九、弥陀の御催し

『歎異抄講読(第六章について)』細川巌師述 より

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御催しとは御働きである。

(1)絶対なるものの自己表現

 絶対とは、対々(たいだい)を絶するという。対々とは白と黒、大きいものと小さいもの、長いものと短いものというように相対するもの、それを超えたものを絶対という。

 絶対と相対の関係はどういうものか。相対とは相対有限、限りあるものである。長く長く生きているわけにもいかず、或る所で命終る。どこまでもどこまでも深く考える力はなく、限りがある。それに対して絶対とは、無限なるもの、限りなき広がりを持ち深さを持っているもの、時間的に言えば永遠であり、空間的に言えば無限である。

 この絶対と相対の二つはどのような関係にあるのか。宗教の世界では絶対と言わないで如来という。有限なるものを衆生という。もし並んであるとすれば相対に対する絶対であって、すでに対々を絶したというものでない。いわば相対的絶対というべきものであろう。それでは包んであるのかというと、単に包んでいるのでもない。如来の中に衆生があるのかというと、そういうものでもない。

 絶対なるものは相対なるものに常に働きかけている。即ち働きを持っている。大きなものが小さなものに必ず働きかけるものである。働きかけてくる姿を如来という。如より来るという。そうして相対なるもの、小さなもの(今は衆生をいう)の中に絶対なるものを届けようとする。その働きを自己表現という。それが絶対と相対との関係である。これをこのような表現で言われたのは西田幾多郎という先生である。最晩年の著書に『場所的論理と宗教的論理』でしたか、それに書いてある。この人は西田哲学の創始者として有名な人である京都大学で哲学を教えていられた人で、昭和二十年に亡くなられた。

 この論文は亡くなられるその年に発表されたもので、西田幾多郎全集の論文集の最後に出ています。そこに絶対と相対ということが書いてある。絶対なるものは必ず相対の上に自己を表現しようとして働きかけてやまないのだ、それが相対と絶対との正しい関係なのである。我々は二つが並んであるように考える。が、そうではなしに働きかけているのだ。その働きが絶対なるものの自己表現である。

 これはすぐれた論文であると思う。今、春を考える。冬の間は葉を全部落として丸裸になっている柳が、春先になると青い芽を出す。それは春という大自然がめぐってきて(これが大いなるもの)これがいとも小さな柳の上に春を届けようとするのである。春が自己を柳の上に実現しようとするのである。その働きを絶対と相対の関係という。

 親子があるとする。母親と子供が並んであるのではない。母親の懐の中に子供が抱かれているというものでもない。母親は子供に対してどうしてもこの子を元気で大きくしなければならんという働きかけになる。母乳を飲ませて大きくしようとする。それが親子である。そういう関係でなければ親子とは言えない。

 如なるものが我々人間相対なるものの上に来って如を実現しようとする、届けようとする。その如なるものの働きかけを本願という。それが絶対なるものの自己表現であり、自然の法則である。そうなるようになっているのである。それを自然法爾という。

 作ったものでなく考えたものでない。そうなるようになっている。それを願力自然という。願力自然というところに絶対なるものの働きがある。働きかけずんばやまじ、届けずんばやまじ、相対なるものに自己を届けずばやまずという。それを絶対なるものと相対なるものの必然関係という。それを今は、「ひとえに弥陀の御催しにあずかる」という。絶対なるものの相対なるものへの自己表現という。西田幾多郎氏の言葉を借りればこのようになる。この人は浄土真宗をよく聞かれている方である。この人の論文は私には難しくてよくわからない所も多いが、この表現は大変にすぐれたものと思う。

 如なるものが如来となって、何を衆生に届けようとするのか。それは自己自身である。即ち絶対なるものは相対なるものを真に絶対ならしめようとする。その働く姿を光明無量の願、寿命無量の願という。光明無量とは、光限りなきものたらしめよう寿命無量とは命限りなきものたらしめようという。

 それを本願と申します。絶対なるものの自己表現である。その内容をAmitayus Amitabha阿弥陀仏(光明無量、寿命無量)という。永遠なるもの無限なるものたらしめよう、阿弥陀仏たらしめようという。それを光明無量、寿命無量の願と申します。自己を衆生に届けようとするのである。相対なるものを絶対ならしめようという願いを、絶対なるものの自己表現という。それがもし届いたならばわれらの上に南無阿弥陀仏というものが生まれる。それを念仏という。「ひとえに弥陀の御催しにあずかりて念仏申す」という。大きなものの私に対する表現、春がきて固いつぼみが開くように、秋がきて虫が秋のメロディーをかなでるように、大きなものと一体になった姿を南無阿弥陀仏という。これが絶対と相対とのつながりの自然のあり方である。

