4 第六・七章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章  
 4 第六・七章  
 まえがき  
  一 第六章の一  
  二 第六章の二  
  三 第七章の一   
  四 第七章の二  
   案内・講師のことば
   講  話  
   座談会  
  補 説  
 5 第八・九・十章  
  謝  辞  
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四 第七章の二 「さわりなき道」


     座談会 「現代の願い」
                                        司会 高田 耕吉(酪農業)

 司会 今夜は、ぼくが司会をさせてもらいます。テーマは「現代の願い」ですが、みんなもっている自分の願いを、歯に衣きせずに、ぶちまけてもらって、有意義な座談会にしていただきたいと思います。

     人生の目的を発見したい

 司会 願いというものは、だれにでもあるわけです。それで、テーマは「現代の願い」ですが、まあ「ぼくの願いは、こういうことだ」というようなことから出してもらえば、面白いんじゃないか、と思います。森本君どうですか。
 森本国 これは、願いといえるのかどうか、わかりませんが、ぼくの場合、人生の目的を発見したいということです。中学を卒業して、すぐ教えられたことですが、人生で一番大切なのは、なんのために生きるか、そして、また、なんのために死んでいくか、という問題だと教えられました。そのときは、それで済んできたのですが、この頃、やはりそれが人生の目的やなあ、と思うのです。その解決というか、その道を発見するということが、現在の願いです。
 司会 これは、最初から、結論的というか、なかなかむつかしい願いが出ましたが――。
 中村常 テーマを決めるときには、「現代の願い」でなしに「わたしの願い」としたら――、という意見もあった。けど、現代の願いとした方が、問題が具体的で話しよいのでないか、ということで、こういうテーマになった。
 司会 まあ、あまりテーマにこだわると話が出しにくい。いずれ、わたしの願いにしろ、現代の願いにしろ、相通じるものがある、と思いますから、どうぞ――。
 森本国 どうも、はじめからむつかしいことをいうてしもうて、悪かったなあ。
 妹が、ぼくにたいして、面白い批判をするんです。「にいちゃんは、どこやかやへ(あちこちへ)顔を出すけど、そのわりに――」といって、後は、ことばをにごす。それで、ぼくもいろいろ反省するんです。それで、今日は、妹もこの会へ引っぱってきたんです。
 伊東 あの若いニューフェイスは、妹さんですか。はじめてなのに話がむつかしくて、困ったでしょう。話しながら、気になっていたんですが。
 坂本 このテーマは、わりにむつかしい。というか、しゃべりにくい。もっと、しゃべりやすいようにならんものか。
 松井 まあ、なにを一番したいか、どうなりたいか、ということを考えたらいい。
 野呂勇 わたしの願いといっても、現代の願いといっても、年令によって違う。独身者には独身者の願いがある、奥さんのある人、子供のある人、と、いろいろ願いがある。具体的には、いろいろある。
 司会 その願いというものを、つきつめていけば年令の違いとか、職業の違いというものは、なくなるんでしょうが。
 野呂勇 それでも、人間の願いには、いろいろある。究極的には、同じになるかも知らんが、願いを分析してみると、いろいろになる。その分析した願いを、一本の糸でつなぐと、どういうことになるか知らんが――。
 森本国 願いがあるということは、ある程度、自分を知っているからでしょう。
 松井 そうですね。「自分」といってみても、とらえどころがないわけで、「こんな願い」をもっている自分――、というように、具体的な願いによって、自分というものを知る。

