十二、他の善も要にあらず

『歎異抄講読(第一章について)』細川巌師述 より

  1.危機(聞法上の危機、人生の危機) 2.本願を信ぜんには

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 1 危機(聞法上の危機、人生の危機)

 いわゆる信仰上の危機、或いは大きく言えば人間としての危機ということがございます。その第一は、他の善、他の人の善が私の心をひいて自分の方がつまらなく見える時、これが大きな危機でございます。キリスト教は社会性を持っており、団体的行動にすぐれている。自分の方にはそれがない。自分の方がつまらないのではないか。そういう心が起ってくる。また、同じグループの中で、あの人は非常に理解がすぐれているのに自分には理解力がない。或いはあの人は非常に実行力があるのに自分にはそれがないというように、他の人の善が私の心を奪って、自信を失ってくる。そういう時が一つの危機であります。

 もう一ついうならば、自己の悪にぶつかるということであります。即ち思いもかけないような事をしでかして大失敗を犯した。仏法を聞いており、道を求めている人間がこういうことでは、とんでもないことである。まことに自分は愚かで、仏教を聞くという資格を持たないのではないか。或いは、長い間聞いているのにこういうことでは、聞いた甲斐がないのではないかと、自らの失敗に対して自ら責めて深い卑下感、或いは劣等感に陥っていく時、それが私を大きく揺り動かす危機である。他の善が、或いは私の悪が私をつまずかせるのである。この悪の問題は『歎異抄』第九章に出ていまして、そこでまた詳しく話したいと思いますが、第九章では形が少し違いまして、「念仏もうし候へども踊躍歓喜の心おろそかに候うこと」という言葉がはいっている。自分はどれだけ念仏申しても喜びの心が起ってこないということから始まっています。私も幾度がこういうところを行きつ戻りつしたことでございました。私は他の宗教によっては動かされたことはなかったけれども、同じく聞法をしていきます人達と自分を比べまして、あの人のような喜び、あの人のような実行力に自分は劣っているという、自己卑下というものに長い間引きずられていたように思います。また酒の上とはいうものの、まことに愚かな失敗をしでかして顔向けならない事になった。こういうことではと自分で自分を責める。このような体験は誰しもあることではないかと思います。親鸞聖人について、川上清吉という人が書かれています。このお方は島根大学の教育学部長をしておられましたが、停年以前に自分で学校をやめて浄土真宗の布教に努められ、途中で癌で亡くなられました。現在『川上清吉選集』上下二巻が出されています。これを読みますと、親鸞聖人という人は、結婚をして家庭を持たれたが、初めて女性と接した時に、深い自分の罪というものにおののかれたのではなかろうかと、すぐれた筆で書かれております。昔は僧侶というものは肉食妻帯を許されなかった。それが、御師匠に許されたとはいえ、結婚して妻帯された。その時自分の深い罪障というものにぶつかっておののきというか、戦慄というものを体験されたのではなかろうかということが書かれています。形は違いましても、誰しもこういう問題があると思います。

