがある。「如来いずこにましますか。」我々は、如来は彼方にあると考えた。そして一歩一歩近づこうと考えた。遂にそれが、仏は前にあると思ったのが背中にあるということになる。初めての人にこんな話は少々難しいと思いますが、一応話します。仏は私の足下にあるという。
(3)第三の立場――如来を踏みにじっている者の宗教
 そこに罪悪深重という問題があるのです。踏みにじるとは、「如来いずこにましますか」という時、如来はわが脚下にあるといわねばならない。いわゆる如来の頭をふみにじり、それを尻の下に敷いているということになる。私の脚下から如来は私を喚ぶのである。ここにおける目覚めを罪悪深重というのである。それを通達位という。正定聚不退の菩薩というのである。「仏はどこにましますか」これは単なる題目ではありません。大事な大事な問題で、深い深い問いかけであります。誰が誰に問いかけるか。私が私に問いかける問題である。「如来生きてましますか」同時に「如来はいずこにましますか。」こういう問いかけを持つところに信心というものがある。信心とは、ある角皮から見ると問いかけを持つということである。仏法の言葉で言うと推求ということである。親鸞聖人は『涅槃経』をひいて「信に二種有り、一には信、二には求なり。」信心というのは二つある。一つは信ずるというだけである。も一つは推求ということである。この人の信、ただ信だけであって推求ということを持たない。これを「信不具足しと名付けるということを『教行信証』に言ってある。「如来生きてまします」とわかった。そのことが「如来生きてましますか」という深い問いになる。深い問いかけには答がないのです。浅い問いには答がある。「この達はどちらに行きますかし「公会堂へ行きます」、「今何時ですか」「三時です」すぐはね返ってくる答がある。深い問いというものは、問いを持つこと自体が救いであり解決である。答を要しない。その問い自信が深い答なのです。それでもうわかった、それでもう終りということにならないんです。一生続けて問うていくのです。「如来生きてましますか。」答を要しない。この問い自身が深い思いを私の心にまき起し胸を貫いて合掌懺悔、念仏せざるを得ないのであります。今日これは済んで、もう終りといすとそうはいかん。一生続いてゆく、それが推求であり信心である。も一つ大事な問題は、「如来いずこにましますか。」仏は私の足の下におわして、常に私を喚びかけ給う。これを踏みにじる者の宗教という。
 踏みにじるとはどんなことか。一つには無視ということ。仏を無視した生き方をしておる。しかもそれでもなお切々として喚びかけるものがある。それを踏みにじるという。も一つは道具化しておるということ。或いはそれを利用しておるということ。如来の喚びかけを頼んで、それをもって私が安心立命を得、ほっとしてそこで幸せを得ようという行き方、これを道具化という。これを自分に発見するところに罪悪深重ということがある。それを根源的懺悔という。一番低い根っこの私に目が覚めて、如来を踏みにじっている我を懺悔するところに根源的懺悔というのがある。そこに根本惑を打ち砕かれた姿がある。根源的懺悔とは、枝葉末節ではない。先に十悪といったが、人を傷つけた、嘘をついた、つまらん事をした、親不孝をしたというような問題ではない。根本的な、私の存在自体が仏に対して申しわけない所におるという問題、これを罪悪深重という。この罪悪深重に目が覚めることこそ、機の深信、懺悔といわれるものである。善導大師にあっては「自身は現に是れ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来常に没し常に流転して出離の縁有ることなし。」親鸞聖人は「地獄は一定すみかぞかし。」とうていたすからない存在というのは、如来に対しそういう存在であるという懺悔でございます。私が法律を破って悪事をしたというのではない。法律的な面でいうならば、法然上人も親鸞聖人も何の罪もない。道徳的な意味においても罪はない。社会的にも罪はない。ただ如来の前に、即ち如来を自らが足の下に踏みにじっているというめざめが根源的懺悔です。
