2 第七章について
a 親鸞の宗教観
第七章は、周知のとおり、
「念仏者は、無碍の一道なり」
という力強いことばにはじまります。すなわち、ここには、まず念仏の法そのものが高く掲げられてあるのであります。ところが、すぐそのあとに
「念仏を信ずる人にたいしては、天の神も地の神も深い敬意をよせ、悪魔や外道(異教)もさまたげをすることがない。いかなる罪悪も、その当然の結果をもたらさない。いかなる善行も念仏には、はるかに及ばない」
と述べられることから知られますように、この第七章には、親鸞の念仏観をとおして、さらに広く宗教というものをどのように了解するかという、親鸞の宗教観があらわされてある、といえましょう。
さて、この第七章における第一の問題は、冒頭の一句をどのように読むのか、という点であります。すなわち、「念仏者は」<念仏(者)は>というのは、「念仏なるものは」という意味であるのか、あるいは「念仏するひとは」ということであるのか、という問題であります。これについて、たとえば
一 念仏無碍章(念仏はさわりなきものである) 妙音院了祥
二 無碍の一道 金子 大栄・梅原 真隆
三 無二無三の一路 倉田 百三
四 念仏により生の自由を獲得する 小野清一郎
五 念仏者は自由人なり 蜂屋賢喜代
などということばをとおして、先輩たちそれぞれの見解を、うかがい知ることができましょう。
しかし、これは、曾我量深先生が『歎異抄聴記』において、
「ここに念仏者とある。ちょっとみると、念仏行者は、というようにみえるが……、これは、念仏なるものは、ということである」
といわれるように、まずもって念仏の法そのものが強調される、と解すべきでありましょう。これについて、多屋頼俊氏の国語学的ならびに書誌学的な研究書『歎異抄新註』に
「<者は>の<は>は、<者>を<は>と読むという意味で添えた送仮字である」
とあるのは、上記の了解の正しいことを助顕するものであります。
そして、「どうして念仏は、さわりのないただ一筋の白道であるか」ということについて、「そのいわれいかんとならば」と理由をおさえて、
「信心の行者には――」
と、念仏する人の宗教生活の内景が、きわめて具体的に示されてあるのであります。
したがって、ここにいわれる念仏は、その表現の展開から明らかにわかりますように、天神・地祇・魔界・外道・罪悪・諸善などと相対するものではありません。勿論、いうまでもなく、天神・地祇――などの宗教問題は、われわれの人生と深くかかわるものでありますが、念仏は、それら人生における宗教問題を、内に包んで無碍である、というのであります。でありますから、念仏が、天神・地祇――などに無碍であるということは、とりもなおきず人生に無碍である、ということをあらわすわけであります。念仏は、人生のあらゆる障害を転じて、それをそのまま、アミダの世界に到る道とするところの、絶対無二の法であります。これが、親鸞の念仏観であり宗教観であります。
これについて想い起されるのは、さきに述べた親鸞の「真の仏弟子」に関する解釈であります。「信の巻」をみますと、「真なるもの」のみが、ブッダ(仏陀)の弟子なのではない、とあります。そこでは、
「かりのもの(仮)というのは、聖道の仏教を信ずる人たちと、念仏しながら自力の心のすてきれぬ人たちである」(取意)
「いつわりのもの(偽)というのは、さまざまの間違った考え(六十二の悪見)、さまざまのよこしまな道(九十五種の邪道)である」(取意)
註 「仮と言うは、即ち是れ聖道の諸機、浄土の定散の機なり」(信の巻)
「偽と言うは、則ち六十二見、九十五種の邪道、是れなり」(信の巻)
と厳しく批判しながら、これら仮(かりのもの)と偽(いつわりのもの)を共にブッダ(仏陀)の弟子に加えて「仮の仏弟子」「偽の仏弟子」とするのであります。このことは、たとい「かりのもの」であっても、また「いつわりのもの」であっても、人間であるかぎりは、やがていつか、必ず「真なるもの」にめざめる可能性をもっている、という確信をあらわすものである、といえましょう。
念仏の法とは、そのようなはたらきをもつものであるというのが、「念仏は、無碍の一道なり」という親鸞の念仏観であります。そして、その「真の仏弟子」について解釈したところにおいて「金剛心の行人」と呼ばれた宗教者を、いま第七章では「信心の行者」というのであります。すなわち、「信心の行者」とは、無碍の一道(南無阿弥陀仏)を身に得たところの念仏者であります。
この、真仮、邪正について、親鸞は、『教行信証』の「後序」に、次のように述べて、徹底的な批判を加えております。
