5 第八・九・十章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章  
 4 第六・七章  
 5 第八・九・十章  
 まえがき  
  一 第八章  
  二 第九章の一  
  三 第九章の二   
  四 第十章  
   原文・意訳・注  
   案内・講師のことば
   講  話  
   座談会  
  補 説  
  あとがき  
  謝  辞  
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一 第十章 「自然法爾」


     座談会 「おもいと現実」
                                         司会 中 村 常 郎(電気商)

     おもいと現実が一緒にならぬ

 司会 今夜は、「おもいと現実」ということがテーマになっておりますので、よろしくお願いします。
 竹田 ところで、この題は、おもいと現実は違うというところから出たんですか。
 東京の羽田空港に着くつもりの飛行機が、東京湾の底に沈んでしもうた、というようなことですか。案内状にあったように、山を越して、三瀬谷へ行くつもりが、道を間違えて、波留の山へ行っていた――というような。
 伊東 ああ、あの案内状の話は、竹田君のことですか。
 司会 いや、あれは、松井君や高田君ら、山のベテランばかりが行ったのに、道を間違えたんです。
 森本 あれは、ええ笑い話やナ。
 竹田 おもいは、早く着くつもりで、登って行った。ところが、現実は、違う山へ登っていた。
 松井 そういう意味では、「おもいと現実」をテーマに選んだのは、みんな、それぞれ、おもいと現実を一緒にさせたいのだけれども、どうも、そういかないということがあったからだろう。それで、それをどうしたらいいか、なぜ一緒にならぬのか、ということが問題になった。
 たまたま、あの案内状にあった話は、よくわかる話だが、あんなことは、日常、たくさんあることだ。
 野呂 おもいというのは、主観でしょうね。
 司会 ええ、だいたい、おもいというのは、自己中心のおもい、という場合が多い。
 藤岡 その、おもいと現実が合わぬと、ゴマ化してしまって、どうしても妥協的になってしまう。
 森本 現実が、単なるおもいという形でしか終らぬから、こういう題が出てきた、ともとれる。
 おもいという形で、現実がある。
 司会 しかし、「おもいは必ず実現する」。
 これは、文集にあった伊東先生のことばをもじったんだが――。
 松井 ぼくは、いつか先生が困っておられるのをみて、その先生のことばをかりて「願いは必ず実現する――、ではないのですか」とヒヤかした。そうしたら、すぐに先生は「実現しなかったのは、願いではなかった」といい返されて、ズシンとこたえたことがある。

     すべては政治の貧困さ

 松井 ふつう、ぼくらの生活は、現実はおもいどおりにいかぬものだといったり、しかし、それでもなにかおもわずには生きられないといってみたり、そういうことの繰り返しだ。そして、おもうようにならぬと、世の中というものは――といって、あきらめたり、妥協したりする。
 それで、おもいが現実とぶつかると、おもいは破られるわけだが、そういう事実をおもいが破られるというふうに解釈するのか、それとも、おもいは当然破れるものだと自分にいい聞かすのか、あるいはそんな必要もないほど、現実はわれわれの足下にあるんだから、そこをまた出発点として行けるのか、それが問題だと思う。
 つまり、おもいが、ほんとうに破られれば、そこはもう出発点になっているはずなのに、それが出発点だと気づかない。そうはいえない自分がある。
 司会 その場合は、現実というが、大勢の人のおもいによって、かたまっているようなものであるかどうか、ということですね。
 伊東 さきほどから、現実ともいい、また事実ともいわれる。これは、同じことなんでしょうか、どうでしょう。
 司会 現実ということばを聞くと、事実ということの前に、歴史的現実、歴史的現代というものを感じます。
 おもいというのは、偶然に、パッと出てくるようなものと違うのでしょうか。
 森本 偶然といっても、それは、自分のどこかに持っているものだ、と思う。
 司会 それで、おもいということは、願いという問題につながってくる。なにか、おもいに、必然的なものがあったら、願いということになるのと違うでしょうか。
 松井 まあ、おもいどおりにいかぬ、という現実にぶつかったときに、いったい、なにを反省するのか、ということだと思う。
 現実に妥協するということもあるが、同時に、そのおもいそのものを反省することもある、といえる。それで、おもいが偶然的だという感じも出てくるのだろう。
 司会 たしかに、おもいというのは、非常に曖昧だ。現実は、確固として崩れないようなものだが、おもいはどうにでもなる、という感じがある。
 藤岡 ところが、みんな、そのおもいと現実を、一致させようと思っている。
 司会 そして、一致せぬと、現実の方が悪いようにいう。
 松井 このあいだ、朝日新聞の「サザエさん」のマンガをみていたら、こういうのがあった。鏡を見ながら化粧をしているサザエさんが「どうもうまくいかん」と心配している。それを、窓の外から弟のカツオ君が聞いて、「すべては政治の貧困さ」といった。そうしたら、サザエさんは、カンカンにおこって、窓をピシャッと閉めた。それで、カツオ君は聞きなれた「政治の貧困」ということばでも解決しないことがあるのかと、子供心に感じている。
 このマンガじゃないが、おもいどおりにいかないと、すぐ社会が悪い、条件が悪いという心が起る、ということがある。

