5 第八・九・十章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
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 5 第八・九・十章  
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三 第九章の二 「個人のこころ・歴史のこころ」


   講 話 「個人のこころ・歴史のこころ」

人生の道は平坦ではない
 この会がはじまってから、二度目の冬がやってきました。今夜の風なども、座敷にいて、その音を聞いておりますと、もうそろそろ本格的な冬が近いんだなあ、と感じさせられます。
 では、きっそく先回に引き続いて、第九章を拝読いたしましょう。この比較的長い第九章を二回に分けて読む、ということで、先回は、まず「求道のあゆみ」という問題を念頭におきながらはじめの部分を拝読したのでありますが、今日は、その後のところを「個人のこころ・歴史のこころ」と題して拝読したい、と、このように思っております。
 わたしたちが、道をあゆんでまいりますと、いうまでもないことですが、いろんな障害にぶつかる。山があったり川があったりで、行く手をさえぎるカベに出くわす。あるいは、スランプに陥込む。そういう問題があるわけであります。人生の道は決して坦坦としてはいない。ことに、それが、ただ生きればいいというのではなくて、人生の真実を求めて生きる、求道する、ということになれば、その道は一入(ひとしお)きびしい。
 鉄道を走る汽車は、安全だろう、なんの障害もなく目的地へ運んでくれるだろう、ということを前提にして、わたしたちは汽車に乗る。たしかに、レールというものは、汽車を安全に走らせる。出発点から目的地まで、無事汽車を走らせる。それがレールというものであるけれども、いつも大丈夫かといえば、そういうわけにはいかない。山あり川ありというならともかく、汽車のレールのように平坦な道が――、というけれども、それですらときには安全ではない。百パーセント大丈夫というわけにはいかない。

求道をさまたげる葛藤矛盾
 しかし、いまは求道のあゆみの話であります。そのあゆみをさまたげるものは、いろいろあるが、そのなかでも最も根本的な障害は、いったいなにだろうか、という問題について、第九章には、こうあります。これは、親鸞にたいする唯円の問いなんですが、まず「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)の心おろそかにそうろうこと」、これが一つ。そして「また、いそぎ浄土へまいりたき心のそうらわぬ」ということ、これが一つ。
 つまり、念仏の道における心の障害は、この二つであるというのでありますが、これをみますと、「念仏を称えても」というのですから、そこには、念仏を信ずるということがあるはずであります。ところが「踊躍歓喜の心おろそか」というのは、信じられないということ、信が不決定ということ。だから、ここには念仏を信じつつ信じられない、という心の葛藤(かっとう)が語られています。また、念仏を称えながらも、アミダの浄土へ生まれたいと思えぬ、というのですが、念仏は、アミダの浄土を求める心によって称えられるものであります。だから、ここには、アミダを求めながら、ほんとうに求めるという意欲がわかない、という矛盾があります。
 あれかこれかというなかから、決断して、すでにこれだと決めてあゆんできたのであるが、ほんとうに決まっていない。自分の足をひっぱるものがある。道をさまたげるものが、自分の内側にある。そこで、この二つの問題を、先回は、「信心が決定しないこと」と「意欲がおこらぬこと」、すなわち、求道における「信」と「願」に関する問題である、と了解したわけであります。
 そして、この唯円の問いにたいして、親鸞は「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房同じ心にてありけり」と、一見、答えにはなりそうもない答えをしています。たしかに、親鸞が、いわゆるお師匠さまで、高い所から教えるというのですと、これでは全く答えにならない。しかし、親鸞は、その全生涯にわたって、そういうように教えを説いた人ではなかった。弟子というならば、お互いにブッダの弟子となるべきものである。われわれは、みな、お互いに同朋である、といっています。その点をおさえてみると、この親鸞の答えは、親鸞でなければいえないようなことばである、ということに気づくわけであります。

唯円の一歩さきをあゆむ親鸞
 といいましても、この答えをよく読めば、親鸞は、唯円の一歩さきをあゆんでいる、ということがわかります。この一歩のちがい――、これが実に大へんなちがいなんです。たった一歩、というわけにはいかない。その一歩が、迷いの世界とさとりの世界を峻別(しゅんべつ)する。
 つまり、ここで親鸞は、唯円の惑い疑いに同感して「あなたの問題と、わたしの問題と同じですね」といっている。ここでは「不審」ということばをつかっていますが、これは疑いということ、疑問ということ。だから「同じ疑問をもっているのですね」というところには、同じ疑いをもっているんだとわかっている心がある。あなたの疑いとわたしの疑いと、あなたの迷いとわたしの迷いと、「同じですね」と、わかっている心が、その背後にある。
 信心同一ということばがありますが、ここでは、不審の同一が語られる。そして、その不審のわかっている心も同一であるはずである。同じ一つの心において、親鸞の惑いも唯円の惑いも同一であるとわかっているのだ、と。こういう問題については、このあとに、くわしく述べられるのですが、それに先きだって、すでにはじめの一句の中に、非常にデリケートな表現でありますけれども、このような意味を読みとることができるわけであります。
 そして、「よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどに、よろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたもうべきなり」。よろこぶべきことを、よろこばないので、往生は間違いないと思いなさい、と。これなども、注意深く読むべき表現であります。
 迷いがあるからこそ、すくわれるのである。だから、迷うたことのないものに、すくわれるということはない。まあ、迷いがないものはいないわけですが、ここで、迷うたことがないというのは、つまり無自覚ということをあらわす。迷いを、迷いと知らない、知らないから、迷いがないと考える。が、迷いを自覚しないようなものに、すくいなどあるはずがない。また障害にしてもそうです。行く手をさえぎるものがあるからこそ、道が開けるということもある。障害にぶつかったことのないものには、道が開くも開かぬもない。

