5 第八・九・十章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章  
 4 第六・七章  
 5 第八・九・十章  
 まえがき  
  一 第八章  
  二 第九章の一  
  三 第九章の二   
  四 第十章  
   原文・意訳・注  
   案内・講師のことば
   講  話  
   座談会  
  補 説  
  あとがき  
  謝  辞  
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一 第十章 「自然法爾」


     案内のことば

 ある夏のはじめ、友人三人が、南の山を横断して、隣の町へ出発しました。もちろん、かれらは、綿密な計画を立て、リュックには充分な食料と、精密な地図を用意しました。ところで、これは後日談ですが、かれらが悪戦苦斗の末、たどりついてみると、そこは、自分の町の最西端だったそうです。なんのことはない。道をまちがえて、大きく迂回して、出発点にたどり着いたというわけです。
 わたしは、この話を思い出して、かれらは、退一歩ということを、如実に実践したのではないかと思いました。なぜなら、退一歩には、退一歩への出発という意味が秘められていると思うからです。迷いの中で、一歩さがろうと、二歩さがろうと、その歩みは迷いにすぎません。
 かれらは、額に汗して、たどり着いた地点から、はるかに下を見おろしたとき、自分たちの行為が、まったくバカげていたことに腹をかかえて笑いました。そして、そのあとで、退一歩へと出発したのです。
 「不退(ふたい)」という言葉を、現代風に訳せば、それは「出発」ということではないでしょうか。
 さあ友よ!出発しようではありませんか。

    昭和四十年二月二十日                         飯南仏教青年会


     講師のことば

 数学の岡潔氏が『風蘭(ふうらん)』という本の中で、ものの見方には、いろいろあるといっています。たとえば「あれはすみれの花だ」と見るのは理知的な見方、「むらさきの色だ」と見るのは理性の世界での感覚的な見方、そして「すみれの花はいいなあ」と見るのは、情緒の見方だといいます。
 わたしたちは、毎日、いろいろな人に出合ったり、さまざまな出来事にぶつかったりしていますが「わたしの人生はいいなあ」と、この現実を素直に引き受けることは、なかなかできません。むしろ他人の品さだめをしたり、ほしいままに世界を想いえがいたりして、かえって自分をしばり、他人を傷つけて、どうにもならない人生をつくっていきます。
 しかし、よくよく考えてみますと、この人生のありのまま(歴史的現実)こそ、ほんとうのわたしなのではないでしょうか。この、人生のありのままをわたしの人生とすることなくして、どうして力強く明るい道が開かれるでしょうか。
 今回は、こういう問題を念頭におきながら、「自然法爾(じねんほうに)」というテーマで、「小さなはからいをこえた、自然のはからいにめざめよ」と説く第十章の語りかけを聞くことにいたしましょう。


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