 こういう危機はどこから起ってくるかと申しますと、それは一つである。それは仏法の言葉で言うと信罪福心ということであります。罪福を信ずる心であります。これは人間がみんな持っている心であって、この心がこういう危機にぶつかった時に我々を揺り動かして、私は駄目なのではないかと思わせるのである。人間の心の中には、深く善をやらなければならん、よくあらねばならん、悪であってはならん、罪を犯してはならないという心がある。それは我々の理性といいますか、知性といいますか、そういうものの働きである。また我々は、幸せになりたい、不幸せでありたくないという心がある。それが本能であります。この二つが結びついて、善をやれば幸せというものにつながってくるんだと思う。善い事をするとそれが善因となって、よい結果が現われて幸せになる。悪い事をしたならば、それが悪因となって必ず悪い報いが現われる。こういうことを深く信じている。悪い事をすると不幸せに通ずる。そういうことはみんなが思っていることです。みんな了承のいくことである。善い事をしなさい、必ず善い報いがある。悪い事をした者は必ず悪い報いがあるということは説得力がある。善い事をしなければ幸福にはならないという善因善果、悪い事をすれば悪い報いがあるという悪因悪果ということは、子供でも年寄りでもみんなが承認できることで、いわば深い我々の信というか、自明のことである。いわゆる新興宗教は殆んどすべてそれを強調し、或いはその上に立って教義というものをつくっている。天なる神は我々の行動をすべて見ていて善い事をした者は必ずそれが天の神の記録に載せられる。そして死ぬ時にそれの総決算があって、最後の審判というものが下されるのである。こういうことが大体宗教の根本的な原理である。この一番初めをゾロアスター教という。ゾロアスター教というのは紀元前の昔、中央アジアに出てきた人の名前でありますが、現在これを拝火教という。これがキリスト教或いはマホメット教の一番の源であると言われています。神様が最後に審判をする。これがマホメット教にもキリスト教にも共通なところであって、その淵源をゾロアスター教というのだそうです。この宗教がひろまるのは、そういうことを聞いてそうだと思う心が人間にあるからである。善い事をやったら善い報いがあり、悪い事をやったら悪い報いがくるんだと信じている。したがって他の善を見るとそれが私に、お前はつまらんぞ、そういうことでは大した幸せはこないぞと(ささや)く。悪を犯した時は、悪い事が起るぞという予感が出てくるのである。そういう信罪福心というものが根本になっている。

 仏教ではどういうかというと、このように善と福、悪と禍を結びつける考え方の根本を我という。我執という。我執をたたきこわすのが仏教の目的である。我というのは深い自己肯定の心である。これを自力の心という。それはどういうことかというと、一つには、私はやろうと思えば善い事をやれるんだという自己肯定であり、更にはやめようと思えば悪い事をやめられるんだという肯定である。それは深い思い上がりである。けれどもそれが思い上がりとわからない。また深く私の幸せというものに執われているのであり、私の不幸せというものを避けようとして、これまた執われている、エゴに執われている。一番根本にはこのような高上がりと、執われがある。このことを問題にしてこれを解決しようとする、これが仏教の最大持色である。それを「仏法は無我にて候」という。善をなし得ると思い、悪を避け得ると思う、そのような思い上がりをたたきこわしていく、そして本当の人間というものを明らかにしていく、そこに仏法の中心点がある。罪福を信ずるということは人間の自力の心であり、深い自己肯定の心、深いエゴの心であって、そのもの自体を解決することが人生の解決である。それが解決されないところに必ず先のような危機が起る。そしてそれにふりまわされて、劣等感の中に沈んでいくのである。

2 本願を信ぜんには

 「本願を信ぜんには」とは本願を信ずる身となったらという意味でありましょう。ここでもう一度、信ということを問題にしてみる。先年『教行信証』という親鸞聖人の著書が英訳されました。御生誕八百年記念ということで、鈴木大拙というお方が中心になって英訳されたわけです。先生御自身はもうお亡くなりになりましたが、その著書が刊行されました。先般それを少し読んでみましたら、信ということを英語でFaithと訳してある。行というのをLivingと訳してある。この行の訳は非常にすぐれていると思います。Livingというのは御承知のように、形容詞で言えば躍動的とか、或いは活動的という。また、名詞で言えば生活とかいうものである。とにかく、生きているということを言っている。行とは実行的なことでありますから、私などはActとかActionとかPracticeという言葉で、実行するとか行動するとか、そういう訳にしたいところです。そうでなしにLivingと訳されたところは非常に感心しました。しかしFaithはあまり感心しません。いい訳ではないなあと思う。なぜかというとFaithというのは信頼とか信用という意味であって、これはよくないと思いました。しかし他に何といったらよいかと思ったが、適当な訳がない。やはりこれは、Shinとすべきだったと思います。これは何か、信ではないかと思われるかも知れませんが、これは訳せないのだと思います。訳すから無理が起る。例えば禅というのがある。これを英語に訳したら何というのか。これは、Zenという。訳せないからこうなるのである。訳せないとはどういうことか。それに相当する外国語がないわけである。禅というのは、日本にそういう事実があり、日本でそれが行われており、日本人にはわかるわけであるが、外国にはそういうものがない。従ってそれを外国語に訳そうとしても無理である。座ることだからSittingとすると、これは腰かけるという意味で、座るという意味はない。座るといってもただ座っているということではなく、禅定でなくてはならない。こういう訳せないという問題は随分あって、印度から漢語に訳す時も、訳す言葉がなかったのが多い。第一、仏というのが訳せなかった。ブッダというのがサンスクリットの原語なのですが、これを漢語に直そうとしたところが訳しようがない。なぜかというと、中国には仏というものがなかったんです。天はあったが仏はなかった。仕方がないから発音のままに仏陀とした。ブッダという発音を漢字に直しただけです。禅と同じです。だから信もShinとすべきだったと私は思うがFaithになっている。これはどうも間違いではないかと思っています。なぜかというと、信というのは本願を信頼することと違う。本願を信用することとも違う。鈴木先生もそんなことのわからないお方ではありませんが、ほかに適訳がなかったものとみえます。

