5 第八・九・十章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章  
 4 第六・七章  
 5 第八・九・十章  
 まえがき  
  一 第八章  
  二 第九章の一
  三 第九章の二   
   案内・講師のことば
   講  話  
   座談会  
  四 第十章   
  補 説  
  あとがき  
  謝  辞  
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三 第九章の二 「個人のこころ・歴史のこころ」


   座談会 「可能性について」
                                        司会 中 村 常 郎(電気商)

 司会 今晩は、ぼくが司会をさせてもらいます。
 さっそくですが、前講の座談会は「スランプについて」ということでした。それで――、というわけでもありませんが、今日は「可能性について」ということで、話し合っていただきたいと思います。

     可能性を信じて

 司会 もう、可能性を食いつぶした人もあるかもわかりませんが(笑)、どなたか、どうぞ――。
 森本国 ぼくは、可能性を信じている。自分なりの可能性を信じている。それがないようになったらなにか、もうサクバクとなってしまいます。
 伊東 いま、中村君が「可能性を食いつぶした人」と、おもしろい表現をつかいましたが、それは、どういう意味でしょう。
 常識的にいって、一般に青少年には可能性がある、ところが、だんだん年をとるにしたがって、可能性がなくなっていく、といいますが、それは、ある一面からみての可能性ですね。
 森本君は、可能性を信じるといいますが、それは若いから、これからだから、ということでしょうか。
 森本国 可能性ということは、その意味が、なにか漠然としているのですが――。
 たとえば、大きい壁があるとすると、それを破れぬというのでなくて、破るんだというか、破れるんだということ。それを、ぼくは、可能性といいたい。
 しかし、ぼくは、いま、破ったというのでなくて破るんだという可能性を信じる段階で止っている。
 司会 可能性といえば、力としてあるもの――。
 伊東 つまり、なにかができるということ。ある目的を実現することができる、そういう能力があるということ。
 司会 まあ、可能性が、立身出世型のような場合には、当然、行きづまる、挫折するということがある。だから、そういう場合の可能性ということの意味を、もう一度、考え直さねばならぬ、と思います

     おもいとしてある可能性

 森本国 やはり、愛というようなことばと同じで、可能性にも、いろいろな意味がありますね。
 松井 「そのうち、なんとかなるだろう」というような、ヤケクソ的なものも――。
 司会 「なんとかなる」といえば、たしかに、なんとかはなるのでしょう。
 松井 そして、その「なんとかなる」なり方が、自分の思いどおりに、トントン拍子でいくのが可能性だと考えることも、よくある。
 司会 自分で計算し、計画した可能性ですか。
 四十山 しかし、ふつうは都合の善い方ばかりを期待するわけですが、都合の悪い可能性も、同じ率であるのじゃないでしょか。
 司会 いま、可能性ということで、善い方の可能性と、悪い方の可能性と、二つ出ましたが、善にも悪にもつながる可能性は、静的なものではないでしょうか。
 伊東 可能性ですから、まだ善し悪しの決らぬ段階。だから、善くもなるし、悪くもなる。
 もっとも、善くなる可能性、悪くなる可能性ということもありますが、はたしてそれが善いのか悪いのか、ということは、結果が出てみないとわからない。
 しかも、ある結果を善いとするか、悪いとするかは、そのときの受けとり方によって違ってくる。都合善くいったはずなのに、結果が悪かったり、悪いことが善かったり――。だから、なかなか複雑ですね。
 ともかく、現実化しない可能性というものは、善いか悪いか、わからない。そこに、ある意味では、人生の面白さというものがあるし、また、不安というものもある。
 まあ、人間が生きているということは、なんらかの可能性を信じて生きているのでしょう。全く可能性がないということになれば、生きてはおれぬということにもなる。
 たとえば、病気になる、ガンにでもかかる。が、当人はガンとは知らないから、シンボウしてれば、やがて治るだろうということで、耐えておる。こういう場合の治る可能性は、九十九パーセント現実化しないもの。したがって、おもいとしてあるもの、期待としてあるもの、ということになります。
 司会 すると、可能性を信じるというけれども、それと別に、可能性を考える、期待する、という場合のように、おもいとしてある可能性、というものがある、ということですね。
 森本国 しかし、可能性というのは、単なる理想とか空想のようなものでなくて、ある程度、実現できるということがあって、はじめて可能性といえると思う。
 伊東 そうですね。このようにできる、実現できるということがなければ、可能性があるとはいわない。
 司会 可能性というのだから、一応、可能なものを持っている。
 伊東 ところが、ほんとうに可能性があるということと、可能性があると思っているということの違いを、はっきりさせてわかねばならない。
 まあ、われわれは、実現できるという可能性を前提にして、生活設計をやるわけです。そこでは、こういうことをやりたいという希望や願いというものと、こういうことはやれるだろうという期待というものなどが、一緒になっている。その上で、漁業をしたり、商売をしたりしている。
 しかし、その可能性も、単なるおもいだと、なかなか思いどおりに実現しない。まあ、われわれの人生というものは、そういう可能性と現実性の反復だということが多い。とすると、これでいいのか、これだけでいいといえるのかと、もっと別な観点から可能性を問う、ということもおこってくるのでしょう。
 司会 そうなると、可能性として未来においている現在の、わたしの問題になってくる。

