5 第八・九・十章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章  
 4 第六・七章  
 5 第八・九・十章  
 まえがき  
  一 第八章  
   原文・意訳・注  
   案内・講師のことば
   講  話  
   座談会  
  二 第九章の一  
  三 第九章の二   
  四 第十章   
  補 説  
  あとがき  
  謝  辞  
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一 第八章 「はだかの生活」


   
講 話 「はだかの生活」

「はだか」ということ
 今回は、第八章を拝読するにあたりまして、いろいろ考えたすえに、ちょっと突飛な題でありますが、「はだかの生活」という題を出したのであります。歎異抄には、ご承知のように、難解なところがたくさんあるのでありますが、特にこの第八章は、どのように領解すればいいのか、あれこれ考えてみましても、考えが全く間に合わぬということであります。
 それで、歎異抄を読むには、あまり適当でないかとも思いますし、宗教的な話の題目としてはあまり好ましくないと思われる方もあるかと思いますが、わたしの考えが間に合わなくなって、困り果てたあげく、このように「はだかの生活」ということになったのであります。
 こういう題目を連想させたのは、案内にも書きましたように、夏の暑さであります。この頃のように暑いというと、わたしたちは、暑さをしのぐために裸になります。体につけているものを少しでもすくなくして身軽になろう、そうして暑さをしのごうと工夫します。そのことから、この題目を連想したのですが、といっても、ここでいおうとする「はだかの生活」は、着物をぬいてしまうということ、あの、いわゆるストリップショウの裸ではないのでありまして、「はだか」というのは、つまり譬喩的(ひゆてき)な表現なのであります。
 勿論、これは、ストリップすることが、ショウとして成り立つ、一つの見せものとして成り立つということと、全く無関係ではないともいえましょう。というのは、われわれは、人に相対するときは、どんなに暑くても、まる裸ということはありません。最少限の、なにがしかの衣類を身にまとっているのであって、まる裸ではない。つまり、われわれは、人に対しては、裸になるといっても、ほんとうの裸にはならない。どれだけ裸になったといっても、やはり人前では、恥部だけはかくした裸である。原始人とはちがいまして、これが今日の人間社会では、当然のエチケットである。社会的な約束である。だから、まる裸で人中を歩きでもしようものなら、たちまち軽犯罪法にひっかかって、おまわりさんにつかまってしまいます。
 このことがらわかりますように、われわれには、裸になったといっても、ほんとうの裸にはなれないという問題があります。見せたくないものは、ちゃんと見せないでおいて、そして裸だといっている。たしかに、包みかくすということは、人間にたいしては有効であります。なぜなら、人間の肉眼には、包みかくされたものの向う側は見えないからであります。それで、ストリップもショウとして成り立つ、ということになります。と同じように、われわれは、最後の一点は他人にわかるはずはない、見えるはずはない、という思いに安心して生活しているわけであります。

パラダイスを追放されたアダムとイブ
 人間は、人間にたいして、なにかをかくして生活している。まる裸など露呈しない。そして、それは、たしかに外からの目にたいしては、有効であります。外からの肉眼は、内側を見ぬくことができないからであります。けれども、目は、ただ外からの目だけであろうか、と考えてみますと、どうもそうではない。「外の目」にたいして、「内の目」ともいうべきものがある。内から、内側を見る目があるといわねばならない。そして、この内側から自分を見る目は、どんなに包みかくしてみても、かくし通すことはできない。
 ここで、一応、外からの目、内からの目と分けてみたわけですが、この外からの目を人間の目というならば、内からの目は自己自身にめざめた智慧の限、ブッダの智慧の眼である。だから、外からの目をゴマ化すことができたとしても、内からの目までゴマ化すことはできない。つまり人間がかくし持っている「なにか」の正体を、鋭く見ぬくような目がある。また、そのような目でもって、かくしもっている「なにか」の正体を、鋭く見ぬく目がないとするならば、実はわれわれは、ほんとうに安心して生きていけない、と、このように思います。
 それで、つい四五日前のことですが、街の書店めぐりをしておりましたら、花田清輝という人の『恥部の思想』という書物が目につきましたので、手にとって、パラパラと読んでみました。ていねいに読んだわけではありませんが、その中に「群像」合評のあと、豊島与志雄氏が、丹羽文雄氏に向って「君は、恥部を大切にしているか」といった。自分は、それを聞いたときは、若かったものだから、意味がよくわからなかったが、最近になって、その意味がわかるようになってきた、というようなことが書いてありました。
 ここで豊島氏は、どういう意味で恥部といったのか知りませんが、いま、わたしが「はだかの生活」でいおうとする恥部は、プライベートなところ、秘密にしておくべきところ、という意味ではありません。外の、公に対して、私にかくしもっている部分、というだけの意味ではなくて公私の区別なく、われわれの生活が、そこからはじまるところ、むしろ、それにおいて成り立っているところ、ということであります。
 にもかかわらず、われわれは、この生活が、そこからはじまっている、それにおいて成り立っているのだけれども、なぜか、それをかくさずにはおれない。だから、それを恥部などと呼ぶので有りますが、実は、そこに、人間問題、人生問題の一番根深い問題があるのでありましょう。神の命令にそむいて、禁断の木の実を食べたために、パラダイスを追放されたあのアダムとイブの話が有りますが、それ以来、人間は、木の葉っぱなどをくっつけて、生きているのです。しかし、それは、あるががままの本能ではなくて、羞恥心の装いで包みかくされた本能であります。ことばをかえていえば、人間の智慧で解釈された本能であります。