 信というのは、かねて申すように先ず「聞見するところありて必受無疑」ということである。これは『十住論』にある龍樹菩薩のお言葉である。「聞見するところありて必受無疑」これを信という。本願を聞き、本願に遇うて、それが明らかに受けとめられた。それを信というのである。それは信頼ではない。信というのは深い転回、人間革命なんですね。いつも言いますように卵がある。その卵の殻の中に黄身と自身と胚がある」それが親鶏から温められる。それが「聞見するところありて」です。その熱を、はからいなしに受けとめた。そこに転回が起るのである。その転回を信という。その卵がヒヨコになる。それは全く革命以上の問題である。凡夫変じて菩薩となる。卵がヒヨコになる。これを信と申すのであって、信用したとか信頼ということと違う。Faithと違うのである。信じたということとも違うんですね。

 信をもう一つ言い換えると、仏の前に立つということである。諸仏現前というのである。諸仏とはたくさんの仏ということです。仏が前に現われるという。これはどういうことかというと、仏が出てきたというんではなしに、小さな殻の中に入っておった自分が、その小さな殻から出てきた。この殻を我というのである。また、信罪福心といい、自力という。そういう中に入っていた時には、大きな世界がわからなかった。それが本願を聞いて育てられて、そこで目玉がつき、嘴がはえて、卵がヒヨコになって殻を破って出てきた。その時に大きな世界が現われた。大きな世界の前に立ったのである。大きな世界に出てきた。これを信といいます。それを本願を信ずるという。本願を信ずる身となるという。それを「聞見するところありて必受無疑」という。これを諸仏現前と申すのでございます。その世界に出ると、日は輝き、風は颯々(そうそう)として吹いているのがわかる。これを如来の前に立つというのであります。これを信ずるというのであります。Faithというものとは違うのではないかと思います。

 それはそれとしまして、如来の前に立つ、それが本願を信ずるということである。本願を信ずるというそこに、はじめて人間は素裸になるのであります。殻を持たぬ素裸の人間というものが出てくる。そこに初めて何も必要としない生地のままの人間、何も飾る必要のない、善も要らず悪も恐れず、何ものも憎まず、何ものとも対立しない、そういう裸の人間が生まれるのです。それは、愚禿親鸞というものです。十悪の法然坊、愚痴の法然坊です。それが裸の自己ですね、もはや何物も要らない。即ち信罪福心というものを超えたところを信という。これを本願を信ずるというのである。その時初めて我々は劣等感を超えることができる。

 話は横道になりますが、現代という時代で非常に大事な問題は、劣等感の問題だと思います。エリートというのはごくわずかであります。しかしそのエリートというのも、やがて劣等感にまみれていくということがあります。実はこの劣等感というのは人類全体の問題ですね。劣等感を何とかして打ち破っていかねばならない、それが現代の精神的な面、或いは教育的な面で非常に大事な、根本の問題であると思います。それには仏法しかない。この仏法によって素裸の人間になって仏の前に立つことにより、人間は劣等感を超えた存在になれるのである。そこに「他の善も要にあらず、悪をもおそるべからず」という世界があります。もう一つ、今あまり関係ないことですが、男女という問題、男性と女性という問題。普通はセックスと申しますが、この問題、正しい男女関係というものはどうあるべきかという問題ですね。これをはっきりしなけりゃならんと思う。私はひそかに思うのでありますが、親鸞聖人はこのことには明らかに答えていないように思います。『教行信証』の中にも他のものの中にも、はっきりは答えられていないのではないか。これはやはり新しい時代の中で、本願の宗教を(いただ)く者が、自己の課題として答えていかなければならん問題だと、私はひそかに思います。しかしまだその力はありません。ただ今のところは、劣等感のところだけはよくわかりました。劣等感の克服は仏法一つじゃ、これがはっきりわかりました。もう一つの方は、まだはっきり言えないので申しわけないが、そのうち必ず答えたいと思っています。