     チャンスをつかむ

 松井 ぼくらの場合、可能性といっても、だいたい自分はこんなものだ、という先入観念がある。つまり、自分はこんなものだと、まず自分の能力をおしはかっておいて、その辺までいけたらよい、と思う。だから、可能性といっても、案外、自分相応の小さなものであることが多い。
 伊東 可能性ということばでいうと、なにか抽象的で、特別なもののように思われますが、身近かなところで考えてみますと、たとえば、こういう経験があります。
 だいたい、ぼくは、小さいときから、文章を書くのは、あまり得意ではなかったのですが、中学生の頃、自分の書いたものをコッピドク批評されてからというものは、特に、書くのがニガテになった。自分は、文章は書けないんだと思い込んでしまって、それが、大学生の頃までずっと続いた。
 そういう状態ですから、なにかの機会に、書いたものを発表する。それをみて「君のは名文だ」なんてヒヤカされると、穴があればはいりたい気持ちだった。
 ところが、それから後のことですが、「君のは、君らしい文章だ」といってくれる友人がある。それに、自分としても「これしか書けないんだ」ということが、だんだんはっきりしてくる。ということでいまでは、その書けないというコンプレックスからは解放された。
 そうかと思うと、ちょっと得意にでもなることがあると、逆に思いあがる。弁論大会に出て、少し成績がいいというのでテングさんになっていると、今度は、クシャンと高慢の鼻が折れる。
 こういうささいな問題が、存外、長い間、足をひっぱったり、思いがけぬところに顔をのぞかせたりして、自分を苦しめる、ということがあるものです。
 小杉 わたしの可能性というのは、いつも、わたくしを出ないものですね。だから、ちっぽけなものになる。
 四十山 さっき先生もいわれましたが、可能性という自分の因は、縁によって突破口が開けるのでないか。結局、チャンスをつかむことが必要だと思う。
 西山 ぼくは、一時、なににでも敗北感を感じていた。ところが、この仏青で、一応、可能性を信じて、禁煙同盟を結んだことがあった。そうしたら、一番意志の弱そうな大西君と、ぼくが、最後まで残って禁煙できた。あの体験で、ぼくは自信ができた。というか、もっと自分を信じてもいい、という気になった。
 それで、人の前でしゃべるのもイヤだったが、あれから、中村君の選挙のときは応援にもいけたし、毎日仕事が終ってから、カブ(軽オートバイ)で松阪まで行って、練習をして、自動車の免許も取れた。それで、やろうと思えばやれるという気持ちが、多少わいてきた。
 そういうことで、なにかにつけて、可能性を信じて生きるということは、大切なことだと思うのです。
 森本国 そういうことは、よくありますね。友人が、片手にバケツを持って、カブを運転していくのを見て、「あんなことして、どうやろう」と思っていたのに、それが、いまでは、自分がやっている。
 司会 自分にわからぬような力が、どこかにあるのですね。
 西山 それが、自分自体にある。用事歩きをしたくない場合でも、なにかにとりつかれると、進んでやっていける。

