第八章の原文
一、念佛は行者のために(一)、非行(二)・非善(三)なり。我はからい(四)にて行ずるにあらざれば、非行という。我はからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力にして(五)自力を離れたるゆえに、行者のためには非行・非善なりと云々。
現代意訳
念仏は、行者にとっては、いわゆる行でもなく、いわゆる善でもない。自分のはからいで行うのではないから「行にあらず」というのである。自分のはからいで作る善でもないから「善にあらず」というのである。
念仏は、まったくアミダの本願の力、すなわち他力のはたらきであって、自力をはなれている。だから、念仏を称える人にとっては、行でもなく、善でもない。
と聖人はおっしゃった。
注 釈
(一)行者のために。
ぎょうじゃ。念仏を信じ、念仏の道や行くものにとっては。「ために」は「とっては」「の立場からすれば」という意味です。
(二)非行。
ひぎょう。行者の行(ぎょう)ではない。念仏は、アミダの本願のはたらきであるから、本願の行(ほんがんのぎょう)すなわち大行(だいぎょう)であって、行者の行ではない、自力の行ではない、ということ。
(三)非善。
ひぜん。行者の善ではない。念仏は、アミダの本願のはたらきであるから、この行には、あらゆる善の本、あらゆる徳の本がそなわっているのである(行巻の取意)。だから、これは、行者の善ではない、自力の善ではない、ということ。
(四)我はからい。
自分の思い。自力の分別(ふんべつ)。
(五)ひとえに他力にして。
たりき。まったくアミダの本願の力、すなわち他力のはたらきであって、という意味。
歎異抄には、くりかえし他力ということばが出てきますが、他力とは、他の力をあてにするような依頼心ではなく、アミダの本願の力である、ということを銘記せねばなりません。
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