4 第六・七章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章  
 4 第六・七章  
 まえがき  
  一 第六章の一  
  二 第六章の二  
   案内・講師のことば
   講  話  
   座談会  
  三 第七章の一   
  四 第七章の二   
  補 説  
 5 第八・九・十章  
  謝  辞  
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二 第六章の二 「人生の教師」


     講 話 「人生の教師」

一番トクをしたのはだれか
 今日は、松阪からずっとここまで坐れなかったものですから、バスの一番前で、運転手さんの横に立って、道路の真中から左右の景色を見ながらやって来ました。実は、先月も、バスの中での位置や状態が、これと全く同じだったものですから「ああ、自分の体は、今日もまた粥見(かゆみ)に向って運ばれていくんだなあ」と思いながら、「もう、あれから一カ月たったんだ」ということを痛感した次第であります。
 このごろも、わたしは、やはりあい変わらず忙しくしていて休む暇がありません。それで、今日の案内状なんかも、松井君がこちらへ帰られる予定日までに、どうしても書けなくて、期限ギリギリになってから、「太陽」(大西君の理髪店)に電話をして、喜久子さんに聞きとってもらって送ったようなわけです。ですから、バスに乗って、山の緑やあおい川の流れなどを見ますというと、ほんとうにホッとする思いで、心が休まります。
 それだけではなくて、こういう機会に、改めて歎異抄を読んで、いろいろ考えることができますので、ここへやってくるということは、ほんとうにありがたいわけです。それで、先月「この会で、一番トクをしたのはぼくだ」といったのですが、今月の案内状をみますと端の方に、小さな字で「トクをしたのは伊東先生だけではない」と書いてありました。これは、だれが書かれたものか、多分、中村君じゃないかと思いますが、こういう声を聞きますというと、非常にありがたい。一そうのはげましにもなるわけであります。

友をうることと先生に出会うこと
 さて、先回は、第六章を「みな友である世界」というテーマで拝読したのでありますが、その友という問題を考えていきますと、そこでは必ず、教師というか、先生というか、そういう問題にふれないわけにはいかなくなります。
 この人生を生きていくのに、友人がなくてはならない。わたしたちは、心から信頼のできるような、善い友だちがはしい。が、そればかりではありません。この人生のことをいろいろ教えてくださる先生がなければ、わたしたちは、どの道を進んで行けばいいのか、と、道に迷ってしまう。どうすればいいのか、わからなくなってしまう。そこで、今日は「人生の教師」という題を出しまして、もう一度、第六章を拝読することにしたいと思うのであります。
 まあ、一般に教師といいますと、学校の先生を指す場合が多い。みなさんも、おそらく教師といえば、小学校や中学校で教えてもらった先生、なつかしい想い出のある担任の先生などのことを頭に思い浮かべられることでしょう。が、そういう先生というものは、だいたい学校を卒業してしまいますと、だんだん忘れてしまうことが多い。一生忘れられないというような先生には、なかなか会えるものではありません。
 勿論、ときどきではありますが、こんなことが新聞にニュースとして紹介されることがある。たとえば、三十年も前にお世話になった先生が生活に困っておられる、それを聞きつけた昔のクラスメートが、力を合わせて、お金をつくって先生に差しあげた、と。あるいは、二十年・三十年というずいぶん長い間、実にうるわしい関係で結ばれている師弟がある、と。しかし、そういうのは普通のことではなくて、例外であります。
 やはり、友人の場合でも、同じことでありまして、遊び友だち、仕事の友だち、学校の友だちなどと、いろいろありますけれども、一生涯かわらぬ友情で結ばれて離れないというような、そういう友だちはなかなか得られません。友だちとはいっても、ほとんどがかりの関係で、ほんとうの友人は、めったに与えられるものではありません。けれども、わたしたちは、この長い人生を通じて、一貫してかわらないような先生に出会いたい、また、心から親友と呼べるような友人がほしい、と、このように切実に思います。
 ところが、考えてみますと、もし友を得ることができれば、そこには必ず先生がおられる。もし先生に出会えれば、そこには必ず友だちがある。だから、友だちがあって先生がないとか、先生はあるが友だちはいない、というようなことはない。つまり、お互いが友として結ばれるのはその道を教えてくださる先生があるからですし、また、ほんとうの先生がみつかれば、そこにはきっと無数の友がみつかってくるに違いないと思うのであります。