「宿業は本能である」
 この本能ということについて、曾我量深先生は「宿業本能(しゅくごうほんのう)」――「宿業は本能である」といわれます。それで、この曾我先生のことを、ある書物に、こういっております。
 「ここに人間がいる。ここに地獄を背負って、浄土へ歩いている本能人がいる。彼の肉体は、九十年が刻んだ煩悩人(ぼんのうじん)であるが、彼の精神は、魂の原生林に住む自然人である」
と。なにか非常にウブな人、人間のもっている余計なものを洗いさって、本能のままに生きる人――。先生にジカにふれていますと、そういうことが実感されるのでありますが、しかし、本能というと、たいていの人は、「ああ、あれか」という。エッチな人間は、「ニタリ」と笑う。が「ああ、あれか」というような本能は、実は、考えられた本能であって、ほんとうの本能ではない。あるがままの生きた本能ではない。
 それで、曾我先生は、
 「本能といえば、すぐ動物的本能ときめてしまっているのは、日本人としては恥辱でしょう。それを知らぬものを、恥さらしという。そういわれても弁明の余地はない。いくら弁明したからというて、名誉にもならぬと思う。私は、本能ということと、如来の本願ということは、すぐ一つのものだとはいわない。いわないけれども、本能――、我ら衆生(しゅじょう)の本能というものと、如来(にょらい)本願(ほんがん)というものとは、二にして、しかも不離なるものであると領解する。本能といえば我ら衆生の本願、本能といえば、まずもって如来の本願というべきものである」
といっておられます。この、本能というところに、親鸞のいうアミダの本願のはたらく場があると。
 これは、一昨年(昭和三十八年)の六月六日に、大谷大学で、清沢満之先生の生誕百年を記念して、講演会が催されましたが、その時、鈴木大拙先生が「清沢満之は生きている」という題で話をされた。もう、ほぼ六十年も前に死なれた清沢先生が、いまなお生きている、と。
 それをうけて壇に立たれた曾我先生は、「いま、鈴木大拙先生は、清沢満之は生きているとおっしゃったが、もし先生が、鈴木先生のおっしゃるとおり生きておられるならば、清沢先生は、たしかに百一歳になっておられるわけである」といわれたあと、死なれたはずの清沢先生が生きていられる、どこに生きておられるのか。
 「それでは、清沢先生は、どこに生きておられるかと問う人があるならば、私は“清沢先生は本能の世界に生きておられる”といおうと思うのであります」
と述べておられます。
 それから、「私は、数十年前から、自分の考えを表現するときには“宿業本能(しゅくごうほんのう)”という言葉を作って、自分の意見を発表しておる」ともいわれますが、宿業ということばは、長い伝統のある仏教のことばではあるけれども、今日、大部分の人は、このことばが納得できない、わからない。だから、長い仏教の伝統の中で、人間が生きるということは、宿業に生きるのだ、というように教えてきた「宿業」を、わたしは「本能」と領解するんだ、と、このようにおっしゃっております。けれども、ただ本能といえば、人は、動物的な本能と誤解する危険がある。それで、「宿業本能」ということばを作って、そうして、自分の考えを述べるんだ、と。

道場の中には雪隠がある
 それで思いますのは、仏教では、尾籠(びろう)な話ですが、雪隠(せっちん)つまり便所をも道場とする、ということであります。わたしたちの住む家だって、家を建てるときには、必ず台所と便所を作ります。最近の安く入れるアパートでは、共同便所になっておりますが、それにしても便所がなければ、人間は住むことができません。ところが、ふつうわたしたちの生活では、それは用をたすのに必要なところ、ということになっています。それは、必要だからあるのにはちがいないけれども、ただそれだけの意味にとどまらない。それで、仏教では、便所も道場の一つである、というのです。
 ご承知のように、仏教の寺院の建物を、七堂(しちどう)といいます。山門(さんもん)仏殿(ぶつでん)法堂(ほうどう)、それから、庫裏(くり)僧堂(そうどう)、浴室、そして東司(とうす)――、この東司が「かわや」つまり便所なんです。そして、この七堂(しちどう)が揃っているのを七堂伽藍(がらん)が完備しているといいますが、七堂の中には、ちゃんと「かわや」が入っている。
 学問をするには、学問にふさわしい場所が必要である。特別の修行をするには、その修行にふさわしい条件がととのっていなければならない。けれども、また、日常、寝たり、食べたりするところも、それと同じくらい大切である。そして、その大切な修行の道場の中に、便所――、雪隠も加えられている。これは、むかし中国の雪峰という名の坊さんが、いつも「かわや」の掃除をしていた。そうして、悟りを開いたものだから、それで便所のことを「雪隠」というようになった、といわれております。
 それはともかくとして、求道するには、教えを聞かなければわからないものがある。教えのとおりに実践してみなければわからないものがある。それを行うのが道場ですが、聞法だ、修行だなどと、きれいごとをいっていても、自分は、なにかをおおい隠してはいないか。それではダメだ。やはり求道にとって大切なことは、はだかの人間を知ることである、はだかの自分を知ることである。そういう意味で、浴場も「かわや」も道場である。そこでは、平生、人前ではおおい隠されている自分のすがたが、イヤオウなしに明るみに出る。そこに、一つ深い意味がある、と。

善悪をサタする人間の首根ッ子
 そういうふうに、われわれは、恥部をかくして持っている。かくして持ったままで、しかも平生は、まるでそういうものを持っていないかのような顔をしている。そういうものは持たないかのような、とりすました顔で生活している。そして、そんな、とりすました顔が、実はコッケイなんだと気づかぬような心でもって、善いことはしなければならぬ、悪いことはしてはならぬ、という。
 たしかに、善いことをしなければならぬ、悪いことをしてはならぬ、という問題は、人生において、きわめて大切な問題であります。だから、それが、どうでもいいというのではありません。けれども、その、善いとか悪いとかいっている人間のクビ根ッ子――というか、さきほどのことばでいえば、かくしもっているところ――というか、そのイタイところをギュッとおさえてみると、どうなるか、ということです。
 だいたい、善いことをしなければならぬ、という心を裏がえしてみると、しようと思えばできるという心がありはしないか。悪いことをしてはならぬ、という心の裏には、悪いことをすまいと思えばできるんだ、という思いあがりがありはしないか。そういうことを吟味しないで、善いことをする、悪いことをしない、といってみても、善悪問題が、もう一つ徹底しないと思います。
 それで、いま第八章におきましては、善いことをするんだとか、しなければならぬとか、いやできるはずだなどと、自分の立っている場所を忘れて、背のびをしているけれども、どうかそれより、かくし持った恥部の意味を大切に考えてください、といっているように思われます。どうか、宿業本能に生きるなかから、善とか悪とかの問題が考えられる人になってください、と。

一善が一悪となる
 実は、先日、八月の一日から三日まで、福井に研修会がありまして、話しに行ったのですが、二日目の話が終りますと、八十過ぎのおばあさんが控室へやって来られた。そして、そのおばあさんがいわれるには「昨日も今日も、あなたの話を聞いたが、どうもナマヌルイ」と。見たところ、あなたは、まだ若そうだが、わたしは、もうやがて死ぬ。それで、特にいうておきたいのだが、わたしの生まれた明治時代と今日を比べてみると、ずいぶん時代が悪くなった。新興宗教なども、はびこっている。だから、あなたたちには、もっとガンバってもらわねば――、そのためには、もっと、胸にピリピリくるような話をしてほしい、と。
 ご意見は、わたしの話にたいする批判ですし、それに、そのおばあさんのいおうとする気持ちはよくわかるものですから、ほぼ一時間ほど、つき合って聞いておりました。ところが、おばあさんは、なにか非常に力んでおられる、全身を硬直させてガンバっておられるのです。一生懸命にさせている願いは、よくわかるのですが、それほどまで(りき)まねはならぬものが、イタイタしい、淋しくもあるのです。
 そして、一時間ほど、おしゃべりをしたあと、帰りに、ハンドバックをさかさにして、中から「ハイライト」を一つとり出して、わたしにくださった。「一つでも沢山、功徳(くどく)を積んでおきたい」といって――。次の日にも控室へ来られたのですが、そのときには、アンパンが一つ出てきたので、それをくださった。たとえタバコ一つでも、アンパン一つでも、行為そのものは「ありがとう」といただいたのですが、そのおばあさんの形相(ぎょうそう)がすさまじいのです。ですから、そういわずにおかれないもの、そうせずにおれないものには共感できるのですが、非常にイタイタしい。
 せっかく一つの功徳を積みたい、ということでやっていることが、ガンバリによって殺されてしまっている。だから、行為そのものは、だんだんと柔軟(にゅうなん)な、ふくよかな顔になっていくはずのことをしているんだけれども、そうならないで、かえって、すさまじい顔をつくっていく。せっかく善をなしながら、力むものですから、それが、みにくい顔を作るようなものになってしまう。一善が一悪になってしまう。

