5 第八・九・十章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章  
 4 第六・七章  
 5 第八・九・十章  
 まえがき  
  一 第八章  
  二 第九章の一  
  三 第九章の二   
  四 第十章  
  補 説  
   1 第八章について  
   2 第九章について  
   3 第十章について
  あとがき  
  謝  辞  
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補説 歎異抄の諸問題


   2 第九章について

     a 念仏における信と願の問題

 第九章には、
 「念仏もうしそうらえども
ということばではじまる唯円の問いと、それにたいする親鸞の答えが、明らかにされてあります。したがって、この一章は、念仏生活の核心にふれた問題、すなわち、念仏の信心にかかわる根本問題を述べたものである、といえましょう。
 周知のとおり、歎異抄前半の師訓十章には、第二章と、この第九章とに問答がありますが、前者は、「念仏よりほかに往生の道をも存知(ぞんち)し、また法文等(ほうもんとう)をも知りたるらん」という、同朋たちの念仏にたいするまどいをはらされたものでありました。そこでは、
 「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よき人のおおせをこうむりて、信ずるよりほかに別の子細なきなり」
と、その信念を端的に表白して、親鸞は、念仏に生かされて生きるものである、ということを教え示されたのであります。
 それにたいして、第九章の対話は、その道をあゆむ途上における問題――、すなわち、「念仏もうす」についての、
 一 「踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)の心おろそかにそうろうこと」(信に関するまどい)
 二 「また、いそぎ浄土へまいりたき心のそうらわぬは」(願に関するまどい)
という問いであります。ここでは、まず念仏をよろこぶ「信心」と、そして、その信心がアミダの浄土に向うところの「願生心(がんしょうしん)」とをあげて、そのようになれない唯円の疑惑・不審を尋ねるのであります。
 このように第九章は、きわめて大切な一章として、従来、先輩たちも、注意深く講説されております。それをみますと、
  一 不喜不快章(念仏をよろこばず、たのしまない)  妙 音 院 了 祥
  二 二つの世界・歓喜のこころ名残りおしき人生    金 子 大 栄
  三 信仰上の二大疑問                蜂 屋 賢喜代
  四 念仏と往生についての審明            梅 原 真 隆
  五 信心とリアリズム                倉 田 百 三
  六 最も純粋な徹底した宗教的信仰の告白       小 野 清一郎
  七 「つねに信の一念にたて」という教訓       曾 我 量 深
などとあります。
 これらの領解に導かれて思えば、この第九章の「念仏における信と願の問題」は、つねに求道の「初一念」にたちかえるところに、おのずから氷解するに違いありません。求道とは、「ただひとたびの廻心」のあゆみであります。したがって、そのあゆみの念念刻刻が、初一念に貫かれるものであってこそ、念仏は、アミダの浄土に直結する大道であるのであります。
 それゆえに、親鸞は、「信の巻」に
 「真実の信心は、必ず名号(念仏)を(そな)える。けれども、名号(念仏)は、必ずしも願力の信(アミダ如来よりたまわった信心)を具えるものではない」(口語訳教行信証)
 
註 「真実の信心は、必ず名号を具す。前号は必ずしも願力の信心を具せざるなり」(信の巻)と述べて、念仏と信心の関係を明示されたのであります。

     b 煩悩の所為

 ところで、この信と願とに関するまどいにたいして、親鸞は、
 「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房同じ心にてありけり」
と、まったく驚くべきことばをもって応答するのであります。これについて、金子大栄先生は「若き青年である唯円房にも、そういう心があったのかと、しかったり、ダメだといわないで、かえって唯円の心境を尊重しておられるところに、親鸞という人の心境があったのでありましょうか」(現代人の古典・歎異抄)といっておられます。
 唯円とても、かつては、念仏の教えにふれることができたのを、心からよろこんだに違いありません。それは、天地におどりあがるほどの踊躍の心であり、心身をあげての歓喜の心であったのでありましょう。そして、その信心は、アミダの浄土を忻い求める願生の決意ともなったのであります。
 ところが、求道のあゆみのなかで、いつしかその踊躍歓喜の心もさめ、願生の意欲も殺がれることになりました。これは、まことに「いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と悩むのも、当然のことといわねばなりません。
 そして親鸞は、その唯円の心境に同感して「親鸞も、この不審ありつるに」というのでありますが、そこには、すでに先輩が指摘されたように、「信の巻」のあの悲歎述懐のことばが思い合わされるのであります。
 
