3 第十章について
a 師訓の帰結
第十章は、歎異抄の前半に掲げられる師訓の最後のことばとして、念仏生活の終帰するところを語る一章であります。そして、また、これは師訓の帰結であるという意味において、つねに念仏の生活が、それを離れてはありえないところの、真実の生そのものの根源的なあり方を示すものである、といえましょう。これは、
「念仏には、無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえに、とおおせそうらいき」
という、きわめて簡潔なことばですが、ここには「南無阿弥陀仏」の道理が、単純に明快に表現されてあるのであります。
この一章について、すでに先輩たちは、
一 無義為義章(義なきを義とする) 妙 音 院 了 祥
二 はからいなき信心 倉 田 百 三
三 他力念仏の妙趣 梅 原 真 隆
四 他 力 の 極 致 蜂 屋 賢喜代
五 義なきを義とす 金 子 大 栄
六 無義為義は法爾自然である 曾 我 量 深
などと領解されておりますが、これらは、いずれも、師訓の帰結であるということに、着眼されているのであります。
すでに、くりかえし述べたとおり、師訓の第六章以降は、それぞれ念仏生活について語られたものであります。したがって、第十章は、まず、師訓後半の五章の結びであるわけであります。しかし、また第十章は、はるかに第一章と内面的な深いかかわりをもちながら、内に第二章以降の八章を包んで対応する関係にある、といえましょう。
「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて」ということばにはじまる教えが、往相廻向の教行信証(第一・第二・第三・第四の各章)ならびに還相廻向(第五章)と、その二廻向によっていとなまれる生活(第六・第七・第八・第九の各章)を一貫して、いまここに「不可称不可説不可思議」の世界へ到達する、と説かれるのであります。
これによって、各章を貫流するものは「不可思議」の精神である、ということが知られるのでありますが、ここでいう「不思議」とは、ただ単に「わからないこと」をいうのではありません。それは「無義」ということ、すなわち人間の分別の「はからいがないこと」を意味するのであります。そのことは、すでに各章において、それぞれ明らかにされてあったのでありますが、第十章では、ことに最初の第一章と呼応しながら、「念仏には、義なきことをもって本義とする」というのであります。
これについて曾我量深先生は、「分別しても、分別のごとく世の中は行けるものではない。世の中のことは、たいがい分別の反対に行く。それを人間は恐れる。これを恐れるから、人間は、妄念妄想をたくましくする」といい、そして
「不可称不可説不可思議は、わからぬということではなく、わかる必要のないほどに疑いない明るい世界、分別を用いる必要のないほど明るい、道光明朗超絶の世界である」(歎異抄聴記)
といっておられます。
この「はからいを離れる」ということに関しては、さきの「第八章について」のところでも触れたのでありますが、この問題についての親鸞の領解は、その著述の随処に見ることができるのであります。(たとえば末燈鈔第五通「自然法爾のこと」・消息集第十一通「無義為義のこと」・正像末和讃末尾「釈自然法爾」・その他唯信鈔文意など)
こうして、唯円は「師訓の帰結」として、ここに「自然法爾」の道理を掲げ、この道理にそむくことが、とりもなおさず後半に問題となる異義にほかならない、ということを示されるのであります。
b 自然の浄土
すでに明らかなとおり、第十章には、念仏生活の終始を一貫する「自然法爾」の道理が説かれるのであります。そして、ここでいう自然とは、「信は願より生ずれば、念仏成仏自然なり―― 」
という『和讃』によっても知られるように、アミダの本願力のはたらきにほかなりません。
『末燈鈔』(第五通)には、この自然法爾のことが具さに説かれてあります。
すなわち、
「自然」というは、「自」は「おのずから」という、行者のはからいにあらず。「然」というは「しからしむ」ということばなり。乃至。この故に「義なきを義とす、と知るべし」となり「自然」というは「もとより然らしむ」ということばなり。乃至。行者の、善からんとも悪しからんとも思わぬを「自然」とは申すぞと、聞きて候。
誓いのようは「無上仏に成らしめん」と誓いたまえるなり。無上仏と申すは、形も無くまします。形もましまさぬ故に「自然」とは申すなり。
形ましますと示す時には「無上涅槃」とは申さず。形もましまさぬようを知らせんとて、始めて「弥陀仏」と申すとぞ、聞きならいて候。弥陀仏は、自然のようを知らせん料なり。
この道理を心得つる後には、この自然のことは、常に沙汰すべきには非ざるなり。常に自然を沙汰せば「義なきを義とす」ということは、なお義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなり。
と、このように、親鸞の解釈は、まことに明快であります。
そして、この釈によって明らかなように、アミダの「願力の自然」は、衆生をして「無上仏」たらしめるものであり、したがって、願力のおもむくところは、すなわち「無為自然」の浄土にほかなりません。それゆえに親鸞は、それを、
念仏成仏これ真宗 (念仏してブッダとなる、これが真宗である)
万行諸善これ仮門 (念仏以外の一切の行、あらゆる善をたのみとする、これは仮門である)
権実真仮をわかずして (真実なるものと、かりの方便とを区別しないでは)
自然の浄土をえぞしらぬ (無為自然の浄土を知ることができない)
と和讃し(浄土和讃)、また、
五濁悪世のわれらこそ (このけがれにみちた悪世のわれらは)
金剛の信心ばかりにて (ただ金剛のような信心によってのみ)
ながく生死をすてはてて (すっかり生死の迷いをすてきって)
自然の浄土にいたるなれ (無為自然の浄土にいたるのである)
と歌嘆されたのであります(高僧和讃)。まことに、この業道の人生を転じて、浄土無為の自然に到らしめるはたらきこそ、アミダ願力の自然である、と教えられるのであります。
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