芥川竜之助の「蜘蛛(くも)の糸」
 こうお話をしているうちに、芥川竜之助の「蜘蛛の糸」の話を思い出しました。あれは、われわれ人間の行う善というものを、よく考えさせてくれる小説であると思います。人間ならば、だれでも、まったく善を行ったことがない、というような人はいないはずである。どんな大悪人と呼ばれる人でも、一つも善いことをしたおぼえはない、というようなことはない。
 さて、それで「蜘蛛の糸」を読んでみますと、こういうことばではじまっております。
 「ある日のことでございます。お釈迦さまは、極楽(ごくらく)蓮池(はすいけ)のふちを、独りでぶらぶらお歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色の(ずい)からは、何ともいえない好い(におい)が、絶間(たえま)なくあたりへ(あふ)れております。
 極楽は、ちょうど朝なのでございましょう」
と。そして、お釈迦さまが、その池のふちにたたずんで、蓮の葉の間から下の様子をごらんになると、ちょうどそこは地獄で、三途(さんず)の河や、針の山などがよく見える。そして、かつてこの世で悪いことをした罪人たちが、血の池で、浮いたり沈んだりしている。
 見ると、その中には、大悪党のカンダタもいる。ところが、この大泥坊のカンダタにも、たった一つ()いことをしたおぼえがある。というのは、むかし、林の中で、一匹の「くも」を殺さずに助けてやったことがある。それも一度は、踏み殺そうとしたんだが、「いや、いや、これも命のあるものだ」というので殺さなかった。そのことを、お釈迦さまが思い出されて、できることなら、その一善の(むく)いとして、カンダタを地獄から救ってやりたい、と。ごらんになるとすぐ(そば)に、極楽の蜘蛛(くも)が、美しい銀色の糸をかけている。お釈迦さまは、それをとって、カンダタのいる血の池へお下げになった。
 ところで、カンダタが、ふと空をみると、一すじの蜘蛛の糸が、自分の上へたれている。「やれ、(うれ)しや」と、ワラにすがる思いで、この糸にとりすがって、両手でしっかりと(つか)んで、上へ上へとのぼりはじめた。どれだけかのぼってから、下を見てみると、おかげで血の池はだいぶ遠くなった
 が、ふと気がついてみると、蜘蛛の糸の下の方には、まるでアリの行列のように、地獄の罪人たちが、ゾロゾロのぼってくるではないか。「ああ、アブナイ」。自分一人でも、蜘蛛の糸はたよりないのに、こんなにたくさんの人間がつかまったのでは、切れてしまう、たいへんだ。それで、カンダタは、「こら、この糸は、オレのものだぞ――」とドナった。と、トタンに、蜘蛛の糸が切れてしまって、カンダタは、もとの血の池へ、アッという間に落ちていった、と。
 この話の語るところは、まことに意味深いものがあると思います。どんな悪人にでも、愛情というものはある、慈悲の心がある。だから、どんな人間でも、全く善いことをしない、というものではない。けれども、自分だけがよければ――、というエゴイズムによって、結局は自分が破滅するようなことになってしまう。せっかく善をなしながら、地獄へおちて行くようなことになってしまう。このように、ここには、「オレ一人が――」という我執(がしゅう)のはからいの正体が、いったいどんなものであるのか、ということが語られているわけであります。

行者のために非行・非善である
 そして、こういう人間の現実というものをおさえて、第八章には、
 「念仏は、行者(ぎょうじゃ)のために、非行(ひぎょう)非善(ひぜん)なり」
といわれます。「念仏は、行者にとっては、いわゆる行でもなく、いわゆる善でもない」と。
 この、ことばズラだけ読みますと、たとえば第一章には「しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆえに」とある、また第八章には「念仏者は、無碍(むげ)の一道なり……諸善もおよぶことなきゆえに」とあるが、それとくい違いがあるように思われます。けれども、それは「行者のために」「念仏を(とな)える人にとっては」ということばに注意すれば、違ったことをいっているのではないということが、無理なく了解できます。
 これについて、小野清一郎氏は、こういっておられます。
 「念仏は、行者のために、非行・非善なり」ということばが、一つの矛盾を含んだ、逆説的な表現であるということさえ、殆んど気づかれていないのではないだろうか。これまでの歎異抄の講説は、この第八章を、比較的軽く取り扱っており、その逆説的な意味に苦しんだ跡は、あまり見出せないようである。……
 「念仏は、行者のために、非行・非善なり」ということは、単純に、行でもなければ、善でもない、ということではない。行にして行にあらず、善にして善にあらずということでなければ在らない。それは矛盾であって、しかもその矛盾を止揚(しよう)する宗教的体験の表現である、
 と。ここに「行者」というのは「念仏を信じ、念仏を行ずる人」ということですが、これは親鸞のことばであります。ですから、この第八章を「念仏は、念仏もうす親鸞にとっては、行でもない、善でもない」と読みかえてみることができます。すると、これによって、「オレの――」「わたしの――」という、いわゆる自我の主張というものを超えた世界、エゴイスティックな、利己的なガンバりを離れた世界が語られている、と知られる。つまり、念仏は、親鸞の「わたくし」のものではない、親鸞の「わたくし」を超えた、広く深い世界に属するものである、ということであります。

