5 第八・九・十章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
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 5 第八・九・十章  
 まえがき  
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   講  話  
   座談会  
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二 第九章の一 「求道のあゆみ」


   座談会 スランプについて

                                  司会 森 本 国 則(農協職員)

 司会 今晩のテーマは「スランプについて」ということです。
 ぼくは、「疲れ」という題にしては、といったのですが、圧倒的多数で押し切られて、こうなりました。

     スランプということ

 司会 スポーツの選手などは、スランプということばをよく使いますが、こういう会でスランプということを話題にするのは、ちょっとおかしい感じがせんでもありません。
 まあ、この会へ出席している以上は、スランプではないのかも知れませんが、スランプを感じておられる人もあるかと思いますので、意見を出してください。
 林善 まず、そのスランプということばですが、日本語でいうと、どういう意味になるのですか。
 伊東 たとえば、株が暴落することとか、勢いがにわかに衰退することとか――。それで、不振とか挫折といった意味に用います。
 司会 宗教的な場合のスランプというのは、壁につきあたって行きづまる、というようなときに使うのではないか、と思いますが、まあ、スランプというテーマが出ている以上は、そういう問題をもっている人もあるんだろう、と思います。
 ぼくは、自分のことを買いかぶり過ぎているのか、なにかカラまわりをして「疲れ」を覚える、というのが、いまの状態なんです。
 高田 疲れ――ね。みんな、スランプ――か。なんともいえんナ。スポーツの場合、スランプというのは、だいたい疲れからくるんだろう。
 中村常 スランプになると、あせって、よけいに練習をしたりするが、それがかえって、スランプをひどくする。
 そういうときは、やはり、退一歩して休まぬと、スランプを破れぬ(笑)。
 高田 スランプと、惰性とは、違うのでしょうか。
 伊東 スランプは、不振、挫折ということですから、そういう状態になったことが、顕著にわかる。ところが、惰性というのは、いつの間にそうなったのやら、無自覚のうちに、ズルズルそうなってしまった、ということなんでしょう。
 高田 なにか、ひとつわかったという段階がありますね。そのわかった段階でズーッと進んでいくうちに、そこに昇り道が見出せなくなってしまう。スランプというのは、そういう感じのように思うのですが――。
 司会 しかし、スランプというのは、一応、目的を持っているわけですから、一時的なものでしょう。
 中村常 ごく短い期間のスランプというのは、ちょいちょいある。それが長期間になって、ノイローゼのようになると問題だ。
 毎朝、起きるたびにスランプ――ということもある。ああ、今日も調子が悪い、と(笑)。