     さまざまなおもい

 司会 さっさの、おもいが破れるということに関して、もう一つ、おもいを尽くすということがないと、おもいの破れようがない。
 なにか、いい加減に、破れないうちに、破れとったり(破れていたり)して――、もうこれ、あかんのやろう(ダメだろう)と、はじめから破れているようなおもいがあったりして――。
 藤岡 そんなものは、ほんとうのおもいではないわナ。
 司会 それで、純粋なおもいなら、おもいということばのなかには、なにか願いがある。
 竹田 なかなか、おもうのもむつかしいのやナ(むつかしいんだな)。なにかなしに(なに気なく)、ちょっと、おもえんのやナ(おもえないんだな)(笑)。
 松井 法蔵菩薩や、弥勒菩薩の思惟も、おもいといえば、おもいだからなあ。
 伊東 発音すれば同じ「おもい」ということばでも、漢字で書けばいろいろある。案内状には「想」という字が書いてあったけど、その想いと、それから憶念するという場令の「憶」とは、意味が違う。あれは、記憶の「憶」で、心の底にとどまっておるたとえ表面の意識が忘れたかのようでも、決して忘れていないというような「憶い」。それから、あれこれ思い考える、思考する、思案する、という「思い」もあるし、また「念」という字を「おもい」とも読む。
 司会 ムードのおもい、というのもある。
 森本 しかし、今日のテーマでは、一応、「純粋のおもい」ということをいうのでしょう。
 司会 やはり、おもいが宗教的に純化されて願いとなるのだと思うが、しかし、願いというと、与えられた意味の願い、おもいというと、わたしから出たおもい、個人の心。
 松井 ただ歴史の心といっても、それが具体的におこる場は個人の心である。個人の心の上に、個人の心を破って表われるのだから、個人の心も大事だ。