 それはまあそれとして、そこで諸仏現前ですね。本願を信ずるというその時に、初めて我々は危機を克服していくのである。すみれはすみれとして咲いてそれでよろしく、桜は桜でよろしく、すみれが桜を(うらや)んで自信を失うのでなしに、すみれはすみれでいいんだ。自分の生地のままで仏の前に立つ。そこに、他の善も要にあらずというものが出てくるのである。

 私共はいつもテストされていると思う。一つは他の人の善に遇った時であります。もう一つテストされるところは、人から誤解された時、悪口を言われた時です。他の人の善、これを見ると我々はどうなるのかというと、淋しくなるのであります。自分がそれに随喜できない。随喜とはその人の善を自分の喜びとして、本当によかったねと喜んであげること。我々はそれができないでさみしくなる。嫉妬する。そういうものが起ってくる。これが解決しなければならない大事な問題であります。嫉妬という字をよく見ると女偏が書いてある。だから女性が起す心かというと、必ずしもそうではない。大の男が嫉妬するのであります。ジェラシーといわれるものであります。まあジェラシーが大きなのは学校の先生ですね。教育界ですね。それは私がその中におったからよくわかる。もう一つはお寺の坊さんですね。この二つが非常に嫉妬心が強い。残念なことです。登っていく者の足を引っぱる。他の人の善に随喜できないでこういうさみしい心になるというのを女人性といいます。これは女性の悪口を言っておるのではなく、女性的性格と言うべきもの、即ち誰もが持っているものである。

 女人性というのは何かというと、第一に弱いということである。いや近頃は強い女性があるということになるかも知れませんが、そういうことを言っているのではありません。女人性というのは、求道において弱いということ。弱いと、どういう現象が起るかというと、先ず依頼心であります。依頼心とは何かというと人にぶら下がりたがる。試みに、どういう人と結婚したいかと聞いてみると、大体十人の中の八人までは「私を指導してくれるような男性がよい」と言います。男子はそういうことは言いません。「私を指導してくれるような女性がよい」と聞いたことがございませんね。女性はそう言う。ぶら下がる、依頼心が強い、自立できない、自立しようという心がない。女性の悪口を言っているのではないから、誤解してもらっては困りますが、女性的なのである。男性もやはり持っているのであります。依頼心と共に一貫性というものがない。従って人の顔色を伺い、ああ言われればそれに従いこう言われればそれに追随してゆく。こういうふうなものを弱いという。

 では本願を信ずるとどうなるのかというと、男性も女性も、この女人性を打ち砕かれて丈夫志幹となる。龍樹はそう言われた。そこに打ち砕かれるものがあるのです。弱さというものを打ち砕かれて強い心棒が入ると、男性であろうと女性であろうと丈夫志幹となる。一貫するものを持ち、依頼心でなしに、人にぶら下がるのでなしに、自分でやっていくというものが出てくるのである。自分でやっていくとは、ぶら下がるの反対で、自分が柱の一本でも担うていく、支えていくというのである。依頼心とは、あそこに行って聞けばこの苦しみや悩みは解決してもらえる、この先生に聞けばこの問題は解けるといって、自分で考えようとしない。も一つは、自分がたすけられるばかりで相手をたすけようとしない。これが依頼心即ちぶら下がっているのであって、そういうものを女人性という。現在、本願寺教団なら本願寺教団の中で、仏法にたすけられた人は決して少なくないであろうと思います。またそういうことを願って本願寺教団の中で聞法しているわけである。しかしそれだけではぶら下がっているばかりである。その本願寺教団を自分が支え、その柱の一本でも担うていこうとする人が次々とできるならば、教団は更に強固なものになると思う。