 私共の先生は厳しい方で、座談会でも実に厳しい質問をしておられました。その先生は皆の前で御示談をされたので、誰もがそれを自分の問題として受けとめて聞くことができました。「あなたはこの部屋へ来て、今座布団に座っているが、泥足で座布団の上に座っているのではないか。その泥足をどうするか」と言って叱られた。「泥足のままで上がっておるではないか。その土足を脱いでもらおう」と言われた。敷いている座布団とは四恩(国土、衆生、親、仏の恩)のことで、その御恩の上に泥足で座っておるのではないかと言われた。我々が座布団の上に泥足で座っているとは、踏みにじっておるということです。が、その泥足をきれいにしよう、土足を脱ごうとしても脱げないのである。なぜならそれが私自身の本体であるから。そこに根源的懺悔というものがある。私自身を謝り入るとは何か、これは仏に対するお詫びである。心からのお詫びである。これは何か悪い事をしたからお詫びするのでなしに、そこに頭を下げるほかない、合掌懺悔せざるを得ない天地がある。それを廻心懺悔というのである。これを私自身の姿に目が覚める上いう。私自身、硬い穀をかぶっていて、その殻は仏のお心を知らないで、実はこれ有利用して我が幸せというものに直結させている。これを懺悔していく、これを根源的懺悔という。これを機の深信という「機とは我が心。我が心に深く目覚めた、その機の深信のところに法の深信が成り立っているのである。即ち仏の本願というものを知ればこそ」仏のお心を知ればこそ」自分自身というものがわかるのであって、機の深信のところに準の深信が成り立っている。これを機法二種の深信といい、これを信心というのである。信心は必ず罪悪深重となるのである。重ねて申しますように、何か罪を犯して法律的に、或いは社会的に顔向けのできないような事をしているというのでは毛頭ない。が、それでもなお罪悪深重なのである。そこに深い深い如来の心が届かなければできないものである。そこに真の自覚というものが成り立つ。これを罪悪深重という。重ねて申します。「如来いずこにましますか」これは実に深い深い問いなのです。我々はそこに南無阿弥陀仏と念仏していくしかない。その念仏が懺悔なのである。そういう世界が生まれてくるのであります。

2.たすけんかための

 罪というものはたすかるのであろうか。罪はなくなるか。答、罪はなくならない。絶対になくならない。いわゆる因、縁、業、果、報という。略して因縁果という。ここに種子がある。これが因である。この因があれば何かが起きてくるかというと、そうはいかん。種を蒔くには大地がいる。大地という縁がなければ蒔けない。大地の上に蒔いても時期を失うと発芽しない。やはり適当な時期がある。適当な時期に蒔いても水がなければ発芽しない。こういうふうに沢山の条件が満たされて、始めて発芽という働きが起ってくるのである。この条件を縁という。或るもとがあって、それに縁があって働きが出てくる。働きを業という。そうすると必ず結果が出てくる。その結果で終りかという上、そうでなしに必ずその影響というものが残る。それがまた因になって因縁業果報と続いていくのである。
 学校で居眠りしておった。先生に見つかって立たされた。それで恥しい思いをした。これは因縁果ですね。とれで終りかというとそうはいかない。帰り道、隣の悪太郎が「やーいやーい立たされた」と言うた。「何を」と言って石を投げたら頭に当った。相手が怪我をして親父さんが怒鳴り込んできた……となると、次々と色々なことが起る。罪はなくなるか。因縁衆果報となって罪はなくならない。これは非常に大事なことです。何を信じようと誰に頼もうと罪はなくならない。従って信心と申しても罪がなくなるのではありません。しかるに仏法は一番大事な使命として除業ということを言うのでございます。
 除業とは業障を除くという。業障を除くとは、先にある業、即ち因縁業果報の業で表わしていますが、それらの全てのものを取り除く、即ち因縁業果報と輪廻して遂に尽きることのない、因縁業果報と流転していきますものを皆除いてしまう、これを業障を除く、除業というのである。『観無量寿経』の終り流通文(るずうぶん)の中で、浄除業障と言ってある。このように罪を全部とり除いてしまうというのが仏教の使命、大きな役割でございます。罪はなくならない、それなのになぜ除かれるか。罪はなくならないが、罪が罪でなくて、罪が私のための念仏となる。功徳となる。聖人はこれを和讃に「罪障功徳の体となる、氷と水の如くにて」とうたわれた。罪障が念仏になる。或いは罪が私の仏法の体となる。これが罪がなくなる、或いはたすけられるというのである、どうしようもない罪、いわゆる根源的な罪をはじめ、具体的な色々の失敗や罪障、その他色々な問題がある。あの時こうすればよかったなと、それが今も私を苦しめる。これを後悔という。罪が後悔の種となる。後悔とは悪作という。作を、なせしことを憎む。しまった、どうしてこんな事になったんだろうかと、したことを憎む。「あの時誰か注意してくれたらよかったのに、黙っていて何も言ってくれなかったから」と他人まで憎む。悪が後悔の種となり、いつまでたっても苦しい。