註 「信の巻」の悲歎述懐のことば「誠に知んぬ、悲しき哉、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまず。恥すべし、傷むべし」。
 亀井勝一郎氏も、この点にふれて「これは晩年の親鸞の言葉でありましょうが、死にたくない、念仏しても、うれしくない、浄土へ急いで行きたくもない。それは、若い唯円がそう思うのは無理もないことですが、もう信仰が深く成熟した親鸞が、自分もなおそうだ、というのです。……どこまでも自分は生きるということに執着する、というのです」(生死の思索・歎異抄のこころ)
と述べておられます。
 このように、親鸞の答えは、唯円にたいする同感からなされておりますが、しかし、ひるがえって思えば、そこには、同感することのできる親鸞の信念があらわれている、といえましょう。だから、親鸞は、
 「よくよく案じみれば」(「弥陀の五劫思惟の願を、よくよく案ずれば」第十九章)
と述べて、不審の正体を、(つぶ)さに明らかに教えるのであります。そして、それを聞く唯円は、このように説く親鸞に接して、
 「されば、かたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが、身の罪悪の深きほどをも知らず如来の御恩の高きことをも知らずして迷えるを、おもい知らせんがためにてそうらいけり」(第十九章)
と領解するのであります。まことに、親鸞の同感は、大悲の同感であり、自信の表白は、そのまま、われわれにたいする教化のことばであります。
 いま、その親鸞のことばによりますと、信に関する疑いも、願に関するまどいも、ともに「煩悩の所為(しわざ)」である、ということが明らかであります。すなわち、
 一 「よろこぶべき心をおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり」
 二 「また、浄土へいそぎまいりたき心のなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんと、心ぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり」
であります。
 ところが、この「念仏における信と願」について、中国の曇鸞は、
 「無碍光如来の名号(南無阿弥陀仏の念仏)は、よく衆生の一切の無明(根本の煩悩)を破り、よく衆生の一切の志願を満たしてくださる。ところが、称名憶念しても(念仏をとなえ、つねに心にととめていても)、なお無明の煩悩があって、願いを満足しないのは、どうしてであろうか」(論註の取意)
 
註 「無㝵光如来の名号は、能く衆生の一切の無明を破し、能く衆生の一切の志願を満てたもう。然るに、称名憶念することあれども、無明なお存して、所願を満てざるは、何となれば――」(論註)
と問題を提起し、それに自ら答えて、「それは、南無阿弥陀仏のこころに相応しないからである」と述べておられるのであります。
 
註 「実の如く修行せざると、名義と相応せざるとに由るが故なり」(論註)
 それについて、親鸞の『高僧和讃』(曇鸞和尚讃)には、くわしく次のように説かれてあります。

 不如実修行といえること(南無阿弥陀仏のこころにそわず、教えのとおりでない、ということ)
 鸞師釈してのたまわく (曇鸞大師が解釈しておっしゃるには)
 一者(いっしゃ)信心あつからず  (一には、信心があつくない)
 若存若亡(にゃくぞんにゃくもう)するゆえに  (あるようでもあり、ないようでもあるから)

 二者(にしゃ)信心(いつ)ならず   (二には、信心が一つでない)
 決定(けつじょう)なきゆえなれば  (これだという決定がないから)
 三者(さんじゃ)信心相続せず   (三には、信心が続かない)
 余念間故(よねんけんご)とのべたもう (さまざまなおもいがまじるから、と述べておられる)

 三信展転(てんでん)相成(そうじょう)す    (淳・一相続の三信は、展転として互いにかかわりあっている)
 行者こころをとどむべし(念仏する人は、よく注意せねばならない)
 信心あつからざるゆえに(信心が淳くないから)
 決定の信なかりけり  (一つに決定する心がないのである)

 決定の信なきゆえに  (一つに決定する心がないから)
 念相続せざるなり   (おもいが相続しないのである)
 念相続せざるゆえ   (おもいが相続しないから)
 決定の信をえざるなり (一つに決定する心を得られないのである)
 決定の信をえざるゆえ (一つに決定する心を得られないから)
 信心不淳とのべたもう (信心があつくない、といわれるのである)
 如実修行相応は    (南無阿弥陀仏のこころにそって、教えのとおりに行うことは)
 信心ひとつにさだめたり(ただ信心ひとつ、といわねばならない)

 これによって明らかなとおり、煩悩の根本にあるものは「無明」であり、その無明の煩悩が、不淳・不一・不相続としてあらわになるのであります。が、だからこそアミダは、われら衆生の救済を誓願されたのである、ということを特に銘記すべきであります。

