案内のことば
夜の十二時頃、友人と川へ泳ぎに行きました。もう夏も終りに近く、水は黒くゆるやかに流れています。その中へ、友は、勇敢にも生まれたままの姿で飛びこみました。わたしも、すっかり愉快になって後に続きましたが、こんなことは、真昼の十二時にはできません。
ところが、世の中には変わった連中もいます。いわゆるヌーディスト(裸体主義者)の群れです。かれらにいわせれば、夜中にできることが、昼間にできないことのほうがおかしいのでしょう。いずれにしても、文明の装飾を拒否して、自然に帰れという、かれらの主張も解らないではありませんが、わたしには、まったく無益なこころみに思えてなりません。
というのも、恥部は「猿が人間になるための労働の役割」の中で、エンゲルスが書き忘れた?重要な意味をもっているからです。つまり、それは、労働によって恥部をかくしたとき、猿は始めて人間になったといえるからです。
恥部と労働とは、一枚の銅貨のウラオモテではないでしょうか。なぜなら、恥部が、直接赤ちゃんを生産するように、労働は、明日の人間を生産するからです。それゆえ、ヌーディストの群雄たちは、人間から猿にもどる無益なこころみに熱中しているように思えてなりません。
昭年四十年九月二十日 飯南仏教青年会
講師のことば
先日、ある友人と二人で、旧友を訪問しての帰り途、なんとなくシックリいかないらしい家庭の様子をみて「いま、倦怠期かも知れないね」と話し合いました。
疲れるということ、倦むということは、なにも結婚生活にかぎりません。かっては、あれほど熱中した仕事にセイが出ないとか、あれほど感激した言葉に驚かなくなったとか。スランプは生活のあらゆる面に顔をのぞかせてきます。ですから、それは、信仰の場合だって同じです。
話を聞きながらアクビが出るとか、念仏しながら喜べないとか、これらは、信仰生活における倦怠期の症状だといえましょう。
しかし、第九章を読みますと、疲れるのも、倦むのも、実は、みな「求道のあゆみ」の中の出来事だとあります。そして、このようなピンチを切りぬける道は、教えにかえって、あらためて教えの言葉を聞くほかにないとあります。
今回は、このような問題を念頭におきながら、第九章のはじめの部分を拝読したいと思います。
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