山形にいた未知の友
 実は、去年の五月のことですが、大谷大学の松原祐善先生が、山形の講習会を引きうけておられたところ、「学校の急用で行けないから」というので、わたしがピンチヒッターに立つことになった。もうキップは買ってある。出発は、明朝の特急「白鳥」ときまっている。その上、講義の題目も、すでに松原先生が出しておられる。それで、話の内容は列車の中で考えることにして、とりあえず代人として、まず身体から出発した。わたしとしては、全くはじめてのところで、これといって知った人もない。それに、そういうところへ話しに出た経験もあまり多くはない。それで「いったい、どうなるんだろうな」と考えながら、山形市に向ったわけです。そうして、まあ無事に、なんとか二泊三日の講習会を終えたのですが、そのあとに一つ公開講演会が残っていました。
 聴衆は、どの位いたのでしょうか。数えもしなかったし聞きもしなかったので、わかりませんが、その聴衆のなかに顔見知りの人がいるはずはありません。ところが、話をはじめ出しますというと、どうもはじめてのところで話しているという感じがしない。アチラから、コチラから、話にたいする反応があるわけです。
 そのあと、話を終えて控室にもどりますと、そこへ二、三人たずねてこられた。自己紹介を聞きますと、この人たちは、毎年一回、わたしの尊敬しております曾我量深先生を山形までお迎えして、お話を聞いておられる方たちだった。それで「なるほど」と思ったわけです。山形は、わたしにとってははじめてだけれども、そこにもう未知とはいえない人たちがおられて、「こんにちは――」と迎えてくださる。「ああ、ここにも友だちがあったのだなあ」ということなんです。そして、自分としては、はじめてのところなんだけれども、先達(せんだつ)足跡(そくせき)を残しておられる。このあとを、自分は、この身をもって辿っている、と、そういうことを痛感したのであります。
 ですから、そういう意味での先生は、非常に大切な意味をもっているのでありまして、実は「この人」という一人の先生に出会うことができますと、先生と呼べる人、友だちといえる人が数かぎりなくみつかってくるのであります。

ただ一人の「この人」
 それで思い出すのですが、中学でも高校でも、年に一回くらい、生徒に調書を出させますが、そのなかに「親友」という欄がありますと、わたしは、その「親」という字をわざわざ消して友だちの名前を書いた。その頃の友だちには申し訳のないことですが、相当親しくつき合っていても、あらたまって「親友は――」と聞かれると、どうしても自信をもって「この人」ということができなかった。が、その後、大学に入りまして、仏教を聞くようになりましてから、幸いなことに、一生涯、親友としてかわらぬといえる人に出あうことができたのであります。
 また、先生にしましても、わたしが、心から先生と呼べるような人は少ない。たしかに教室で教えていただいた人は、みな先生に違いありません。けれども、ほんとうの先生は沢山はないのであります。最近では、わたしも、みなさんから先生といわれる身分になっております。大学の講師になりましてから、ちょうど一年になりますので、人から「伊東先生――」と呼ばれることにだんだん慣れてはきましたが、一方また、「このナレ(慣れ)があぶないな」と思います。このように、自分が「先生」といわれることにたいして、やはりなにか抵抗を感じます。素直に「ハイ」といえない気持ちがあります。
 「先生といわれるほどのバカでなし」などといわれるように、このごろでは、先生と呼ばれる人びとのカブもずいぶんさがっているともいえます。だから、わたしのように、先生ということばに、それほど神経質にならなくてもいいじゃないか、といわれるかも知れません。けれども、やはり、ほんとうの先生は沢山はおられない。ですから、わたしは、「先生」ということばを大切にしたいと思いますし、また、こういう気持ちがあるから、「このわたし」が先生と呼ばれるとなにか落ち着かぬものを感じるのかと思います。
 ところが、たった一人の「この人」「この先生」といえる先生に出会いますというと、その周辺におられる人たちが、やっぱり自分の先生だといえるようになる。また、ことさら先生と呼ばなくても、そういう人たちのことばや行動に、いろいろ教えられる。そういう意味では、やはり先生というのとかわらない、ということになるわけであります。

なにが人生の教師を見出すか
 さて、いうまでもなく、友人関係を成り立たせているのは友情であります。愛情であります。が、親鸞は、いま第六章をみますと、深い智慧に裏づけられた愛情をもって「親鸞は、弟子一人ももたず」といわれる。「人びとは、すべてみな友である」と。つまり、いわゆる友人関係だけではなしに、親子の関係も、夫婦の関係も、人と人の関係は、基本的には、みな友と友である、と。ところが、このようなことがいえる人――、弟子一人ももたず、みな友である、と、こういえる人の上に、唯円は、先生のすがたをみている。この「友よ」という呼びかけの中に、人生の教師たるべき人をみているのであります。
 それでは、いったい、なにがそういう教師を見出していくのであるか、といいますと、それは「真実を求める心」であります。どこまでもどこまでも、ほんとうでありたい、ほんものでありたい、と、真実を求める心――。これが、人間として生きているかぎりは、たとい時代が違っても、住んでいる場所が違っても、男であっても女であっても、年令にひらきがあっても、そういう差別をこえて、自分を導き、自分をはげまし、自分を育てるものはこれである、というものを明らかにしていく。つまり、ほんとうのものを求めて、ゴマ化さない、休まない――、そういう心が、きっと人生の教師というものを見出すに違いない、と、このように思います。