問答無用の事実にかえる
 それで「念仏は、相承のために、非行である、非善である」。どうして「行にあらず」というのであるか。それは「我はからいにて行ずるにあらざれば――、自分のはからいで行うのではないから、行ではない、非行である」というのである。どうして「善にあらず」というのであるか。それは「我はからいにて、つくる善にもあらざれば――、自分のはからいで作る善ではないから、善ではない、非善である」というのである。
 ここに「はからい」ということが強調されております。「はからい」というのは、われわれ人間の考えのこと、分別や思慮のことですが、この、はからいによって美しく装い飾られたものの正体は、いったいなにであるのか、ということであります。さきほどから申しますように、本能に生きるということを思いますと、まことに問答無用といわねばならぬものがある。なんだかんだといってはおるけれども、本能ということを考えれば、そのことばが、一挙に力を失ってしまう。
 そして、この問答無用の事実にかえることを、親鸞は、「ただ念仏」というのでありましょう。だから、いまここに「念仏は、行者のために、非行・非善なり」とありますが、この「行者のために――」ということばは、親鸞が、その全生命を賭けて開きとったことばである。この短い一句には、親鸞九十年の苦労が生きている。
 これまでにも、しばしば申しましたが、親鸞は、九十年という比較的長い生涯を送った。が、その九十年の人生をたどってみますと、二十九歳以前と以後に、非常に大きな違いがある。つまり、二十九歳のとき、法然上人に遇った。念仏の教えに出会った。そして、親鸞の生き方が、そのときから一転するわけであります。
 親鸞は、九歳から二十九歳までの二十年間――、人生にとっては一番はなやかな青春時代、人生の基礎の築かれる大切な時期を、比叡山で過して、求道にあけくれた。ところが、二十九歳のとき、その青春を賭けて求めてきたものの全てを捨ててまでも、なにか新しい生き方はないかとたずね在ければならなくなった。比叡山での二十年間を無に帰してもかまわない、なにもかも全部を捨て切ることになってもかまわない、と。
 では、親鸞に、そのような決断をうながしたものはなにであったか、ということですが、それは、おそらく宿業本能の問題だったにちがいありません。来る日も来る日も、真実を見究めようとして、学問をした。さとりを求めて激しい修行にも耐えた。定められた厳しい規則にしたがって、生活をしてきた。が、そういう「いとなみ」の全てを、まったくダメにしてしまうようなものがある。それが、宿業本能であると気づいたとき、親鸞は、これまでの生き方、道の求め方というものを()て去るわけであります。
 そのことを「教行信証」の「後序」には
 「愚禿釈(ぐとくしゃく)(らん)(親鸞)、建仁辛(けんにんかのと)(とり)(れき)(建仁元年一二〇一年)、難行(ぞうぎょう)(つまり自力のはからいでけがれた聖道門の行)を棄てて、本願(すなわち、アミダの本願)に帰す」
と書いてあります。そうして、そのあとに続いて、法然上人に()うて、「ただ念仏」という教えを聞くことができた、「よりて悲喜の涙を抑えて、由来(ゆらい)の縁を(しる)す」と、深い感動をもって書き綴っているのであります。
 もちろん、法然上人をたずねて、その教えに帰依(きえ)したといいましても、それは、さきほどから申しますように、これまで歩んで来た道を全く棄て切る、これまで生きてきたことを灰燼(かいじん)に帰するようなことであります。だから、それは、実にたいへんな精神的苦闘であったと思われます。

親鸞の妻・恵信尼の手紙
 そのときのことを、奥さんの恵信尼(えしんんい)公の手紙――、それは、夫の親鸞がなくなったという知らせを、故郷の越後、つまり新潟県で聞いた、その翌年――、弘長(こうちょう)三年(一二六三年)の二月十日に、京都にいる娘の覚信尼に宛てて出したものですがそれをみますと、
 「こぞ(去歳)の十二月一日の御ふみ(お手紙)、同はつか(二十日)あまりに、たしかにみ(見)候ぬ」
とあります。「去年の十二月一日付けのお手紙、その二十日過ぎに、たしかに拝見いたしました」というのです。
 ご承知のように、親鸞は、弘長二年(一二六二年)、九十歳になって、冬の寒さもきびしくなった頃、病の床についた。そうして十一月二十八日、京都の「押小路(おしこうじ)の南、万里小路(までこうじ)の東」つまり都心部にあたるとこで、いまの「御池通り柳馬場」だといわれておりますが、そこでなくなった。
 その臨終には、親鸞の側近で暮らしていた娘の覚信尼(かくしんに)と、やはり親鸞の子で、越後から上洛してきた益方入道(ますかたにゅうどう)、それから同朋では、京都に住んでいた数名の人たちと、下野国高田からは顕智また遠江国(とうとおみのくに)からは専信(専海)という人などが集まった、といわれております。まあ、この他にもまだあったかも知れませんが、くわしいことはわかっておりません。
 ともかく、二十八日になくなると、翌二十九日に東山の延仁寺で火葬し、三十日に収骨が行われた。そうして、一段落した十二月一日、覚信尼は、母の恵信尼に宛てて、「父の親鸞がなくなった」ということを知らせたわけであります。いまの手紙は、それにたいする返事ですが、その続きをみますと、
 「なによりも、殿(親鸞)の御おうじよう(往生)、中々はじめて申すにおよばず候」
とあります。これは「とうとうおなくなりになりましたか。けれども、わたしは驚きません。殿――、つまり、夫親鸞の御往生は、すでにすでに決定していることなんです。なぜなら、念仏は平生の救い、現生(げんしょう)不退(ふたい)の教えだからです」という心境でありましょうか。

現生不退の第一のあかし
 こういったあと、二つの歴史的な事実、歴史的な出来事を書いて、そうして「ご臨終は、どのようであったにしても、ご往生のことを疑いもしませぬ、惑いもしませぬ」といっています。それからみますと、娘の覚信尼は、親鸞の臨終について、なにか疑念のようなものを抱いたのかも知れません。その手紙は残っていませんから、具体的な内容はわかりませんが、ただ父の死を知らせただけではなくて、その往生について、感想というか、問いというか、そのようなものまでも書きつけたのかと思われます。
 たとえば、法然上人がなくなったときには、その、なくなる日が近づくというと、紫雲(しうん)瑞相(ずいそう)があらわれた、紫の雲がたなびくのを、たくさんの人がみた、と伝えられている。親鸞も、そのことを
  本師源空のおわりには
  光明紫雲のごとくなり
  音楽(おんがく)哀婉(あいえん)雅亮(がりょう)にて
  異香(いこう)みぎりに暎芳(えいほう)
と和著している。覚信尼も、それを聞いて知っていたのでしょう。ところが、父親鸞の場合にはそんな奇瑞(きずい)はおこらなかった「いったい、念仏者の往生ぎわというものは、これでいいのだろうか」と、そういう疑念のまじった報告を、母の恵信尼に送ったのではなかろうか、と想像してみるのです。
 いま、そのことをくわしく詮索している時間はありませんが、そういうことがあったので、恵信尼は、娘の疑い惑いをはらそうとして、「なによりも、殿の御往生、なかなかはじめて申すにおよばず候」といって、そうして、まず第一に、親鸞が、比叡山を棄てて、法然上人をたずねたときの様子を書いている。このことは、すでに第一一章のところでお話したのですが、恵信尼にすれば、親鸞の往生は、もう法然との解逅のときに決定している、と確信している。そのことを娘に伝えたかったわけです。
 そして、それによりますと、親鸞は、法然をたずねるに先だって、京都市中の六角堂に百か日の参籠をして、その九十五日目の(あかつき)に、聖徳太子の勧めを夢に聞いて、いよいよ法然上人をたずねる決心がついた。そして、法然上人のところに行ってからも、また百か日、照っても降っても、天候などかまわずに、吉水に通いつづけて、その結果、
 「しょうにん(上人)の、わたらせ給わんところには、人は、いかにも申せ、たとい、あくどう(悪道)にわたらせ給べしと申とも」
と決着したのであった、とあります。
 これが恵信尼のあげる第一の(あかし)であります。

