4 第六・七章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章  
 4 第六・七章  
 まえがき  
  一 第六章の一
  二 第六章の二  
  三 第七章の一  
   原文・意訳・注  
   案内・講師のことば
   講  話  
   座談会  
  四 第七章の二   
  補 説  
 5 第八・九・十章  
  謝  辞  
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三 第七章の一 「現代の神がみ」


     第七章の原文

一、念佛(ねんぶつ)者は(一)無碍(むげ)の一道(二)なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神(てんじん)地祇(ちぎ)(三)敬伏(きょうぶく)(四)し、魔界(五)外道(げどう)(六)障碍(しょうげ)する(七)ことなし。罪悪も業報(ごうほう)を感ずることあたわず(八)。諸善(九)もおよぶことなきゆえに(十)、無碍の一道なりと云々(うんぬん)

     現代意訳

 念仏は、無碍の一道である。
 それは、どうしてかというならば、念仏を信ずる人にたいしては、天の神も地の神も深い敬意をよせ、悪魔や外道(異教)もさまたげをすることがない。いかなる罪悪も、その当然の結果をもたらさない。いかなる善行も、念仏には、はるかに及ばない。
 だから、念仏は、この人生における、(さわ)りのない、ただ一筋の道である。
と聖人はおっしゃった。

     注  釈


(一) 念仏者は。
 ねんぶつは。これは従来、(1)念仏なるものは、という意味に解するのと、(2)念仏するひとは、と解するものと、二説がありますが、(2)の説は、たとえば端の坊旧蔵、大谷大学所蔵写本に「ねんぶつしや」という振仮名があることによるものであります。これについて多屋頼俊氏は「者は、事を別つ辞で、或物(ここでは念仏)を取出していう時に添える助字」であって、「者は」の「は」は、「者」を「は」と読むという意味で添えた送仮字である、といわれますが、第七章の意味内容からいっても、(1)の説にしたがうのがいいと思います。
(二) 無碍の一道。
 むげのいちどう。なにものにもさまたげられない、ひとすじの道。
(三) 天神・地祇。
 てんじん・ちぎ。天の神、地の神。これは、梵天(ぼんてん)、帝釈天(たいしゃくてん)、四天王(してんのう)や、堅牢地祇(けんろうちぎ)、龍王(りゆうおう)をはじめ、日本でいう天つ神、国つ神など、あらゆる神がみをさしています。
(四) 敬伏。
 きょうぶく。うやまって、つきしたがうこと
(五) 魔界。
 まかい。悪魔の世界。ここでは、そこに住む思魔たちのこと。魔とは、梵語マーラmaraの音略で、殺者、奪命(だつみょう)、障碍(しょうげ)、あるいは悪魔などと訳します。
(六) 外道。
 げどう。仏教以外の教え。仏教をさまたげる邪教。ここでは、それを信ずる異教徒たちのこと。
(七) 障碍する。
 しょうげ。さまたげる。
(八) 罪悪も業報を感ずることあたわず。
 ざいあく、ごうほう。いかなる罪悪も、その当然の結果をもたらすことができない。すなわち、念仏の信念をうれば、犯した罪悪の結果を、おそろしい罰として受けとらねばならぬ、というようなことはない、ということ。なぜなら、念仏は、悪を転じて徳となすはたらきであるから――。つまり、念仏を正しく信ずる人は、やがて必ずブッダになると決定した人であり、いわゆる業の束縛から解放された人であるから、であります。
(九) 諸善。
 しよぜん。もろもろの善根(ぜんごん)善行(ぜんぎょう)。アミダの世界に生まれるための、すなわち往生(おうじょう)の因となる、自力の善をさします。
(十) およぶことなきゆえに。
 この最後の結びのことばは、諸本によって、次のように異っています。「およぶことなきゆえに、無碍の一道なりと云々」(端の妨旧蔵大谷大学所蔵写本・永正本)。「およぶことなきがゆえに無碍の一道なりと云々」(慧空講師自筆本)。「およぶことなきゆえに、無碍の一道といえり」(龍谷図書館本)。「およぶことなきゆえなりと云々」(蓮如上人親筆本)。


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