善財童子の求道の旅
 みなさん、あの『華厳経(けごんぎょう)』にあります善財(ぜんざい)童子(どうじ)の話は、よくご存知のことでしょう。善財童子は、文殊(もんじゅ)菩薩(ぼさつ)――、「三人よれば文殊の智慧」といいますが、その菩薩の智慧を代表する文珠に会うて、説法(せっぽう)を聞いて、そうして求道心をおこされた。それから、その求道心を徹底しようというので、五十三人の教師たち、つまり善知識(ぜんちしき)を、次から次へと歴訪(れきほう)して、初志を完徹されたとあります。この話によって、われわれの先輩が、あの東海道五十三(つぎ)というものを考えたということも、よくご承知のことと思います。
 善知識といえば、なにか特別にすぐれた人、社会的にみても立派な人でなければならぬように思われるかも知れません。たしかに善財童子がたずねた人のなかには、出家の僧や在家の仏教信者ばかりでなく、国王や医者や長者などがありました。しかし、聞く気になって聞けば、教えは、どこからでも聞くことができるわけであります。
 「背負うた子に教えられて、浅瀬をわたる」といいますが、乞食には乞食の人生がある、遊女には遊女の人生があるわけで、それぞれの生き方の中に、何か真実を求めていくという心がある。善財童子の道心は、乞食の道心に感応(かんのう)道交(どうこう)する。遊女のなかに秘められた道心をみる。
 このように、善財童子の物語は、道心の展開、求道の歴程というものを、つぶさに明らかにする。道心というものは停滞しないものである。したがって、この善財童子は、求道心の歩みというものを象徴するものであります。そして、最後には、普賢(ふげん)菩薩に出会って、そのすぐれた願いを聞いて、そうして遂にアミダの世界に生まれたといいます。
 この物語から知られますように、道心をもって、ひとたび「この人」という人生の教師に出あうならば、それからは無数の教師を見出すことができる。一人の先生がみつかるというと、それが機縁になって、道心に生きている無数の人を師として、教えを聞きながら生きていくことができる。そういう人生が、われわれに開けてくる。
 それで、先生にあう、教えを聞くということには、まず求道心がはたらくということがなければなりません。ふつうわれわれは、まず先生をみつけておいて、それをたずねて話を聞く、と、こう考えます。なるほど形からみるとそうですけれども、ほんとうは求める心に先生がみつかってくる、と、こういう方が正しいのじゃないでしょうか。
 先生というものを、はじめからえがいておいて、そこへ行けばわかる、といって行くのですと失望して帰るということにもなりかねない。うまく答えが、教えが聞かれればいいけれども、それは偶然をまつことになる。だから、われわれ一人ひとりの道心が、真実を求めて歩む、と、そこに先生が待っていてくださる。先生がみつかれば、その周辺には、無数の友だちがいる、と、こういう形になるのでありましょう。

青年の心は柔軟で堅固である
 このような「真実を求める心」というもの、つまり「道心(どうしん)」というものは、童心(おうしん)になぞらえることのできる心、ことばをかえていえば「若い心」であるといえましょう。「初心忘るべからず」といいますように、道に立つ出発点を忘れないところの、若い、やわらかい心であります。それで、この道心を、また「柔軟(にゅうなん)な心」ともいうわけであります。
 そして、こういう若い心、やわらかい心の持ち主を、青年というのでありましょう。青年といいますと、一応は、年の若い人のことですが、年が若いからといって、必ずしも、その心が柔軟であると決まっているわけではありません。年の若いものは柔軟で、年寄りは頑固だと、一概に決めてしまうことはできない。案外、年が若くても頑固な「若年寄り」というものがあるようです。
 この「やわらかい」ということを、よく水にたとえます。「水は方円の(うつわ)にしたがう」と。水は、四角の箱に入れれば四角になり、丸い容器に入れれば丸くなる。が、それでは水は弱々しいか、というと、そうではない。「点滴(てんてき)、石をうがつ」。水は非常に強い。一滴の水には、なんの力もないようだけれども、一滴一滴の力でもって、固い石に穴をあけてしまう。この水のようにほんとうにやわらかな心が、金剛の心である、と。
 そして、そういう柔軟な心というものは、また謙虚な心である、まじめな心である。だから、道を求めるということについて、ゴマ化さない。無限に、真実を求め続けて、休まない。そういう心が、つまり、教えに聞く心である、と。でありますから、青年の心とは何か。それは、無限に教えを聞こうとする心である。だから、教えを聞かない、聞こえることばに耳をふさぐ、とするならば、そういう人は、年が若くても若いとはいえない。つまり、若年寄りといわねばならない。