(2)自障と自蔽

 絶対なるものの相対なるものへの働きかけは、実はなかなか大変なのである。なぜならば、相対なるものには絶対なるものの働きかけを受け取る力がない。受けとめる能力を持たない。それは相対なるものは固い殻を持っているからである。その殻を自障、自蔽という。

 自障も自蔽も殻である。自障は自分の中にある障害、自蔽とは大きなものの働きを妨げる深い蔽いである。親鸞聖人はこのことを『教行信証』の信巻に出されている。

 自障とは我愛、自己愛である。自蔽は疑いである。「それ自障は愛にしくはなし、自蔽は疑にしくはなし」。大いなるものの働きを妨げる厚い殻は深い自己愛である。仏法の言葉で言うならば煩悩障である。内容的にいうと貪欲、瞋恚、憍慢である。これが我々の厚い厚い殻である。

 疑というのは、表面から言えば知性中心、裏面から言えば如来無視である。知性中心というのは、我々は如来とか仏教などはいらない、人間知性でやればよいのだという自己肯定の生き方である。これを分別意識という。深い自己過信である。これらが自障、自蔽というものであって、絶対なるものの自己表現を妨げているのである。

 仏教を本当に生きている人を信心の行者という。念仏者という。が、その人も一番始めは殆んど皆仏教に抵抗していたのである。仏法が厭だったのである。なぜ厭か。「そんなものは私には要らない」「仏教の言うことなどはわかっている」「読めばわかる」という。自分自身に執われて先入感を持ち、深い殻に閉じこもっている。仏教を聞きましょうと言っても賛成する人が少ない。真田増丸という先生が、(もう大分昔に亡くなられましたが)東大の印度哲学科を出て仏教済世軍をつくり仏法の伝道をされた。八幡製鉄所で働いている労働者の人達に仏法を説こうとして、太鼓をたたいて門の前で弥陀の本願を説かれた。が、そこを通る人達は、「何を言うておるのか」と石を投げる人もあり、「くたびれ果てている時にそんな話どころではない」という人もいた。煩悩障が先ず障害になっている。仏法を聞こうという人はごくわずかなのである。もし進んで仏教を聞こうという人があれば、その人は本当に宿善に恵まれている人であるといわねばならぬ。長い長い先祖の求道の血とその育った土徳、家庭の空気がとってもすぐれているのである。仏法を聞こうという人は何らかの意味で、長い過去の中で仏法につながっておった。それは親の代かおじいさんの代かはわからないが、まことに宿善の厚い人ということができる。

 横道にそれるが、現在はいよいよ、宿善を積み重ねておかねばならぬ時期である。仏法を聞く人は減っている。殆んどすべての日本人が仏教に対し、怠惰と傲慢と我執のみである。学生は大学に入ったら遊んでやろう、若いうちはレジャーが大事だというところに執われてしまっている。いや日本人の殆どが煩悩障にふり廻されている。そんな時代に宿善に恵まれて仏法を聞く人がいるということは大変なことだと思う。また現代の中で仏法を説くことは、大風の中で灰を撤くような空しいものであろう。しかしそれでも灰を撤いておかねばならない。

 必ずどこかでそれを聞く人がある。そしてそれが生きてくる時がある。それは間違いない。私の先生は「念仏して自己を充実し国土の底に埋もるるをもって本懐となすべし」と言われた。それは宿善の土徳を作ること、その土徳の上にだけ念仏の華は咲き出るのである。われらの使命は風土を作ることであると言われたのである。

 そのような自障と自蔽、厚い厚い殼の中にわれらは閉じこもっているのであって、これらはもはや自分ではどうすることも出来ない。自分で気がつかぬのであるし、たとい気がついてもどうすることも出来ない。

 絶対なるものは、そういう自障や自蔽というものをものともせず入ってくる。これを無碍光という。これを尽十方無碍光如来という。向こうから働きかけて下さる。どのような厚い殻をも通してくる力を持っている。

 どんぐりがある。厚い殻の中に入っているのであるが、その殻を通して水が滲み込む。殻は何も変っていないのに、内なる胚芽にひびいてくるものがある。殻はあってもかまわない。そのままに滲み込むのである。なぜか。如来の働きかけが真実まことであるからである。真実まことであるから滲み込むのである。人は真実まことに非常に弱い。どのようなかたくなな殻の持主であろうとも、人は真実まことに感ずるものを持っている。人間のみならず犬でも猫でも鶏でもそうである。