     願いと欲望

 竹田 ところで、この願いというものと、欲というものは、全然別なんですか。
 森本国 欲望的な願いなら、だれでも、スラスラいえるんだけど、欲望と違う願いをいえ、というからむつかしい。
 松井 結局は、そういうことになるのかも知れませんが、そんなこと、だれもいってません。(笑)
 森本国 ああ、そうですか。座談会やから、むつかしいことをいわんならん(いわねばならぬ)と思っているからナ。(笑)そうでないなら、ようけ(たくさん)ある。いま、ぼくは、飯南高校の野球部が二回戦にも勝ってほしい、と思っている。そういうのなら、だれにでもある。
 大西喜 「願い」というのは、夢というか、未来のことではないのですか。「願う」というのは、現在ですが――。結局、未来へ、未来へと、なにかをかけているのでしょう。そういう意味があるのでないですか。
 司会 すると、欲というのは――。
 松井法 なんでも食べたいものを食べる、というような、動物的なこと。(笑)
 竹田 その欲と、願いの境界線がむつかしい。
 司会 森川君の顔をみると、前の座談会で、恋愛は、与える愛と奪う愛のスパークだ、といったのを思い出しますが、これについてはどう思いますか。
 森田 ぼくは、願いと欲は、全然切り離せんものだと思う。
 野呂勇 昔から「はえば立て、立てば歩めの親心」といいますが、これもある意味では、親の欲望でもある。
 森本国 親からいえば、それが一番の願いでしょう。
 野呂勇 けれども、考えてみると、それは親の欲。
 竹田 ものをたのむとき、「どうぞ、よろしくお願いします」と、「願い」という字を書くけど、これも欲。
 松井 すると、欲のない願いがあるのか、ということになってきますね。
 森本国 そこをいおうとするので、わからんようになってくる。
 村瀬 欲を、きれいにいうたら、願いになってくるのかもわからん。(笑)
 松井 たしかに、欲というと、きたないと感じ、願いというと、もっと純粋なものだろう、という先入観がありますね。

     欲から逃れたいという願い

 西山 「人間は、パンのみにて生くるにあらず」というし、また「人生を空過してはならぬ」という。そういうことから逃れるために、というか、そういう問題を解決するために、道の話を聞いたりする。そういうのが、一つの願いでないかナ。
 欲でなしに、欲から逃がれる、というのも、人間の一つの願いになるのでないか。
 森本国 欲という字の下には、欲望というように望という字をつける。望は、のぞみということだが願いというときには、なにか、もっと必死なものを感じる。
 西山 ガンやでナ。(願だからナ)(笑)
 森本国 いま話していることについて、先生、どうですか。
 伊東 話は、だいたい、いい線いっとるんじゃないですか。(笑)
 欲と願とは、離しては考えられないが、また、なにか、違うものをいいあらわすことばらしい、と。そういうことをみな、感じとしては、持っているわけですね。
 森本国 ぼくは、願いというと、ほんとうに必死な、というか、真剣なものを感じるのです。
 伊東 ことばというものには、歴史がありますね。それを使ってきた状態だとか事情だとか、また、自分なりの受けとり方というものがある。そういうものが、ことばの意味を、いろいろ違ったように受けとらせる。
 森本君のいおうとする気持ちは、よくわかります。やはり願いは、欲望なんかと一緒じゃない、一緒であるはずがない、という気持ち――。
 しかし、願も欲も、同じような意味に用いる、ということはある。欲望といい、願望といい、また、欲願という熟語もあります。だから、こういうことばをとりあげて、リクツをこねだすと、収拾がつかないことになってしまう。
 それから、西山君のいわれたように、人間は欲望のとりこになっていてはダメだ、これから解放されたい、と望んでいる、ということもある。欲がなければ自分もないが、それを超えたい、という願いも持っている、という問題ですね。
 竹田 それも欲じゃないのですか。
 伊東 深く考えると、そういう問題も出てきます。どんなに純粋にみえても、人間の願いというものには、欲望の色彩がある、というような――。
 野呂勇 しかし、われわれが、「願う」というような欲は、やっぱり美しい欲じゃないのですか。欲望なんていうからきたなくなる。昔から、無欲は美しい、ということになっているが、ほんとうに無欲なら聖人で、われわれのような生活はしない。
 松井 聖人になれん、ということはたしかだが、それじゃ欲のままでいいのかどうか、ということは――。
 野呂勇 いいとはいえぬ。我欲だけではダメだ。しかし、人間が生活する上での欲は、そう、きたないものじゃない。
 願いも欲じゃないか、というが、美しい欲も、欲だからといって否定するのは、問題じゃないか。
 松井 その辺は、もっと検討の余地があるように思うナ。なかなか大切な問題だ。