     スランプと感じるとき

 高田 それじゃ、スランプと感じるのは、なににたいして一番感じるのだろう。
 司会 それは、教えと、自分の実際の生活態度の違いからではないか、と思う。歎異抄を聞いているのと、生活態度との間に溝ができる、ということにある。
 高田 歎異抄というよりも、自分の持っている確信らしいものと、自分の実際生活とのギャップ――。
 伊東 そのスランプが慢性化したら、どうなるのでしょう。
 司会 しかし、スランプを意識している間は、進歩かもわかりませんね。
 高田 やはり、もっと進めるはずだ、という意識がある以上、その気持ちの裏にはスランプがあるのでしょう。
 村瀬 そうでしょうね。ある一線まで行けたということがあって、そこでスランプは感じられるわけですから。
 伊東 すると、スランプというものは、スランプと感じるところにある、ということですか。
 もちろん、感じないところにあるはずもない、ということでしょうが、ただ感ずるという程度のことでは十分にいいあらわせないようなスランプ――、いやおうなく思い知らされる、というようなスランプはありませんか。
 司会 いま、スランプを経験中の人、あるいは、そういう体験をもっている人はありませんか。
 こういうテーマが出たんだから、ないのはおかしい。それとも、これは、スランプにおちたときの要心のため――ということですか(笑)。
 村瀬 スポーツの例ですが、高校一年のときに、五〇メートル競走で、いつもトップだった。だいたい七秒そこそこで走る。ところが、どれだけ練習しても、七秒か七秒一の辺で、少しも進歩しない。それで、これがスランプか、と思ったことがあります。
 伊東 それは、スランプとはいわない。つまり、力の限界までギリギリに出し切っているのでしょう。
 ふだん七秒の力が出るのに、どうしたことか、八秒でしか走れないとか、ガンバっても七秒五しか出ない、というときにスランプ――。
 司会 そういうようなことは、仕事の上でも、よくありますね。
 西山 ぼくは、仕事の上でのスランプは、まだ楽だと思う。プロ野球なんかなら、それが金に関係するから、えらいだろうけど。ぼくらの労働は、すぐ金に換算できぬから、楽な面もある。
 しかし、精神的なスランプは、大変だ。精神的なスランプは、敗北感に関係するのでないでしょうか。
 村瀬 敗北感というと、自分だけの問題でなくて他の人が入ってくるのと違いますか。
 西山 いや、自分が、こうしなければならぬのに日々の行動がそれと離れてしまう、というようなこと。この会へ来る場合でも、よく感じることです。
 そうすると、自分自身が、自分に勝てないという問題がある。ぼくの場合、ほとんどそればかりで、スランプすら感じられぬようになっている。
 司会 それは、スランプの問題から、ちょっと離れていくように思いますが――。
 松井 しかし、劣等意識ということと、スランプを感じるということとは近い、と思う。
 最近のことですが、前に真宗大谷派の宗務総長をしておられた訓覇(くるべ)さんという人のところへ、用事があって行ったのです。
 そのとき、この会の話が出て「お前のところ、なかなかやっとるの――」と、ほめてもらった。そこで、スランプということばは使いませんだが、「なかなか、思うようにいきません」と答えたら、「いや、思うようにいかぬようになったのは、歩んだ証拠だ」と、即座にいわれた。それを聞いて「そうだったナ」と思ったのです。
 それからずっと、そのことばの意味を思ってきたのですが、われわれは、よくスランプと感じたり、劣等意識を持ったりする。しかし、そのことを、もう一つ大きな目で見ると「歩んでいる証拠なんだ」といわれる。
 だから、スランプと感じるときに、「歩んでいるのだ」という声を聞いて、そういうことがわかればまた、出かけていくことができる。なにか、それだけのことがわからずに、迷ってきたのではないか、と思ったのです。

     スランプの内と外

 高田 スランプのあとに躍進がある。しかし、スランプのときには、それが全然わからない、ということがある。
 中村常 スランプだと自覚することが、もうすでに道のなかにある。
 竹田 よくいえば、退一歩。
 中村勉 先生は、常郎君が、話が上手になったというてくれる、という話をされましたが、わたしは先生の話がむつかしくて、聞けなかった。ところが今晩は、先生の話を聞いている時間が、非常に短く感じられた。
 だから、自分としては、聞けなかったあの頃がスランプだったのかなあ、と思っています。
 中村常 ふりかえってみて、スランプだったと思うことも、もちろんあるが、スランプそのものは、途中で挫折したというかたち――。
 野呂 悩むということと、スランプと、関係はありませんか。
 中村常 スランプだから悩む、ということはあるが、悩むたびにスランプということはないでしょう(笑)。
 村瀬 スランプに悩むというが、悩むところに、もう前進がある、と思う。しかし、それだから、よけいにスランプになるということもある。
 松井 そこに前進があるんだ、ということが、スランプのなかではわからない。だから、そこで止ってしまう。その、ちょっとのところを明確にするというところに、教えとか、先輩や道友の意味がある。
 竹田 スランプとわかれば、スランプではない。それは、退一歩としてうけとれる。
 中村常 ところが、スランプというかぎり、やはり覚めた状態ではない。なにか迷いのなかにいる。そして、その迷いの正体を、はっきり見つけることができれいり 迷いなんだけれども、その正体がわからぬ、それがスランプ――。
 高田 いろいろな問題にぶつかって、そのようなことを何回も経験しながら、ここまでやってきた。だから、スランプは、あってもいいんだろう。
 いや、それがなかったら、逆に進歩もないんだろう。