未完成を自覚する心
 それで、若い心は求め続ける心でありますから、これは「未完成を自覚する心」であるということもできます。「自分は、もうできあがったものだ」とは思わない。蓮如(れんにょ)上人(しょうにん)は、
 「心得(こころえ)たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、心得たるなり」
といっておられます。
 心得た、わかったと思っているのは、ほんとうにわかっているのではない。完成されたと思っているのは、未完成の証拠である。むしろ、未完成の自覚があるもの、未完成だと知っているものこそ、ほんとうではないか、と。
 そうして、こういう心得た心といいますか、心得顔(こころえがお)をしたものが、いわゆる「お説教」をするのでしょう。「若いものよ、ここに来て坐れ。お前は、いったい何だ」というような調子で、お説教をする。「オレは先輩だ、オレはできている」と思うから、高いところに立ってものをいう。
 しかし、「あなたは先輩です、あなたは立派な人です」ということはあっても、「オレは先輩だ、お前は後輩だ」ということなど、あってはならない。あるはずはないと思います。一人ひとりが、永遠の真実(アミダ)に対面して立っているのですから――。夫婦といえども、親子といえども、友人といえども、一人ひとりが永遠に向って歩みつつある。だからこそ、お互いは友であり、お互いは絶対に平等である。
 だから、未完成ということは、永遠に向って終っていないということなのです。終っていないから、どこまでもどこまでも延びていく。そういう生命(いのち)が見出されていることを「未完成の自覚」という。初心を忘れない、若い心というのであります。

やれやれと思うということ
 たとえば、こういうことがありました。最近、わたしの知人が、ひと仕事を終えて、「やれやれ、これで、一つの仕事をやりました」といった。あたりまえの、なんでもないことばのようですが、それを聞いて、わたしは、「ちょっと、まてよ」と思ったのです。ことばズラをとらえて、あれこれいうと、抽象的で面倒な話になりますが仕事をしたかしないかは、他人(ひと)が決めることである。すくなくとも、他の証明がなければ、仕事をしたことにならない。そして、ほんとうに仕事をしたのなら、自分から証明を求めるようなことをしなくても、ちゃんと人が証明してくれるにちがいない。つまり、わたしが、「君、一つ仕事をしましたね」というと、そのとき友人は、もうその仕事を終えたということを背にして、一歩前に踏み出しつつある、ということになります。
 たしかに、ひと仕事を終えたとき、「ああ、一つの山を越えたんだなあ」という感慨にひたるということはあるのでしょう。真実を求めて往く長い旅の過程には、山があり川がある。いま、その一つの山を越えた、川を渡ることができた、と。けれども、だからといって、それは休むことではありません。自分を許すことではありません。ここで休むというのは、はたらいたあと休養する、という意味ではありません。労働にたいする休養は、次にはたらくエネルギーをたくわえることですから、そういう意味での休みではないのです。つまり、意識が休む、意識が腰をおろしてしまうのです。それは、意識が中断するといってもいいかと思います。
 意識といいましても、あれこれ考える浅い意識もあります。が、道心(どうしん)とよばれるような深い心は、いつも休まずにはたらいています。肉体は休養するが、求道心に休みはない。だから、もし休みたくなるような道心ならば、それはニセモノの証拠である。われわれ人間の浅い心というものは、はたらいたり休んだりするけれども、道心には休憩などの必要はない。この生きるということが、永遠に真実でありたいと願ってはたらく心には、休むも休まねもない、と、こういわねばなりません。