「ひそかに思うに、聖道の諸教(仮なるもの)は、行証(実践もさとりも)すでに廃れ、浄土の真宗は、証道(さとりの道)いま盛りである。しかるに、諸寺の僧侶は、真仮の別を知らず、京洛の儒者は、邪正の道に辨えがない」(金子大栄・口語訳教行信証)
註 「竊かに以れば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は、証道今盛なり。然るに、諸寺の釈門、教に昏くして、真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷うて、邪正の道路を弁うることなし」(後序)
と。また、「化身土の巻」をみますと、真偽について、
「もろもろの教説によって、真なるものと偽なるものを勘えて決定し、外教の邪執を教えて、誡めるならば」(取意)
註 「夫れ、諸の修多経に拠りて、真偽を勘決し、外教邪偽の異執を教誡せば」(化身土の巻)
と説いてあります。
そして、そのあとに「ブッダ(仏陀)の教えに帰依するものは、他の天の神などに帰供してはならぬ」という意味の『涅槃経』の文や、「念仏三昧の教えを聞いて学ぼうとするものは、仏・法・僧の三宝に帰命せよ。神がみを拝んではならぬ。日のよしあしに迷うてはならぬ」という意味の『般舟三昧経』の文を引いて、真偽の別を明らかにされるのであります。
しかし、それらの経典に「余道(仏教以外の道)につかえてはならぬ」とか「天(神がみ)を拝んではならぬ」という問題も、念仏者・親鸞にあっては、「余道(仏教以外の道)につかえる必要はない」「天(神がみ)を拝む必要はない」と解されておりました。それを証明するのが、この第七章であります。
そして、そのことを、さらに側面から明瞭にしたものに、『正像末和讃』の――、たとえば
九十五種世をけがす (九十五種の外道は世をけがす)
唯仏一道きよくます (ただブッダ<念仏>の一道のみがきよらかである)
菩提に出到してのみぞ (ブッダのさとりに到達してはじめて)
火宅の利益は自然なる (人生のほんとうの利益は、おのずから得られるのである)
という「和讃」があります。
そして、ここにいう利益を、さらに具体的に、われわれの生活に即して明らかにしたものが、『現世利益和讃』十五首であります。それをみますと、
天神地祇はことごとく 善鬼神となづけたり
これらの善神みなともに 念仏のひとをまもるなり
願力不思議の信心は 大菩提心なりければ
天地にみてる悪鬼神 みなことごとくおそるなり
などとありますが、この念仏の信心をうたいあげた「和讃」は、第七章の「天神・地祇も敬伏し魔界・外道も障碍することなし」という信念と、全く同一の心境を和讃したものである、といえましょう。
また「信の巻」には、
「金剛の真心(金剛のようにかたいアミダ真実の信念)を獲得した者は(金剛心の行人、すなわち信心の行者は)、横に(一念というみじかいあいだに、ただちに)、五趣八難の道(悪におもむく五つの道、ブッダの法からはなれる八つの道)を超え、必ず現生に十種の益(利益)を獲る」(取意)
註 「金剛の真心を獲得する者は、横に五趣八難の道を超え、必ず現生に十種の益を獲」(信の巻)
とあります。(本書第二巻、歎異抄の諸問題「5-d 信心とその利益」参照)
このことばと第七章とを読み比べてみますと、ここにも、「念仏者は、無碍の一道である」、すなわち「念仏は、人生問題・宗教問題を内に包んで、しかも、それらにさわりのない、ただ一筋の白道である」という、親鸞の念仏観・宗教観が明らかにされてある、と知ることができるのであります。
b 罪福信の克服
第七章の「念仏者は、無碍の一道なり」ということばは、親鸞の生涯を貫いて変わらぬ自信を端的にいいあらわしたものであります。だから、『教行信証』をはじめとする全著述は、このことばが、親鸞自身と一味一枚のものであるということを明らかにするためのものであった、とさえいうこともできましょう。
親鸞の九十年の生涯は、この短い一句によって語り尽くされているのであります。すなわち、親鸞は、多岐多難であった生活の体験を、そのよりどころであるところの念仏の大法に帰して、「念仏者は、無碍の一道である」と表白するのであります。
しかし、第七章においては、その念仏、すなわち無碍の一道に帰依することのみが語られているのではありません。ここには、「念仏もうす」現実生活の場が、天神・地祇――などの諸問題として明らかにされてあるのであります。したがって、これらの諸問題は、「念仏もうす身となる」ことを求めずにおれなくするところの、人生の現実であります。そして、念仏は、これらの諸問題の正体を明らかにして、諸問題から救済するところの、アミダの大法であります。