 今本文は「他の善も要にあらず」という、それは他の善即ち念仏以外の善が要らないということが出ている。何も要らないということである。そこで試みに問うてみる。「君は念仏する他に何か必要か」と。念仏の代りに本願でもよい。「君は本願より他に何か必要か」。わかる人もわからない人もあるだろう。が、この問いは物凄く痛烈な問いであります。よく考えねばならない。初めは色々要るのです。金が要り、愛情が要り、名誉地位が要るのである。が、とうとう何も要らなくなる。これが本願を信ずるということである。「信ぜんには」ということである。私はそういう人を知らされました。目の前にそういう人がありますと、このお言葉はよくわかる。そして自分もそういうふうにならねばならないと思う。私共の先生は二十九才で小学校の教師を辞めて、珠数一連と聖典一冊を持って宗教活動を始めなさった。恩給もつかず収入は一切なく、無謀極まる道でありました。しかしたった一つ、本願を伝えたいというお気持ちだけであった。当局から宗教活動をやめ教育活動に専念するか、宗教活動をやるなら学校を辞めよという厳しい勧告を受けられた。どうしたらよいかと考えなさった結果、学校を辞めなさった。要らない、何も要らないお人ですね。こういう人に遇い、こういう人に鍛えられると我々もそうなるのであります。本願念仏の教によって、それ以外は何も要らなくなる、かつて西郷隆盛が「金も要らん名誉も要らん何も要らんという者ほど始末に困る者はない」と言ったというが、本当にそういう人がでるのである。選択本願に触れるとそうなるのである。

 選択本願とは何か。それは如来のまごころである。「たすけんと思召したちける本願」である。如来のまごころがよき師よき友の教を通して私の上に本当に届いてきて、そこに生まれるのを信という。それを本願を信ずるという。その時我々は何物も要らなくなる。何物をも必要としない。悪もおそれない。そういうふうになってくるのである。それはただ一つ、如来のまごころに打たれるからである。これは架空のことではなしに実際にそうなってくるのである。

 「本願を信ずる」ということをも一ついうと「他の善も要にあらず」である。他の善を必要とする心、これを自力の心という。人間の心は必ず善を求める。自力の心とは知性の要求、知性的欲求である。知性の要求というものは間違っているのである。これはなかなか納得がいかないところです。知性とは分別、分別心という。知性はものを善いとか悪いとか分別していく。この心には根本的に煩悩が入っている。この煩悩を我愛、我慢という。我愛とは自己愛であり、我慢とは自分を高く買う。この我愛と我慢を免れない。人間は自分の手でこの知性の汚れを除くことができない。この汚れが他の善を必要としているのである。善を求める心は人間の持つ非常に立派な心のようでありながら、そこに迷いがある。煩悩のはからいである。

 「他の善も要にあらず」というのは即得往生、住不退転という。分別心を打ち砕かれたのである。どういうふうにして打ち砕かれるかというと、大きな大きな如来の大善に遇うからである。小さな善にとらわれている心が見えてくるのである。今ローソクがあるとする。このローソクの光も闇を照らす明るさを持っている。けれどもそこに水銀灯が現われてきたならば、水銀灯の前にはローソクは暗く見え、それ自身が影に見えるのである。この水銀灯も大きな太陽の何万燭光(しょっこう)という光をまともに受けたならば暗い影に見える。今、聖者が善を積み悪を止めようと一生懸命やっているとき、それなりの明るさを持っている。それが大きなものに遇うと自分の影、悪を感ずる。この時小さな光は光でなしに形として見える。これを罪悪深重という。菩薩の徳の前に出るならば、菩薩のお徳というものが何と大きなもので、自分の善が何と小さいものであるか、何と自分は愚かな所で留っておったのかということがわかるのである。また仏の徳の前にはこの菩薩は、自分自身の小さな徳に目覚めて懺悔していくようになるのである。それは風が良い事をしたのでもなければ悪い事をしたのでもない。大きなものに照らされて初めて自分の影が見えてくるのである。菩薩は仏に対して自分の愚かさを知る。そして仏の徳を拝んでいく(これを随喜という)。そこに自分の愚に目覚めると共に仏の徳を与えられる。向うの徳に随喜することを讃嘆という。随喜、讃嘆するところに向うの徳がかえって自分の徳となる。そこに何等の善をも要しなくなるのである。

