『仏の教えに出あうということ』 寺岡一途
第三章 釈尊
 第一節 釈尊の教え

 仏教という教えは今から二千五百年ぐらい前にインドに生まれたゴータマ・シッダルタという方によって説かれはじめた教えです。この方は釈迦族という部族に属していました。それで、釈迦族から生まれた非常に尊い方という意味で釈尊とも呼ばれています。また仏陀とも言います。ブッダとは覚者という意味です。つまり、深い真理を悟った方という意味です。そのブッダとなったシッダールタが八十才で亡くなられるまで教えを説いてインド各地を歩いて回られた。その教えを仏の教え、仏教といいます。それは一体どのような内容の教えであったのかということをこれからお話します。

三界/六道輪廻/人/発心---菩薩道を起こす/発願--殻から出る/仏になる

三界
 まず三界ということについてお話しましょう。仏教では私たちが生きる世界を三界と呼びます。その三つの世界を欲界、色界、無色界と言います。目の前にある世界は一つなのに何故三界と言うのでしょうか。おかしいでしょう。たしかに世界は一つしかありません。しかし、人がその中で追い求める対象の違いによって世界は異なって見えるのです。
 「一水四見」という言葉があります。目の前に水があるとします。それを人間が見れば単なる水です。しかし、魚が見るとどう見えるでしょう。たぶん自分の住みかに見えるでしょう。天人が見ると宝に飾られた池に見えるそうです。餓鬼が見ると濃い血に見えるそうです。そのように同じ対象を見ても、見る者の心が違うと異なって見えるのです。
 まず、自分のいろいろな欲求を満たす事が生きる目標である時、世界はその人にとって欲界として姿を現わします。人間は生きる為にはまず衣食住を確保しなければいけない。この衣食住の確保だけでも大変です。たとえばお腹が空いてたまらない、その時に人間は食べ物を探します。目の前にどんな美しい景色が広がっていようが関心がありません、あるいは見えないのです。
 五十年前、日本は戦争に負けて、戦後しばらくは食べるものにもことかく貧しい時代が続いたそうです。しかし、当時は今のように自然環境が破壊されることもなく、美しい自然が日本中に残っていたでしょう。でもそれにだれも注意を向けようとはしませんでした。そんなことより食べることの方が大事だったのです。それで、農薬を撒き、工場を建て、豊かさを求めてまい進したのです。そうして衣食住がだいたい満たされる世界が出来た頃、周りに美しい自然が無くなったことに気づいたのです。そして、あわてて失われた自然をお金を使ってとりもどそうとしています。また、それを求めて旅をします。真っ白な砂浜や澄んだ青い海は、かつてはどこにでもあったのに、今はあれば貴重な場所となり、みんなが押し寄せるでしょう。
 人間はまず衣食住の確保を求めます。その次に求めるのは愛情と名声です。愛情というのは他の人との結びつきです。動物と違って、人間はひとりでは生きることができません。だから人間は他の人を愛し、独占し、家族をつくります。また、人間は虚栄心をもっていますから、それが満たされることを望みます。つまり、人から認められ、ほめられ、有名になることを求めるのです。衣食住を求め、愛情を求め、名声を求める。その時、世界はその欲求を満たす為の場として見える、これを欲界といいます。
 ではそれが満たされた時、次に人間は何を求めるでしょうか。美や真理です。美しい音楽、きれいな絵。音楽を聞いたから、絵を見たからと言ってお腹がふくれるわけじゃない、寒さがしのげるというものでもない。けれども美しいものを求めるという事があります。これが人間の人間たるところで、他の動物と違うところです。
 人間の歴史から芸術を取り除いたら、多分殺風景なものになるでしょうね。美には、それ自体が人間を引っ張ってゆくはたらきがあります。美というものに関心をもち、それを追及して生きる、その時、世界は色界としてその人の前に立ち現れているといえます。
 では最後に無色界と言うのは何でしょうか。美を求めその結果つくり出されたもの、たとえば絵や音楽や小説は目に見えたり、聞こえたり、読むことができたり、形があります。それに対して無色界で人が目標として設定し、追及するものには形がないといいます。形がないものを追い求める。それは学問や研究などかもしれません。世界にはさまざまな研究をしている人がいます。いろんなことを調べたり、考えたりすることはそれ自体で人間の喜びとなり生きる目標になります。現在の世界はそれらの人々の膨大な労力の積み上げの中でつくりあげられているといえましょう。その人の前に現れる世界を無色界というのです。外なる対象は求めないが、目に見えない内なる世界に執着し、さまようということです。