     可能性期待ということ

 森本国 そういうような自分の発見というか、自分の可能性というものを見つけたい。
 これは、間違っているかも知れませんが、なにかの本に「可能性の意識は目的の発見だ」と書いてあるのを読んだことがあります。
 司会 すると、自分で、ただ可能性があると思っているだけなら、可能性ではない、ということになるのかナ。ということは、これが可能性だと思っている間は、自分をおし計っていることになる。
 小杉 すると、自分の思っている可能性は、自分にも通用せぬことになる。しかし、可能性を信じておらぬものはない。
 わりにむつかしいナ。この座談会は――(笑)。
 西山 だから、簡単に考えて、目的にたいする可能性だ、と思うより仕方がない。
 小杉 まあ、それが妥当だと思う。それ以外のことをいうて、叩かれても困る(笑)。
 みんな、叩こう、叩こう、と思って待っているので――(笑)。
 松井 いや、その「叩こう、叩こう、と思って待っている」というのも、可能性じゃなくて、思いかも知れん(笑)。
 聞きたくて仕方がない、ということもある。
 小杉 こういう話があるのです。あいつはドロボウだろうという可能性のあるものが、ドロボウした場合、可能性期待とかいって、罪は軽い。ドロボウするような環境におかれていてドロボウすると「あんな状態だから当り前だ」ということになるらしい。
 まあ、中村君は、出世するやろう、と世間で認めている。そういう場合は、出世しても当り前だ、と(笑)。
 四十山 なるほど。「あれは、どうも」というような人が出世したのを、立身出世というわけですね(笑)。
 小杉 「まあ、あいつのことやで、ああなるだろう」というのは、世間でよくいう。
 松井 そして「ああなるだろう」というような人が「ああなった」のは、そんなに誉めぬし、予想外のことをすると「よくやった」となる。
 まあ、しかし、これは第三者からみての話でしょう。本人の信じた可能性とは別だ。
 司会 第三者からみた、客観的な可能性というものがあるのですか。
 森本国 それは、いまの話のように、あるのでしょう。そして、そのような可能性は、善い方にも悪い方にもある。
 バタ(オートバイ)でケガをしても、「あいつは、あれだけ飛ばしたから、やるのは当り前だ(スピードを出したから、ケガをするのは当然だ)」という。
 四十山 可能性の「能」というのは、善い方の意味で、悪い方面は必然性と考えたいように思います。
 松井 しかし、さきほどもいわれたように、可能性ということの意味は、善いことだけでなくて、なにかをすることのできる力、ということでしょう。だから、善にもつくし、悪にもつく。
 小杉 可能性というのは、案外、抽象的なものですね。
 森本国 ピカソの絵みたいで――(笑)。
 四十山 あれは、見れば一応わかるけど、これは自分でわからぬので困る。