     分を知るということ

 西山 ずっと以前ですが、学校で、宗教関係の人の話を聞いたことがあります。一千万の財産をもった人が、事業に失敗して、七百万ばかりスッた。そのために、悲観して、自殺した。ところが、もう一人の人は、成功して、二十万もうけた、といって喜んだ。前の人は、まだ三百万も残っているんだから、悲観して死ぬことはない。
 それで、人間というものは、その人その人の尺度があって、それで計るので、ものの量だけでは満足できない。そういう、むつかしい問題がある、と。
 それと一緒で、ぼくらの願いにも、そういう問題があるんじゃないか。自分の分不相応のことばかり願って、できぬことに縛られている欲望で、がんじがらめになっている。
 もちろん欲からは離れられんけど、もうちょっとスパッとするものがあるなら、生きるのに、それほど苦しまんでもいいのでないか。
 竹田 しかし、それは、ゴマ化しにならせんか(なりはしないか)。われわれは、ふつう、分不相応のことばかりを思うているが、宗教の話を聞いて、それで、分相応で満足だ、というのは、教えをたよって、自分の欲をゴマ化すのでないか。
 西山 自分の力の限度を知る、ということをいいたいんだ。ぼくの場合、家を建てるとか、車を買うとかいっても、いまできるわけはない。そういうことを自覚せずに、長い間苦しんだことがあった。だから、こういうことにたいしては、竹田君のいうことは、あてはまらん、と思う。やはり、自分というものを、ほんとうにみつめる、というか――。
 中村常 伊東先生の話の中に、現世利益和讃のところで、閻魔とか四天王とか、いろんなものをあげて、そして、そういう祈り、願いが純化されたのが念仏だ、ということばがあった。
 ぼくらには、現代に生きるものとして、いろんな願いがあるけど、そういう願いを純化していく、ということが大事だ、と思う。
 司会 俗世間的な願いではダメだ、もっと純化せんと――、ということですか。
 松井 その純化ということと、さきほどの分限を知る、分を知る、ということと、どうちがうのでしょう。
 西山 ぼくは、愛農会の先生から、精神的なものだけでなしに、物にたいしても、分を知らんとあかん(ダメだ)と聞いたことがある。ぼくたちは、自分の能力を知らずに、ただ無理に苦しんでいる、というような場合が多い。
 司会 分というと、一つの、これでいいという線があって、それに合わせて、このへんで自分が満足していたらいいんだ、というように聞こえますが、それでいいんでしょうか。
 松井 まあ、分を知るなどと聞くと、そのような誤解が生じやすい。しかし、いま自分が思っていることは、どうも出すぎているんでないか、できぬようなことばかり願って行動が伴わないでないか、というのは、ぼくらの反省としてあるもので、自己肯定的なものばかりではない。
 森本国 西山さんは、願いという問題で、自分の分限を知る、といったが、自分の分限を知るときに願いは単なる願いでなしに、願いのために動くというか、願いのために働くというか、そういうものでないかと思う。