第二のあかし
 そして、第二には、常陸(ひたち)、いまの茨城県の下妻(しもつま)というところでのことであります。そこで、恵信尼は、ある夢を見た。といいましても、それは、わたしたちが、昨夜こんな夢を見た、一昨夜あんな夢を見た、というような夢ではありません。
 それは、親鸞も恵信尼も、まだ関東地方に住んでいる頃のこと――、ですから、二人が関東に移り住んだ頃と、いま手紙を書いている弘長三年とでは、ほぼ五十年、約半世紀もの時の距たりがある。そして、恵信尼は、もう八十三歳のおばあさんになっているのです。しかし、だからといって、その夢は忘れられるものではない。どれだけ時間がたったからといって、どれだけ肉体が衰えたからといって、それで忘れてしまうような種類の夢ではない。
 それで、その夢というのは、こうなんです。堂供養(どうくよう)が行われているのであろうか、御堂は東向きに建っていて、その前には立燭(たてあかし)があった。そして、その西のところ、御堂の前に、鳥居のようなかたちのものがあって、横にわたしかけたものに、仏さまをかけてある。一体は、ただ光ばかりで、仏さまのお顔のようには見えない。もう一体の方は、ちゃんと仏さまのお顔に見える。
 「これは、いったい、なんという仏さまだろうか」というと、だれともわからぬが、声あって「あの光ばかりの仏さまは、法然上人である、勢至菩薩である」という。「では、いま一体は」というと「あれは、観音菩薩である、善信房――、つまり親鸞だよ」というので、うち驚いて夢さめた、と。まあ、こういうことは、他人にはいわないものだ。それに、わたしが「夫親鸞のことを観音菩薩として夢に見た」などといっても、人はほんとうにするものでもあるまい。だから、わたしは、法然上人のことだけを、夫に話したのだが、すると、親鸞は、こういわれた。「ゆめ(夢)には、しな(品)わい、あまたある中に、これぞ、じつむ(実夢)にてある」。夢には、いろんな夢があるけれども、あなたの見たのは、実夢――正夢(まさゆめ)というものだ、と。
 しかし、わたしは、夫親鸞――、つまり、あなたのことを、観音菩薩と見ましたということはとうとういわずに今日まできた。けれども、心では、そのことをずっと憶いつづけてきているのです、と。
 このように、恵信尼は、ほぼ半世紀もの間、じっと心に秘めて温めてきた、そのことを娘に書き送って、覚信尼の疑い惑いをはらそうとします。だから――、「されば()りんず(臨終)は、いか(如何)にもわたらせ給え、うたが(疑)い思いまいらせぬ――」。「ご臨終が、どのようなものだったにせよ、親鸞のご往生を疑うなどということはあらませぬ」と、平素から夫親鸞に寄せてきた絶対の信念を語るわけであります。

スバラしい信の世界
 そして、この、親鸞がなくなったことをめぐって、母と娘が手紙をやりとりした状景と、その心境というものを想い描いてみますと、「信じる」ということが、いかにスバラしい世界であるか、それに比べて、はからいでもって思い煩らう、疑い迷うということが、いかに孤独な、淋しいものであるか、ということを教えられるのであります。
 覚信尼の疑念というものは、さきほどから申しますように、わたしの臆測ですが、もしそうだとすると、覚信尼は、肉眼で父のすがたの見える臨終の床にはべっている。そして、恵信尼は、京都から幾百里も距たった越後にいる。また、おそらくは、京都と越後とに、別れ別れに生活するようになってから、もう十年、あるいはそれ以上にもなるのであろう。それなのに、同じ親鸞の死が、一方では惑いの心で受けとられ、他方では、疑いのない心で受けとられている。「同床異夢」ということばがあります。親子であっても、兄弟であっても、わたしたち、お互い同志のつながりが、ただ単に人間的なものでしかすぎないから、それは、一つの屋根の下で暮らしていても、お互いに別々の夢を見ているだけで終ってしまう。
 はからいの惑い疑いが、眼の前にいる親鸞と覚信尼を――、父と娘とを距てている。しかし、恵信尼は、遙かに離れた越後から、京都の親鸞に心を通わせている。妻と夫は、一つの信心で結ばれている。しかも、その妻恵信尼の信念は、また母の愛として、いま娘覚信尼の惑いを解き、疑いをはらすのである、と、このようなことを、その一通の手紙から教えられるのであります。

結婚について
 さて、話が横道にそれましたが、その手紙によってわかりますように、親鸞は、法然上人をたずねるについては、ずいぶん苦しみ悩んだわけであります。それでは、いったい、それほどまでに問題となったのは、どういうことだったのか、と考えてみますとさきほども申しましたように、それは「宿業本能」であった、と思われます。
 そして、その宿業本能というものは、聖道門の修行を根底からダメにしてしまうようなものですが、それは、青年親鸞にしてみれば、たとえば異性にたいする態度の決定というようなかたちで、具体的に問題になったのでしょう。
 その宿業本能の問題に、このまま(きぬ)を着せて、美しく装って生きるのか。そのようなことが、はたして可能なのであろうか。もし、かりに、そうすることができたとしても、それは、自分の正直な気持ちを偽って生きること、ゴマ化して生きることではないのか。自分は、素直に、宿業本能にしたがって生きる道を選ぶべきではないのか。しかし、そうなれば、仏道はどうなるのか。さとりはどうなるのか。救いはどうなるのか――、と。おそらく、六角堂の参籠は、このような激しい心の戦いであったろう、と思われるのであります。
 結婚の問題ということになりますと、ここには、わたしたちの先輩がおられますから、口はばったいことはいえません。そして、結婚については、歴史的にみても、いろいろ考え方が変わってきています。また、世界各地の、さまざまな国、さまざまな民族によっても、結婚観は違っていますし、同じ国民の間でも、人によって考えが違うということもあります。それにしても、結婚を語るということは、とくに未婚の若い人たちにとっては、未来の楽しい夢である、心のときめくような楽しい話題である、といえましょう。
 人間一生の間に、計画的に二度、結婚するのがよろしい、などという結婚観が、大マジメに提唱されているのを耳にします。が、まあ、そんな方に脱線しておっては、話が進みませんから、それには触れないことにしますが、こんにちでは、男女関係について、享楽とか、遊びの要素が強くなってきている、ということが問題とされています。しかし、よく考えてみますと、この人生に、単なる享楽や遊びなどはない。だから、プレイボーイなどということばがありますけれども、人間ならば、みな、自業自得の道理にしたがって生きているのであります。