     おもいと現実のギャップ

 西山 実際には、おもいと現実のギャップが大きい。それを、どこで解決するかという問題――。どちらへ責任を持たすか、だ。すぐに社会悪にしてしまうから――。
 竹田 そこまでいうと、おもいも検討せんならんし(せねばならぬし)、現実も検討せんならん(せわばならぬ)。まず、漢字の検討からはじめんならん(はじめねばならぬ)(笑)。
 森本 まあ、現実は現実としてあるけれども、なにか、おもいのなかで生きようとする。おもいで現実を満たしたい、というようなことで――。
 西山 それを乗り超えるといいんだ。おもいということの輪郭もはっきりしないが、ただそれだけでは、弱いように感じる。
 森本 純粋に大きなおもいヘ――とね。
 竹田 しかし、おもいというのは、個人のところで、つまり、わたしのところでとまっておる。現実というのは、歴史の場だから、あらゆるものが作用したような場が現実。だから、そこにギャップがある。
 松井 それが、ほんとうに現実に立てば、ギャップはないはずなんだ。ところが、ギャップがあると感じるという。問題は、そこにある。
 だから、おもいと現実は、平行関係ではなくて、直角的に結ばれているものだと思う。生きておもうている、その陽所を現実ととらえるなら、その上でしかも、おもうていたわけだから、平行的に考えたら幽霊みたいに、とらえどころかなくなる。だから、ギャップというのなら、直角的に考えられないというギャップじゃないか。
 西山 おもいというのは、結局、理想というようなおもいに当るかも知れません。
 松井 そう、理想は遠いところだ、といっても、そういっている自分は、ここにあるわけだから。
 竹田 理想というけど、だいぶん空想になっているのでないか(笑)。
 司会 空想も悪くもない。人類は、やはり空を飛びたかったんだから。そういうことは、もとは空想だったんだろう。それが、いまでは現実になっている。
 高田 想というのは、そういう意味で、いろいろある。理想も空想も妄想もある。
 伊東 そういうふうに、想という字のついた熟語をひろってみても、いろいろあるということは、ひとくちに「おもい」というけれども、あれこれといわなきゃ表現できないものがある、ということですね。
 森本 テーマを出したときは、「おもい」といえば、みんなまとまっていたんだが、ここで改めて話をすると、いろいろに分かれてしまう。
 しかし、現実といっても、現実を現実として見れない場合が多い。それで、まあ、ほんとうの現実に立つというか、そういうものに立ちたい、と思う。現実でありながら、現実に立てぬ。
 松井 ギャップを埋めようとするおもい、ですね。
 司会 おもいからの現実と、現実からのおもい、というものがある。
 森本 なにか、現実はそうであるのに、おもいのなかで現実を放ってしまって生活している――。
 西山 放ってしまうというか、逃がれるというか。そういうことは、ぼくも多い。
 竹田 うん、多い。
 司会 現実に立った上でのおもい、ということですね。

     おもいを実践する

 伊東 おもいとはなんだろうか、現実とはなんだろうか、というふうに、検討して、おもいを尽くす、考えを尽くす、ということは大切なんでしょうね。
 しかし、それは「おもい」ということを考えている、「現実」ということを思っているのだ、ということを、はっきり知っていなければならぬ。
 それで、松井君は、「直角的な関係ではないか」というが、それは、いわゆる「おもい」の破れた現実に立つ、というか、現実そのものにふれる、というか――、そういうことをいおうとする。
 現実に立つということも、いろいろ考えると面倒なむつかしいことのようだけれども、事実は、そんなにややこしいことじゃなくて、案外、単純なことかもわからぬ。
 竹田 今度は、話が現実の方に廻ってきた。それで、現実の方もわからぬようになってきた。
 森本 なにか、ほんとうに現実に立ちたい、というおもいがはっきりせぬ。
 司会 現実のなかにあるおもい――、これは、ずーっと割り切れぬのォ(笑)。
 伊東 そういういい方をかりていえば、現実のなかに「おもいと現実」とがある。というか「おもいと現実とがある――、それが現実だ」ともいえる。
 森本 ぼくは、劣等意識とうぬぼれというような両方の心が毎日はたらいている。そこで、おれは現実に立たぬとダメだ、という意識に終始している。
 ところが、現実に立つのはどういうことか、と、またこれで、宿題が一つふえたことになる。
 司会 以前に、やれるやれぬということが問題になったが、やれるというところには優越感、やれぬというところには劣等感がある。
 しかし、そういうおもいを超えて、やる以外にない。案外、そういうところで、現実と接触しているのではないか。腹がイタイと腹がイタイと思う。それは、やはり現実だ。
 森本 「おもい」というものは、もっと高いところにおいて考えてきたつもりだったが、話をしているうちにだんだん下ってきた。
 司会 「おもい」は、どうのこうのおもっているより、結局、おもいを実践する以外にない。現実によって破られたところで、また、新しいおもいが出てくる。それが続くのだ、と思う。
 竹田 「――と思う」という、そのおもいは――。
 司会 やる以外にないんだろう。はじめから破れるとか、破れぬとか、ということは、単なるおもいだろう。

