5 第八・九・十章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
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 5 第八・九・十章  
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  二 第九章の一  
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一 第八章 「はだかの生活」


     第八章の原文

一、念佛は行者(ぎょうじゃ)のために(一)非行(ひぎょう)(二)非善(ひぜん)(三)なり。(わが)はからい(四)にて(ぎょう)ずるにあらざれば、非行という。我はからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力(たりき)にして(五)自力(じりき)を離れたるゆえに、行者のためには非行・非善なりと云々(うんぬん)

     現代意訳

 念仏は、行者(ぎょうじゃ)にとっては、いわゆる行でもなく、いわゆる善でもない。自分のはからいで行うのではないから「行にあらず」というのである。自分のはからいで作る善でもないから「善にあらず」というのである。
 念仏は、まったくアミダの本願(ほんがん)の力、すなわち他力のはたらきであって、自力をはなれている。だから、念仏を(とな)える人にとっては、行でもなく、善でもない。
と聖人はおっしゃった。

     注  釈


(一)行者のために。
 ぎょうじゃ。念仏を信じ、念仏の道や行くものにとっては。「ために」は「とっては」「の立場からすれば」という意味です。
(二)非行。
 ひぎょう。行者の行(ぎょう)ではない。念仏は、アミダの本願のはたらきであるから、本願の行(ほんがんのぎょう)すなわち大行(だいぎょう)であって、行者の行ではない、自力の行ではない、ということ。
(三)非善。
 ひぜん。行者の善ではない。念仏は、アミダの本願のはたらきであるから、この行には、あらゆる善の本、あらゆる徳の本がそなわっているのである(行巻の取意)。だから、これは、行者の善ではない、自力の善ではない、ということ。
(四)我はからい。
 自分の思い。自力の分別(ふんべつ)。
(五)ひとえに他力にして。
 たりき。まったくアミダの本願の力、すなわち他力のはたらきであって、という意味。
 歎異抄には、くりかえし他力ということばが出てきますが、他力とは、他の力をあてにするような依頼心ではなく、アミダの本願の力である、ということを銘記せねばなりません。


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