     あせらずに努力する

 林善 わたしは、ご承知のように俳句をやっておりますので、この世界のことで、この話を系統だてて考えてみておるのです。
 だれかに「俳句をやらないか」というと、魅力を感じる人は飛び込んでくる。ところが、しばらくの間は、新しい一つの約束ごとを教えられて、自分も作ってみようという意欲がおこる。イメージというか、自分ではスバラしいと思えるような句ができて俳句をつくることが、楽しみで楽しみで、たまらない。
 第三者からみれば、スバラしいとはいえないかも知れませんが、自分では満足できるような句が、どんどんできる。そういう、急に上昇していく過程があるのです。
 そして、ある時期になると、スランプというか、上昇が止ってしまいます。どうもがいてみても、自分のつくろうとする作品が、形になってあらわれてこない。いい俳題があっても、作品としてあらわれてこない。
 そして、そのスランプを意識しながら、もがいていく間に、そのもがく自分の力と、その谷の深さの関係ですが、自分の力が強い場合には、その谷を上っていく。しかし、自分の力より谷底の方が深い場合には、もう俳句ということから一切遠ざかっていく。
 そういう人は、はじめから俳句が下手だとか、キライだということじゃない。スバラしい句を作った人でも遠ざかっていく人が、そうとうある。
 わたしも、そういうスランプの経験がある。いまでは、それは越えたけど、さきほど先生がいわれた沈空(ちんぐう)というのですか、いまは、そういう問題をもっている。わたしは、これでいいんだという、わたしなりの型ができてしまったので、もう一つ、これを破らぬと、人格完成のための俳句という世界へ行けぬのでないか、と、自分では思っています。
 それから、禅も少しかじって、坐ったりしましたが、禅の世界にも、スランプがあると思います。
 スランプの谷の深さと、跳躍する自分の力との関係で、いわゆる壁を破れるか、破れぬかということがある。それも、努力せよ、ガンバレといってしまえば終りなんですが、どうもがいても、時期が来ないと抜け切れない。さきほど先生のいわれたように縁がともなわないと抜け切れない。
 それで、スランプを越えるには、あせらないということと、努力するということの二つが、平行していかなかったらダメではないか、と思うのです。
 中村勉 その、スランプということに、周期はありませんか。
 林善 それは、あるかも知れませんね。
 中村勉 実は、わたしの弟が、いつも六月頃になると、わたしの家に来て、人生相談のような悩みごとを、打ちあけて話すのです。そして、いつも五月から六月頃になると、自分が一番苦しまねばならぬような立場に追い込まれるという。
 それは、中学時代にもあったし、高校時代にもあったし、就職してからも何回もあるという。それでスランプの周期ということを思ったのです。
 高田 なにか、そういうふうに意識してしまうとまた問題が別になってくる、と思う(笑)。
 林善 それは、梅雨前線が停滞する不快指数の関係もあるのでしょう(笑)。