自分の能力をはかってはならぬ
 仕事のことを考える場合、わたしは「自分には、どれだけのことができるのだろう」ということは、考えないように注意しています。勿論、自分にできることには限界があります。それを知らずに仕事をするなどということはできない。けれども、自分の能力の限界を知るということと、自分の能力をはかるということは、おのずから違うのだ、と、このように思います。
 もし、自分の能力などはかるのですと、さしあたり、いまのわたしは、辞表を出して学校を辞めねばなりません。一応は、大学院の博士課程まで終ったことになってはいますけれども、それだけで大学の教師となるにふさわしい力をもっているとは思えない。学生のころ、大学の先生とはこんなものだろうとえがいていたイメージと、いまの自分のすがたというものを比べてみるとまったく資格などあるということはできない。資格がないということになれば、辞めるよりほかない。
 つまり、自分の能力を自分ではかるというと、仕事を辞めるばかりか、それは最後には、生きることを止めねばならぬ、というようなところにまでつながってゆく。そこまで、つきつめていわないにしても、劣等感に、コンプレックスに悩まされねばならぬ。それは、限りのある能力にかわりはないけれども、その能力があるとかないとか、と、能力をはかる思いは、猫の目のようにクルクルとかわりつづけるからであります。
 それで、わたしたちに大切なことは、「どれだけのことができるか」と、これからのことを、あれこれ予測してみることよりも、「ほんとうにやりたいことは何か」ということなのでしょう。わたしは、自分にたいして、たびたびこういってみます。「お前の、ほんとうにやりたいことは何だ」と。また、「お前の、ほんとうにやらねばならぬことは、何だ」と。この「やりたいこと」と「やらねばならぬこと」が、いつも一つにならないという問題があるわけでありますが、実はこういう問題が、わたしたちをズーッと休まずに動かしていくのでありましょう。

迷うことを知る心
 このような、一つにならない、なれないという問題があるのですから、求道心は、また迷う心でもあるといえましょう。「迷う」ということを知る心であります。だいたい、迷いのないところに、さとりがあるはずはありません。人生に悩むということがあるからこそ、人生からすくわれるということもあるのと同じように、迷わずにはおれないという自覚が、さとりの世界を開く鍵ともなるわけであります。
 だから、若い心というか、道を求める心というか、こういう心は、きっと迷うでしょう。問題にぶつかれば、迷うということがある。道に迷えば、教えを聞く。その、開くところに、道を教える教師があり、そして、そこに、道につながる友が見出されてくる、と。それで、
 「親鸞は、弟子一人ももたずそうろう」。
つまり、みな同じ道を行くところの友だちなんだ、と、こういうのであります。
 芭蕉は、
 「古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ」
といっておりますが、ここに求道の態度が、はっきり示されております。教えを開く、道をたずねるといいますと、たとえば親鸞のような立派な人を慕うあまり、その人のあとをついて廻るということになりかねません。親鸞は、どういう道を歩んだのかと、あと探しだけに終ってしまう危険があります。が、それは間違っている。われわれは、古人のあとを求めるのではない。その人の求めているところを求めるのである。だから「親鸞は、弟子一人ももたずそうろう」と。一人ひとりが、みな、永遠の真実に向って歩んでいくのであります。一人ひとりが、自身の根源、つまりアミダに向って進んでいくのであります。

智慧のことばに導かれる
 では、いったい、その一人ひとりの自身の道が、どこで、ほんとうに一つだといえるのでしょうか。それについて、第六章の現代意訳を読んでみますと、
 「念仏ひとすじに生きる人びとのなかに、これは自分の弟子だ、かれは他人(ひと)の弟子だ、といういい争いがあるとは、まったく、とんでもないことである。親鸞は、弟子を一人ももっていない。というのは、自分の力量で、ひとに念仏を(とな)えさせるのであれば、弟子ともいえるのであろう。しかし、全くアミダの力にうながされて、念仏を称えている人を、自分の弟子であるなどというのは、驚きいった乱暴さである。結ばれるべき縁があれば連れとなり、離れるべき縁があれば離れる、ということもあるのに――」
ここの原文は「つくべき縁あればともない、離るべき縁あれば、離るることのあるをも」となっています。こういうことばは、人生の事実というものをいいあてた、非常に含蓄のあることばですね。
 長い人生というものは、決して坦々(たんたん)たる道ではありません。問題にぶつかり、ものごとにつきあたって挫折しそうになりますとき、「つくべき縁あればともない、離るべき縁あれば離る」となんど自分にいい聞かせて、その危機を切り抜けてきましたことか。このことばを聞きますと、糸が結ばれて、こんがらがっているような状態が、スーッと解けるのですね。原文のままで、「つくべき縁あればともない、離るべき縁あれば離る」と声に出して読む――。
 ここでは、みなさんが歎異抄を読まれる手がかりに、ということもあって、現代意訳をしてはおります。けれども、これは、どこまでも一つの手がかりであって、やはり原文をそのまま読んでいただきたい。原文というものは、すくなくとも七〇〇年を生きつづけてきたのでありますから、このことばをとおして、七〇〇年の時の距たりを越えて、親鸞の生きた世界が、そのまま、いまのわれわれの世界となる。
 親鸞の生涯をみますというと、常識的にいえば、決して幸福な人生だったとはいえません。あの乱世に、早く幼くして両親に別れて、九歳で比叡山に登った。ということは、山の上に投げ出された、といってもいいのでしょう。それからあと、九〇歳で生涯を終わるまで、実にさまざまのことがあったわけですが、歎異抄には、そういう中から聞きとったところの人生の智慧のことばが綴られているわけであります。
 それで、歎異抄の原文を読みますというと、そういう親鸞の生きた道というものが、いまのわれわれの生きる力となってはたらく――。ですから、道にゆきづまる、前途を壁が立ちふさぐというと、そこで歎異抄のことばを読む。第六章ならば、「つくべき縁あればともない、離るべき縁あれば離る」ということばが、事実である、ごくあたりまえのことであると知られてきて、新しく道が開ける、と。
 ですから、こういうことばにたいして「ほんとうにそうですね」と心からいえますというと、失恋をしたからといって、それで自殺するなどということは、起こるはずがありません。地獄の阿鼻叫喚(あびきょうかん)も、修羅場(しゅらば)の争いも、起こるはずがありません。が、こういう智慧のことばがありませんと、われわれは、きっと容易に行きづまってしまいます。
          
