4 第六・七章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章  
 4 第六・七章  
 まえがき  
  一 第六章の一  
  二 第六章の二  
  三 第七章の一   
  四 第七章の二
  補 説  
   1 第六章について
   2 第七章について
 5 第八・九・十章  
  謝  辞  
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 補説 歎異抄の諸問題


   
1 第六章について

     a 親鸞の社会観

 「親鸞は、弟子一人(いちにん)ももたずそうろう」
と断言して、人生における師弟・友人の関係が語られる第六章には、人間と人間の基本的な関係が明らかにされてあります。したがって、ここには、ブッダ(仏陀)の智慧によって見開かれた親鸞の社会観(世界観)が述べられてある、といえましょう。
 従来、第六章は、さきの第四章・第五章と、内面的に深い関係がある、と解されています。これについては、すでに本書の第二巻(歎異抄の諸問題2-c)および第三巻(歎異抄の諸問題2-a)において述べたのでありますが、まず第四章には、愛(慈悲)の真実が明らかにされてあります。すなわち、そこでは
 「慈悲に聖道(しょうどう)浄土(じょうど)のかわりめあり」
と、聖道(自力)の愛と浄土(他力)の愛とを相対させながら、「だから、念仏を称えることだけが、ほんとうに徹底した大慈悲の心、すなわち愛の真実である」と結論されてありました。
 これは『観無量寿経』の「慈心不殺(ふせつ)」(慈しみの心をもって、殺生してはならない)という教えによって、愛の真実(いのちの真実)がなにであるのかを知らせながら、やがて、われわれ人間のいのちの根源(すなわちアミダ)にめざましめようとするものであります。したがって、これは、仏教の生命観、親鸞の生命観を明らかにするものであると了解されます。
 ついで、第五章では「孝養(きょうよう)父母(ぶも)」(父母に孝養せよ)という教えによりながら、「親鸞は、父母への追善(ついぜん)供養(くよう)として、まだ一度も念仏を(とな)えたことはない」と、エゴイスティックな心の執われが否定されます。そして、
 「すべて生あるものは、みな、長き世をかけて生まれかわる間に、互いに父母ともなり兄弟ともなってきたのである」
と述べて、深遠なアミダの愛(無縁の慈悲)に導くのであります。したがって、ここには、親鸞の歴史観(世界観)が説かれるのである、といえましょう。
 第六章は、それを承けて「奉事(ぶじ)師長(しちょう)」(師長に奉事せよ)という教えによりながら、だからといって「これは自分の弟子だ、かれは他人の弟子だ、という争いがあるとは、全く、とんでもないことである。親鸞は、弟子一人ももっていない」というのであります。そして、
 「自然の道理にかなうならば(すなわち、アミダの本願のはたらきにしたがうならば)、ブッダの恩をも知り、また師の恩をも知るはずである」
と結論して、真に師を師とし、友を友とする道が明らかにされてあります。これは、いのちの真実(アミダ)にめざめ(第四章)、真実のいのちの歴史にめされるものは(第五章)、また、いのちの無限のひろがりを知るものである(第六章)ということをあらわすのであります。その意味において、ここには、親鸞の社会観(世界観)が語られている、と了解するわけであります。
 以上のように、四・五・六の三章は、一応は『観無量寿経』の三福(さんぷく)(世福・戒福・行福)を手がかりとして説かれるのでありますが、これらは、次第の如く、愛の真実(慈悲すなわち寿命の真実)が、時間的・空間的に、無限であり無量であることを示すのであります。
 この無限・無量をアミダというのでありますが、相対有限の人生に表われる絶対無限のアミダは「南無阿弥陀仏」すなわち念仏であります。したがって、第四章には
 「念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろう」
といい、第五章には
 「父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」
と語られます。そして第六章では
 「ひとえに弥陀(みだ)(おん)もよおしにあずかりて、念仏もうしそうろう人を――」
といわれます。これらは、アミダの智慧ある愛のはたらきによって「念仏もうす」ことのみが、この人生に身をおきながら、深く()つ広い愛の真実を実現する道である、ということを教示するものであります。
 ところが、『観無量寿経』の三福と、四・五・六章との関係に着眼しながらも、第六章は、世福第二の「奉事師長」(師長に奉事せよ)という教えによるものではない、という見解があります。これについて、了祥師は、第六章は行福のなかの「勧進(かんじん)行者」(行者を勧進す)ということばによるものであるとして、これを
 誡諍(かいじょう)弟子章(弟子のあらそいを(いさ)めるところ)
ととらえております。
 これは、歎異抄の研究に生涯を賭けた了祥師の説として、われわれは、これに敬聴の耳をかたむけねばなりません。先輩たちの見解に導かれてこそ、われわれの了解も、独りよがりな独断を離れて、正しく育てられていくのであります。このことは、教学(きょうがく)する(教えに学ぶ)ものの態度として、ことに留意すべき点であろうと思います。
 では、他の先輩たちは、この第六章を、どのように読まれたのでありましょうか。たとえば
  一 師弟の縁          金子 大栄
  二 聖人の師弟観        蜂屋賢喜代
  三 弟子一人も無し       倉田 百三
  四 念仏者の倫理と他力の信   小野清一郎
  五 同朋(どうぼう)同行          梅原 真隆
などがあります。これを、わたしは、「みな友である世界」と「人生の教師」という二つのテーマで拝読したのでありますが、われわれは、先輩たちの見解を尊重しながら、しかも、自分自身にうなずくことのできるところまで、深く徹底して読まねばならぬ、と思います。ここに「歎異抄に聞く」という、われわれの課題があるのでありましょう。

