5 第八・九・十章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章  
 4 第六・七章  
 5 第八・九・十章  
 まえがき ◀ 
  一 第八章  
  二 第九章の一  
  三 第九章の二   
  四 第十章   
  補 説  
  あとがき  
  謝  辞  
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まえがき


【推薦のことば1】

 「歎異抄」は、日本でもっとも深い思想を展開することのできた古典の一つである。親鸞は、大きな戦争と激動の時代に生き、そのなかで自分自身が根底から揺すぶられ、また多くの人の苦難と死を身近にした人間として、この書物を生み出したのである。
 親鸞は、この本のなかで、大きく揺れ動きつづける人間の心をみつめ、その生死をきわめるために、全力をつくしている。それは、今日の大きな戦争を経て大きな戦争のつづいている現代に甦り、新しい生命をもって日本人を支える大きい力を内に蔵している。ここに新しい形式をもって、この「歎異抄」を現代に生々と生かす書物が現われた。私は、それを心から喜ぶ。
                                           作 家  野 間  宏


【推薦のことば2】

 四国の山の中の、西本願寺派の小さい末寺で生い育った私の、心をつちかってくれたのは、親鸞の『歎異抄』であった。『歎異抄』から教えられた一番大切なことは、まことの求道心のありかたということであった。
 「求道ということは、たたかい」である、とこの本の中で伊東さんは講述しているが、まったく同感である。日本のかたすみで、『歎異抄』を中心にして、このように真剣な求道のたたかいが続けられているということは、なんという有難いことだろう。ほんとうの文化の創造とは、こういうたたかいのことなのである。
                             二松学舎大学教授・文芸評論家 佐 古 純一郎


     ま え が き

 歎異抄前半の十章には、すでに周知のとおり、親鸞の教えの大綱と、宗教生活の問題点が、つぶさに明らかにされてあります。そして、それを一貫するのは、いうまでもなく筆者・唯円の「歎異の精神」でありますが、親鸞においては、それは「愚禿釈(ぐとくしゃく)」の自覚(すなわち、人間のおろかさに徹して人間を超えること)であった、といえましょう。
 人間のおろかさに徹するということは、ことばをかえていえば、人智(じんち)の「はからい」をすてることであります。これについて、清沢満之先生は、その絶筆「わが信念」のなかで、
 「知らざるを知らずとせよ、これ知れるなり」とは、実に人智の絶頂である。しかるに、われらは容易にこれに安住することができぬ。私のごときは、実におこがましい意見を抱いたことがありました。しかるに、信念の幸恵(こうけい)により、今は「愚痴(ぐち)の法然房」とか「愚禿の親鸞」とかいう言葉を、ありがたく喜ぶことが出来、また自分も真に無智(むち)をもって甘んずることが出来ることである。
といっておられます。
 わたしたちは、たとえ他人の眼をゴマ化すことはできても、自分自身を内から見る眼をゴマ化すことはできません。いわんや、アミダの智慧に照らされれば、この身は、あたかも素裸(すはだか)同然で有ります。にもかかわらず、わたしたちは、なお(さか)しらに装うことによって、つねに不安やおそれから解放されないでおります。このような生き方にたいして、親鸞は「(わが)はからい」をすてて「如来のはからい」に生かされて生きよ、と教えるのであります。
 そこで、この『歎異抄の世界』の第五巻では、まず第八章を「はだかの生活」と題して拝読しました。まことに親鸞の教える念仏の生活は、生命原初の赤裸(せきら)を失わぬウブな自信にあふれるものである、といわねばなりません。
 ところが、その信念のあゆみが新生命を生き切るためには、ただ一つの道に決定するゆるがぬ心(信)と、その心から湧き出るはげしい意欲(願)とが、堅持されていなくてはなりません。しかし、第九章に「久遠劫(くおんごう)より今まで流転(るてん)せる苦悩の旧里(きゅうり)はすてがたく――」といわれるように、迷いであると知りつつも愛着する無明の煩悩は、実に根深いものであります。それが「求道のあゆみ」をさまたげるかに思われます。
 けれども、ひるがえっておもえば、アミダの悲願は、このような「煩悩具足の凡夫」をたすけようとしておこされたものでありました。したがって、第九章では、「個人のこころ」にめざめるということは、ただ単に個人的意義にとどまるものではないということ、すなわち、その「めざめ」は、われわれをして、かぎりなく大きな歴史の流れに参加せしめるものであり、つねに新しく歴史を形成せしめるものである、と語るのであります。
 こうして、大智の「はからい」をまじえない純真の念仏は、遂にアミダの世界に到達するのでありますが、それを示すのが第十章の「自然法爾(じねんほうに)」であり、また師訓の全十章である、と解されるのであります。なお、このあとには、各巻と同様に「歎異抄の諸問題」を補説しましたが、ここには主として、第八・第九・第十の三章に関するものを収録いたしました。
 こうして、ここに第五巻を刊行して、ようやく『歎異抄の世界』第一部が完結いたします。思えば、さる昭和四十一年十一月、第一巻を出版して以来、わたくしたち「歎異抄に聞く会」の会員は、この書物をとおして、多くの先輩・同朋・読者のみなさんに出会うことができました。そして、さらに指導と啓発をうけ、激励と批判をいただきました。それについて、くわしくは「あとがき」に記したいと思いますが、お力ぞえいただいたみなさまには、心からありがたくお礼を申し上げます。

   一九六八年三月二一日

                                       京都上賀茂にて
                                          伊  東  慧  明


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