5 第八・九・十章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章  
 4 第六・七章  
 5 第八・九・十章  
 まえがき  
  一 第八章  
  二 第九章の一  
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   講  話  
   座談会  
  三 第九章の二   
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  補 説  
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  謝  辞  
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二 第九章の一 「求道のあゆみ」


     第九章の原文

一、念佛もうしそうらえども、踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)の心(一)おろそか(二)にそうろうこと、また(三)いそぎ浄土へまいりたき心のそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん(四)と、もうしいれて(五)そうらいしかば、親鸞もこの不審ありつるに(六)唯圓房(ゆいえんぼう)(七)同じ心にてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定(いちじょう)(八)とおもいたもうべきなり。よろこぶべき心をおさえて、よろこばせざるは、煩悩(ぼんのう)所為(しょい)(九)なり。しかるに(ぶつ)かねてしろしめして(十)、煩悩具足(ぐそく)の凡夫(十一)とおおせられたることなれば、他力の悲願(十二)は、かくのごときのわれら(十三)がためなりけりと知られて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。また浄土へいそざまいりたき心のなくて、いささか所勞(十四)のこともあれば、死なんずるやらん(十五)と、心ぼそくおぼゆる(十六)ことも、煩悩の所為なり。久遠劫より(十七)今まで流轉(るてん)(十八)せる苦悩の舊里(きゅうり)(十九)はすてがたく、いまだ生まれざる安養の浄土(二十)はこいしからずそうろうこと、まことに、よくよく煩悩の興盛(こうじょう)(二十一)にそうろうにこそ。なごりおしくおもえども、裟婆(しゃば)の縁(二十二)つきて、ちからなくして(二十三)終るときに、かの()(二十四)へはまいるべきなり。いそぎまいりたき心なきものを、ことにあわれみたもうなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく往生は決定(けつじょう)(二十五)と存じそうらえ(二十六)。踊躍歓喜の心もあり、いそぎ浄土へもまいりたくそうらわんには(二十七)、煩悩のなきやらんと(二十八)、あやしくそうらいなまし(二十九)云々(うんぬん)


     現代意訳

 「念仏を(とな)えても、おどりあがるような歓(喜)びが、さほど感じられず、また、いそいでアミダの浄土へ行きたいという心にもなれないのは、いったい、どうしたことでしょうか」と、おたずねしたところ、
 「親鸞も、そういう疑問をもっていたが、唯円房よ、そなたも、やはり同じ心であったのか。だが、よくよく考えてみると、天におどり地におどるほどに、よろこぶべきことを、よろこばないので、いよいよもって往生は決定している、と思いなさい。というのは、よろこぶべき心をおさえて、よろこばせないのは、煩悩の所為(しわざ)である。ところが、アミダ仏は、ずっと以前からそのことを知っておられて、わたしたちのことを、『煩悩具足の凡夫よ』――けがれ多く迷いの深い愚かな人びとよ――、と(おお)せになっているのだから、アミダ他力の大悲の本願は、このような、わたしたちのためにおこされたものであるということがわかって、いよいよ心づよく思われるのである。
 また、アミダの浄土へ、いそいで行きたい心がなく、ちょっと病気でもしようものなら、死ぬのではないかと心ぼそく思うのも、煩悩の所為である。永劫の昔から今まで、流れ流れて迷ってきた苦悩の古里(ふるさと)は捨てがたく、まだ生まれたことのないアミダの浄土は恋しくないというのは、ほんとうによくよく煩悩がはげしいからである。なごりおしいと思っても、この世の縁がつきて、どうすることもできなくなって、いのちが終るときに、アミダの浄土へ生まれるのである。
 アミダは、いそいで浄土へ行きたいという心のないものを、ことのほかにいとしまれるのである。だからこそ、いよいよアミダの大悲・大願はたのもしく、往生は決定しているのだ、と思うのである。
 おどりあがるような歓(喜)びもあり、いそいでアミダの浄土へいきたいというのなら、それでは煩悩がないのだろうか、と、かえって不審に思われるであろう。
と聖人はおっしゃった。