     目的と方法を見定める

 伊東 「やる以外にない」といえば、たしかにやる以外にない。
 ところが、それには、なにを、どのようにやるかということをはっきりしなければならぬ。その、目的とか方法を明らかにするためには、思いを尽くさねばならぬ。
 そういうことを、はっきりさせねばならぬという「おもい」もあるし、また、はっきりさせたいという「おもい」もある。
 司会 「おもい」と認識とは、どうでしょう。
 伊東 哲学的な、むつかしい論議はさしおくとして、「おもい」というものは、非常に広いものでしょう。意識のはたらきは、いろいろにとらえることができる。そして、認識というのは、そのはたらきの、ある一面でしょう。
 司会 そういう意味では、マルキシズムは単純ですね。けれども、単純なうちに、なにか、どんどんやっていくということがあります。認識――実践――再認識――再実践というように、単純ですけれども、やっていくことによって破っていく、というものがあります。
 高田君、おとなしくしているけど、どうですか。
 高田 今日は、おくれてきたので――。
 中村君が司会をしているので、むつかしくなるナとは思っていたが――(笑)。
 司会 まあ、そういうナ。これでも、万感をこめてやっているんだから。
 竹田 だんだん拡げてしもうたので、さっぱりわからぬようになってしまった。
 一応、整理してください。
 司会 このテーマは、そんなにむつかしいと思わなんだが、やはり、むつかしい。こんなに、ようけ(たくさん)「おもい」があるとは思わなかった(笑)。
 松井 退一歩すれば、話は、案内状に書いてあったことにはじまる。
 伊東 まあ、はじめのうちは「おもい」は単純なものだと思っていた。ところが、いろいろ話し合っているうちに、なかなか複雑だということになってきた。
 現実ということも、これまた、考えてみればむつかしいという話も出ていたが、それで、いま、現実に困っている。「おもい」ということを問題にして――(笑)。
 このままじゃいけないとか、現実に立つとか、あるいは、現実を破るなどといいながら、現実というものは刻々に動いていく。
 司会 うん、そう。さきほど、ぼくは、現実は非常に確固としたものだといったけど、同時に現実ほど、かけ値なしに変わっていくものはない、ともいえる。刻々、必ず変わっていく。事実、変わっている。
 森本 その現実を認識できぬ、いうことも事実としてある。
 司会 すると、そのときの条件とか状況が出てきて、そこにおもいがあるのですね。

     現実がわかりたいというおもい

 伊東 森本君は「現実に立てるような自分でありたい」といいますが、それは、どういうことでしょう。
 森本 ぼくは、具体的な例を出さぬと、うまくいえぬのですが、自動車を運転していて、六十キロぐらいで走っていても四十キロくらいと思うときもあるし、「とばしているなあ」(スピードを出しているなあ)と思っても、実際は四十キロぐらいのこともある。
 現実の生活において、オレはどのくらいの速度で走っているのか、ということを知った上でないと、ほんとうのおもい、純粋なおもい、願いの目的へ進めんのでないか、と思うのです。
 伊東 つまり、自分がわかりたいということですね。
 ところが、四十キロだと思っていたのに六十キロだった、ということがわかると、こんどは走れぬようになる、ということがありはしないか、という問題が出てくる。
 その「わかりたい」という気持ちは、ぼくにも、よくわかりますよ。わかりたいという気持ちは、非常に大切なものである。が、そこで、ちょっと注意したいのは、ただわかりたい、というのでなしに、もしわかればどうなるか、ということ――、です。
 森本 そうですね。
 伊東 そういうふうに、「わかりたい」ということなら、「わかればどうなるか」と問い直してみる。つまり、おもいを検討する。そうすることによって問題が深まっていくというか、はっきりしてくる、ということがある。
 ぼくも、事務局長になったものの、この仕事がどんなものか、よくわからぬからやっておれる、ということかも知れぬ。まったくわからぬなら、やってみようもないけど、さて、なにもかもわかってしまったらどうなるか――。まあ、「メクラ、蛇におじず」とは、このことにちがいない。
 森本 そういうような、反対の場合は、ぼく、考えたこともなかったです。
 現実を知りたいということだけで、現実がわかったらということは、いままで考えられなかった。たしかに、そうかもわかりません。
 伊東 これは、一つの考え方として出してみたわけです。
 「現実を知りたい」ということをはっきりさせるために、そういう点を考えないと、話が展開しない。