 つまり、三界と言うのは、その人が生きる目標として何を設定しているかという事によって世界が異なって現れるということを言っているのです。しかし、問題は目標を設定する「自己自身」が少しも問われていないことです。これは大変大事なことで、あとまた触れたいと思います。
 この三界の中でわれわれが一番多く目標設定するのは欲界でしょう。それは先ず生きなければいけないからです。君たちのお父さん、お母さんは、今、会社などで働かれているでしょう。それは働かないとお金をもらえないからです。お金をもらえないと食べる物を手に入れることが出来ないし、住むところが得られないし、着る物が買えません。先ず、生きるという事が大切です。また、人は一人では生きることができません。愛情を求めます。それだけでは人間は満足出来ない。名声を求めます。さらに美しい物をつくりだしたい。色々なことを知りたい。色界、無色界に目標を設定して生きようとします。
 人はあるいは思春期に入るまでは、程度の差はあると思いますが、三界の外を生きていると言えるのかもしれません。どうしてかというと、生きるということはお父さんやお母さんによって支えられているからです。また、現代の日本では子どもは小さい頃から、学習塾や習い事に行っていますが、自発的な意志によるものは少ないでしょう。だから色界無色界を生きているとも言えない。つまり、その頃まで人は閉じられた世界を生きているのです。
 ほんの少し前まで君たちはその世界に住んでいたのでしょう。その世界では時を忘れて遊ぶことができたはずです。時の流れは決して早くはなかった。夏休みが始まる直前の感じを思い出せますか。その時に、永遠とも思える時間が目の前に広がってはいなかったですか。内発的な目標がないところ、時は未来に向かい流れて行きません。静止した時の流れ、円環する時の流れの中で遊び続ける、それは、振り返ってみれば人間の生涯の中で一番幸せな時期なのです。それを、やがて、懐かしさと哀しみをともなって振り返る時が必ずあるでしょう。
 ところが思春期が近づくと、時間が急に未来に向かって流れ出します。人は思春期において三界に足を踏み入れるのです。愛する人との出会いを夢み、自分が生涯をかけて取り組むべき仕事を夢見るようになります。それらは総体として「いかに生きたらいいか」という問いとなって青年のこころを揺り動かしてゆくでしょう。そうして、自分が思い描いた目標を抱いて、青年はこの三界と呼ばれる世界の中に飛び込んでゆくのです。

六道輪廻
 しかし釈尊は「三界は安きことなし なおし火宅のごとし」と語られています。これら三つの世界の中で生きることは、火のついた家に住んでいるようなものだというのです。火のついた家に住んでいるとどうなりますか。そうですね、火に焼かれ、その熱さに身も心も苦しみます。そして、そのうち家は焼け落ちて無くなってしまいます。そのありさまを六道輪廻というたとえで表わします。
 六道輪廻というと死んでから先のことと思っている人も多いかもしれませんが、釈尊の教えは生きている人に対して説かれたもので、死んでから先のことではありません。先の三界に目標を設定して生きている人は六つの状態を経めぐって生きてゆくと言うのです。六つの状態とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天という状態です。このそれぞれの状態について今から説明します。
 まず自分の欲求が満たされた状態を天と言います。大学に受かりたいと一生懸命に頑張る、そして合格したらとてもうれしいでしょう。その状態を天といいます。天とは目標が達成され、いつまでもそこに止まっていたいような幸せの状態です。しかし、もし、落ちたらそこに待っている状態を地獄と言います。地獄と言うのは、そこから一刻も早く抜け出したい状況を言います。苦しみの状態です。