群賊・悪獣におそわれる
 そういうことで思い出しますのは、善導大師の「二河(にが)譬喩(ひゆ)」であります。「人ありて、西に向って行かんとするに、百千の里ならん」。旅人が西に向って旅をするのであるが、その道程は百千里、きわめて遠い。ところが「忽然(こつねん)として、中路に二河あるを見る。一にはこれ火の河、南にあり、二にはこれ水の河、北にあり」。
 旅人は、前途に、水火の二河を発見して、そこに行きづまってしまった、とあります。ここに水の河というのは、貪愛の心、むさぼり愛着する心をあらわし、火の河というのは、瞋憎(しんぞう)の心、いかりにくしみの心をあらわす。つまり、根深い煩悩であります。
 ところが、そのあとに「すでに空曠(くうこう)(はる)かなる処に至るに、さらに人物なし。多く群賊・悪獣ありて、この人の単独なるを見て、競い来りて殺さんとす」とありますように、この人は、すでに群賊・悪獣におそわれたのであった。それで、身の危険を感じ、死を(おそ)れて西に向い、そこで二河に出あったのであった。
 ここで群賊・悪獣に喩えられていますのは、善導大師や親鸞の解釈をみますというと、この人生におけるさまざまの考え方、主義・主張、イズムやイデオロギー、そして、自力をたのむはからいの心などであります。それだけではありません。これは、わたしたちの心身、ならびに、この世界の全体をも指しているのであります。としますと、群賊・悪獣のいないようなところは、どこにもない。したがって、人間ならば、だれ一人として群賊・悪獣に会わぬものはない。というより、会わぬものはないはずである。
 この世界も、また自分の心身までもが、さわりにならぬものはない。そうと知って旅人は、西に向う。つまり、発心(はっしん)して求道の旅に出る。ここに「西に行く」ということでもって、求道者となることをあらわしております。そうして「この人、死を怖れて西に向うに、忽然として、この大河を見る」。ここで最大の難関にぶつかるわけです。
 もっとも、その河には、一筋の橋がかかっていて、道が全くないわけではない。しかし「中間に一つの白道を見る、極めてこれ狭少なり。二つの岸(東岸から西岸へ)相い去ること近しといえども、何によりてか行くべき。今日、定んで死せんこと疑わず」。前には水火の二河。後からは群賊・悪獣。そして南北には悪獣・毒虫。まったくのところ絶体絶命といわねばならない、と。

「すでに此の道あり」
 「二河の譬喩」をみますと、求道における障害が、このように述べてありますが、そのような危機的状況といいますか、そこに立ってはじめて、旅人つまり行者は、ほんとうに「ただ念仏」という一筋の白道に向って決断する、信心が決定する。そして、その決定した信念が「すでに此の道あり、必ず渡るべし」と表白されております。
 群賊・悪獣などというと、なにか特殊なもののようでありますが、親鸞の解釈をみますと、どこもかしこも群賊・悪獣のいないような世界はない。たとえ、平穏無事なユートピアを求めて出かけて行っても、この自分の心身までもが群賊・悪獣なんですから、どこにも逃げようがない。行き場がない。
 歎異抄の「後序」に「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫、火宅無常(たかくむじょう)の世界」、つまり、あらゆる煩悩を満足して、煩悩そのものというはかないこの人間、火のついた家のようにアブナッかしい無常のこの世界は、「よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなし」とあります。ここでは、群賊・悪獣を、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界」といったわけであります。
 そして「よろずのこと――、まことあることなし」と見極めるところに「まことあることなきに、ただ念仏のみぞ、まことにておわします」という、全く新しい世界が開かれる。群賊・悪獣のいないような世界はないんだ、と徹底して知るところに、その群賊・悪獣におけるアミダのはたらきにふれる。それが「ただ念仏」、この自分と世界における、ただ一つのまことである、と。

親鸞と山伏弁円(べんねん)との出会い
 このようにお話をしていて、思い出しました。ちょっと話が横にそれるようですが、みなさんご承知の、明法房弁円――、この弁円が、親鸞の同朋となって、その門をくぐることになったときの話であります。
 三十五才のとき、あの法難にあった親鸞は、遠流の刑に処せられて、越後の国分、新潟県の直江津で罪人としての生活を送っていましたが、やがて罪がとけると、妻子とともに関東地方に移住します。常陸国、いまの茨城県下妻市の小島というところに三年ばかり住んでいた、と伝えられていますが、その後、やはり茨城県の、笠間市の稲田に落ち着かれた。そのことを、覚加の『伝絵(でんね)』には
 「聖人(親鸞)越後国より常陸国(ひたちのくに)に越えて、笠間郡(かさまのごおり)稲田郷(いなだのごう)というところに隠居したもう」とあります。草庵を建てて住んだことを、隠居したというのは、意味深い表現であります。その頃の親鸞には、もう妻もあり子もあるのに――。
 それからは、稲田を生活の根拠地としたわけですが、その稲田の近くに板敷山(いたじきやま)というところがある。そして、その付近に、山伏の弁円が住んでいた。おそらく、その辺の住民相手に、加持祈祷(かじきとう)などをやっていたのでしょう。ところが、親鸞がやって来て、念仏の教えを説いたものだから信者をだんだんとられていく。ついに親鸞の名声をねたんで、一度ぜひ会いたいものだ、場合によっては殺してやろうというので、いつもいつも板敷山で親鸞を待ち伏せた。
 「しかるに一人の僧山臥(やまぶし)と云々ありて、ややもすれば仏法に怨をなしつつ、結句、害心をさしはさんで、里人(親鸞)を時々うかがいたてまつる。聖人(親鸞)板敷山という深山を、つねに往返したまいけるに、彼の山にして度々相待つといえども、さらにその節をとげず」。
要するに、待っていたけど会えない。会えないものだから、とうとう親鸞の家、禅室へたずねて行った。ところが、そのとき親鸞は、どうしたか。『伝絵』をみると、
 「聖人(親鸞)、左右(さう)なく()であいたまいけり」
とある。
 このときの様子を、増谷文雄氏の『親鸞』には、このように描写してあります。
 「そのとき、弁円は、弓矢をたずさえ、刀を帯び、頭巾(ときん)をいただき、柿衣をつけ、物々しい山伏の武装をしていました。おそらく、荒々しい声で、草庵の戸を叩いたことでありましょう。だが、親鸞は、この闖入者(ちんにゅうしゃ)のまえに、まことに平然たる顔をして、ぬっと現われました。覚如の筆は、そのさまを、
 聖人左右(そう)なく出会(いであい)たまいけり。
と記しています。その一句は、ぬっと弁円のまえに立ち現われた親鸞のすがたを、じつにうまく描いております。その姿をみたときに、弁円の意気込んできた腰が、いっぺんに、へなへなと(くじ)けました」
と。わたしも、その出会いの様子は、おそらく、このようなものだったろう、と思います。
 こうして、弁円は
 「すなわち、尊顔(そんげん)に向いたてまつるに、害心たちまちに消滅して、あまッさえ後悔の涙、禁じがたし」。
それから「まあ、あがりなさい」というので、禅室にあがりこんで、これまでのことを、あれこれいろいろと話したけれども、
 「聖人(親鸞)またおどろける色なし」。
ということで、親鸞はいっこうに驚いた様子もない。そこで、
 「たちどころに、弓箭(きゅうぜん)をきり、刀杖(とうじょう)をすて、頭巾(ときん)をとり、柿衣(かきのころも)を更めて、仏教に帰しつつ、(つい)素懐(そかい)をとげき」。