     可能性を開発する

 小杉 森本君は「可能性を信じる」といったが、君のいったことばは、ぼくが十分証言できる。大将(森本君)の日日を見ていると、たしかに可能性を信じた行動だ。あれだけ自信をもったやり方は偉いと思う。
 森本国 いや、ぼくは、自信がないので、可能性を信じるのです。自信があったら、可能性というようなことはいいません。
 松井 いま、自信ということも出たし、可能性を信じるという話も出た、また「やってみなきゃわからぬ」ともいわれる。
 その「やってみなきゃわからぬ」というときに、どこに力が入っているのか、ということが問題だと思います。
 司会 われわれは、ある意味では、可能性「みたいなもの」(ようなもの)を信じている状態だと思う。それを破って「やる以外にない」という、そういうエネルギーが、可能性になってくるのだろう。
 松井 その場合、どこに力が入っているのか、ということ。
 司会 そうだ、オレの可能性だ、と思っている間は、まだ余裕がある。
 松井 「これなら、いけるだろう」というような調子で、余裕綽綽(しゃくしゃく)
 西山 まあ、しかし、それは可能性の規模にもよりますね。
 小杉 可能性があると思うのは、実際には、可能性がないと違うのでしょうか。
 松井 すると、可能性の開発ということになってきますが――。
 竹田 客観的な可能性というか、第三者からみた可能性ということになると、自分で思うておらぬことでもできる、ということになるわけでしょう。そうなると、また縁ということが、ひっかかってくると思うのです。
 松井 さきほど先生が「縁に生きる」といわれたが、たしかに、そういう問題だと思います。
 いっても縁に生きていけるんだという自信が、可能性の開発につながるのでしょう。
 竹田 ところが、その縁も自分にわからんので、縁を自分のものにできぬ。
 松井 かといって縁に生きているんだから、逃げたって、どうにもならん。だのに、縁を自分のものこして生きる、というところまでいかぬわけだ。
 身は現に縁の中にあるのに、心が緑をざらって逃げようとする。逃げるだけマイナスになるのに、逃げようとする。
 竹田 縁というものは、そのとき、そのときによって、はたらき方のかっこうが変わってくる。
 西山君が自動車の免許を取った場合なら、よく苦労して練習ができたというものだが、それも、金が入ったからということがあったかもわからぬ(笑)、自動車を買うかもわからぬ、ということがあったかも知れぬ。
 縁というものは、直接に、どれと指名するわけにはいかんが、そういうのが結局は可能性を育てている。
 四十山 免許を取る場合でいえば、周囲の人が、ほとんど免許を持っている、というのも縁の一つだ。
 司会 ところが、運転免許を持ったために、交通事故にもあう。これは、業縁の方だ(笑)。
 森本国 西山さんの家は、道路に面していて、家の前をトラックがよく通る。それで刺激されたんだろう(笑)。
 竹田 女の人でも運転していくでナ。コソチクショウと思う(笑)。

     人間最後の可能性

 司会 まあ、いろいろ意見が出たが、最後の可能性は、死――。
 西山 いや、あれは、確実――であって、可能性ではない。
 森本国 しかし、ぼくの場合、トラックに乗っていて「これ、ちょっと当ったら、もう、あかんのか(ダメなのか)」と、ときどき思うけど、死はまだ実感としてわかぬので、可能性でよい。
 西山 それが、年寄り(老人)と一緒に生活していると、実感として感じます。
 司会 では、録音のテープも、だいぶ少なくなりましたので(笑)、テープに責任をおわせるわけではありませんが、今日は、一応、これで終りたいと思います。「最後の可能性は死である」という問題は最後に伊東先生の方へ渡します。
 先生、お願いします。
 伊東 その「最後の可能性」ということの「最後の――」という意味は、実現するに決っているもの決定的なもの、という意味でしょうか。そうとすれば、死は、最後の可能性だといえるのでしょう。
 が、一般的ないい方をすれば、生にとって死は、必然的なものである。絶対確実にやってくるものである。可能性があるかないか、と、疑う余地がない。まあ、それで「最後の」といったのかも知れません。
 このように、死は、生にとって、決定的な事実なんですが、しかし「どのように死ぬか」ということについては、いろんな可能性が考えられる。
 この、「どのように死ぬか」ということは、「どのように生きるか」という問題に関連することなんですが、そういう意味で、これは、なかなか大切な問題です。