 天は一番快適な場所で、いつまでも居たい場所。いつまでも居たいんだけども、いつまでもおれないんです。有頂天という言葉があるでしょう。天には頂があって、天に到達すると、今度は下に降りないといけないのです。大学に入ってうれしいなと思っていても、一月ぐらいたつと何かもの足りなくなってくる。人は目標を達成すると、達成したしばらくは何をしなくても幸せなんですが、やがてその感じも失せてきます。また新しい目標が必要になります。
 この天と地獄の間に他の四つの状態があります。図に措けば下から餓鬼、畜生、修羅、人間となります。
 餓鬼と言う状態は、欲求に追い立てられ、欲求に自分が振り回されている状態です。あれが欲しい、これがいる・・・と。現在の日本はすべての人間を餓鬼の状態におこうとしているようですね。次つぎと新しい魅力的な商品をつくりだして、売りつけようとしています。分厚いカタログが無料で送られてきます。ページをめくっていると、さほど必要がないものまで買ってしまいそうになります。それがないと経済が成り立たないのでしょうが、どういうものでしょう。いまや家の中はモノで溢れて足の踏み場もないほどです。そしてゴミの山です。
 次々と新しいゲームが発売されます。すると欲しくなるでしょう。大人の世界も同じです。新しい車、新しいパソコン、新しい電化製品、それが発売されるたびに、今まで自分が持っていたものが急にみすぼらしいものに見えてきます。そして次つぎと買い替えてゆきます。
 畜生と言うのはいろいろ定義がありますが、主体性がない状態と考えていいでしょう。家畜というのは人間に飼われていますから食べ物の心配をしなくてもいいのですが、囲いの中から自由に出ることができません。主体性がなく、他の人に依存して生きている状態です。その人は自分で生きる目的を設定することができません。
 修羅というのはもともとインドの戦いの神様を言ったらしいですね。そのように修羅の状態は戦いの状態です。自分が手に入れたいものを求めてさえぎるあらゆるものをけ散らかそうとします。君たちの中にも来年高校、大学を受験する人がいるでしょう。そうすると、嫌でも他の人と戦わなくてはならないですね。


 そして、もう一つここに人と言う状態があります。今回の会のテーマは「人として生きるということ」でしたね。ここに人と言うのが出てきます。これは何か。この人という状態は考えることができる状態です。考えて目標設定が変更できる。自分で生きる目標を考え、軌道修正ができる状態です。精神的にゆとりがある状態と言えましょう。
 それでは他の状態はどうでしょう。地獄では目標変更もない。ここはとにかく一刻でも早くそこから脱したいという、それだけが目標です。餓鬼の状態、ここは、目標に振り回されている状態ですから、自分で目標を決定できません。お腹が空いている時は、とにかくお腹をふくらませることが課題です。畜生と言うのは、先程言ったように主体性がない。相手に依存していて自分で目標を決めることができません。修羅、これは戦っている状態ですから、「ちょっと待って」というわけにはゆきません。とにかく相手に勝たなければなりません。
目標を変更できるのは勝利を得てからです。天はどうでしょうか。天は目標が達成されいつまでもそこに止まっていたいと思う状態ですから、もう少し時間が立って頭を冷やさなければ新しい目標を考えられないでしょう。
 人の状態にいる時だけ、自分の生き方を考え、新しい目標を選択し、軌道修正できるのです。また、人の状態にいる時だけ、仏の教えが耳に入るといいます。だから人という状態はこの六道の中でも特別な位置といえます。主体性を回復し、他の人の言葉が耳に入る状態です。
 しかし、どのように目標を変えても、欲界、色界、無色界、この三界に生きる目標を設定して天を求めている限り、この六つの状態をぐるぐると経めぐらないといけない。そのような人間のありかたを六道輪廻といいます。またこの歩みは流転空過であると言われます。空過とはいろんなことをやっても、ついに「これでよかった」ということにならない、空しく過ぎるということです。三界に夢を措き、これから出発しようとしている君たちに、このようなことを言ってもピンとこないでしょうが、言葉として覚えておくと生き方を考える上でのヒントになるかもしれません。

発心−−−菩提心を起こす
 仏の教えでは三界に目標を設定して歩む歩みを世間道と言います。その世間道に対して仏道を出世間道と言います。ではこの出世間道という道は何を求め、どこに至ることを目標にした道なのでしょうか。