 私の所で鶏を飼っている。毎年四月の終りに四十日びなを十羽買う。初めて来た時にはおびえきっている。おびえておびえてちょっと近寄ってもピヨピヨ鳴き声を出して隅にかたまる。それがだんだんと大きくなると私の所に寄ってきますね。何かくれという。私にまごころがあるのではないが、可愛がっているとそうなる。鶏が野菜を作っている畑に入ってくる。「そこに入つちゃいかん」と言うと、じっと私の顔を見ているが、しばらくするとうなずいて出て行く。次第に入らんようになる。だんだんわかるようになる。鶏でもわかる。

 如来のまごころが私に届くのである。始めは水になって届く。水とはよき師よき友である。よき師よき友の語りかけ、励まし、勧め、忠告によって、遂に教を聞くようになるのである。そして遂に発芽するのである。これを「弥陀の御催しにあずかりて念仏申す」という。我々の殼を自分で叩きこわしていくということは到底無理である。なぜかというと、殻が私自身であるから。自分で自分の殻をこわせる筈がない。が、外からの働きかけが届いてくると、即ち大きなものの自己表現が届いてくると、ドングリは殼を破って発芽するのである。

(3)華光出仏

 『大無量寿経』(康僧鎧(こうそうがい)訳)に華光出仏ということが出ている。

 『大経』には、われら衆生の上に大きなものの働きかけが、如何にして届いてくるかが述べられている。即ち絶対なるものの自己表現はどうしてできるのか。そこに如来の働きが説かれている。如来が菩薩となって四十八願を立て働きをおこす。これが大きなものの働きかけである。それは具体的にはどうなるのか。『大経』上巻の終りに、その如来浄土の蓮華の花びらの「一々の華の中より三十六百千億の光を出す、一々の光の中より三十六百千億の仏を出す」。そしてこの諸仏が無量の光を放って無量の衆生の上に働きかけ、一人一人を仏の正道に安立せしめたもうというのが、『大経』上巻の終りにある。

 如来浄土の働きかけは具体的には諸仏である。この諸仏を絶対なるものの自己表現という。われらの上に自己を届けようとする姿を華光出仏という。その諸仏が無量の光明を放って衆生を正道に安立せしめるのである。

 諸仏というのは抽象的な表現であるが、具体的にはよき師よき友である。よき師よき友となって私に呼びかける。私は固い固い殼の中に入って仏法などは御免蒙りたい、それよりも自分自身で勝手にやりたい、このままでいいとしか思わない。そういうわれらの思いをものともせず滲み込んでくるのである。なぜか。それは真実であるから。如来の働きかけは真実まことであるからである。だから我々の心を打つものを持っている。如来のまことは師主善知識、同行善知識のまごころとして届けられる。

 「弥陀の御催し」とは、絶対なるものの自己表現である。それは絶対なるものの必然の働きであり、これなくしては絶対というものはない。それが華光出仏という姿である。

 如来浄土のすべてが諸仏としてわれらの上に自己表現してくる。この諸仏をとおして如来の真実まことが私の上に届くと信が生まれ、同時に南無阿弥陀仏が生まれる。称名念仏となって出てくる。如来のまことがわれらに届くところに他力の信行がある。

 この私を育てたのはよき師よき友である。それがひとえに「弥陀の御催し」である。このよき師と私の間には深い人間関係が成り立つのであって、それは実に厚い厚い連帯と言わねばならぬ。兄弟以上の兄弟、親子以上の親子、もはや切っても切れない関係が出てくる。

 聖人は『安楽集』から信巻末の「真の仏弟子論」に引かれている。その中で説く人と聴く人の関係はちょうど医王と病人のようなものであるという譬を引いてある。病人はもはや自分の命はこの医王に全部おまかせし、すぐれた医王はこれを助けずんばやまじという深いつながりである。聴く者は一生懸命聞きぬいていこうとする。説く者はどうしてもこれをわからせたいという願いをもって、説く人と聞く人の間に深い深い連帯が成り立つ。ここに仏と仏弟子の関係があると述べてある。

 『涅槃経』には、われらは難治の病人であって、すぐれた医者、すぐれた薬、すぐれた看病人がなければ助からないという。薬は教、即ち南無阿弥陀仏、弥陀の名号。それを説いてくれる医者、即ち仏。この薬と医者を本当に勧め、病人を励ましてくれる看護人、これがよき師よき友である。このよき師よき友によって、治る見込みのない病気が治っていくという深い感謝が、『涅槃経』をあげて述べられてある。まことに真の師弟関係とは、ただ話を聞いたことがあるとか、教えてもらったことがあるという程度のものでなしに、深い連帯である。この世において成り立つ最も深い友情関係、あるいは人間関係である。

 このような深い連帯が生まれるのになぜわが弟子ということができないのか。「わが弟子と申すこと極めたる荒涼のことなり」と言われるのはなぜか。それをはっきりしておかねばならない。それを象徴するものは、『大経』下巻の往覲偈(おうごんげ)である。

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