危機感が念仏をもうす
 このようにありますけれども、ただこれだけですと、親鸞は、どんなことにも驚かない大へんな偉人だった、と思われます。
 そうにちがいない、驚かなかったにちがいないのですが、しかし、殺人の(やいば)が、全く怖くなかったといえば、ウソになるでしょう。親鸞は、自分のことを、煩悩具足だといっているのですから――。煩悩というものは、おそろしいものがくれば、おそろしいと思う、悲しいことは悲しい、うれしいことはうれしい。だから、たとえ、よろこぶべきことであっても、よろこべないものはよろこべない。
 だから、親鸞は「左右(さう)なく()であいたまいけり」とあるように、殺す殺されるということのない心境で、弁円に会った、とありますが、これは、弁円にはそのように受けとれた、ということをあらわすのでしょう。人間親鸞にしてみれば、「殺すぞ」という刃を前にして、身の危険を感じないはずはない。危機感のないはずはない。けれども親鸞は、ただそれだけの人ではない。そういう危機感を内にもちながら、それを「左右なく」転じていく。親鸞には、そういう世界が開かれている。
 つまり、親鸞は、念仏をもうしているのでしょう。危機感が念仏をもうす。と、その、もうす念仏が、危機感を「左右なく」転じていく。だから、弁円は、その、念仏もうす親鸞にふれて、「左右なく出であいたまいけり」と感じたのでしょう。親鸞のもうす念仏の世界にふれて、それを、親鸞の尊顔として拝んだのでしょう。念仏のはたらきにおいて、人間親鸞の危機感は「左右なく」転ぜられ、念仏のはたらきにふれて、山伏弁円の害心はたちまち消滅する。そこに、親鸞もすくわれ、また弁円もすくわれていく。そのときの出会いは、このようなものであったろう、と思うのであります。
 障害をとり除く、ということについては、かっての弁円のように、親鸞をなきものにしよう、ということもあります。ところが、弁円の、左右を区別する心、親鸞を殺して己れを立てようという心が、左右なくあらわれた親鸞に会うて、消えた。そうしたら、そこに親鸞その人が見えてきた。害心という色メガネをはずして見ると、そこに親鸞その人が、ありのままに見えてきた。そして、弁円は、弁円自身に帰ることができた。
 親鸞に会うことによって、弁円が無くなってしまうのではなくて、弁円の害心が消えた。害心が消えてみて、はじめて親鸞その人に会い、弁円自身にたち帰ることができた。そこに、障害が道に転ずるということがある。障害があればこそ道が開かれるという世界がある、と、こう思います。

岡潔と小林秀雄の「対話」から
 さて、歎異抄に話をもどしますと、親鸞は、さらにことばをついで、
「よろこぶべき心をおさえて、よろこばせないのは、煩悩の所為(しわざ)である」
といいます。
 この煩悩ということについては、これまでにも、しばしば出てきましたから、その都度、いろいろいお話しました。たとえば、愛憎とか、いかり腹立ちとか、たくさんの煩悩がある。こんにちのことばでいう心理――、この心理がさまざまに考えられるように、煩悩も無数にある。が、さきほどの「二河の譬喩」でいいますと、水に(たと)えられた貪愛(とんない)と、火に喩えられる瞋恚(しんに)の二つ、これは三大煩悩にかぞえられるもので、もっとも根本的なものです。
 そして、いま一つ、煩悩の根本とされるものが「無明」すなわち愚痴であります。これは、ものごとをありのままに見ることができない、一切のことがらについて、道理について、正しく理解できないという、そういう心であります。つまり、これは、正しい智慧の欠けた状態、智慧の欠如態(けつじょたい)であります。
 最近、岡潔氏と小林秀雄氏の対話が、『人間の建設』という本になって出ました。この二人の対話は、なかなか面白く読みましたが、この「人間の建設」という題は、だれがつけたものか、ずいぶんドギツイことばです。「人づくり」ということばも、さかんにつかわれますが、ここでは、人間の建設といわれる。こういうことばをつかっていわねばならぬほど、こんにちでは、人間ということが問題になっているのでしょう。
 人間が誕生する、人間が生まれるということだと、なにか自然な感じがする。その、生まれた人間が、ほんとうの人間になっていく、と。ところが、現代では、そんなもどかしいことをいっておれないというのでしょうか。人間が人間らしくなくなっていく。人間が人間らしく生きられない。人間性を喪失している。人間不在である。だから、人間の建設というようなことばでもって、あらためて「人間について考えよう」と呼びかける。そういうことかと思います。
 それで、その『人間の建設』をみますと、岡さんが、こういっています。「人は、自己中心に知情意し、感覚し、行為する。その自己中心的な広い意味の行為をしようとする本能を、無明という」と。

