4 第六・七章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章  
 4 第六・七章  
 まえがき  
  一 第六章の一  
  二 第六章の二  
  三 第七章の一
   原文・意訳・注
   案内・講師のことば
   講  話  
   座談会  
  四 第七章の二   
  補 説  
 5 第八・九・十章  
  謝  辞  
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三 第七章の一 「現代の神がみ」


     案内のことば

 ギリシャの哲人、エンペドクレスは、かれを神さまだという世間の噂を裏切りたくありませんでした。そこで、ある夜、ひそかにエトナ火山におもむき、その噴火口へ身を躍らせました。人びとは、かれが突然消えたことに驚きました。「やはり、かれは、神さまとなって、天に昇られたのだ」。みんなは、口々にいいました。ところが、ある日、皮肉なことに、かれが愛用していた銅製のサンダルが、噴火口から吐き出されました。なんのことはありません。かれは天に昇ったのではなく、実は、地下深く落ちたのだということが暴露されてしまいました。サンダルは、かれが、神さまとなって往生したのではなく、かれの神話が、焦熱の中で蒸発してしまったことを示していました。
 「落ちよ、落ちよ」とは、坂口安吾の『堕落論』です。「他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生(おうじょう)正因(しょういん)なり」とは『歎異抄』のことばです。
 最近、またも山野炭鉱の地下坑で、ガスと焦熱のため、二百三十七名の労働者が死にました。かれらは、神さまになるために、地下にもぐったのではありません。ごくささやかな、家族の笑顔のためにもぐったのです。そして、出てきたときは、家族の涙にむかえられました。かれらは、カケネなしに落ちて生きていました。往生の正因でした。しかし、かれらは、落ちて生きることまでも拒否されたのです。残された家族のいかりと涙は、資本主義の神話が、地下坑の深くで、また一つ蒸発してしまったことを示しています。
   昭和四十年六月十五日                              飯南仏教青年会


     講師のことば

 二、三年前までは、あまり耳にしなかった「丙午(ひのえうま)」という言葉を、最近とくによく聞くようになりました。それは、ご承知のように「今年の秋、新婚旅行をすれば、人が少なくて静かな上、旅館は安くてサービスがいい」ということにつながるのだそうです。しかし「歎異抄に聞く会」に集まる人たちは良時(りょうじ)吉日(きちじつ)方角(ほうがく)など気にしないし、車の中に交通神社のお守り札をさげている人など一人もいないと聞いて「さすがに」と思います。
 ところが、もし「だから、この秋に旅行しよう」とか「大安(だいあん)だから、その日を、わざとさけよう」という天邪鬼(あまのじゃく)は、どういうものでしょうか。反抗は迷いでないかも知れませんが、やはり(とら)われにちがいありません。罪福(ざいふく)の心は、つねに、わたしたちの身近にあります。
 このようにいえば「ああ、また迷信の話か」という人があるかも知れません。が、神さまが、お(やしろ)の中に住んでいた時代は、とっくの昔に過ぎて、今日では、家庭に、街角に、職場に、はんらんしています。現代の神さまは、たとえば薬として、機械として、お金として、組織として、スポーツとして現代風に装いを凝らしてあらわれてきています。要するに、神さまは、人間を(つく)ったものでもなければ、人間が作ったものでもなく、人間と共に生まれて、そして、人間の住むところいたるところに、人間と共存するものだと思います。
 そこで、今回は、第七章を拝読しながら、このような「現代の神がみ」について考えることにいたしましょう。


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