親鸞の結婚観
 さて、それで親鸞の結婚観ですが、親鸞は、女性と結ばれることを「女犯(にょぼん)」ということばであらわしております。結婚というものは、男性と女性とが相寄って共同生活をいとなむことであるが、ただ共同して生活する、というだけではすまされない。それは、とりもなおさず女犯にほかならない。だから、その生活の場が、ときには修羅場ともなるではないか、畜生ともなり餓鬼ともなるではないか。結婚ということは、そういう人生問題のタネをもっているのである、と、そういうことを親鸞は、真剣に考えずにはおれなかったわけです。
 伝えられるところによりますと、親鸞は、結婚に先だって、「そなたは、観音菩薩の変身(かわりみ)であるところの女性と結ばれるであろう」というような予言を聞いた、といいます。そして、やがて、その予言のとおりに結婚した、と。このような話を聞きますと、みなさんは、あるいは「バカな話だ」と思われるかも知れません。「人間が、観音さまの変身と結婚するなんて――」と。とかく、こういうことは、「バカな――」と一笑に附されてしまうか、あるいは「イヤ、そうではない、親鸞聖人は、ただ人ではなかったということだ」と、それによって、親鸞を神聖化するか。そのいずれかに解されやすいと思います。
 しかし、親鸞は、妻の恵信尼と共に、いわゆる聖者ではありませんでした。いうまでもなく、二人は、宿業に生きる凡夫でありました。その証拠に、八十歳を過ぎてから義絶――、勘当しなければならぬような、善鸞という子を生んでいたのであります。それでは、親鸞は、女性の誘惑に負けて、仏道に失格して堕落した人だったのか。たしかに、ある意味では、そういう一面があった。けれども、親鸞は、ただ誘惑に負けて堕落したのではない。善人ズラをしている仮面がはげて、落ちて落ちて、落ち切った。素はだかになって、本能の大地に立った。

「念仏が称えられるように生きよ」
 そして、その本能の大地に帰ってみると、そこに、真正直に人として生きる道がある、と、教える声が聞こえてきた。すなわち、それが、法然の「ただ念仏」という教えだったのであります。法然は、善人とか悪人とか、身分が高いとか低いとか、女性であるとか男性であるとか、そんな差別は一切しないで、ただ一筋に「すくい」を説かれる。「生死出ずべき道」をお説きになる。法然は、たとえば、
 「現世をすぐべきようは、念仏の申されんようにすぐべし。念仏のさまたげになりぬべくば、なになりとも、よろずをいといすてて、これをとどむべし」
と、教えられたといいます。要するに、この世での生き方というものは、念仏の称えられるように生きるべきである。念仏のさまたげになるようなものは、どんなものでも、みなすててしまってかまわない、と。
 だから、「ひじり(聖)で申されずば、め(女、妻)をもうけて申すべし。()をもうけて申されずば、ひじり(聖)にて申すべし。住所(じゅうしょ)にて申されずば、流行(るぎょう)して申すべし。流行して申されずば、家にいて申すべし。……一人して申されずば、同朋とともに申すべし。共行(ぐぎょう)して申されずば、一人籠居(ろうきょ)して申すべし。衣食住の三は、念仏の助業(じょごう)なり」。要するに、ただ念仏に生きよ、と。
 親鸞は、このような教えを、百か日の間、照る日も降る日も、吉水に出かけて、真剣に聞いたのであります。もっとも、親鸞は、法然と出会ったその刹那(せつな)に「ああ、この人こそは――、この人の教えこそは――」と、直観的、本能的にうなずいたでありましょう。が、その直観的、本能的なうなずきを、心にしっかりとたしかめるために、親鸞は、聞いて聞いて、聞きぬいた。そして、「この人の行かれるところなら、たとえ地獄へでも、ついて行こう」と、その生涯が決定した。そして、この教えによって、親鸞の異性にたいする態度というものも、おのずから決着したのである、と思われるのであります。

四句の偈文
 その親鸞の結婚について考えるための、一つの手がかりになるものが、いわゆる「四句(しく)()」とよばれる偈文(げもん)、つまり、「親鸞夢記(むき)」といわれるところの、
  行者(ぎょうじゃ)宿報(しゅくほう)設女犯(せつにょぼん)  行者、宿報にて(たと)女犯(にょほん)すとも
  我成(がじょう)玉女(ぎょくにょ)身被犯(しんぴぼん)  我、玉女(ぎょくにょ)の身と成りて、(ほん)せられん。
  一生之間(いっしょうしけん)能荘厳(のうしょうごん)  一生の間、()く荘厳して、
  臨終(りんじゅう)引導(いんどう)生極楽(しょうごくらく)  臨終に引導して、極楽に生ぜしむ。
という偈文であります。
 ここに「行者」というのは、親鸞のこと。第八章に「念仏は、行者のために」とありますが、つまり「行者親鸞よ、ということ」「そなたは、宿報――、過去において、かえってなした行いの報い(宿世の業報)として、宿世の約束として、たとい女性と結ばれることになろうとも、我――、菩薩観音が、玉女の身となって、そなたの相対となろう。そして、一生の間、妻として、そなたに(つか)え、いのち終わるときには、共にアミダの世界へ生まれよう」と。
 実は、これが、さきほどお話した予言、結婚に先だって聞いたという予言でありますが、ここで、注意せねばならぬのは、この偈文が、「親鸞夢記」と呼ばれていること、つまり親鸞は、この偈文を、夢の告げとして聞いていることであります。

夢告は本能のよびかけである
 この夢――、ということばは、こんにちでは、いろんな意味に使います。現代は、夢の失われた時代だ、ともいわれます。あるいは、夢のある生活とか、夢のない人生とか、と。わたしの中学時代、いつも親しくして、リクツをこね合っていた友だちが、よく「夢のない人生なんて、つまらぬ」といっていたのを思い出すのですがふつう一般には、理想とか希望とか期待ということと、そして夢ということを、よく似たことばとして用いるようです。あるいは、また 「夢のように、はかない人生」などともいいます。
 しかし、いま親鸞が聞いたという「夢想の告げ」というのは、そういう夢まぼろしのような想い、ということではありません。それは、われわれの、いわゆる意識が眠っていても、休まずにはたらいているような、深い意識、深層の意識におけるできごとであります。つまり、わたしがわたしだと思っているよりも、よりわたし自身に近いところ、すなわち、存在の根源から語りかけられる声であります。すなわち、夢告は、「本能のよびかけ」ともいうべきものであり、したがって、夢告を聞くということは、「本能のうなずき」とでもいうべき出来事であります。
 正親(おおぎ)含英(がんえい)という先生の書かれた「夢告に(おも)う」という論文をみますと、
 「夢を夢として語るのは、夢からさめて語りうるのである。夢として語れば、夢もまた真実である。夢にはじ夢にいたむというとき、夢は事実よりも、更に深いその人の影を語りあらわすこととなる。とすれば、夢にもその人の人間像があり、影がある――」
といってあります。