     注  釈


一 踊躍歓喜の心。
 ゆやくかんぎのこころ。おどりあがるようなよろこび。踊は天におどり、躍は地におどる、歓は身をよろこばし、喜は心をよろこばせる、ということで、「自身の全存在をあげてのよろこび」をあらわす言葉です。
二 おろそか。
 すくない、不十分、はかばかしくない、という意味。
三 また。
 ここでは、「念仏を称えても」ということについて、二つのことがらが問われているわけで、その一つは、前の「踊躍歓喜の心おろそかにそうろうこと」であり、いま一つは「また、いそぎ浄土へまいりたき心のそうらわぬは」ということです。
四 いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん。
 どうしたことでしょうか、どうしたらいいのでしょうか、と、思いまどっている心を表現したものです。
五 もうしいれて。
 申し込む、返答を求める、たずねる、質問する、という意味。
六 この不審ありつるに。
 ふしん。そういう疑いをもっていたが。
七 唯円房。
 ゆいえんぼう。歎異抄の筆者と思われる常陸国(茨城県)河和田の唯円大徳。この第九章と第十三章の二ヶ所に、その名がみられます。
八 往生は一定。
 おうじょうはいちじょう。アミダの浄土に生まれることは決定的である、間違いないということ。
九 煩悩の所為。
 ぼんのうのしょい。煩悩は、われわれの心身をなやまし、わずらわせるはたらきで、いかり・はらだち・そねみ・ねたみ等(総じて我執)。所為は、せい、しわざ、ということです。
十 仏かねてしろしめして。
 ぶつ。アミダ仏は、ずっと以前から、そのことを知っておられて。
十一 煩悩具足の凡夫。
 ぼんのうぐそくのぼんぶ。一切の煩悩を、ことごとくみなそなえて持っている、おろかなもの。凡夫は、おろかで凡庸(ぼんよう)な劣夫(れっぷ)ということです。
十二 他力の悲願。
 たりきのひがん。おろかに迷う人びとを、いとおしみかなしんで、すくおうというアミダ他力の、大悲の誓願。
 これまで、アミダの誓願とか本願といわれていたものが、ここでは、ことに悲願といい、このあとには大悲大願と表現される点に注意をしたい、と思います。
十三 かくのごときのわれら。
 これは、煩悩具足の凡夫のことですが、すでに「いずれの行もおよびがたき身」(第二章)といい、「いずれの行にても、生死を離るることあるべからざる」ところの「煩悩具足のわれら」(第三章)といわれたものであります。
十四 所労。
 しよろう。わずらい。病気。
十五 死なんずるやらん。
 死ぬのであろうか、死にはすまいか、ということ。
十六 心ぼそくおぼゆる。 心ぼそく思われる、感ぜられる。
十七 久遠劫より。
 くおんごう。はかり知れぬほど遠い昔から。永劫(ようこう)の昔から。劫(こう)は、梵語でカルパKalpaといい、人間には計算できないほどの、きわめて長い時間のことです。
十八 流転。
 るてん。さまよい流れること。ちょうど水の流れが、自然界を廻ってつきないように、生死の迷いに終りのないことを、流転といいます。
十九 苦悩の旧里。
 くのうのきゅうり。われわれが、いま現に生きているこの世界。
 旧里とは、ふるさとのことですが、われわれは、あまりにも永い間、この世界に身をおいて迷ってきたためにこの苦悩の世界を故郷だと思い誤るのであります。
二十 安養の浄土。
 あんにょうのじょうど。アミダの浄土。そこは真に心を安んじ、身をすこやかに養うところである、という意味で、「安養」といいます。
二十一 煩悩の興盛。
 ぼんのうのこうじょう。煩悩がつよく、さかんなこと。熾盛(しじょう)と同じ意味です。
二十二 娑婆。
 しやば。この世。この世界。これは、自我のはからいがっくり出した世界であり、したかりて、煩悩の多い世界であります。梵語では、これをサハーSaha(すなわち、もろもろの苦悩を受け忍ばねはならぬところ・堪忍土)といいます。
 また、梵語サバSabhaによって、この世界は、さまざまな在り方生き方をするものが雑居するところ(すなわち雑会)である、ともいいます。
二十三 ちからなくして。
 どうすることもできなくて。致し方なくて。やむを得ずして。
二十四 かの土。
 アミダの浄土。彼(か)の岸。彼の世界。
二十五 往生は決定。
 おうじょうはけつじょう。アミダの浄土に生まれることは、もはや決定している、ということで、さきの「往生は一定」と同じ意味です。
二十六 存じそうらえ。
 思う次第である、思うのである、ということ。
二十七 まいりたくそうらわんには。
 参りたくも思われるならば、参りたくもあろうものなら、行きたいというのなら。
二十八 なきやらんと。
 ないのであろうかと。
二九 あやしくそうらいなまし。
 疑わしく思われるであろう、かえって不審に思われもするであろう、という意味です。


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