     問題を解決するために

 竹田 日常生活の上で、このように「おもい」についても、「現実」についても、緻密に、あらゆる角度から考えねばならぬ、ということになると、とても自分らにはできない。
 松井 まあ「おもいと現実」という題が出たとき、自分は自分なりに、ふだんから思っていることがあったわけだ。
 ところが、座談会をすることによって、日常、たいしたことではないとすませてきたことが、大事なことだったと気づく。だから、日常生活の上では、いつも、このように、いろいろな角度から、ああだこうだと考えぬとわからん、というものでもない。
 ただ、ここで話し合うのは、講話を聞いたり、みなの意見を聞くことによって、生活の諸問題を解決していく、「そうだったか」と、解きほぐしていく。その、ほぐれ目になるものを探し当てているわけだ。
 伊東 たしかに、日常の生活では、いつもこんなことを考えておるわけではない。だから、そこに立っていえば、「こんなむつかしいことを――」ということにもなる。
 竹田 座談会をすると、いつも、こういうようにむつかしくなる。今晩は、とくに痛切に感じる。
 伊東 こういうテーマが出てくる動機というものを考えてみると、まあ、現実のない人はいない。だから、現実に立っていないものはない。
 にもかかわらず、「現実に立てるような自分になりたい」というおもいがある。つまり、このままではいけない。「なんとかなりたい」「なんとかしたい」というおもいがはたらく。
 それでは、「どうなりたいのか」「どうなるのが一番いいのか」ということをはっきりさせるために、こうして、あれこれ考える。そういうことを、いっぺんはっきりさせれば、いろんな現実にぶつかっても、それに対処していくことができる。
 現実というものは、どういうふうにやってくるか、予測できない。その上、それを、どう受けとめていけばいいのかがはっきりしなければ、ことにあたって、その都度、あれこれ考えて、右往左往しなければならぬ。
 だから、ここでこの機会に、いろいろな「おもい」というものをよく検討し整理して、その一番基本的なものを、はっきり確認していきたい。それが確認できておれば、どんな現実がやってきても、それに従って、マゴつかない――。そういうものがほしいために、ここで座談会をするわけです。
 竹田 しかし、先生――、それは、この「おもいと現実」だけでなしに、他のテーマのときでも当てはまります。
 伊東 もちろん、そうです。どんなテーマを出しても、みんな、一つの根本の問題につながっている。結局は、一つのところへ行くのでしょう。
 司会 もう一つ、こういう題が出てきたのは、いままで、いろんなことをおもうてきた。おもうてきたけど、結局は、おもうことによって、とまどったり、あるいは、そのおもいを通さずに妥協したりしてきた。これではいかん、というので、このテーマが出てきた、ということもあると思う。