     自分の可能性を発見する

 伊東 さきほどから、いろいろお聞きしたなかに「自分の可能性をみつけたい」というのがありましたが、これは、いいことばだと思います。
 自分は、どのように生きるか、生きてなにをするのか、なにをしたいのか、またなにができるのか。そういうことを、はっきりさせる、ということですね。
 それで「自分には、自信がないから、可能性を信じるのだ」ともありましたが、それでは、自信があるということと、可能性を信じるということは、どう関係するのか、ということも問題になります。
 「森本君には自信がある」といったのは、森本君をみている第三者で、本人は「自信がない」という。しかし、自信がないということも、ほんとうに徹底すれば、自信につながる。「自信がない」という自信――。いや、ことばの遊びでなくて、そういうものがある、と思います。
 「可能性のある自分を信ずる」というのだから、また「可能性のない自分を信ずる」ということもあるわけで、どちらも、そういう自分を信ずるということ、つまり自信でしょう。
 その場合、どのようになる可能性か、なにをする可能性か、ということがはっきりしないと、可能性があるのか、それとも、あると思っているのか、わからぬ、ということになってしまう。
 だいたい、われわれは、これこれのことをしたと思って可能性を考えてみる。そして、できそうだとやるし、とてもできそうにないと、はじめからやめておく。そして、やれそうに思ったことでも、実際やってみると、実現しないこともある。というわけで、そういう可能性と現実との間を行ったり来たりしている間に、人生は終っていく、ということになる。
 ところが、ほんとうにやりたいことなら、やれぬからといって断念するはずはない。また、ほんとうにやるべきことなら、途中でやめておくということはできない、という問題があります。

    不可能の自覚に開かれた可能の世界

 伊東 これについて、清沢満之先生が、こういうことをいっておられます。倫理や道徳というものは人間として実行しなければならぬものである。それで、自分は、一つ一つをやろうとした。しかし、ほんとうにやろうとすればするほど、やれない。そして、遂に完全に実行することは不可能である、と。
 だから「自分は、宗教的信念、他力の信心を得られなかったら、もう不可能という歎きのために、とっくに自殺もしただろう」といっておられる。
 ここでは、倫理的に不可能なもの、落第したものが、宗教によって救われた。つまり、そういう人の救済が、宗教では可能である。というか、徹底的に不可能と知ったということが、新しい可能の門を開いた。
 ですから 「可能性は、どれだけのものかわからぬ」ということの意味も、なかなか大きいわけで、われわれは、いい加減に、可能性はどれだけのものかなどと、おし計ってはいけない、と思います。
 清沢先生の話でわかりますように、人間の持っている能力には限度があります。したがって、可能性にも限りがありますが、しかし、この人間に与えられる能力は、どれだけのものか。
 この人生――、人間一生の間にできることは知れたものだし言いますが、この人生の生そのものの力は、どれだけのものか計算できない。自分は、自分で考えているだけの自分ではない。自分で考えているだけのネウチしか持たないような、自分ではない。
 さきほど、可能性の開発ということばがありましたが、それを宗教的に考えますと、それは「人間の尊厳性を発見する」ということに関係のある、実に意味の深いことばだと思います。
 このように、可能性ということについては、いろいろ考えることができるわけですが、この、可能性が「ある」とか「ない」ということを、もっとくだけていえば、「やれるか、やれないか」ということになります。
 しかし、ぼくは、いつもいうことで、また繰返すことになりますが、ことに処するにあたって、やれるかやれないかを考えてはいけない、と思うのです。それも、ことによりけりだという注釈もいるようですが、まず、はっきりさせなくてはならぬのは、自分がほんとうに「やりたいこと」そして「やるべきこと」はなにかであって、それにたいして、やれるかやれないかと、自分の能力をはかってはならぬ、と思います。
 清沢先生が「倫理の実行は不可能だ」といわれたのは、やってみて、やれないとわかったということですが、まず、その決着が大切である。それと同時に、先生は、やれるとかやれぬとかという、そういうとらわれをこえておられる。そのことが大事なんでしょう。
 なにかにつけて、われわれは、可能か不可能か、ということを考えるのですが、その、可能か不可能かということの底にあって、われわれを動かしていくのは、われわれが願っていることであり、われわれに願われていることである、その願いのはたらきが、可能性というものを、限りなく発見させていくのである、そして、その願いのはたらきは、歴史の力というものと深い関係があるのである、と、このように思います。
 司会 どうも、ありがとうございました。では、今夜の座談会は、これで――。


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