「ピカソは無明を描く達人である」
 この無明は、また我癡(がち)ともいわれます。さきほどの愚痴(ぐち)でありますが、これは、ほんとうの自分、つまり真我、真の我というものがわからない。わからないものだから、ほんとうでないものを、ほんとうであるかのように思い込む。真の我を知らないで、我ありとする。そういう「我」を、自我とか小我といって、真我・大我と区別します。
 ふつう人間というものは、この我、アートマンatmanは「常・(いつ)・主・宰」であると思っている。しかし、これは誤りであると、仏教では教えます。常というのは、つねに永遠に変わらずに続くということ。そして、一は、一者として自主独立の存在である。主は、主人とか主体というように、自分は中心的な主体性をもっている、と考える。宰は、宰相ということばもありますように、あらゆるものを支配するということ。つまり、我とは、そういうものであると思っているけれども、そもそもそれが誤りである。
 たとえば、我は永遠だといってみても、その実、無常ではないか。だから、常・一・主・宰の我などというものは、真我にたいする自我、大我にたいする小我といわねばならぬ。蓮如上人も「仏法は無我にてそうろう」といわれるが、いわゆる我のはからいをすてきった無我こそ、真の大我というべきものである。ところが、自我というものをたてて、あたかも我というものがあるかのように考えて固執する、執着する。それが無明である、というのです。
この無用について、小林さんは「岡さんは、ピカソという人は、仏教のほうでいう無明を描く達人である、と書いておられるが、わたしも同じようなことを考えたことがある」といっております。あるピカソの絵をみたとき、それが男か女かわからないのだけれども、自分は、男と女が会話をしている、いかにもいやな会話、じつに不愉快な会話を二人がしている、と直観したことがある、と。
 それについて、岡さんは、とくに芸術では、個性ということをやかましくいうけれども、「その個性は、自己中心的に考えられるものだと思っている。本当は、もっと深いところから来るものであるということを知らない。つまり自己中心に考えた自己というもの、西洋では、それを自我といっている。仏教では、小我というが、小我からくるものは、醜悪さだけである。ピカソのああいう絵は、無明からくるものである」ともいっております。
 そして、小林さんは、ピカソにしたって、「無明に迷わされないと、無明をあれだけ書けない。無明の中に入らないと、あれだけ知ることはできない。そういう意味で、ドストエフスキーは、無明の達人だ」というのですが、こういう対話を読んでいまして感じたことは、小林さんにも岡さんにも、それぞれ独特の宗教の世界がある、それぞれ独自の仏教理解というものがある、それで、ああいう人たちに生きている仏教というものを、素直に聞く、素直に学ぶということも大切なことにちがいない、ということであります。
 わたしは、絵のことはよくわかりませんから、なんともいえませんが、よくわけのわからん絵にぶつかって「わからぬ」といいますと、「それでいいんです」と答える画家があります。自分のかいたものは、わかる人にだけわかればいいということでしょうか、自分にだけわかればいいということでしょうか。岡さんは「今の芸術家は、いやな絵を押し切ってかいて、ほかの人にはかけないといってイバっている」「自分のノイローゼをかいて、売っているといえるかもしれない」などと、なかなかシンラツな批判をしている。そして、写実の再認識ということをすすめています。

「ほしいまま」と「ありのまま」
 小林さんのところへ来る人で、地主という絵かきさんがいる。この人は、石や紙ばかりかいているんだそうです。紙の上に紙をかく。美濃紙でもなんでもかく。紙ばかりかいて個展を開いたことがある。見ると紙ばかり。それで額ぶちの前にまだ紙をたらしてある――、たぶん準備中だろうと思って、のぞいて見た人が帰っていった、と。また、その人のかいた大根の絵を貰って帰ったら、奥さんが「この大根には()がはいっている。おでんにはダメだ」といった、と。徹底した写実であります。
 それで、岡さんは、こういっております。奈良の博物館で、正倉院のいろんなきれの陳列があった。中に入って三時間ほど、古い時代のきれの片々を、丹念に紙にはってあるのを見て、外に出てみるというと、周囲の松の枝ぶりが、みな美しく見えた。松の枝ぶりが、一つ一つ、こんなにもいいものかと思った、と。そういわれてみますと、なるほど、そうだ。
 小学生のころ、中学生のころを想い出しますと、写生をするとき、あそこは景色がいい、ここは景色がわるいというように、自然に向いながら、こちらの方で優劣をつけて見ている、お前はきれいだ、お前はみにくいと、分別のメガネでもって自然をながめている。その分別の色メガネが、ありのままを写さなくしている。ところが、岡さんのことばをかりていいますと「ほしいまま」、このほしいままなものが取れるというと、自然の「ありのまま」が見えてくる。その、ありのままが美しい。
 この、ありのままは、事実であります。松は松でありのまま、竹は竹でありのまま、それぞれの歴史をもって事実であります。ところが、それに、ほしいままに優劣をつけたり、よしあしの区別をしたりする。我他彼此(がたぴし)ガタピシ、差別をする。これが煩悩というものである。これによって、この世界のことも、この自分のことすらも、ありのままにはわからぬようになってしまっている。