 仏道において求めるものを菩提といいます。菩提とはサンスクリット語のbodhi(ボディ)の音写で「ブッダの混ざりけのない正しい悟りの智」と辞書には書かれています。略して正覚。正覚とは世界にたいする正しい見方を得ることともいえます。この菩提という目標は欲界にも色界にも無色界にも属しません。三界の目標となる対象は必ず自己の外にあります。自己の外に目標を設定するとき、私たちは必ずその対象にとらわれ引きずられます。その結果、三界を流転してゆくのです。
 しかし、菩提が三界に属さないということは、自分の前にイメージとして思い描くことができないということです。思い描くことのできないものを目標とするというのも変ですが、そう言うしかありません。この道は限りなく三界というキャンバスに目標を描き出そうとする自己そのもの、自分自身を問題にするのです。自分自身を問題としつつ、ついに自己を超え、自己を世界に向かい開いてゆく道なのです。それゆえに仏道は内道と言われます。たいへん難しい話になっていますが、がまんして聞いてください。
 さきほど言いましたように思春期において人は三界に夢を描いて歩みをはじめます。君たちは今それぞれにさまざまな夢をいだいていると思います。それはきわめて正しい人間としての成長です。夢をもたない青年は青年とは言えません。青年が夢を描くということはまた「何のために自分は生きてゆくのか」と問うことでもあります。また夢を描きはじめた青年は価値について考え始めます。その夢は自分の一生をかけて追い求める価値があるかと、夢自体が問いかけるからです。
 考える、その時、青年は人という状態に入ります。パスカルというフランスの哲学者が次のように書いています。
 人間の生はあわれにも短い。人はその生を、この世へ生まれて来た最初の年からかぞえる。私なら、その生を、理性が誕生して、そうして理性によって人がゆり動かされはじめたときからしか数えたくない。そういうことは普通二十歳前には起こらないものである。この時期以前には、大人は子どもである。子どもは人間ではない。
 思春期に入り、自発的に考え「何のために生きてゆくのか」という問いを抱きはじめた青年に対し、学校教育は三界に夢を描くことしか教えることができません。しかし、仏の教えは三界の歩みの本質を教え、三界を出て菩提に向かって歩む、そのような歩みがあること、そして、そこに人間の深い喜びと満足があることを教えてくださるのです。そして、そこに止まらず再び三界に還り、人々と共に歩むべきことを教えるのです。
 この菩提を求めてゆきたいという心が自分の中に起こってくることを「菩提心を発す」と言います。略して発心と言います。ではこの発心はどうして起こるのでしょうか。先程言ったように菩提(正覚)というものは対象的にイメージすることができません。イメージすることが出来ないものを求めるということは大変むずかしいことです。その発心がどうしておこるのか。それは仏の教えを聞くことによっておこるのです。
 『大無量寿経』という経典がありますが、その中に人の上に発心がおこる端的な姿が書いてあります。
 その時、次に仏ましましき、世自在王如来・応供・等正覚・明行足・善逝・世間解・無上土・調御丈夫・天人師・仏・世尊と名づく。時に国王あり、仏の説法を聞きて心に悦豫を懐き、すなわち無上正真道意を発し、国を棄て、王をすて、行じて沙門となる。号して法蔵という。
 仏に遇い、仏の説法を聞いて、心に深いよろこびをもち、菩提を求める心が起こったと書いてあります。なぜ、仏の説法が深い喜びをもたらしたのでしょうか。仏がこの世界についての深遠な講義をしてくださったからでしょうか。そうではないのです。仏の教えは哲学ではありません。また心理学でもありません。仏の教えは閉ざされた人の心を開くのです。愛憎善悪、優越感劣等感によって、かたくなに閉ざされた心が開かれるとき、心は深い喜びに満たされ、顔は輝いてきます。外に外にと夢を追ってゆくのではなく、自己を問題とし、自己を問い、限りなく自己自身を照らされ、内に内に歩んでゆく道の実在を知らされたのです。また目の前に立つ仏の清浄な姿が菩提を証していることを、正覚がその道の延長線上にあることを、直感的に感じ取るのでしょう。そのとき人は菩提にむかう方向を見いだし、歩み始めるのです。