如来よりたまわりたる信心
 そして、このあとのところに
 「この師にそむいて、他の人にしたがって念仏したのでは、アミダの世界に生まれることはできないはずだなどというのは、もってのほかである」
と、こうあって、次に
 「如来よりたまわりたる信心を、わがものがおに、とりかえさんともうすにや。返々(かえすがえす)もあるべからざることなり」
とあります。この「如来よりたまわりたる信心」とは、どういうことでしょうか。「親鸞は、弟子一人ももたずそうろう」ということは、ブッダ(仏陀)の前にあっては、みな友として平等である、ということです。が、では、どうして平等であるといえるのかというと、道を求める心――、つまり、これが信心ですが――、この信心は、われわれ一人ひとりに如来よりたまわっているのである。一人ひとりに与えられているのである。
 だから、自分が教育してやったんだから、自分の弟子であるなどと考えるのは、与えられた信心を私有化することになるのでしょう。たしかに信心というものは、われわれ一人ひとりが、ほんとうに独立できるような力である。清沢満之先生は「信は力なり」といっておられますが、そういう信は、ほんとうの「わたし」を成り立たせるものであります。しかし、ここに「わたし」がはっきりするということと、わたしのものにする、私有化するということは全く違うのですね。
 この「如来よりたまわりたる信心」ということばを、はじめて開かれる人は、あるいは、とりつきにくいことばだと思われるかも知れません。けれども、これは非常にあじわいのある巧みな表現じゃないでしょうか。生活体験、信仰体験というものをとおして感得(かんとく)されたところの、実にあじわいの深いことばである、と思います。
 「如来よりたまわりたる信心」――それは、ほんとうの「わたし」を成り立たせるものであるが、決して「わたくしする」ことのできないものである。わたくしすることができない、と知ることによって、私有化などということのない、ほんとうに広い世界が開かれてくる。その広い世界が、アミダ永遠の、無碍(むげ)の、無辺(むへん)の世界でありますが、信心は、そういう世界の門戸である、と。
 曾我量深先生は「大行(だいぎょう)は公生活である。そして大信(だいしん)は私生活である」といっておられます。念仏を称えるという実践生活こそ、ほんとうに無私の「(おおやけ)」である。念仏を信ずるという信仰生活こそ、ほんとうの自己、ほんとうの「(わたくし)」を確立することにほかならない、と。ですから、こういうことがはっきりしないというと、いまここで問題になっているような「わが弟子、ひとの弟子」という争いがおこってくる、と。