 アジャセという人がある。この人は『観経』と『涅槃経』に出てくる。アジャセが父親を殺した。その罪はなくなるかというとなくならない。従って何年か後に、非常に後悔しはじめた。アジャセは身にかさぶたを出し高熱を出して苦しむ。「是れ心痛とせんや身痛とせんや」(心の憎みですか身の悩みでございますか)と色々な人が来て尋ねる。実に無情なことを尋ねるのです。高熱が出てかさぶたからウミが出て苦しんでいるのに、心の悩みすか身の悩みですかと可哀想なことを聞くものです。ギバという人が来て「大王よ、お休みになれますか」と問う。前者は傍観者ですね。心の痛みですか身の痛みですかと、痛んでいるのに尋ねる必要はない。人間というのは質問のし方でその人の心の深さがわかるものだと感じ、自分自身を恥じることです。「お休みになれますか」とは、これは深いお見舞の言葉ですこのアジャセが入涅槃を前にした釈尊の御説法を聞いて、そこにたすかったのです。それは懺悔によるのです。たすかっていくとは、自分が悪かったということがわかる。除業とは懺悔ということを表わす。根源的懺悔である。根源的懺悔において悪業が念仏になるのである。
 それを明らかにしているのは又、龍樹菩薩の『十住論』である。易行品の次に除業品というのがあって、除業ということをいってある。懺悔とは除業である。懺悔とは仏の前に自分自身を投げ出して、私が悪かったとひれ伏す以外にはない。その時に親を殺したというアジャセの罪が念仏の内容になる。念仏とは何か、念仏即懺悔、念仏即感謝。すべてが南無阿弥陀仏の内容となる。それが救われるというのでみる。その時、罪は苦しみや後悔でなしに念仏になる。これを転悪成徳という。悪を転じ徳となす。徳とは何かというと念仏である。罪が仏法の中味になる。これを「煩悩を断ぜずして涅槃を得」という。煩悩即菩提という。大乗仏教の至極というものがそこに成り立ってくるのである。これを「たすけられる」「罪悪深重の衆生をたすけんがための願にまします」というのである。たすけられるとは起重機でつかまれて、ぐっと浄土の世界に連れて行かれるのと違う。深い自覚、即ち自分自身が何であるかということに目が覚めて、そこに懺悔が生まれる。罪障の全体が念仏となることである。
 懺悔とは荷いということ、私の罪を荷負するということである。又、お詫びすること。も一つ「再びなさじ」ということが言われている。罪はそれを向う側において対象化して見ると、どうしてこんな罪を犯したか後悔するほかない。これを知性で見るという。知性は決して罪を背負うことができない。どうしてああなったのか、こうなったのか、しまったと言って苦しみ悲しむのが知性というものです。これを対象化という。対象化というのでよく思いますのは、ブーバーが言った表現でございます。ブーパーは私−それ(Ich-Es)と言った。何でも全部物質化するのである。罪を私から切り離して向う側に見るわけである。それに対して私−汝(Ich-Du)ということを言っておる。汝とは、切っても切れないものであって、いってみればおまえというものである。罪がおまえになる。私と離れないもの、いや私自身の内なるもの、この罪がわしの罪であったとわかるのを、背負ったというのである。ブーバーの表現でいうならばIch-Duになった、罪がDuになった。これを背負うといい懺悔という。その時に私自身の深い転回がある。私−それ、Ich-EsがIch-DuのIchになる。そういう私が生まれるのはなぜかというと、私を汝と喚ぶものに出遇ってはじめて私の上に、その罪を私−汝と喚べるようなものが出てくるのである。ここにたすかるということがある。
 罪悪深重の自己をたすけるとはどういうことか。罪悪深重のわれがたすかるとはどういうことか。そのことがはっきりしないといけない。罪がなくなるのではない。罪を誰かが除いてくれたのでもない。罪が本当に私の罪とわかって、私の仏法の内容になって南無阿弥陀仏と念仏になったのである。その時にもはや、私を苦しめ悩ますのでなく、南無阿弥陀仏の内容になった。私は罪に対して汝と喚べるような、おまえと言えるようなものになってきたのである。それは私をおまえと喚ぶものがあるからである。

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