発願−−殻から出る
 長い間、仏道は発心に始まり、菩提(正覚)を証することに終わると一般的には考えられていました。それに対し、発願ということを重んじる仏教徒のグループがあらわれました。後者のグループは前者を小乗と呼び、それは本当の仏道ではないと言い、自分たちの歩む道を大乗と呼びました。小乗とは小さな乗り物という意味です。自分一人しか救うことができない道ということです。大乗とはたくさんの人、一切の人が救われてゆく乗り物ということです。このグループの代表にインドの龍樹という方がおられます。明日にでもまたその方について少し触れたいと思っています。
 大乗の仏教徒たちは発心から正覚にいたる過程に発願というステップがあることを見いだしたのです。発願とありますが、どんな願だと思いますか。そうですね、利他、他の人とともに歩んでゆきたい、他の人の苦しみを救いたいという願です。そのような願いが人の上におこったならば、その人は菩提(正覚)に向かっての道において決して退くことがないという事実に気づいたのです。それで正定聚(正覚に向かって正しく定まった人々)とか不退転とかいう言葉ができました。
 では人間の上に発願はどうしたら起こるか。それは殻から出ることによって生まれる事実です。殻とは自己中心の殻、我見とも言われます。その我見が破れることにおいて願が生まれるのです。殻から出るということについて、私の先生は前に話しましたヤシの実のたとえを語ってくださいました。
 私たちは大海を漂うヤシの実のようなものだ。ヤシの実は厚い殻に包まれて波のままに海をただよっている。厚い殻に保護されヤシのいのちは生きてはいる。しかし、それは本当に生きているとは言えない。そのまま漂うならばやがてヤシの実は腐ってしまうだろう。ヤシの実の願いは大海をあてもなく漂うことにあるのではない。もしヤシの実が大地にたどりつくならば、厚い殻を破って大地に根をおろし、芽を吹き、やがて地上高く伸びてゆき、葉を茂らせ、緑の木陰をつくって人々を憩わせるだろう。
 殻から出た時に願がおこるのです。大地に深く根をおろそうという願と、大空高く伸びてゆこうという願です。それはいのちの自然の願いであるからなにものも止めることはできません。そして、ついに大木となって他のいのちをはぐくむ存在となってゆくのです。
 発願は自己中心の殻が破れる時に生まれる、ではどうしたら自己中心の殻が被れるのかということが課題になりますね。これはまた大変な課題なのです。この殻は自分で破ろうとしても破れないのです。どうしてかというと殻が自分だからです。自分で自分を否定できないのは、目が目それ自身を見ることができないようなものです。

仏になる
 また、利他ということが課題とされる中で仏道の目標は単なる菩提(正覚)を得ることのみではなく、仏になることに重点がおかれました。
 仏とは自覚、覚他、覚行窮満の存在と言います。自覚とは深い智慧です。正覚の智慧です。覚他とは他をして広い世界に目覚めしめる力です。普通には慈悲といいますが、徳ということもできます。徳とははたらきです。何にもしゃべらなくても他の人に深い影響を及ぼす力です。大体偉い人と言うのはあまり前に出てこないのですね。偉い人というのは何も喋らなくても、その人の周りで色んな事が起っている、それを徳と言います。仏が持つ徳であるから仏徳と言います。仏はかぎりなく大きな徳をもった存在なのです。仏の徳にふれるとき私たちは深い安らぎをおぼえます。
 やがてこの大乗仏教の流れの中に浄土教とよばれる教えが生まれてきました。阿弥陀仏と浄土というものを中心とする教えです。今、君たちが出会っているのはその教えです。私の後ろのお仏壇の中央には「南無阿弥陀仏」という言葉が書かれた軸がかけられています。この教えをほんとうに明らかにしてくださったのは親鸞聖人というお方です。この方についても明日すこし触れたいと思っています。
 仏の教えとはどんな教えかということを申し上げてきましたが、まとめれば三界を出て、正覚を求めて歩み、自利と利他の徳を身に成就し、ついに仏となる教えと言うことができましょう。最後はかけ足になって分かりづらかったと思いますが、今日のお話はこれで終わります。
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