無明の宗教と智慧の宗教
 この書物のご紹介が長くなるようですが、もう少し、これを手がかりにして話を進めることにしましょう。岡さんは「私の世界観は、つまり最初に情緒(じょうちょ)ができるということだ」といいます。では、情緒とはなにか。それは、自他の別なく、時間の観念がない状態。自他の別もないのに、親子の情というものがあり得る。それが情緒の理想だ、といっています。
 また、「数学は、知性の世界だけに存在し得るものではない。……、感情を入れなければ成り立たぬ」ともいう。数学に感情が入るなどということは、わたしのようなシロウトには、まったく考えられもしないことですが、数学の大家がいうのですから、たぶんそうなんでしょう。人間というものは、四千年以上も数学をしてきて、はじめて、数学は知性の世界だけに存在し得ないということがわかった、と。
 「知性や意志は、感情を説得する力がない。ところが、人間というものは、感情が納得しなければ、ほんとうには納得しないという存在らしい」と、このように岡さんがいいますと、それにたいして、小林さんは「あなたのおっしゃる感情は、ふつうの感情とは違う。それは、ぼくらがもっている心である」という。そうしますと、岡さんの「はじめに情緒あり」は、「はじめに心あり」とおきかえてみることもできるわけであります。
 要するに、岡さんは、一人の人間が生まれたときの有様をとおして、世界のはじまりを見ようというのです。つまり、世界のはじまりというのは、赤ん坊が母親に抱かれている状態、親子の情はわかるが、自他の別もなく時間の観念もない。そういう状態が「のどか」というもので、これが仏教でいうところの涅槃(ねはん)である、と。
 しかし、単純に、そういうふうにいってすませることはできない、と思います。それで、わたしは、いま岡さんが、母親に抱かれた赤ん坊の状態を「のどか」な涅槃である、といわれるのは喩えであると考えたい。つまり、これは譬喩的表現でありましょう。わたしたちは、母親のふところで、スヤスヤと無心に眠る赤ちゃんのすがたをみて「無心ということ」を教えられる。長い間、どこかに忘れ去ってきた「無心」の世界を、その赤ちゃんが教えてくれる。ですから、無心にみえる赤ん坊のすがたをもって、無心ということが、譬喩的に表わされる、つまり、それは無心ということの象徴的表現である、と、このように思います。
 その赤ちゃんも、いつの頃からか、だんだんと分別をするようになります。岡さんは、時間というものがわかりそうになるのは、だいたい生後三十二か月をすぎてからだ、といっております。だから、それ以前には、時間もなく、自他の別もない、というわけですが、それは、分別がないのではなくて、ないかのようにみえる、というべきでありましょう。つまり、赤ちゃんは、無心のようである、無心のごとくある。
 しかし、やがて分別をするようになるということは、人間の観察力では見えないほどに潜在していたものが、表面に顕らかになる、明らかにわかるようになる。無心のごとくあったものが、成長とともに、実は、ほんとうに無心なのではなかった、ということをはっきりさせてくる。無明ということの根深さを、いよいよ露呈してくる。
 それで、この世界のはじめにあるという情緒とか、心というものは、わたしたちに身近なことばでいえば、宗教心である、といえるかと思います。人間生活の出発点において、すでに宗教心の発動がみられるのである。宗教心のおこるところから、この人間の生活というものがはじまっているのである。と、このように了解することができるわけであります。
 けれども、この宗教心は、単純に美しいものである、純粋なものである、といってすませることはできない。この講話でも、かねがね申しておりますように、宗教にも、無明における宗教、無明における信仰というものがある。だから、わたしたちは、無明のはれたブッダの智慧にてらされて、この情緒、この心の深層を正しく知る、見きわめる、ということを忘れてはならないと思います。

心の深層を見きわめる
 いま、わたしは、情緒とか心といわれるものの深層を正しく知る、見きわめる、と申しましたが、ことばをかえていえば、それが、宗教心の深まっていくあゆみであります。あゆみでありますから、いよいよ深くという心と、それをさえぎろうとする障害との葛藤が、どうしてもおこる。それが、求道上の大切な、さけがたい問題である。だから、親鸞は、そのような問題点を、じっと見きわめている。ブッダの智慧の鏡に写されたそういう問題をみつめながら、唯円の問いに答えている。それが第九章の「よくよく案じみれば――、よろこぶべき心をおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為(しょい)なり」であります。
 そして、それを承けて、「しかるに、仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりと知られて、いよいよたのもしくおぼゆるなり」
とあります。この「しかるに、仏かねてしろしめして」ということばは、実に感銘の深い表現であります。なにもかも知ってらっしゃる。みんなお見とおしである。アミダは、その上で大悲の本願をおこしてくださったのである、というのです。
 現代意訳の方を読んでみますと、「ところが、アミダ仏は、ずっと以前からそのことを知っておられて、わたしたちのことを、『煩悩具足の凡夫よ』――けがれ多く迷いの深い愚かな人びとよ ――、と仰せになっているのだから、アミダ他力の大悲の本願は、このような、わたしたちのためにおこされたものであるということがわかって、いよいよ心づよく思われるのである」と。
 この凡夫ということについて、親鸞の解釈をみますと、こうあります。
 「凡夫というは、無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、(いか)り腹だち、そねみねたむ心、多く(ひま)なくして、臨終の一念に至るまで、とどまらず消えず絶えずと、水火二河の譬にあらわれたり」。
 ここに「二河の譬喩」をひきあいに出して、無明・煩悩が身にみちみちている、これが煩悩具足であり、凡夫のすがたである、と、解釈してあります。そして、アミダの悲願は、このようなわたしたちのためにおこされたものであるから、たのもしいではないか、心づよいではないか、と。
 すでに第二章には「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」とありました。また、第三章には「煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死を離るることあるべからざるを哀れみたまいて、願をおこしたもう本意、悪人成仏のためなれば――」とありました。

一喜一憂は煩悩のしわざである
 つまり、煩悩具足とおさえれば、善導大師が
 「自身は、現にこれ、罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)よりこのかた、常に(もっ)し常に流転して、出離の縁あることなし、と深信する」
 深く信ずるといわれるように、この自分は、無明とともに、いつはじまったともわからぬものだといわねばならない。
 けれども、「仏かねてしろしめして」、アミダ仏は、ずっと以前からそのことを知っておられて、というのだから、無明とともにはじまったいのちの、そこに「煩悩具足の凡夫よ」と、よびかけられるアミダの本願のはじめがある。したがって、純粋な宗教心というものは、そのアミダの本願を根源とするのである、アミダの本願に由来するものである。
 だから、善導大師は、ついで
 「彼の阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受(しょうじゅ)したもう。疑いなく(おもんぱかり)なく、彼の願力に乗ずれば、定んで往生することを得、と深信する」
といわれる。まことにアミダの悲願というものは、「われらがため」のものである、と。
 このように親鸞は、煩悩の正体を見きわめて、「疑いなく慮なく」この身をアミダにまかせるのだ、というところに立って、そのときそのときの、気分とか思いというものに動かされてはならない、左右されてはならない、と教えます。
 たしかに、思いや気分はあるわけですが、そういうものは、いわば心の波のようなものである。水があれば、いつも鏡のように静かだというわけにはいかない。けれども、また、いつも暴風駛雨(しう)が荒れすさぶというものでもない。その心の波に一喜一憂するのが、凡夫というものであるがしかし、それは煩悩の所為である、と。
 こうして、親鸞は、唯円の問いにおける二つの問題、つまり念仏を称えても、「おどりあがるようなよろこびが、さほど感じられない」ということと、「いそいでアミダの浄土へ行きたいという心にもなれない」ということにたいして、まず「よろこぶべき心をおさえて、よろこばせないのは、煩悩の所為(しわざ)である」と、その原因を明らかにするわけであります。
 そうして、さらに、ことばをついで、
 「また浄土へいそざまいりたき心のなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんと、心ぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり」
と、第二の問題にたいしても「煩悩の所為(せい)である」と答えております。「また、アミダの浄土へいそいで行きたい心がなく、ちょっと病気でもしようものなら、死ぬのではないかと心ぼそく思うのも、煩悩の所為(しわざ)である」。