     c 果遂(かすい)の誓い

 歎異抄を一貫する中心思想について、従来、さまざまな見解が述べられておりますが、金子大栄先生は、それは「本願と念仏と往生」であるといい、
 「この三つのことばの意味と、そのつながりを了解しておかないことには、歎異抄は読めない」(現代人の古典・歎異抄)
とまでいっておられます。
 その第一の本願については、師訓の冒頭に「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて」とあり、その短い第一章だけをみても、アミダの「願」が、五度まで繰り返し述べられるのであります。そして、いうまでもなくアミダの本願は、十方世界の念仏する人びとを救おうとされるものでありますから、歎異抄の各章は、その本願に願うことを説かぬはずはないのであります。
 しかし、いま第九章にいたって、その本願が、特に「他力の悲願」といい、また「大悲大願」と表現される点に心が留るのであります。そして、その「他力の悲願」が「かくのごときのわれらがためなりけり」と受けとられていることに着眼して、歎異抄を読みますと、
 一 「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願」(第一章)
 二 「煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるを(あわれ)みたまいて、願をおこしたもう本意、悪人成仏のためなれば」(第二章)
 三 「仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりと知られて」(第九章)
 四 「弥陀の五劫思惟(しゆい)の願を、よくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」(第十九章)
とあることに気づきます。しかも、これは、第一章の「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生」を、第三章に承けて「悪人」とし、第九章における「われら」を、第十九章(後序)では「親鸞一人」に荷負して本願を信受する、と説かれることには、まことに意味深いものがある、といわねばなりませんい おそらくこれは、単なる偶然の結果ではないのでありましょう。
 第十九章(後序)の表白は、「聖人のつねのおおせ」として、親鸞が親鸞自らに語りかけた領解でありましょう。そして、第九章は、不審にまどう唯円を内に包んで「われらがため」の本願である、と教えられるのであります。
 ここでは、まず、
 「よろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定」
と説き、そしてまた、
 「いそぎまいりたき心なきものを、ことにあわれみたもうなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定」
と述べられます。これは、絶対他力の悲願に乗托するものの、金剛の自信でなくて何でありましょうか。
 しかしながら、正信を獲るということは、決して容易なことではありません。唯円のいうように「念仏もうしそうらえども」ということが、衆生の自性にもとづく、いつわりのない心境でありましょう。だからこそ、親鸞は『正信偈』に
  弥陀仏の本願念仏は、
  邪見・憍慢(きょうまん)の悪衆生、
  信楽(しんぎょう)受持すること(はなは)だ以て(かた)し、
  難の中の難、()れに過ぎたるは無し、
と歌嘆されたのであります。
 しかし、難信ということは、信ずることが不可能だというのではありません。信ずることができてはじめて、信を獲ることの有難さを知るのであって、未信の者には、難易の別などあろうはずもありません。それは
 「ここに愚禿釈の親鸞、(よろこ)ばしき(かな)や、西蕃(さいばん)(インド)月氏(がっし)(西域)の聖典(しょうてん)東夏(とうか)(支那)日域(じちいき)(日本)の師釈に、遇い難くして、今遇うことを得たり、聞き難くして、(すで)に聞くことを得たり」
という「総序」のことばによっても明らかであります。すなわち、獲信のよろこびには、難信のいたみが秘められてあるのであり、難信の自覚なくしては、獲信のよろこびも、蜉蝣(かげろう)のような束の間の感激にしかすぎなくなるでありましょう。
 いま唯円は、そのことを、その身に徹底して知るのである、と思われます。そして、親鸞は、いまさらのように、アミダ他力の悲願に「果遂せずば、正覚を取らじ」(もし果たしとけずば、さとりの座にはつかない)と誓約されてあることの有難さを、しみじみよろこばれるのであります。

     d 信の一念

 さて第九章は、
 「踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)の心もあり、いそぎ浄土へもまいりたくそうらわんには、煩悩のなきやらんと、あやしくそうらいなまし」
ということばで結ばれますが、これによって、親鸞の「煩悩具足(ぐそく)の凡夫」という自覚が、いかに徹底したものであるかということを、さらに深く知らされるのであります。
 曇鸞の『論註』をみますと、
 維摩経に「高原の陸地(りくぢ)には、蓮華は生じない。卑湿の泥の中に、蓮華は生ずる」とある。これは、凡夫が、煩悩の泥の中にあって、聖者の教えに導かれて、よくブッダ(仏陀)のさとりの華を生ずる、ということに喩えたものである(取意)。
 