亀井勝一郎の「親鸞」から
 そして、また亀井勝一郎氏は、その著『親鸞』において、「夢の中に、神仏祖先の霊があらわれて、親しくなにごとかを告げるという古来の物語は、決して荒唐(こうとう)無稽(むけい)な作為ではない。深い眠り――切を忘却して無心になった刹那(せつな)――それは祈りの深さに似ているのであるが――この眠りの(うら)に、はっきり覚醒しているものがあるに相違ない。我々が平生、醒めていると自覚しているとき、却って、さまざまの邪念に妨げられているようである」といい、そうしてさらに、
 「自分のはからいによって、是非分別し、これを覚醒と思いこんでいる。しかし、真の覚醒は自力一切から離れた刹那である。……そうしてみれば、覚醒とはおよそ反対にみえる眠りの裡にこそ、ほんとうに覚醒しているものがあるはずだ。夢告とは、かかる覚醒の間に聞いた言葉であるに相違ない」
と述べております。この「夢」ということが、親鸞の生涯をかえりみますというと、きわめて大切な意味をもつのである、と考えられるのであります。
 親鸞の「伝記」の一つに『高田開山親鸞聖人正統伝』というのがあります。それによりますと、そもそも親鸞その人が夢告によって誕生した、母の吉光女(きっこうにょ)が、夢告によって親鸞を胎に宿した、という伝説が語られてあります。これについて亀井氏は「子を生もうとするときの母親の心が、生まれてくる子供の心に影響を与える、というのはほんとうだ。信心ぶかい母が、祈りによって自らの心を浄化するならば、そこに宿る胎児のいのちも、いやが上に浄化されるのは、当然である。……夢告誕生の真義は、母の祈りによって入胎生育した子は、美しいということだ」といっております。

夢にはじまり夢におわった生涯
 そして、その『親鸞聖人正統伝』によりますと、二十九歳の六角堂参籠にさきだって、十九歳のとき、礎長(しなが)の聖徳太子の御廟(大阪府南河内郡太子町の叡福寺)に参籠された。そのときに聞かれたという夢告があります。
 あの映画「親鸞」をみられた人は、おぼえておられるでしょう。中村錦之助の扮する「親鸞」が、うす暗い廟窟(びょうくつ)で、一心に祈願している。すると、やがて、御霊廟にちかい古壁に、なにか無数の蜘蛛(くも)のようにうごめくものがある。そして、それが次第にスクリーン大写しになる――。つまり、あれは、吉川英治の小説を映画化して、ああいうふうに表現したわけです。
 では、そのとき親鸞が聞いた夢告というのは、どういうものであったか、といいますと、それは、
  我が三尊(さんぞん)塵沙界(じんじゃかい)を化す、
  日域(じちいき)は大乗相応の地なり、
  (あきら)かに聴け、諦かに聴け、我が教令(きょうれい)を、
  汝の命根(みょうこん)、まさに十余歳なるべし、
  命終りて、(すみや)かに浄土に入らむ。
  善信、善信、真の菩薩
と、このようなことばであったといいます。
 それから、また、親鸞が八十五歳のときに感得したという「和讃」があります。それは、つまり『正像末和讃』ですが、それをみますと、
  康元二歳丁巳(ひのとみ)二月九日()寅時(とらのとき)夢告云(ゆめにつげていわく)
  弥陀の本願信ずべし  本願信ずるひとはみな
  摂取不捨の利益(りやく)にて  無上覚(むじょうがく)をばさとるなり
と。ここに、はっきり「夢に告げて云く」とあります。
 また、夢といえば、恵信尼の手紙に「寛喜(かんぎ)三年」(一二三一年)、親鸞が五十九歳のとき、病の床に臥して、一つの夢を見た、ということが記されてありますが、それについては、また機会をみてお話することにいたしましょう。ともかく、このように、親鸞の生涯は、夢にはじまり、夢に終った、ということさえできるのであります。そして、この親鸞の聞きとった夢告は、宿業の身にうなずく本能の声である、ことばをかえていえば、存在の故郷の声である、といえましょう。

親鸞はいつ結婚したのか
 さきほどの「四句の偈」も、そのような意味での夢の告げとして聞いたのでありますが、この偈文は、本願寺第三代の覚如が作った親鸞の「伝記」これを『本願寺聖人(親鸞)伝絵(でんね)』といいますが、このなかにも出てきます。それをみますと、
 「建仁三年辛酉(かのとのとり)、四月五日の夜、寅の時、聖人(親鸞)夢想の告ましましき」。
 ここに、建仁三年の干支が「辛酉」となっていますが、辛酉(しんゆう)ならば建仁元年、親鸞二十九歳で法然上人をたずねた年であり、もし建仁三年なら、親鸞は三十一歳で、干支は「癸亥(きがい)」でなければならない、ということが、一つ問題になるのであります。つまり、夢想の告げによって「四句の偈」を聞いたのは、二十九歳であったか、それとも三十一歳であったか。ということは、法然をたずねた年か、それとも、宮水の門をくぐって後のことか、という問題であります。
 それがはっきりするためには、さきほど申しました恵信尼の手紙に、
 「この文は、夫親鸞が、六角堂に百日こもられた、その九十五日目の暁に、聖徳太子の示現をうけられましたが、そのときの文です。どうか、ごらんください」
という意味のことばがあるのです。だから、それがあればいいのですが、その肝心の「この文」がなくなって、見あたらない。それで、歴史学者の間でも、このことが、いろいろ議論されておるのであります。
 しかし、ここでは、そういう学者の意見をお話している時間はありませんから、そのことは略したいと思います。が、ただ、それについて京都大学の赤松俊秀氏は「六角堂の参籠のときの偈は、行者宿報設女犯の偈であると思う」といっておられる。とすれば、親鸞は、比叡山に身をおきながら、すでに、宿業本能の問題を、異性にたいする態度の決定、つまり結婚問題として悩んだ、そうして六角堂にこもり、夢想の告げとして、聖徳太子の勧めを聞いて、法然をたずね、やがて結婚にも踏み切っていった、ということになる。が、しかし、ただこれだけの史料では、親鸞が京都にいる頃、つまり二十九歳から三十五歳までの間に結婚したのか、あるいは、三十五歳を過ぎて越後へ流罪になってから結婚したのか、ということを断定することはできないわけであります。ですから、いまは、その問題を謎として、未解決のまま残すことにいたします。