迷うていたいという誘惑
 「久遠劫より今まで流転せる苦悩の旧里(きゅうり)はすてがたく、いまだ生まれざる安養の浄土は、こいしからずそうろうこと、まことに、よくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ」。
 考えてみると、「久遠劫より――」「永劫の昔から今まで、流れ流れて迷ってきた苦悩の古里(きゅうり)は捨てがたく、まだ生まれたことのないアミダの浄土は、恋しくないというのは、ほんとうによくよく煩悩がはげしいからである」。
 こういう気持ちが、わたしたち凡夫にはある。これは迷いだと知っても、なにか、この迷いのなかにおぼれていたい、というような気持ち――。一方では、これではならぬと思いながら、迷いのなかに身を沈めていたいという強い誘惑――。それで「苦悩の旧里」は捨てがたい。苦悩だけれども、旧里であるから、捨てがたい。いつはじまったともわからぬような、長い長い苦悩の歴史を重ねてきたので、この苦悩の世界を古里だと思い込んでしまっている。だがら、捨てがたい。それにたいして、アミダの浄土は、まだ生まれたことがない、まだ見たことがない。だから、恋しいとも思われない。
 ということは、まったく煩悩がつよいからである、と、煩悩のはたらきをおさえて、けれども「どれだけなごりおしいと思っても――」、
 「なごりおしくおもえども、娑婆(しゃば)の縁つきて、ちからなくして終るときに、かの土へはまいるべきなり」。
 この「裟婆の縁つきて」ということは、この世にあるという縁が尽きてということ、ことばをかえていえば、この人生に終るという縁がやってくるということです。ここに居るという縁がなくなる、ここに別れるという縁がやってくる。どちらも意味は同じなんです。どれほどなごりおしく思って、この人生に愛着しても、縁がなくなれば、それまでのものである。これが事実というものであります。
 ところが、このようにいうと、なにか非常に消極的な仏教の人生観だ、と思われるかも知れません。しかし、そうではなくて、ある事実を決定するのに、縁というものがもっている意味は、非常に積極的なんだ、といわねばなりません。
 つまり、わたしたちの内にもつ因というものは、どういうものか、どれだけのものか、わたしたちにはわからない。まあ、だいたい自分はこんなものだ、これだけのものだ、と、自分で自分を決めている。ひとの評判とか、自分の考えでもって、自分の価値はこんなものだと決めている。けれども、ほんとうのところは、わからない。ということは、自分は、わからないような可能性をもっている、ということなんでしょう。
 ところが、その可能性を現実性に転ずるもの、転じて、眼前の疑いようのない事実とするものそれが縁であります。そして、内にもつ因だけが自分なのではない。外の縁も自分である。いや因と縁とによって決定された眼前の事実、このすべてが、自分とよぶべきものである。そういう意味で、縁というものは、非常に積極的な、そして厳粛なものである、といわねばなりません。

人間は業縁存在である
 人間というものは、業縁存在であります。業縁に生きるこの全てが、自分の人生なのでありますが、とかくわたしたちは、縁は自分の外にあるもの、と考えがちであります。そして、眼の前の現実についても、都合のいいものは自分の内側とし、都合のわるいものは自分の外のせいにする。あるいは、半分の責任は自分にもあるが、半分は社会環境など外縁(げえん)の責任である、と考える。けれども、事実は、そうではない。その証拠に、このわたしが生きるということに、責任の分割などはない。お互いに、自分の人生に全責任をもたざるを得ないし、また、この身は現に責任をもっている。責任を持ち、責任を果しつつあるということが、業縁(ごうえん)をつくすということであり、現に生きつつあるということである。
 わたしたちは、なにかことにぶつかって、去就(きょしゅう)に迷った。すると、その縁――この場合、それを条件といいかえてもいいのですが、その条件を受けとった場合の結果、あるいは受けとらなかった場合の結果などを予想して、あれこれ比べたり考えたりなどします。が、考えてみても、決定的なことはわかるはずがない。業縁というものは、わたしの思いを超えて、はるかに大きい。どこまでのものか、業縁の輪は、かぎりなくひろがっていく。
 先日、仕事に打ち込んでいたために、婚期の遅れてしまったある娘さんから、相談がありましたので、いろいろ話していたのですが、その人は「とにかく十年は、仕事以外は考えない、と、かたく決心して、ここまできた」。ところが、その十年がたってみて、「どうして、あんなことを心に決めたのか、と悔んでいる」といっておられました。そういう場合、よく「なにか、いいお話しがありましたら――。いいご縁がありましたら――」というわけであります。
 この娘さんは、仕事と結婚の二つを比べて、これまでは仕事一途できた。そのために、結婚には縁がなかった。そのとき、なにか、あれかこれかと選ばねばならぬようなわけがあったのかも知れません。とすると、いまの結果からみれば、それもやはり縁だったわけでしょう。縁がなくて結婚しなかったといいますが、そこには、結婚しないという縁があった。そういう意味では、わたしたちが、無縁だといっているものも、やはり縁だといわねばなりません。また、結婚話がまとまったときなど、「不思議なご縁で」といいますが、こういうことばも、縁は思いを超えてやってくるということを、よくあらわしていると思います。
 このように、自分というものは、自分で考えることのできるだけのものではない。だから、わたしは、業縁のすべてが自分なんだ、と、受けとっていけるようなわたしでありたい。縁は、自分の思いを超えているのだから、業縁というものは、わたしを、どこへ運んでいくのか、皆目(かいもく)、見当がつかない。けれども、人間は業縁の存在である、と、その全てを自分とすることのできるような自分でありたい。