 我々はなぜ悪を(おそ)れるか、悪を畏れる心とはどんなものか。先ず畏れというのは一つは悪名畏(あくみょうい)。誰か自分のことを悪く言いはしないだろうか。非難、批評を畏れ、人から文句を言われるのを畏れる。も一つは堕悪道畏。これは悪道に堕ちるのではないかと畏れる。悪道とは三悪道という。地獄、餓鬼、畜生である。苦しみの世界、不幸せの世界に堕ちていくのではないか。何か破局が起って今までの幸せもぐらぐらと崩れていくのではないかと畏れる。これを堕悪道畏という。も一つ大衆威徳畏。大勢の人の前に出ると小さくなってもじもじする。それを大衆威徳畏という。みんなの前に胸を張って行けない。悪名畏、堕悪道畏、大衆威徳畏、その他死畏、不活畏というものを感ずる。

 しかるに「本願を信ぜんには悪をもおそるべからず」である。これは畏れる必要はない、畏れてはならないではなしに、畏れることがない、畏れる心がないのである。それはなぜか。かねて申すように畏れる心のもとは何かというと我見である。『十住論』に龍樹は「諸の衰憂苦の根本は皆是れ我見なり。我見は是れ諸の衰憂苦の根本なり」と言ってある。我々の気力の衰え、心配、苦しみ、そういうものの根っこは深い自己執着であり我見である。我見が諸の衰憂苦の根本である。そこから不安と動揺が出てくる。我見は心の殻である。この殻の中に閉じこもっているので衰憂苦が出てくるのである。悪を畏れるということがあるのである。この我見が壊れてしまうと衰憂苦はなくなるのである。

 「悪をもおそるべからず」というが、自分の犯した罪悪はなくなるのかどうか。我見を打ち砕かれたならば罪悪というものはなくなるのか。それで「悪をもおそるべからず」ということになるのかというとそうではない。我見が打ち砕かれるその道は「本願を信ぜんには」である。親鶏に抱かれてヒヨコになって、殻を破って出でくる。これがたった一つ我見の打ち砕かれる道である。それでは犯した罪悪はなくなるのかというと、それはなくならない。ここははっきりしておく必要がある。私の犯した罪はなくならないが、それがかえって私の念仏の内容になる。私の念仏になるのである。私はその罪のために南無阿弥陀仏と念仏申していく舞台を与えられるのである。人間は深い反省をし、俺が悪かった、ああいう事をしなければよかったと慚愧し反省すれば、それで救われるのではないかと思いますが、救われない。なぜかというと、人間の心の中にどうしても一つ残るものがあるのである。どのように反省しても、どのように慚愧しても、俺も悪かったが相手も悪いのではないかというものがなくならない。あれがああなればこれはこうならなかったのではないかという心はなくならない。反省や慚愧というものでは、その事件、この現実、その罪の全てを背負うということはできない。自分はその一部では責任があるけれども、全体の責任はない、社会や其他のものの責任ということもあるではないかと思わざるを得ない。が、その限り苦しみはなくならない。道光明朗超絶せりという言葉がある。底が抜けてなくなる。底が抜けるとは、罪悪が私のための念仏となるのである。

 この念仏になるということが非常にわかりにくい。私の体験の言葉で言えば、罪が私の念仏になるとはすべてを許すということである。あの人にもこの人にも関係があり、この人にもその人にも責任があるが、すべてを許すのである。アジャセの例をとるならば、アジャセの母イダイケはアジャセの悪に遇うて「どうしてあんな子が生まれたのか」という。「この子も悪いけどその友達のダイバが悪い、年甲斐もなく息子に悪いことを吹き込んで。あの友達さえいなければ……」という。そのダイバはお釈迦様のいとこではないか。お釈迦様にも責任があるという。許せない奴がたくさんいるわけである。これを、すべてを許す。これが現実が念仏となるということであり、現実を背負うということである。現実に取り組むということである。仏法の言葉でいうと、私の業として目覚めるということである。私はこの業ということが長い間わからなかった。業という言葉が厭であったし理屈に合わない事である。色々なものを自分の責任とし、業として担っていくということは、私の予想もしない、また納得のいかないことであった。しかしながら本当は業というものがわからないと、或いは業というものが戴けないと、本願というものが戴けないのです。ようやく私は業という言葉を「すべてを許して受けとめる」ということと領解することができ、少しわかってきたように思います。それは「本願を信ぜんには他の善も要にあらず」私の犯した罪を私の業として受けとめていって、あらゆる他のものを許していくということになる。それを住不退転と申します。