親鸞の『教行信証』その他の全著述は、この人生とアミダとのかかわりを明らかにするものでありますが、ことに「化身土の巻」を見ますと、その「末巻」には、仏教の経・論・釈のみでなく、外典であるところの孔子の『論語』まで引用して、天神・地祇・魔界・外道と念仏について、つぶさに説かれてあります。(ことに孔子の人間観と親鸞の人間観について、本書第三巻一「神の宗教と開神の宗教」参照)。
また、その「本巻」には、『観無量寿経』と『阿弥陀経』によりながら、罪悪・諸善について明らかにすると共に、それにたいする徹底的な批判が、親鸞の自己批判をとおして語られているのであります。
そこには、人生とアミダとのかかわりにおける多くの重要な問題が提起されると共に、その問題の解決が示されてありますが、その中でも、とりわけ大切なものは、「罪福を信ずる心と、それを克服する道について」であるといえましょう。
われわれ人間の、罪福を信ずる心が、天神・地祇をたのみ、魔界・外道にまどうのでありますが、親鸞の教えによれば、罪福を信ずる心は、それのみならず、ブッダ(仏陀)の教法を求めるところにもある、念仏してすくわれようとするところにもひそんでいる、というのであります。それを「和讃」には、次のようにいってあります。
罪福信ずる行者は (罪福を信ずる心で宗教を求める人は)
仏智の不思議をうたがいて(ブッダの智慧の不思議なはたらきを疑って)
疑城胎宮にとどまれば (疑いの城にとじこめられるから)
三宝にはなれたてまつる (仏法僧の三宝にあうことができない)
と。これによってわかりますように、「罪福を信ずる」ということと、「ブッダの智慧を疑う」ということは、深い関連があります。そして、その仏智(ブッダの智慧)を疑う罪の罰として、疑城胎宮にとどまり(あたかも母の胎内にあるように、疑いの城にとじこめられて、広い世界に出られないで)、仏・法・僧の三宝にはなれるのであります。それを、また
仏智疑惑のつみにより (ブッダの智慧を疑う罪によって)
懈慢辺地にとまるなり (自己満足におちこみ、孤独になやむのである)
疑惑のつみのふかきゆえ (疑いの罪が深いから)
年歳劫数をふるととく(罪をつぐなうのに長い長い時間がかかる、と経典に説かれている)
ともいい、あるいは、
自力諸善のひとはみな (自力をたのんで善を行う人は、みな)
仏智の不思議をうたがえば(ブッダの智慧の不思議なはたらきを疑うから)
自業自得の道理にて (自分のなした行いの結果は必ず自分に得る、という道理によって)
七宝の獄にぞいりにける (七宝の牢獄につながれる身となる)
ともいうのであります。
ブッダ(仏陀)の正しい教えによれば、天神・地祇をおそれ、魔界・外道にまどわされるような生き方を「迷い」であるといいますが、その「迷い」の原因は、煩悩であります。そして、ことに煩悩の根本となるものを、無明(愚痴・ぐち)といいます。したがって、天神・地祇、を信ずるということは、この無明における信仰である、といえましょう。
智慧のない無明の眼をもって、神がみや悪魔や外道をみる。無明の破れぬ心でもって、仏道を求める。これが、罪福信仰であります。ブッダ(仏陀)は、このような生き方、あり方を人びとに示して、それからの解放を説きます。釈迦牟尼仏は、ブッダ(仏陀)の智慧をもって、阿弥陀仏の智慧の光明のみが、よく無明の黒闇を照破する、と教えるのであります。それゆえに、親鸞は、そのブッダ(仏陀)の教えにしたがって、アミダの智慧(仏智)を信じ、念仏もうして、罪福信を克服するのである、といいます。これを「念仏者は、無碍の一道である」というのであります。
伊 東 慧 明(いとう えみょう)
1930年 三重県松阪市に生まれる
1953年 大谷大学文学部卒業
1962年 大谷大学大学院文学研究科 真宗学専攻 博士課程終業
現 在 大谷大学助教授
著 書 「阿弥陀経に聞く」(教育新潮社)
歎異抄の世界 4
昭和42年11月20日 初版発行
¥ 300
著 者 伊 東 慧 明
発行者 田 中 茂 夫
印刷所 中村印刷株式会社
発行所 文 栄 堂 書 店
京都市中京区寺町通三条上ル
振替京都2948
電話(23)4712
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