「愚禿釈親鸞」という名の人生
 要するに親鸞は、その結婚に先だって、このような夢告を聞いた、ということは事実であります。夢告を聞いて、そうして結婚に踏み切っていった。ところが、この「四句の偈」の内容が、あまりにも強烈なために、これを親鸞のことばだとするのを差し控えた時代もありました。しかし、それも、先年、一身田(いっしんでん)専修寺(せんじゅじ)から、親鸞の真筆と推定される「四句の偈」が発見されておりますから、それは事実だといってもいいわけであります。
 そうだとしますと、親鸞は、やがて結婚する女性から、観音菩薩の声を聞くことになる。具体的に申しますと、妻の恵信尼から、観音菩薩の声を聞いた。だからこそ、また妻の恵信尼も、親鸞につれそって生活を共にするなかから、夫の親鸞を観音菩薩と拝めるような人にまでなったのでしょう。
 親鸞という人は、妻をめとり、子をもうけ、その周辺にはたくさんの同朋を持っていましたがそういう人たちに向って、教える立場に立つということはなかった。「親鸞は、弟子一人ももたず」で、むしろ、あらゆるものから教えの聞けるような人であった。妻の恵信尼からは、アミダの慈悲のはたらきを、観音菩薩の声として聞いたのであった。そして、意信尼は、そのような親鸞に、かえって深く教えられ育てられていくのであった。だから、ここには、教えようとするものが、人に教えるのではない。教えに教えられつつある人のみが、人に教えるのである。ことばをかえていえば、拝むことのできるところに、拝まれるものがあるという、そういう世界が語られているのである、と、このように思います。
 だいたい、このような結婚観というものは、それまでにはなかったことであります。親鸞は、僧侶として、はじめて肉食(にくじき)妻帯したといいますが、それ以前にも、事実上の結婚をしていた僧侶は、いくらもありました。ただ、親鸞は、公然と妻帯して結婚生活に入っていった。そうして、そのような自分を「愚禿釈親鸞」と呼び、「僧にあらず、俗にあらず」と見定めていたのであります。

業縁のなかにあらわれた玉女
 たしかに女犯(にょぼん)の問題は、人間を誘惑し、人間を堕落させるものである、ともいえましょう。しかし、それは、聖者における人間観であり、また、聖者の宗教観であります。けれども、たといそれが堕落であっても、女犯することを離れては、生きることのできないもの、それが、正直にみた人間のあらわな現実であります。だから念仏は、こういうあり方にある人間を、全面的に認めて、この現実を、仏道の行われる場に転ずる。つまり、念仏は、人間の隠し持つ恥部まで含めて、人間を、全人的に救うのであります。
 考えてみますと、わたしたち人間と、性の問題とは、切っても切り離せない、強い絆で結ばれております。精神分析でも、そういう問題を重視するようですが、たとえばエディプス・コンプレックスなどということがいわれる。そういうことからも、人間は、業縁の存在である、ということを知らされるのであります。
 つまり、この人生が、業縁の人生だと思い知らされるのも、性の問題によってであります。だからこそ、わたしたちは、親鸞の生きた生き方を求めて、いよいよ念仏に徹底せずにはおれません。そして、また、念仏があるからこそ、この業縁のなかの女性が、親鸞のいうように「玉女(ぎょくにょ)」の意味をあらわす、業縁のなかの男性が、恵信尼のいうように、観音菩薩のはたらきを示す、と教えられるわけであります。たしかに、さきほどからお話しているような体験をした人は、親鸞がはじめてである。そういう意味では、それは、親鸞独自のものであります。しかし、そのことは、ひとたび明らかになってみれば、もう親鸞の専有物ではない。それは、親鸞の教えに学ぼうとするものにとっては、もはや、すでに公開された生き方である、といえましょう。すなわちそれは、真ッ正直に、素はだかで生きようとする万人に、共通の結婚観なのであります。
 さて、だいぶ時間もたってまいりましたので、もう一言だけ申して終ることにいたします。これまでの話で、おわかりのように、親鸞は、比叡山での生活の二十年を棄てて、念仏の教えに帰依したのでありますが、そこで問題となったのは、宿業本能ということであった。具体的には、夢告の語るような性の問題であった。それが、逐に本能の世界へ帰らずしては、安んずることができないようにしたのであった。
 しかし、そのことが、かえって親鸞に、新しい念仏の道を開くところの契機となって、そうして、九十年の生涯を終えるまで、その道が一貫して続く。妻帯し、子をもうけ、流浪するなど、さまざまな人生問題が起ってくるわけですが、そのたび毎に、「ああ、そうであった」と、念仏の教えが、いよいよ明らかにうなずかれてくる。「雑行(ぞうぎょう)を棄てて、本願に帰す」といった、あの出会いのときの「心のひるがえり」が、(あかし)されてくる。

「はからいがすたる」ということ
 でありますから、いま第八章に「念仏は、行者にとっては、いわゆる行でもなく、いわゆる善でもない。自分のはからいで行うのではないから、「行にあらず」というのである。自分のはからいで作る善ではないから「善にあらず」というのである」と。この「念仏は行者のために、非行・非善なり」ということばは、すでに、その出発点で感得したものでありましょうが、親鸞は、このことばの真実であることを身証するために、九十年の才月を生きたのでありました。
 考えてみれば、わたしたちは、自分のはからいでもって、善だとか悪だとか、行であるとか行でないとか、といって暮らしている。その、はからいでもって、自分の一番イタイところを包み隠して、そうして、善人ぶっている、賢者を装っている。しかし、どれだけ包んでみても、どれだけ隠してみても、その中味の正体を見ぬいている眼がある。「まるで素はだかと一緒だよ」という声が聞える。自分自身の内からの、本能の声が聞える。そして、そこに、その本能の大地を道とする念仏のはたらきがある。
 それで「ひとえに他力にして、自力を離れたるゆえに――」
 「念仏は、まったくアミダの本願の力、すなわち他力のはたらきであって、自力をはなれている。だから、念仏を称える人にとっては、行でもなく、善でもない」
 この「ひとえに他力にして――」と知るような生き方を「はからいのすたった生活」、「はだかの生活」というのであります。そして、素はだかの人生にはたらく力が、他力念仏のはたらきであります。それは、結婚の問題にかぎらず、人生のあらゆる問題を貫いて流れる力であります。
 したがって、念仏は「わたしの行でもなく、わたしの善でもない」。念仏は、アミダの本願であります。すなわち、この隠して生きるという「はからいのすたること」が、わたしにおける事実となること、それが、南無阿弥陀仏の念仏であります。だから、この念仏の心においては、どんなにささやかなことでも、どんなに愚かしくみえることでも、それぞれみな、意味のあること価値あることとして、それにベストをつくすことができるのであります。
 では、これで第八章のお話を終ることにいたします。  (昭和四〇・八・一八)


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