     日常のスランプと精神的なスランプ

 司会 人生におけるスランプというのは、いろいろな場合にありますが、そのスランプを切り抜けるために宗教を求める。ところが、その宗教にも、またスランプがあるとすると、問題が大きくなってくる。
 いまの話は、歎異抄に聞く会のスランプと、日常的なスランプが混同している。日常の精神的な糧に歎異抄を求めておる。ところが、それが求めて得られないという状態がスランプだと思うのです。
 中村常 スランプというのは、やはり壁という感じだナ。そして、スランプというときには、ほんとうに、なにかにつけてスランプだ。
 司会 ぼくは、自分で生きようとするから、あかんのやなあ(ダメなんだなあ)と思って、よく考えるんですけど、これがスランプですね。
 妹が、ぼくに「兄ちゃん、わたし肥えてきたやろ」という。それで「お前は、そんなこと気にするのか知らんが、オラ(ぼく)は全然そんなこと気にせん」というと、「それでも、気になる」といって切実な顔をする。
 だから、女の人の悩みは、わりあい単純なところにあると思いますが、女の人――、どうですか(笑)。
 伊東 女性軍から、一言、どうですか。
 司会 これぐらいのことをいわぬと、なんとかいってもらえん、と思って――(笑)。
 松井法 わたしは、こんなに肥えていますので、もう肥える肥えぬは、そんなに気にしません(笑)。
 スランプということでは、お花で、もうちょっと上手に生けられぬかと思っていても、いつも同じような形におさまってしまう、ということがありました。先生からもいわれて、これではお花が身についておらぬ、なんとかせぬといかん、と思ってやってみましたが、やはり、ダメでした。
 それで、行きづまってしまって、二三ケ月休んでから、もう一度やり直したのですが、あのとき、休まずに続けていたら、ほんとうに、もう生けられぬようになっていた、と思います。

     スランプの原因は精神的なものにある

 司会 お花とか俳句とか、あるいは野球というような、形のあるもののスランプは、実際に、生けられぬとか、作れぬとか、思うところへ投げられぬとか、よくわかる。
 しかし、精神的なもののスランプは、わかりにくいというか、気づくのにも時間がかかるのでしょう。
 林善 しかし、野球でも、球がよく見えるとか、という。あれは、テクニックじゃないのでしょう。球がよく見えるなんていうのは、おかしいようだが、やはり、そこには頭のヒラメキというのがあるのでしょう。もちろん、体の調子がよいというような、生理的なこともあるでしょうが、それだけで片つかないものがある、と思う。
 司会 すると、スランプというのは、どういうふうなものでも、精神的なものが原因でおこる。それが形になってあらわれる、ということのようです。
 林善 そうでしょう。コンディションがいいとかわるいといっても、医者にみてもらって体の調子がどうだ、血圧がどうの、心臓の調子がどうの、というのでなくて、もっと深いところに、コンディションのよしあしというものがあるのでしょう。
 司会 それでは、今晩は、このくらいで――。まあ、スランプが来たら、前進した証拠だと思ってもらいましょう(笑)。
 それでは、最後に、伊東先生にまとめてもらって終らせていただきたいと思います。先生、お願いします。
 伊東 さあ、まとめてくださいということですがどのようにまとまりますか。
 今日の講話が「求道のあゆみ」ということで、これについて、わたしの考えをいくらか申したわけですが、まあ、いつものように、話を聞かせてもらって感じたことを、思い出すままに一言、申上げることにいたします。
 さて、それで、みなさんのお話を聞いておりますと、スランプにもいろいろある。だから、その原因も、あれこれ考えられるわけだが、一番もとにあるのは精神的なものだ、というところに話が落ち着いたわけです。
 株のスランプなら、ドル相場がどうの、ポンドがどうの、というような経済問題や政治問題を考えねばならない。けれども、いま、われわれが問題にしているスランプは、求道上の問題である。だから、それはたとえば肉体的、生理的なものが原因であるというわけにはいかない。やはり、精神上の問題の原因は、より深い精神にある、といわねばならない。
 野球の話が出ていましたが、ジャイアンツの川上監督が坐禅をするという話は、みなさんもよくご承知でしょう。また、南海の野村選手は、天台宗のお坊さん――、比叡山の葉上照澄という人の信者で、スランプになると葉上さんをたずねる、という話も耳にします。
 スポーツの選手も、やはり精神統一ができないと十分に力を発揮できない。そういう精神安定を欠くときに、スランプ状態におちいる、と。