     永遠の願い

 司会 願いと欲ということで、もう少しご意見は――。
 森本国 愛ということを考えても、恋愛の愛もあるし、「汝の敵を愛せよ」というような愛もある。やっぱり、願いとか欲といっても、いろいろある。
 中村常 根源的な願い、というものは、もう与えられているんやろナ。
 竹田 そんな、むつかしいことをいうな。(笑)
 中村常 どうも、すまん。が、なにか心の底から願える、というか――、そういうものが、みんなにある、と思う。いいかげんな欲望でなしに。
 松井 まだ明確に「これ」とはいえなくても、原いということばであらわしたいようなものはある、といえる。
 中村常 ごたごたとあるような、具体的にあらわれてくる願いと、ほんとうに自分の心の底にあるような願いと、それが、どこで、どう結びつくか。
 西山 自分の心の底から、というと、君の場合、たとえばどういう願い――?
 中村常 いやサ、それを、どういうことばであらわしたらよいか、わからん。(笑)
 西山 どうもすまん。スパッといえるかと思って。
 村瀬 しかし、なにかわからんけど、そういう願いが、あるような気がするナ。
 中村常 それは、ことばにあらわすことばできんのとちがうかナ。そういうものは、浄土真宗では、「ただ念仏」というのとちがうかナ。
 司会 願いということと、生きるということの関連は、結論的には、今晩のお話にあった「二河譬」ですか、そういうものに結びつくのでないかと考えながら、この座談会を進めてきたのです。願いはいらいろあるという意見が出ていますが、最後の願いは「二河譬」のところまでいくんでしょうか。
 松井 いろんな願いは出たけれども、それが、ほんとうの願いかどうか、と自分にもう一度念を押してみると、それは、どうも欲ではないか、ということになった。
 それで、欲と願いのちがいは、明確にはいえなくても、エゴというか、自分のことしか考えないというわれわれの習性だと気づいている。それを欲というなら、もっと純粋な願いがあってもいい、いや、あるはずだ、という気持ちがあるから、欲と願いのちがいを、はっきりさせたいと思うわけだ。
 森田 はじめに、ぼくは、欲と願いは離れないものだ、といったが、やはり欲と願いは分けられるナ。
 松井 欲と願いが同じだ、というのは、エゴのほかには自分の居り場がないではないか、という考え方だといえる。それで、エゴの抜け切れない願いは中村君のいい方によれば、ごたごたとあるような願い、ということになる。
 だから、その願いの純化を考えるわけだけど、エゴのほかに自己はないという立場に立つかぎり、純化は不可能ということになる。
 それで、純粋な願いというと、わたしだけでなくて、現代というような限定も超えて、人類とか永遠というような意味の願いになる、と思う。ただ、その場合の問題は、そんな純粋な願いが、願いの純化の不可能なわたしにどうしてかかわってくるかという、現実性だ。

     かける願い・かけられた願い

 中村常 さきほど、西山君に、ほんとうの願いはなにか、とたずねられて、答えられなかった。ぼくの願いはこれですと、一応は答えても、どうもウソだと思える。親鸞の場合は、それが念仏として与えられていたのだと思うが、ぼくは、ここで、「念仏です」といい切れん。
 いま、松井君は、永遠の願いといったが、そういうものは、親鸞には、念仏として根源的に与えられているのだ、と思う。しかし、具体的には、いろんな願いがある。たとえば、東京都議選とか、参議院選というものがある。そういうような場合でも、願いの根底から、ぼくはこういう立場をとる、ということが、具体的にあらわれてこなくてはならぬ。
 森本国 やはり、願いということを表現するなら仏教徒の場合だと、親鸞聖人の開かれた道を歩んでいく、ということだと思う。ほんとうの願いというものは、一本の木にたとえるなら、幹というような中心のもので、その中心の幹に枝があるように、個々の願いが出てくる。
 松井 一本の木の幹といってもいいし、大地の中の根のように、根源的な――、といってもいい。
 中村常 やはり、君の願いは何ですか、と聞かれたとき、「清く正しく美しく」といえば、きれいに聞こえるが、「ほんとうに」という点では、それはウソになる。
 野呂勇 しかし、願いのもとは美しいということだ。美しい願いとか、清らかな願い――、そういうようにいわれるところに、願いはある。
 松井 あんたは、さっきもそういう意見を出していた。そういうようにいう気持ちは、一応はわかる。美しくありたいと願う、ということがあるように。けど、自分のエゴというものがわかってくると、この自分の願いが美しい、というわけにはいかなくなるんじゃないかナ。
 中村常 それから、わたしが願いをかける、ということと共に、逆に、願いがかけられている、ということもある。
 野呂勇 たしかに、それもある。
 松井 その場合、自分を中心に考えると、願う、願いをかける、という方には、欲望的なものを感じるが、願われている、願いがかけられている、という方には、純粋なものを感じる。
 だから、願いの純化は、むしろ、願われている願い、かけられている願いに、自分の願いを見出す、というようなところからはじまる、ともいえる。