     b 念仏の生活

 さきに述べたとおり、第六章を、前の二章との関連においてみれば、ここには、親鸞の社会観(世界観)が明らかにされてある、と読みとることができるのであります。ところが、これは、師訓十章の前五章が終って、後五章が説かれるところに位置するのである、という点に着眼してみますと、この章以降には、ことに「念仏の生活」が明示されてあることに気づくでありましょう。(本書第二巻、歎異抄の諸問題「4-b 往還二廻向と念仏生活」参照)
 まず、師訓(しくん)十章においては、親鸞によって開願された浄土真宗の大綱が示されてあります。すなわち、それは、浄土真実の教(第一章)と、真実の行(第二章)と、真実の信(第三章)と、真実の証(第四章)との往相(おうそう)廻向(えこう)、ならびに還相(げんそう)廻向(えこう)(第五章)の、二種の廻向であります。
 往相廻向というのは、この動乱して果てしのない現世を超えて、アミダ永遠の平和に向うことであり、還相廻向というのは、アミダ絶対のさとりを身に得て、この苦悩の人生に順応することであります。すなわち、自己自身が「すくわれる」はたらきを往相といい、人びとを「すくう」はたらきを還相というのであります。
 したがって、われわれがすくわれていくためには、まず往くべき道を教示する教えが明瞭でなければなりません。アミダの真実に到達する道を指し示すものは、真実の教えであります。それを述べるのが第一章であります。ついで第二章には、現に今、教えの実践されつつある大行(だいぎょう)(念仏)の歴史を説き、第三章には、教えの信知される大信(だいしん)の自覚が明らかにされます。そして、第四章には、往相道の極究であるところの「真実の証り」が、慈悲の問題として述べられるのであります。
 慈悲の心とは、自己自身にさとりを求め、求め得たさとりを他にわかつ心、すなわち、自他を共に「すくう心」であります。したがって、慈悲とは、換言すれば、菩提心であります。『教行信証』の「信の巻」をみますと、アミダよりたまわる「真実の信心」について
 「真実の信心は、すなわち金剛心(こんごうしん)であり、金剛心は、すなわち願作仏心(がんさぶっしん)(みずからがブッダとなろうとする心)であり、願作仏心は、すなわち度衆生心(どしゅじょうしん)(人びとをすくおうとする心)であり、度衆生心は、すなわち衆生を摂取して、安楽浄土(アミダの世界)に生ぜしむる心である。この心は、すなわち大菩提心(だいぼだいしん)であり、この心は、すなわち大慈悲心である」(取意)
 
