5 第八・九・十章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章  
 4 第六・七章  
 5 第八・九・十章  
 まえがき  
  一 第八章  
  二 第九章の一
  三 第九章の二   
   案内・講師のことば
   講  話  
   座談会  
  四 第十章   
  補 説  
  あとがき  
  謝  辞  
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三 第九章の二 「個人のこころ・歴史のこころ」


     案内のことば

 頑固なのは、ほほえましいこともありますが、困ったものだナと思う時の方が多いようです。頭がカチンカチンに凍ててしまって、春暖にゆるむ季節を、もう忘れてしまったのか。それにもまして困るのは、自分の頭が()てていることに気がつかず、「人間とは、これこれしかじか」と、おしつけられることです。
 前講でお聞きした親鸞の表白「愛欲の広海(こうかい)沈没(ちんもつ)し、名利(みょうり)大山(たいせん)に迷惑して、定聚(じょうじゅ)(かず)(すくわれたなかま)に入ることを喜ばず、真証の証(ほんとうのさとり)に近づくことをたのしまず、恥ずべし、傷むべし」という親鸞の厳しい表白が、一瞬のうちにわかってしまって、人間とは罪深いものだと、いとも涼しい顔でいたのでは困ります。
 固定化した「信」などは、ないのだと思います。「信の一念」とは、迷いや怠けのさまよいのなかで、一条の光を見出したとき、厳しく、ひきしまった心で「信の一念」と自己にいい聞かすカであり、勇気でありましょう。つまり「信の一念」という言葉になった響きが、歩もうとするわたしの、物理的な力の源泉になっているのだ、といえないでしょうか。
 前講で、伊東先生は「求める心が道を開く」といい「求道とは、自己との戦いである」といわれましたが、そのことを忘れて、どのように人間論が語られても、それは時間の浪費にしかすぎません。
 昔の人はいいました。「いのち短し、恋せよ、乙女」と。
    昭和四十年十一月一日                  飯南仏教青年会


     講師のことば

 「二十年後の日本人は、どんな生活をしているか」。十月二十九日付の朝日新聞によると、林雄二郎氏は、次のようにいっています。「まず、一人あたりの国民所得は、いまの約三倍半となる。人口は一億三千万にふえ、結婚しやすい環境になるから、早婚が多くなる。また米は、いまの六割ていどしか食べなくなりそのかわり肉を六倍以上も食べるようになる。自動車は、世帯数の八割五分になり、農民は一世帯一台の割となる。一口にいえば、二十年後の日本のくらしは、現在のアメリカに似たものとなる」と。
 はたして歴史は、このように進んでいくかどうか。これは、平和を前提にした夢だそうですが、わたしたち日本人は、二十年も遅れて、アメリカのあとを追っていくのでしょうか。ただ一つはっきりいえることは、生活が豊かになっても、お互いの自我を主張することがなくならないかぎり、生活は本質的には、かわりばえがしないということです。
 しかし、ひるがえって考えてみますと、わたしたちが生きているということは、我があるということでもあります。この矛盾を、どのように解決すればいいのか。これは、わたしたちの生き方や思想や主義主張の成り立つ場、すなわち人間であることの本質にかかわる大切な問題です。
 このような問題について歎異抄は、どのように語っているのか。今回は、「個人のこころ・歴史のこころ」というテーマで、第九章の後半を拝読することにいたしましょう。



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