     親鸞に関心をもつ

 司会 話合いも十分といえませんし、結論らしいものも出たわけではありませんが、今日は、大阪から二人の女性が参加してみえるので、何か感じたことがあればいっていただきたい。そして、いつものように、最後に、伊東先生にまとめてもらうことにしたい、と思います。
 伊東 ここに特別に参加している二人は、去年、大学で、ぼくがクラス担任をしていたときの学生さん、二人ともなかなか成績のいいまじめな学生さんです。五十人ばかりのクラスで、真宗入門の講義を担当していたんですが、講義の中でも、ときどき、この会の話が出ました。
 それで、いまは、もうこの人たちのクラス担任ではないんですが、粥見の会に一度行ってみたい、ということを前から聞いていましたので、「ちょうど夏休みだから」ということになって、こうしてここへ来られた、というわけです。二人は大阪から汽車賃を払ってやってきたんだから、今日のところではまず一番の会員だ、と会が始まる前に、冗談をいって、ひやかしていたんです。
 それで、横山さんと馬場口さん――、あまりあらたまらずに、ザックバランに、なにか感想を話してください。
 この二人は、お寺には別に関係のない人たちですが、大阪で、仏教の会に出席するらしいんです。その会は、年配の人が多いので、いいたいことも十分いえぬ。が、青年さんの会なら――、と、なかなかの勢いだったんですから。(笑)
 横山 はじめは、いろいろいうつもりでしたが、みなさんの聞いてたら、なんや(なにか)、いえんようになりました。(笑)
 わたしは、以前には、仏教や真宗なんかやろうとも思ってなかったし、興味もなかったのです。それが、先生の講義を聞いていて、はじめは、むつかしくてむつかしくて、試験のときなんか、どうしようか知らん、と思っていたのですが、親鸞聖人の伝記なんか読んでいるうちに、だんだん興味が出てきて、やろうかなあ、という気持ちになりました。
 けど、いま、みなさんのお話を聞いていると、わたしなんかが考えているより、ずっとずっと深く考えていられるので、ただ聞いているだけで感心しました。
 司会 この会がはじまったのは、去年の四月ですから、二人の人とちょうど同じ頃から先生の話を聞くようになったわけですが、いまのようにいわれると、大谷大学の学生さんより、われわれの方がレベルが上だ(笑)、ということになります。
 松井 まあ、そう喜ぶなよ。いまのように聞いたからといって、われわれが上だと手放しで喜ぶことはできん。(笑)