     自分の力を出しきる

 伊東 たとえ力が大きくても少さくても、持てる力を出し切れればスランプではない。持てる力を出し切る――、それは、自分の力以上でもないし、また以下でもない。自分そのもの、自分のありのままなんでしょう。
 ところが、劣等感のこともいわれておりましたがそういう意識にとりつかれるというと、自分の力が出し切れない。つまり、この劣等感は、比較する心である。ほかのもの、他の人と比べるということもあるし、また、ときには、自分で自分のカをおしはかって比べるということもある。
 これは、比べる心ですから、劣等感の反対に、思いあがるということもある。思いあがって有頂天になる。ところが、それは、自分を、自分の力以上に考えるのですから、いつまでも長続きしない。あがった意識は、いつかは、みじめなところに落ち込むことになる。
 力以上に思いあがるのも慢心である。つまり高慢、増上慢である。そして、力以下に思うのも卑下慢といって、慢心である。我痴・我見・我慢・我愛という心理を、四大煩悩といいますが、慢心というのはこのなかにちゃんと数えられている。スランプというのも、こういうところに原因がある、と思います。
 それから、日常の生活が、宗教の話を聞くようにはいかない、という問題が出ていました。それは非常に大切な問題ですが、そのことと、もう一つ――われわれの人生日常の問題と、宗教問題とは別なものである、という考えと、この二つが混同していてよく吟味されなかったように思います。
 日常生活の諸問題を、ただちに宗教問題だというならば、いたずらな混乱が生じることにもなるでしょうが、しかし、この人生の日常生活を離れて、なにか特別な宗教問題があるわけではない。
 だから、いま、われわれが歎異抄に聞くというのも、この人生問題の解決を求めて聞くのである。それで、さきほどは俳句の例が話されていましたが、俳句に行きづまるということは、それがそのまま、人生問題であり、そしてまた宗教問題でもある、とこのように思います。
 たとえば、俳句のスランプが乗り切れないでやめてしまった人にとっては、逃避というか、やめるということでもって、俳句の問題は片がついたかにみえる。が、はたして問題は残らぬのであろうか。と考えてみますと、スランプを乗り切れなかったということは、やはり、その人の問題として残っているといわねばなりません。
 それが俳句だから、まあ、やめておくということもできたのですが、もっと問題が別だったらどうなるか。――、いや、なかには「生きることもやめておこう」(笑)という人もありますけれども、それもやはり、ほんとうの解決にはならない。
 なかには、困りはてたあげく、自殺をするということもありますが、しかし、それは、ほんとうに断念したわけではない。死んでも死にきれぬ思い、断念しても断念しきれぬ思いが残る。もし、そういう思いがなければ、つまり、執着がなければ、自殺をする必要もなくなる。

     教えに帰って出発する

 伊東 ところが、その断念できないところ、死にきれないところに、実は、非常に大切なものがある。スランプを超えさせる力がある。それを、執着だ、我執だといってしまえば、それまでですが、われわれは、この煩悩の身というものを、大切にしなければならぬ、と思います。
 なるほど、煩悩があるから迷うのであり、悩むのでありますが、しかしまた、煩悩がなければ、さとるということもなくなる。だからこそ、スランプということにも意味がある、ということができるわけです。
 それから、松井君が一つ例を出しましたね。「思うようにならぬ、ということは、歩いている証拠だ」と。こういう証明のことばというものは、外から聞えてくる。そして、それを聞いて、「ああ、そうだ」と気づく、思いが破れる。そこにスランプが超えられる。
 ところが、「スランプは進んでおる証拠だ」と、自分でどれだけいってみても、ちっとも進んでいない、止っておる(笑)。自己証明ということもあるのかも知れませんが、この場合、自己証明はスランプのなかの出来事にすぎない。
 やはり「行きづまったのは、歩んできたからだ」ということばに意味があるのは、それが先輩のことばだからである。教えのことばだからである。
 そういう声を聞きとるのは、行きづまっても行きづまっても断念しない心でありますが、そういう心が、はげましの声、導きの声、発遣の声を敏感に聞きとって、あらためて道を進んで行く。スランプを克服して行く。
 だから、スランプという問題を考えるにつけても、大切なことは、教えに聞くということであります。道は、教えによって開かれたものである。だから、その道における問題は、やはり教えに帰って解決しなければならない、と思います。
 はなはだ、まとまりませんが、これで終ることにいたします。
 司会 どうも、ありがとうございました。


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