 住不退転とは不退転に住す、不退の位に住すという。不退の位というのは、大乗仏教において菩薩の段階の初めを不退位という。即ち菩薩道に立つということを言っている。しかしながら不退という意味が非常に面白い。もはや退転しない、何が起っても後ずさりしないということ。後ずさりするというのは、急な坂の途中でとまると後ずさりして、元の木阿弥になってしまう。登り道とは世間道のことである。前に進んでもやがて後退し、一歩進んでは二歩後ずさりをするようなもの。こうして一生懸命進んでとうとう後ずさりしない所に出る。これを不退転という。これを仏道という。そこに立つ、これを不退位という。もはや絶対に後ずさりしない。それはどのような悪が私の上に出てきても、それが私を後ずさりさせることがない。酒を飲んで失敗した。こんな俺では駄目だと言うのは世間道での話である。仏道に立たされたらどうなるか。酒を飲んで大失敗をした時に、これが本当の私であるとわかる。そのことが本当の、私を知らせてくれる。その恵が私の仏道になる。私を引っぱり戻すのではなくて私自身を知らせてくれる。誠にそこに「他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけり」とわかってくるのである。それではそういうことを何遍も繰り返して、結局悪い事ばかりしているかというとそうではない、「かくの如きのわれら」「こういうていたらくの私」と頭を下げてお詫びをするのを懺悔という。その悪が私において懺悔となる。懺悔とは必ず再び為さじというものを含んでいる。再び為さじという決意を持っている。或いはまだ二遍三遍それが繰り返される。ことがあるかも知れん。が、いよいよ更に自分自身の愚かさに目覚めさせられて、一歩一歩深まるのである。これを不退といい、傾動(きょうどう)すべからずという。不可傾動、もはやどうしても傾け動かすことができない。それを不退転の位というのである。ここまで来なければならない。ここまで来るのが一番大切なことである。世間道を超えなければならないのである。本願を信ずる世界への道とは何か。これも何遍も申しましたが、世間道を突破して遂に出世間道に立つ。蓮如上人の五重の義というのがそれをよく表わしている。一つには宿善。長い長い先祖からの血、その育った土徳、長い因縁である。宿善開発して善知識に遇う。善知識とはよき師よき友である。私にまことに因縁のある先生にお遇うしたそのことが、世間道から仏道への道である。これが二つめ。次に三つには光明である。善知識即ちよき師に遇うたというだけでは足らん。光明即ち教の働きというのは照育と申します。私を育ててくれるわけである。育ててくれるとは、私の間違いを直してくれる。実際にはよき師よき友の仰せを被って私自身が直されていく。それが照育ということである。何を直さねばならんかというと、捨てねばならないもの即ち女人性、女人的性格である。これが直されないと我々は育たない。そしてとうとう自分というものを明らかに知らされる。それを照破という。そこに生まれるものを信心という。それを、四つには信心と言われる。五つには名号という。念仏申すという世界があらゆるものを許していき、遂に私自身が懺悔し合掌し念仏していくということになる。これを光明、信心、名号という。こういう世界が展開する。これが「本願を信ずる」世界への道程である。

 一般の宗教は殆んど全部、善が欲しい、悪が恐ろしいという宗教である。そうでなしに、何物もみな私の念仏の内容となる。他の人の善が私の随喜の対象となり、悪というものが私の念仏の内容となっていく。そこに不退の人というものが生まれてくる。これを本願を信ずるというのである。一応これで第一章を終ります。

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