     親鸞が生きていったように

 司会 それでは、先生のお話を聞いて、終りたいと思います。
 伊東 テーマは「現代の願い」ということでしたが、「現代」ということについては、あまり話が出ませんでしたね。それよりも、「わたしの願い」というようなことで、願いと欲について、話がやや抽象的になりながら、いろんなご意見が出たわけです。話し合いのなかに、問題を残したままですが、しかし、むつかしい問題について、いろいろ面白く聞かせてもらいました。
 大学で、今年クラス補導を担当している学生諸君と、顔合わせの懇談会をやったときのことです。席上突然、手をあげた人がいて、「先生の信条はなんですか」と質問するんです。駄菓子を食べながら、お茶を飲みながらの席で、突然「信条は――」と問われて、一瞬おどろきましたが、自分で自分にそっと問うてみると、すぐ「親鸞」、くわしくいえば「愚禿釈・親鸞」という名が頭に浮んでくるのです。
 さっき、森本君がいいましたが、それをことばにあらわしますと、「親鸞が生きていったように、ぼくも生きていきたい」と、こうなります。
 その、「親鸞が生きていったように」というところには、まず親鸞という人が出てくる。が、問題はその親鸞が、人生をこのように歩むと語っていることばにある。その、ことばが、ぼくにたいして、道を教えてくれる、道を開いてくれる、というところにある。だから、その親鸞のことばは、ぼくにとっては、単なることばでなくて、教えのことばである。
 「あのように生きていった人」という「人」がみつかるということは、ぼくに「教え」が与えられてある、ということである。
 これまでも何回か話したことですが、ぼくたちは毎日毎日、欲望のつくり出す問題につきあたっている。が、そういう場合、なにかあらためて考えるというと、ぼくは、自分に「お前は、なにをしたいのか」と問うことにしているのです。なにかをしなければならぬ、ということは、もちろん、あります。しなければならぬことと、したいこととがある。
 さっきから、願いというようなものは、ことばに表現できぬ、という意見がありましたけれども、「あのように」「親鸞のように」といえば、ことばになります。
 そして「あのように生きていった」ということが「あのように生きていきたい」ということをはっきりさせてくる。それをずっと押していくことが、一応、願いの純化ということになるのでしょう。

     願いは必ず実現する

 喜久子さんは、「願いということは、未来のことじゃないか」「現在そう願っているんだけれども、それが実現するのは未来じゃないか」といいました。
 そういう問題が、願いということにあるわけです。けれども、実現するかしないか、わからないという願いと、必ず実現するといい切れる願いと、二様あるといっていいんじゃないか、と思うのです。
 欲望というものは、実現することがあるかも知れない。あるいは、実現しないかも知れない。未来のことを予測できない。
 しかし、それが願いであるならば必ず実現する、と、こういうことができるのは、「教え」です。その道を歩いていって、すでに目的を達成した人がいる。それが証明ですが、だから、その人のことばが教えになる。つまり、教えは、すでに実現した願いを証明するものである。親鸞という人がある、ということは、願いは必ず実現する、ということの証明である、と、こういうように思います。
 それから「現代の――」という場合には、現代という時代の問題があります。そして、現代ということも、実は、この「わたし」を離れてはない。そこで、「わたし」と「現代」とが「願い」で結ばれている。そして、現代の問題の中に、具体的に生きるわたしの問題をみることができる。現代の問題を、わたしの問題とすることができる。
 しかし、すでに話合ったように、わたしの願いはいろいろある。わたしの願いは、万別である。だから、問題にできるようでいて、なかなか問題にしにくい
 が、そういう願いを、抽象的に一言でいうことが不可能なわけじゃありません。たとえば、「平和」ということが考えられる。おそらく平和にたいして反対する人はいないでしょう。もっとも、おかれた状況によって、欲望のトリコになっていると、戦争がいいという人がないともかぎらない。けど、その人自身、ほんとうに戦争がいいとは、思わないはずです。
 そういう意味からいえば、現代の諸問題を包む大きな問題として「平和」ということがあります。
 しかし、いま、「親鸞のように」「あのように」というところへ話をもどしますと、その「親鸞のように」というところへ平和という問題は自ら摂っていくにちがいない。「あのように」が、広まり探かまって、そこに諸問題が包まれていく。
 はじめに森本君の気持ちを聞きましたが、あの「人生の目的を発見したい」というようなことばを、いいかえますと、「教えにうなずけるようになりたい」ということになりますね。そして、そういう願いは必ず実現する、実現すればこそ、願いといい、道といい、教えというのである、と、このように思います。
 まあ、全体をまとめる話にはなりませんが、感ずるままに申しあげたわけです。
 司会 どうもありがとうございました。では、これで、一応、座談会を終ります。


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