註 「真実信心は即ち是れ金剛心(こんごうしん)なり、金剛心は即ち是れ願作仏(がんさぶつ)(しん)なり、願作仏心は即ち是れ度衆生(どしゅじょう)(しん)なり、度衆生心は即ち是れ衆生を摂取して、安楽浄土に生ぜしむる心なり、是の心は即ち是れ(だい)菩提心(ぼだいしん)なり、是の心は即ち是れ大慈悲心なり」(信の巻)
と、親鸞独特の転釈(てんしゃく)をもって明らかにされてあるのであります。
 これによって知られますように、自他(じた)を「すくう心」は、「すくわれた心」でなければなりません。ブッダ(仏陀)となるのは、ブッダ(仏陀)の心であります。アミダ(如来)の世界に行くのは、アミダ(如来)よりたまわった信心であります。だから、親鸞は、「聖道の慈悲は、首尾一貫しない」と批判し、「念仏を称えて、ただちにアミダの浄土に生まれるものとなり、いそぎブッダとなって、大慈大悲の心を身に得て、思いのままに人びとを救うこと」すなわち、「念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべき」と断定するのであります。
 このように、一貫性を欠く慈悲の心は、菩提心すなわちブッダ(仏陀)となって人びとをすくう心の徹底しないことをあらわします。が、それにたいして「すえとおりたる」大慈悲心は、アミダの心であります。だから、親鸞は、まず念仏して、いそぎ往相道を極限にまで進み、アミダのさとり、浄土のさとりを身に得よ、と教えるのであります。
 それを承けて、第五章には、人びとを「すくう」という大きな課題にたいする答えが、明らかにされてあります。それが「真実の(さと)り」を得たところから展開する還相利他(さとりをあとにして、人びとをすくう)の道であります。つまり、還相というのは、自他を共に「すくう」菩提心が自己成就のさとりを背にして、永遠の未完成の旅に旅立つことである、といえましょうか。
 そのような課題について、親鸞は、われわれに身近かな、なき父母にたいする追善供養――にたいする孝養の問題を手がかりとして、見事な解答を示されます。すなわち、「すべて生あるものは、みな、長き世をかけて生まれかわる間に、互いに父母ともなり兄弟ともなってきたのである。だから、だれをもかれをも、念仏する人は来生(らいしょう)にブッダとなって、助けるはずである」と述べて、ここに、永遠無窮の「いのちの歴史」が開示されます。
 そして、いま現に、この身をもって生きつつあるわれわれのなすべきこととしては、結論的に
 「ただ、われわれにとって大切なことは、自力にたいする過信をすてて、ただちにアミダの浄土に生まれるものとなることである。浄土のさとりを開くならば、たとい地獄道でも、餓鬼道でも、また畜生道でも、どんな境遇で、どんな苦しみに沈んでいても、自由自在のはたらきで、まず身近なものから救うことができるからである」
というのであります。
 すでに第四章において、「念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益する」とありました。それは、いうまでもなく還相利他(すなわち愛の真実のはたらき)でありますが、第五章にも、「ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば――」
と述べて、なによりもさきに自己自身が、アミダのさとりを得るものとなれ、と教えているのであります。
 以上が、相互に深く関連する前五章の概略でありますが、これによって、まず親鸞の教える浄土真宗の大綱を明示して、自らに確認するのであります。そして、第六章以降の後五章には、その浄土真宗の教えに生かされて生きる人間の念仏生活が、つぶさに説き示されるわけであります。
 この後五章のうち、はじめの第六章には「親鸞は、弟子一人ももたず」という、親鸞の信念が表白されてあるのであります。このようにいい切ることができるということは、おそらく中国の曇鸞が
 「同一に念仏して、別の道なきがゆえに、遠く通ずるに、それ四海の内、みな兄弟となすなり」
というところの、念仏の世界観によるからでありましょう。ここには、念仏する人のすがたがつまびらかにされてあるのであります。
 「信の巻」をみますと、この、念仏する人、すなわち「ブッダの弟子とはどのような人か」ということが述べられています。そこに親鸞は『大無量寿経』の
 「法を聞きて、()く忘れず、見て敬い、得て大きに(よろこ)ばば、(すなわ)ち、我が善き親友(しんぬ)なり」
という経文などを引用して、「真の仏弟子」の、あるべきすがたを明らかにしています。そして
 「真の仏弟子(真実のブッダの弟子)とは、真は偽(いつわりのもの)でなく、仮(かりのもの)でないこと、弟子とは、釈迦・諸仏の弟子ということである。その真の仏弟子といわれるものはすなわち金剛心の行人(ぎょうにん)(金剛のような心でもって実践する人)である」(取意)
 
註 「真の仏弟子というは、真の言は偽に対し、仮に対する。弟子とは、釈迦・諸仏の弟子なり、金剛心の行人なり。斯の信・行に由りて、必ず大涅槃を超証すべきが故に、真の仏弟子と曰う」(信の巻)
というのであります。
 まことに師仏(人生の教師たるブッダ)によって、「わが善き親友」とされるからこそ、「弟子一人ももたず」「四海の内、みな兄弟」という世界に生きることができるのでありましょう。また、金剛心の行人(金剛のような心で実践する人)であるからこそ、「弟子一人ももたず」といいきる信念に生きることができるのでありましょう。このように、第六章には、自信ある人間のすがたが、端的に示されるのであります。
 このあと、第七章には、この人生に開顕された念仏の法を高く掲げて、「念仏者は、無碍の一道である」(念仏は、さわりのないただ一筋の白道(びゃくどう)である)と説いて、信心をすすめられます。そして、第八章では、「念仏は、念仏を称える人にとっては、いわゆる行でもなく、いわゆる善でもない」と述べて、その念仏の法が、絶対他力の大行であると明らかにされます。
 次いで、第九章は、この念仏生活の展開する過程における重要な問題――、つまり、求道における「個人のこころ」と「歴史のこころ」とのふれあいから生じるところの、信のまどいを解くのであります。こうして、第六章以後の各章において明らかにされた念仏生活の帰結するところが、師訓最後の第十章に、
 「念仏には、無義をもって義とす――」
と示されます。すなわち、念仏は、絶対無限のアミダの、自然法爾のはたらきである――、したがって、念仏の生活は、この相対有限の人生にありながら、絶対無限の功徳利益を受用して生きるところの、現生不退(げんしょうふたい)の生活(いま現に、ただちに、ふたたび退転しない位につき、やがて必ずブッダとなる)である、と教えられるのであります。


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