親鸞と法然の信心は同一である
 歎異抄の一番最後のところ、「後序(ごじょ)」ともいい、第十九章ともよぶところに、唯円は、こう書いています。
 「()聖人の()物語に、法然上人のおんとき、(おん)弟子その数多かりけるなかに、同じ御信心(ごしんじん)の人も、少なくおわしけるにこそ」
と。そのとき、お弟子たちの間に議論があって、親鸞は、こういった、というのです。
 「善信(親鸞)が信心も、上人(法然)の御信心も(ひとつ)なり」
と。それを聞いた勢観房とか念仏房などという人は、それに大へん反対されて「どうして法然上人の信心と親鸞なんかの信心と、同じだなんていえるのか」。己を忘れた高慢もはなはだしいものだ、という批難ですね。それにたいして、親鸞は「それは、法然上人の(おん)智慧才覚――学徳兼備というか、学問もすぐれ人格も立派である、ということと、この親鸞とが同じだというのならば間違ってもいるだろう。けれども、永遠の真実を求めて()く――、往生の信心は同じである」
といっています。この、信心が同じであるということが、なかなかわからない。そして、これがわからないところに、歎異抄などを書かねばならぬような問題点があるわけですね。
 それで、この決着は、法然上人につけていただこうというわけで、ことの子細をもうしあげたところ、法然上人は、このようにおっしゃった。
 「源空(法然)が信心も、如来よりたまわりたる信心なり。善信房(親鸞)の信心も、如来よりたまわらせたまいたる信心なり。されば、ただ一なり」
と。実にいいことばですね。法然も親鸞も、信心はただ一つ同じである、ブッダ(仏陀)の弟子として平等である、と。しかし、このようにいうことのできる法然だからこそ、法然は、親鸞の生涯を決定し、生涯を貫いてかわらぬ「よき人」であった、「この人」であった。

ただひとたびの決断
 信心とは何か、ということについては、これまでにも、いろいろ考えたことでありますが、法然と親鸞の出会いとか、いまの議論のことなどから思われますことは、一つの道における決断である、ということであります。信心は、わが身を道に捧げる決断であります。われわれは、お互いに、自分の人生がどこまで続くものか、幾年続くものか、知りません。けれども、真実を求めるためならば、道を明らかにするためならば、という自分への思い切り、つまり決断というものを、一度は必ず通らねばダメなのでしょう。
 気がついてみたら生まれていたこの自分が、ノンベンダラリと成長して大きくなる――。その間に、教育を受けて物知りになり、生きる技術などもおぼえるわけですが、ただそういう連続のなかで仏教の話を聞いたとしても、それでは、仏教の教養を得ただけに終ってしまう。教養というものは、ないよりも、ある方がいいともいえます。けれども、身につけた教義は、役に立つとばかりはいえないのでありまして、知っていることが却って邪魔になる、ということもあるわけであります。
 わたしも経験のあることですが、こんなことなら仏教など聞かない方がよかった、と、聞いてグチをこぼしていたことがあります。考えてみると、おかしなことで、道が開けるようにと教えを聞きながら、その聞くことが道を閉ざしてしまう。ということは、聞く態度とか、聞き方というものが問題だ、ということなのでしょう。自分の根性に合わせて聞いているのなら、その根性が道を閉ざすのですから、ダメなのはあたりまえなんです。ところが、その根性に思い切りをつけるということが、なかなかできないのですね。
 念仏は他力だからといって、棚からポタ餅が落ちてくるのを待っているように、何もしなくていいというわけではありません。他力だというならば、それは決断をした人が、決断してみてはじめて、決断することができたのもアミダのはたらきによるものであった、と知るのであります。それで、「思い切る」ということは、つまり自分の根性をたのむような「思いを切る」ということであります。だから、こういうような決断は、他人に代ってしてもらうということはできない。他人が代ってしてあげるということはできない。一人ひとり自己自身の道にかかわることであります。
 そうして、この決断を、どういうとき、どういうようにするか、ということも決められません。親に死なれたときかも知れませんし、結婚するときかも知れません。あるいは、病気のとき、仕事に失敗したときなどと、決断の機会は、いろんなかたちでやってくるものです。だから、それを予め決めるわけにはいかないと思いますが、しかし、一生の間に、必ず一度は通らねばならぬのだ、と思います。
 しかも、この決断は、この道を選べば大丈夫だから、と、石橋を叩いてたしかめて選ぶ、ということではありません。さきほど座敷で、松井君のお母さんが「結婚というものは、これからどうなると、先がわかっていてするものではないんです」、「どうなるとわかっていて結婚するのではないんです」といわれたのを思い出します。結婚する前には、それぞれ生活設計などというものを、一生懸命に考えるのでしょう。そして、だいたいは計画どおりにうまくいくようですけれども、実際には、そう簡単にはいかない。設計どおりの生活が展開するとは決まっていない。生活は、そのときどきの縁が決めるものであります。が、そういう縁に身をまかせるのだというところに、決断というものがなくてはならないのであります。