     いったいなにを問題にしているのか

 森本 座談会も、毎回むつかしくて、テーマも、バラバラみたい――。
 しかし、まあ、完成された一つの自動車というものを目標におくならば、今晩はタイヤのことで話をする、次はスプリングのことで話をする、というふうにして、バラバラのようだけど、やっぱり一つの自動車を完成する、という目的のために、話をしていくのだと思う。
 司会 ぼくらの実際の問題としては、おもいが現実によって破られていく、ということ。いまの自分にしてみれば、どんどんおもいが破られていく。しかし、それと同時に、またおもうということも出てくる。だから、まとまったものは、簡単に出てこない。
 それでは、時間もだいぶん経過をしたので、今日は、この辺で終りたい、と思います。司会も、準備不足だったし、話もむつかしくなったとお(しか)りをうけましたが、最後に「おもいを超える」ということで、先生に、まとめていただきたい、と思います。
 伊東 座談会の話がむつかしいとか、テーマがバラバラだということですが、それについては、森本君かわかりやすく、自動車の例を出しましたね。
 いつも話しますように、人生の問題、したがって宗教の問題というものを考える場合、そのわかり方に二とおりある。
 その一つは、自動車でいいますと、ボディとかヘッドとか、タイヤとかスプリングというような部分がわかり、そうして全体の構造と組立てがわかり、やがて完成された自動車がはっきりする、というようなわかり方。
 もう一つは、いうまでもなく自動車は、走るためにある。どんなに立派でも走らなくては、なんにもならぬ。だから、走ってみなければならぬ。そこで走ってみて、乗り心地、走り心地はどうかということが、はじめてわかる。そういうわかり方というものがある。
 しかも、人生という名の自動車は、どこへ向って走っていくのか。そのためには、どの道を、どのように走るのか、ということをはっきり知らなくてはならぬ。そういう目的を実現するために、タイヤもスプリングも必要である。ネジ釘一本だって大切である、ということになってくる。
 それから、自動車の例でいえば、人生という名の車は、これから部品を集めて組立てて、そうして走る――というような車ではない。もうすでに、オギャーと生まれたときには走っている。相当の距離を走ってきて、そうして、いつのころからか考えはじめるようになる。「車とは、なんだろう」とか「車はどんな仕組みになっているんだろう」とか、と。
 なかには、交通事故にでもあって、グシャと潰れそうになってから、「さて、オレはなにに乗っているんかナ」(笑)というような、ノンキなのが相当ある。
 だから、いま話したような点にもとづいて考えてみて、まず、自分はいったいなにを問題にしているのか、ということをはっきりさせることです。そうすれば、問題の所在が自分の所在を教えてくれる。そうして、どうしてもわからなければならぬことと、わかってもわからなくても、どちらでもいいことと、それから、わかる必要のないことが、だんだんはっきりするようになる、と思います。

     おもいも現実も「おもい」である

 伊東 さて、それで「おもいと現実」ですが、この「おもい」にも、いろんなおもいがある、ということがわかりました。
 この話し合いでもさかんに使う「――と思う」というような「おもい」。つまり、あれこれおもう、考えるというような「おもい」。それから、理想をえがくとか、空想する、妄想する。ぼんやりおもうというのから、夢みる「おもい」など。
 なかには、小さくは個人のことから、人類のことにいたるまで、「ああしたい」とか「こうでありたい」というような、願いの発露する「おもい」もある。
 こう考えてくると、もう生きているということがひとつの大きな「おもい」のなかにあるような、そんな「おもい」というものがある、といわなければならない。
 それで、ご承知のように、デカルトという人は「われ、おもう。ゆえに、われあり」といった。これは有名なことばですが、仏教では、こういう意識の問題を、非常に厳密に詳細に明らかにして、たとえば唯識(ゆいしき)の教学では、いわゆる意識、第六意識というものと区別して、第七マナ識というものがある、という。
 このマナ識は、思量する識、つまり、いわゆる意識が休んだり眠ったりしている間でも、休まない。「(ごう)に転ずること、暴流(ぼる)のごとし」で、ちっとも休まずにはたらいている、思量している、それで、これを思量識(しりょうしき)ともいいます。これによって、人間というものは、無我の道理に迷うて「われあり」というのである、と。
 さきほどから、いろんな「おもい」を話題にしてそういうふうにおもうているのは、おもいであって現実ではない、というけれども、しかし、おもうているという現実があるじゃないか、おもうているのは事実じゃないか、とも話し合われた。そういう「おもい」の深いところに、この思量識がはたらいている。
 やはり唯識に、「虚妄分別(こもうふんべつ)は有なり」ということばがあります。たとえば、縄を蛇と間違える。これが虚妄に分別するということです。だいたい縄は縄であって、蛇じゃない。それが真実なんだが、しかし、それを蛇と見た分別は、現にあるじゃないか。たとえ、それが虚妄でも、虚妄に分別するというはたらきは事実ある、といわなければならぬ。そのように虚妄に分別するところに、人間の現実がある。
 それで、さきほどは、中村君のことばをかりて、「おもいと現実とがある――、それが現実だ」といったのですが、このような大きな「おもい」というものを考えながらいえば、人生の「おもいも現実も」、ともに 「おもい」である。「おもい」 において、われわれは、いろんなことをおもうたり、現実だといったりしているのである。