「なごりおしくおもえども――」
 さて、それで「なごりおしくおもえども、裟婆の縁つきて、ちからなくして終るときに、かの土へはまいるべきなり」。アミダの浄土が恋しくないというのも煩悩であったように、この人生になごりをおしむというのも、また煩悩でありましょう。そして「娑婆の縁つきて」は、人生の業が尽きてということ。ことに、このあとに「ちからなくして」とありますから、このようにいいますと、なにか弱々しい、気の滅入(めい)るような心境が感じられるようですが、そうばかりともいえないのでしょう。
 たしかに、「苦悩の旧里は捨てがたく」といい「なごりおしくおもう」とありますように、この生の終りは、淋しいもの、悲しいものと感じられましょう。ときには、死はおそろしいものでありましょう。が、また、この業はいつ尽きるのだろうかとか、あるいは、いつ死ねるのだろうか、と思われるものでもあります。つまり、それらは、それぞれの状況における心理状態であります。それらはみな「煩悩の所為」であります。
 それから「ちからなくして終るときに」というのは、まったくの無力で終るときに、ということです。わたしたちは、日頃、いろんなことに出あって、自分の無力なことを知らされますが、おそらく、この世に縁のつきたときほど、自力の無効を思い知らされることはありますまい。そこでは、わたしたち人間の、どんな手だても、思案も、画策も、一切通用しないのです。しかしこれも、ただ消極的な無力をいうのではないのでありましょう。自力の無効であることに徹底する、自分の無力を徹底して思い知るということには、自分に与えられた自力の限りを燃焼し尽くす、ということがあるはずであります。
 この世の縁がつき、自力の限りを尽くして無力となったとき、「かの土へはまいるべきなり」。この「かの土へまいる」とありますのを、現代意訳では「アミダの浄土へ生まれるのである」としました。「ちからなくして終るときに」というのは、死であります。だから、これは、人生に終る、つまり人生に死して、浄土に生まれる、というのですが、この場合の生は、生まれたり死んだりするところの生、いわゆる生死の生ではありません。それで、これは「無生の生」ともいわれます。この生死の人生に終るときに、アミダの世界に生まれて、まったく新しいいのちを生きるものとなるのである、ということであります。
 「それだから」と親鸞は、さらにこういいます。
 「いそぎまいりたき心なきものを、ことにあわれみたもうなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じそうらえ」。
 つまり「アミダは、いそいで浄土へ行きたいという心のないものを、ことのほかにいとしまれるのである」。煩悩の強くさかんなものを、ことに、あわれに不憫(ふびん)と思われるのである。「だからこそ、いよいよアミダの大悲・大願はたのもしく、往生は決定しているのだ、と思うのである」と。

第九章の対話の状況
 この第九章の対話は、あの第二章のように、教団がたいへん混乱するというような問題があって、そのなかから「身命をかえりみず」に親鸞をたずねたというような、非常に緊迫した状況での問答ではないのでしょう。ここのところを曾我量深先生は、こういっておられます。
  弟子というものは、少し法を聞くとすぐ得意になって、お師匠さまを忘れる。お師匠さまを忘れてしまったものが、「念仏もうしそうらえども」と沈空(ちんぐう)が出てくると、いまさらのようにお帥匠さまを思い出す。自分の得意のときは、お師匠さまはいらぬ。唯円は、得意のときは、お師匠さま以上である。……
  そして、困ってくると、恥ずかしい顔をして小さくなって、お師匠さまのところへ、すごすごと戻ってくる。戻ってくると、「よくきた、お前のくることを、私は去年あたりから待っていた」。(それで)どんなに叱られるかと部屋の隅に小さくなっていると、「よく還ってきた、明け暮れお前のくるのを待っていたぞ、お茶でも飲みなさい、お菓子もあるぞ」という話であると。
 それで、これは、親鸞聖人と唯円房とが、静かに対座しているときのこと。そのとき、親鸞聖人は、くつろいで打ちとけた様子だったにちがいない、と想像されます。
 唯円房は、そのような親鸞の様子に誘われるように、日頃の心のわだかまりを、おたずねした。だから、親鸞にしてみれば、そういう唯円の心の動きを、よくご存じであった。同じ道を行くものが、同じように必ず出あって越えねばならぬ難問を、いま唯円は悩んでいる、と。

果遂の誓いはたのもしい
 しかし、親鸞は、どうして、そのような問題が起ってくるのかということを、十分に見きわめています。だから、それにたいして「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房同じ心にてありけり」と答えて、大悲同感するのであります。そして、この不審の根本原因はなにかといえば、それは「煩悩の所為」であると断定的に答えるわけですが、そのようにいうことができるのは、自分の人生のよりどころ、すなわちアミダの本願を深く信知するという、信念にもとづくものであります。
 そのような信念から、親鸞は「念仏もうしそうらえども――」という問いにたいして、「よろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定である」といい、そして「他力の悲願は――いよいよたのもしくおぼゆるなり」という。また「いそぎまいりたき心なきものを、ことにあわれみたもう」のである、だから「いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定である」という。
 『和讃』をみますと
   定散(じょうさん)自力の称名は
   果遂(かすい)のちかいに帰してこそ
   おしえざれども自然(じねん)
   真如の門に転入する
とありますが、「果遂の誓い」、つまり「果し遂げずにはおかぬというアミダの誓願」を信ずるからこそ、親鸞は、問いの一つ一つに、煩悩のなせるしわざだと知れといい、だから、いよいよアミダの本願はたのもしい、と、ことばを重ねて諄諄(じゅんじゅん)と、ねんごろに説くのであります。