註 「経に言く、高原の陸地は蓮華を生ぜず、卑湿の淤泥(おでい)は乃ち蓮華を生ず、と。此れは、凡夫、煩悩の泥の中に在りて、菩薩の為に開導せられて、能く仏の正覚華を生ずるに喩う」(論註)
とあります。まことに、道をあゆまずしては、道に迷うということもなく、煩悩の身であることの自覚なくしては、ブッダ(仏陀)のさとりにめざめるということもありません。
 だからこそ、親鸞は「仏かねてしろしめして――」といい、
 「されば、そくばくの(ごう)をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(第十九章)
と、つねに述懐されたのであります。
 いま、第九章を拝読し、第十九章(後序)との関連を憶いながら、それに相い応ずるのが第一章のことばであるということ、すなわち、
 「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏もうさんとおもいたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益(りやく)にあずけしめたもうなり」
であるということを、改めて深く考えずにはおれません。
 「たすけんとおぼしめしたちける本願」の呼びかけ(本願の欲生心)に応じて、親鸞は「念仏も
うさんとおもいたつ」のであります(親鸞の願生心)。それは、天親菩薩が、
 「世尊(教主・釈尊よ)、我(わたし天親)は、一心に、尽十方無碍光如来(アミダ如来)に帰命(帰伏)し、安楽国(アミダの世界)に生まれたいと願いたてまつる」(取意)
 
註 「世尊、我一心に、尽十方無㝵光如来に帰命し、安楽国に生まれんと願いたてまつる」(願生偈)
と、帰敬(ききょう)の情を表白されたのと同じように、淳一・真実にアミダの本願を信受するすがたであります。
 ところが、親鸞は、その「如来よりたまわりたる信心」を明らかにするについて、そのよりどころとなる願文(第十八願の文)の(こころ)を、次のように二分して読みとられたのであります。
 まず、その前半は
 「本願信心の願成就の文」(本願においては、信心が実現することを願われたが、その成就するすがたを明らかにすることば)
 「いのちあるものはみな、アミダの名号(南無阿弥陀仏)を聞いて、信心歓喜の一念を生ずる」(取意)。
 
註 「諸有衆生、其の名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん」(信の巻)
 次いで、後半は、
 「本願の欲生心成就の(もん)」(本願においては、アミダの浄土に生まれんとおもえと願われたが、それが成就するすがたを明らかにすることば)
 「(アミダ如来は)至心に廻向してくださる。だから、アミダの浄土に生まれようと願えば、即ち往生を得て、不退転に住する身となる。ただ、逆悪をおこない、正しい法を(そし)るものを除く」(取意)
 
註 「至心に廻向したまえり。彼の国に生ぜんと願ぜば、即ち往生を得、不退転に住せん。唯、五逆と正法を誹謗するとをば除く」(信の巻)。
ということばであります。そして、この文に照らしてみれば、第九章における唯円の不審は、まさしく前半の「信」と、後半の「願」に関する問題である、ということが明らかであります。
 すなわち、唯円は「信心歓喜」にたいして「踊躍歓喜の心、おろそかにそうろうこと」といい「願生彼国」(アミダの浄土に生まれようと願う)にたいして「いそぎ浄土へまいりたき心のそうらわぬは」と問うのであります。しかし、すでに明らかなとおり、唯円が、そのように悩まねばならぬのは、アミダの願心に徹底せぬからであります。アミダの「至心廻向」(至心に廻向してくださることにめざめぬからであります。
 けれども、唯円は、ここにおいて、大悲して同感する親鸞の教えに導かれて、「念仏もうさんとおもいたつ」初の一念にたちかえります。そうして「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よき人のおおせをこうむりて、信ずるほかに別の子細なきなり」という親鸞の心を、その身に獲て、念念刻刻に、わすれることなく、本願の大道をあゆむものとなったのであります。
 ところで、ここでさらに留意すべきことは、この本願を信受する一念について、親鸞が、次のように領解されたということ――、すなわち、『愚禿鈔』をみますと、一念の内景を、前念と後念とに分けておられるということ――、であります。
 真実浄信心は、内因なり。 摂取不捨は、外縁(げえん)なり。
 本願を信受するは、前念命終(ぜんねんみょうじゅう)なり。即ち正定聚の(かず)(信心の決定した人のなかま)に(はい)る。
 即得往生(即ち往生を得、という)は、後念即生なり。即時に必定(不退転の位)に入る。また必定の菩薩と名づくるなり。
 他力金剛心なりと、まさに知るべし。
 これは、さきに「本願成就の文」を二分されたのに相い応ずるものといえましょう。すなわち流転の過去を一念の背景として、前念に命終し、アミダの浄土を一念の前景として、後念に即生する(即時に新生命をうる)のであります。そして、これによって曾我量深先生は、「信に死し、願に生きよ」と教えられます。
 まことにアミダ、永遠の本願よりたまわった「信の一念」は、この煩悩具足の人生に命終し、アミダ涅槃のさとりに即生する信念である、というべきであります。だから、親鸞は、それを、
 信は願より生ずれば   (信は、アミダの願より生ずるのであるから)
 念仏成仏自然なり    (念仏してブッダとなるのは、自然の道理である)
 自然はすなわち報土なり (自然とは、すなわちアミダの浄土である)
 証大涅槃うたがわず   (だから信をうれば、涅槃のさとりを証することに疑いはない)
と和讃されたのであります。


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