     おもいを超えるということ

 伊東 したがって、そういうことがわかってくると、われわれは、そこに満足してはおれなくなる。虚妄というようなところには、とどまってはおれないという欲求がはたらいてくるしそういう欲求というか、願望というものがはたらく。
 中村君は、「おもい」と「願い」は、なにかかかわりがあるはずだと、くりかえしいっていましたがやはりここで、われわれは、「願い」といいあらわすべきような「おもい」を、おもいおこす必要がある、と思います。
 ぼくも、最近、大学の学監と事務局長を兼務することになって、いろんなことをおもうのです。それには、空想あり理想あり妄想あり、ということでしょう。
 いろいろ考えるのですが、一日学校へ行って帰ってみると、一晩考えたことなど、みんなご破算になってしまう、ということが多い。おもい描いたものが、描いたものにすぎなかった、ということになる。それで、また出発点から、考え直して出かける。そういう繰り返しの毎日ですが、おもいが崩れていくとき、じっとしておれなくなるとき、ぼくはどうするか。
 つまり、自分はどうすべきであるか、なにを考えるべきであるかということを問うとき、大学には大学の建学の精神というものがある。大学の本願というものがある。それで、そこに帰る。そうして、その願いが実現されるために、ぼくはなにをなすべきか、と考える。
 それは、ぼくのおもいだというならば「おもい」にちがいない。けれども、もし、それが建学の精神に貫かれているものなら、やがて必ず実現するはずである。だから、あれこれおもうて、描いては消え、描いては消えすることも、決して徒労ではない。
 消えていくものは、消えていってもいいのです。消えていってもいいものが、消えていくのです。だから、徒労などというものはない。その、徒労だと思うのも、やはり「おもい」なんでしょう。
 「現実」をおもい、「おもい」をおもうて、おもいが破れるとか、現実に立つとかギャップがあるとか、といっていいるが、しかし、このまま――、願いに帰るところに、学校問題でいうならば建学の願いに帰るところに、前進する道が開かれる。このままを燃焼して、エネルギーとして前進する。つまり、願いというものは、このままの人生を糧として自己実現を果たしていく。
 人生の現実というものを、おもいで捉えようとしても、おもいの絆がもつれたようになってしまっておもいを切っても切っても、切り捨てられるものじゃない。だから、現実をおもうて、なにかをやろうとしても、力は出てこない。そうではなくて、このまま願いの出発点に帰る。そこに帰れば、力は、おのずから与えられる。
 そういう意味では、自分を知りたい、自分がわかりたいというけれども、その、知りたい自分のことが、自分にはわからぬ、と、決着をつけておかねばならない。
 もっとも「わかりたい」という気持ちは、よくわかる。そして「わからぬ」というが、それじゃまったくわからぬかというと、そうではない。しかし、自分のおもっているように、わかるかどうか、それはわからない。
 だから、まず、自分は自分のことがわからない、と、こう決着をつけておくことが大切である。その決着がないと、自分はこんなものだ、あんなものだと、あれこれおもって、自分を決める。ほんとうのことが、よくわからぬのに、わかっているかのように決める。そのために、いろんな問題が起ってくるということになる。
 自分自身のことは、自分にはわからぬ。むしろ、わたしを証明してくれるものは、わたしの外にあるわたしの外にある業縁の世界、人びとの世界、諸仏の世界に、わたしが証明されていく。そこにわたし自身がある。だから、自分はこんなものだと、自分で決めることはできないし、また、決める必要もない。
 「君は、こうだよ」と、この業縁の人生が語っている。諸仏が証明している。だから、「これが自分だ」と、引き受けられるかどうか――。そこに「おもいを超える」ということがある。おもいを超えた現実というものがある、と、このように思います。
 では、これで終ることにいたします。
 司会 どうも、ありがとうございました。


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