アミダの浄土へ往生する
 ところが、もしかりに
 「踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)の心もあり、いそぎ浄土へもまいりたくそうらわんには、煩悩のなきやらんと、あやしくそうらいなまし」。
 つまり「おどりあがるような歓(喜)びもあり、いそいでアミダの浄土へ行きたいというのなら、それでは煩悩はないのだろうか、と、かえって不審に思われるであろう」。たしかに、そうです。
 これまで、ずっと煩悩のなせるわざだと説いて、この煩悩とともにあるということ、これが人間である、凡夫である、と碓認してきたわけであります、ところが、喜びの心がある、意欲もあるとするならば、煩悩はないのであろうか、それでは、凡夫ではないというのだろうか、もうさとってしまっているというのだろうか、と、かえって不審に思われるであろう。
 このように、最後の一句は、煩悩のただ中にあるという現実を正しく確認して、しかも、そこにとどまるのではない。「いよいよ大悲大願はたのもしく」と、アミダの浄土に向うものとなれと勧めることばである。だから、唯円は、これを、
 「されば、かたじけなく、わが御身(おんみ)にひきかけて、われらが、身の罪悪の深きほどをも知らず如来の御恩(ごおん)の高きことをも知らずして迷えるを、おもい知らせんがためにてそうらいけり」
というように聞きとった。つまり、いよいよ「この道をたずねて行け」という発遣(はっけん)のことば、教えのことばとして聞いた。したがって、唯円は、この教えに導かれて、いよいよ初一念のあゆみを、アミダに向って進めていくのである、と、このように了解されるのであります。

公生活と私生活
 さて、これで、第九章の本文に即してのお話は、一応終るわけでありますが、わたしは、自分のおかれた身辺の状況にもよるのですが、この第九章を拝読するにつけても、最近ことに、公生活と私生活ということを考えずにおれないのであります。よく一般には、社会の問題とか学校の問題は(おおやけ)で、自分の家庭の中は(わたくし)だといいます。が、はたしてそういうふうに分けて、簡単に割り切ってしまえるものか、どうか。たしかに、私生活にたいする公生活というものがあるはずですが、それは、家庭と社会というような関係で考えられるものか、どうか、ということであります。
 もし家庭が私生活の場なら、そこを一歩も離れられないような主婦には、公生活はないのだろうか。いわゆる社会生活に、直接的にかかわりあいのない人――、そのなかには、病人もいるでしょう、老人もいるでしょう。すでに社会の第一線から引退した人もあるだろうし、二十年も前に終ったはずの戦争の犠牲者だってある。そういう人の公生活は、どうなるのでしょうか。
 このように考えますと、公生活とか私生活というのは、生活する場所とか、生活様式などの問題ではなくて、どこで生きるにしても、その生き方はどのようにあるかという、生きる態度の問題である、というべきでしょう。生活の様式とか仕事の種別というものは、業縁の決定するところであります。だから、わたしたちは、家の外は公で、内は私だというような、外見上の形式でもって、公私の問題を片づけてはいけないと思います。社会や学校を私するということもあるでしょうし、家庭や環境、ときにはベッドから離れられないような生活そのままを、公生活の場とするということもあるはずです。そして、このように、「生き方」とか「生きる態度」のなかに公私の別を発見してくるのを、宗教生活というのでありましょう。
 人間に生まれたということ、そして、人間として生きているということは、とりもなおさず私があるということであります。だから、私にたいする公もあるはずであります。つまり、人生には公私の別がある。だから、わたしたちは、公私のない世界を、心の深いところで願い求めるのだ、と思います。

正定の信心
 いまの第九章の問題で申しますと、唯円の惑いのように「よろこぶべきことが、よろこべない」という歎きも、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房同じ心にてありけり」という答えも、ともに信念の問題、信心の問題であります。つまり、親鸞と唯円の私にかかわる問題でありますが、それは「念仏もうしそうらえども」とありますように、「念仏を称える」ということに関する不審であります。
 念仏は、いうまでもなく親鸞個人、唯円個人を超えて、しかも二人を内に包む公のものであります。この人生にあらわれたアミダのはたらきとして、万人に公開された救済の大道でありますところが、その念仏を信ずる心に、正定(しょうじょう)――正しく決定した心と、不定(ふじょう)――決定しない心と、邪定――よこしまに決めた心とがある。この不定・邪定が、公に開かれた世界にふれながら、その公を私する。そして、正定の信心は、公にかなう私として、やがて公私不離、公私一如の世界に摂めとられていく。それを、アミダの本願にすくわれていく、というのであります。
 このような問題を念頭におきながら、第九章の対話をふりかえってみますと、「親鸞もこの不審ありつるに」と、唯円の問いを受けとった親鸞が、
 「よくよく案じみれば――」
と答える。そこに、この問答における大きな転換がある、ということに気づくのであります。つまり、親鸞は、退一歩して「アミダの本願を、よくよく案じみれば――」という。「その疑い惑いの正体は、煩悩の所為(しわざ)だと、わかっておりますよ」と説いて、つぶさに明らかにしていく。そして、唯円の問題は、その煩悩の正体がわかるところに解決されていく。そういう意味で、これは、きわめて、大切なところだといわねばなりません。

個人のこころ歴史のここう
 これについて、曾我量深先生は、「唯円の自覚は底知れぬものである、一つの歴史的背景をもっている」。だから親鸞は、「唯円の個人の意識の上に顕われているもののみではなく、個人意識を越えて大きな歴史的意義をみたのである」といい、そうして、さらにこういっておられます。
 その歴史的意義が「よくよく案じみれば」というところに、開顕される。歴史的意義は、唯円の個人的自覚を越えたものであるが、しかし、個人的自覚の背景となるものである、と。
 考えてみますと、わたしたちが生きている事実というものは、みなが相互にいのちを共同しているのである。ところが、そのなかにあって、なにごとにつけても「オレが」「わたしが」と、自己主張するところの個人意識――、「個人のこころ」というものでもって、自分の世界を作っている。私個人という小さな城を作っている。
 しかし、その個人意識というものは、ただ個人意識のみにとどまるものではない。そこには、大きな歴史的背星がある。つまり「歴史のこころ」のはたらきかけがある。その「歴史のこころ」のはたらきによって、この、かたくなな「個人のこころ」は開かれて、広く大きいアミダの世界へと転入せしめられていく。そういう意味で、この第九章は、求道におけるきわめて大切な根本的な問題点を明らかにするものである、と、このようにもうさねばならぬのであります。
 さあ、それでは、前回と今回と、二回にわたって拝読しました第九章は、一応、これで終ることにいたしまして、次回は、前半の師訓十章の最後――、第十章を拝読することにいたしたい、と思います。                            (昭和四〇・一一・三)


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