案内のことば
むかし、冬の夜長に機屋の中で、ひそかな願いを糸一すじにこめて、布を織りあげている妻や娘たちがいました。
じやんに 着せる ふと ぬうの
ばやんに 着せる ふと ぬうの
ちんから かんから とんとんとん
子供たちも寝静まった重いやみの底を、機の音だけがひびいていました。封建時代の親権や夫権によって、いくえにも縛られていた農村の女が、自信と誇りをもってできる唯一の仕事場である機屋は古代から、男が立ちよることを許さない神秘の世界になっていました。このような農村の土の中から戯曲『夕鶴』の原話鶴女房の話が生まれたのだと思います。戯曲は、のぞかないでくださいという願いを、男たちの欲望によって破られた「つう」が、傷ついた鶴となって、「与ひょう」に別れを告げるところで終幕となります。
この、わたしたちの集いに、たんに人集めのための、ミエや欲望が、少しもなかったといえるでしょうか。しかし、この集いが、ほんとうの願いであるならば、前講の伊東先生がいわれるように、
「友よ!願いは、かならず実現する」。
昭和四十年七月十九日 飯南仏教青年会
講師のことば
最近、久木幸男氏の『日本の宗教』という本が出版されました。その終りのところに、新興宗教についてのべたあと「死の問題の解決ということが、おそらく宗教に残された最後の機能であろう。……自己の死の事実に、まともに向きあって行くかぎり、宗教によらない解決は、やはり困難なのではないだろうか」とあります。
第二次大戦後、二十年の間に名のりをあげた新興宗教は、日本だけでも四〇〇種以上にのぼるといいます。これらは、みな、戦後の社会の混乱や、生活の不安のなかで勢力をはってきたものですが、それにしても「病気がなおる」とか「金がもうかる」という、目先の現世利益を求める人びとは、はたしてほんとうに欲の深い人なのでしょうか。たとえば、人間一生の間に、大小あわせて一〇〇回の病気をするとしましょう。そのうち九九回までは、実は、かならずなおるのですが、第一〇〇回目、つまり死の病は、医学でも、どうすることもできません。しかも、この最後の病気は、九九回の一一のかげにかくされています。病がこわいのは、それが、つねに死に直結するからです。青年にとっても老人にとっても、いのちあるものには平等にやってくる問題、そして、いつと予見することのできない究極の問題、それが死です。わたしたちは、この問題をどのように受けとり、どのように解決していけばいいのでしょうか。
神も悪魔も、また善も悪も、この死と生に深いかかわりをもつものですが、これについて第七章には「この死の痛の癒える道、つまり人生にさわりのない道は、ただ念仏である」とあります。そこで今回は、この語りかけを聞きながら、人生における「さわりなき道」について考えることにいたしましょう。
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