4 第六・七章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章  
 4 第六・七章  
 まえがき  
  一 第六章の一  
  二 第六章の二  
  三 第七章の一   
  四 第七章の二  
   案内・講師のことば
   講  話  
   座談会  
  補 説  
 5 第八・九・十章  
  謝  辞  
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四 第七章の二 「さわりなき道」


     案内のことば

 むかし、冬の夜長に機屋(はたや)の中で、ひそかな願いを糸一すじにこめて、布を織りあげている妻や娘たちがいました。
  じやんに 着せる ふと ぬうの
  ばやんに 着せる ふと ぬうの
  ちんから かんから とんとんとん
 子供たちも寝静まった重いやみの底を、(はた)の音だけがひびいていました。封建時代の親権や夫権によって、いくえにも縛られていた農村の女が、自信と誇りをもってできる唯一の仕事場である機屋は古代から、男が立ちよることを許さない神秘の世界になっていました。このような農村の土の中から戯曲『夕鶴』の原話鶴女房の話が生まれたのだと思います。戯曲は、のぞかないでくださいという願いを、男たちの欲望によって破られた「つう」が、傷ついた鶴となって、「与ひょう」に別れを告げるところで終幕となります。
 この、わたしたちの集いに、たんに人集めのための、ミエや欲望が、少しもなかったといえるでしょうか。しかし、この集いが、ほんとうの願いであるならば、前講の伊東先生がいわれるように、
 「友よ!願いは、かならず実現する」。
    昭和四十年七月十九日                               飯南仏教青年会


     講師のことば

 最近、久木幸男氏の『日本の宗教』という本が出版されました。その終りのところに、新興宗教についてのべたあと「死の問題の解決ということが、おそらく宗教に残された最後の機能であろう。……自己の死の事実に、まともに向きあって行くかぎり、宗教によらない解決は、やはり困難なのではないだろうか」とあります。
 第二次大戦後、二十年の間に名のりをあげた新興宗教は、日本だけでも四〇〇種以上にのぼるといいます。これらは、みな、戦後の社会の混乱や、生活の不安のなかで勢力をはってきたものですが、それにしても「病気がなおる」とか「金がもうかる」という、目先の現世利益を求める人びとは、はたしてほんとうに欲の深い人なのでしょうか。たとえば、人間一生の間に、大小あわせて一〇〇回の病気をするとしましょう。そのうち九九回までは、実は、かならずなおるのですが、第一〇〇回目、つまり死の病は、医学でも、どうすることもできません。しかも、この最後の病気は、九九回の一一のかげにかくされています。病がこわいのは、それが、つねに死に直結するからです。青年にとっても老人にとっても、いのちあるものには平等にやってくる問題、そして、いつと予見することのできない究極の問題、それが死です。わたしたちは、この問題をどのように受けとり、どのように解決していけばいいのでしょうか。
 神も悪魔も、また善も悪も、この死と生に深いかかわりをもつものですが、これについて第七章には「この死の痛の癒える道、つまり人生にさわりのない道は、ただ念仏である」とあります。そこで今回は、この語りかけを聞きながら、人生における「さわりなき道」について考えることにいたしましょう。


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