だまされても後悔しない
 それで、親鸞にとって、念仏を選ぶ、念仏の道に決断するということは、結果からみれば、流罪(るざい)にあうということでもあったし、また晩年には、長男の善鸞をカンドウ(義絶)するということにもなった。けれども、それはどこで、どのような生き方をしようとも、身のあるところが道になっていく、身のある場がアミダに直結するところの道に転ぜられていく。そういうことを親鸞は、身をもって実験して教えているわけであります。だから、道を求めるものの自覚的な直観からいえば「はじめに決断あり」。決断こそ道を開く、と。そして、道を発見することができたという自覚的な反省からいえば「すでに此の道あり」。この道があってこそ、はじめて決断することもできたのだ、と。
 ですから、第二章にありますように、親鸞は、ひとたび念仏の道に決断したからには、法然にだまされても後悔しない、といっていますね。たしかに、法然上人に教えてもらって、念仏を選んだ、南無阿弥陀仏こそ真実であると選んだ。が、選んだのは自己自身の決断である。だから、たとえ法然にだまされても後悔しない。ということは、親鸞の求道心は、アミダに直結しているのだから、だますとか、だまさないとか、というような問題が入ってくる余地がない。
 こういうことを教えてくださったのは、法然上人である。法然の信心も如来よりたまわったもの、親鸞の信心も如来よりたまわったもの、だから、それぞれみな共に、同じようにアミダにつながっているのである。その教えの根本のところを、親鸞は、しっかりと把握しているから、だまされても後悔しない、法然上人をうらむことなど、いたしません。ということは、だまされるなどということはありえない。うらむなどということは全くあるはずがない、と。つまり、これは、法然という人間を崇拝するのではない。法然という人にまで具体化したところの、念仏の教えに帰依するのである。
 これは、いまや親鸞は、法然のたずねたところをたずねるものになっているのだ、という自信をあらわすことばである、と思います。法然の跡をたずねるのではない、法然の求めたところを求めるのである。だから、後悔などない。ということは、信心は、だれにあっても同じである、だれにあっても一つである。共に如来よりたまわったものとして、あなたの道心も、わたしの道心も一つである。けれども、このような道を教えてくださったのは、親鸞にとっては法然である。まことに法然上人がおいでにならなかったならば――。それで、「和讃」して、
  曠劫(こうごう)多生のあいだにも
  出離(しゅつり)強縁(ごうえん)しらざりき
  本師源空いまさずば
  このたびむなしくすぎなまし
といわれる。長い長いあいだ、救われる道を知らずに来たものだ。ほんとうに法然上人がおいでくださらなかったならば、やはりこんども、空しく終ったにちがいない。まことに
 「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よき人のおおせをこうむりて、信ずるほかに別の子細なきなり」
と、こういうことばが表白されるわけであります。

自然ということ
 さて、それで第六章をみますと、「如来よりたまわりたる信心を、わがものがおに、とりかえさんともうすにや。返々もあるべからざることなり」。念仏の信心は、私有化してはならないものである。信心を「わたくしする」などということは、決してあってはならないことだ、と、こうありまして、そして、
 「自然(じねん)(ことわり)にあいかなわば、仏恩(ぶっとん)をも知りまた師の恩をも知るべきなり」
と結ばれます。
 ここでは「自然」と書いて「じねん」と読みますが、これは、人間の世界・自然の世界という意味の「自然」のことではありません。ひとつの必然の法則にしたがって動いているものを、客観的な対象として観察する、というような学問がありますが、そういう自然科学の自然でもありませんし、また、自然主義文学――自然主義の人生観に立って書かれた文学、というような自然でもありません。
 あの、自然主義のなかには、「自然に帰れ」ということをモットーにして、なんでもかんでも裸になれ、というのがありますね。そこでは「自然に帰れ」というのは、動物の昔に帰れということなんでしょうか。男も女も、みな身にまとった着物をぬいで、文字どおり裸になる。そういうかたちで自然に帰ろうとする。文化というものをつくってきた人間の歴史にさからって、文化以前の原始に帰ろう、というので裸になる。こういう自然主義もあります。

裸を露出する必要はない
 この、裸になるということは、なにか人間が忘れてしまっているものを、想い起すチャンスであります。だから、それは全く意味のないことだ、とは思われません。けれども、沢山の人のなかで、しかも一日中、わざわざ裸にならなくても、わたしたちの生活を考えてみますと、一日の間には、しばしば裸になっている。裸にならざるをえないということがあります。だから、そのことが、ちゃんとわかるなら、着物で包んだところをわざわざ露出しなくても、人間の原始、原初に帰る道はあるのであります。
 だいたい信心とは、めざめの心、明るく浄く澄んだ心、智慧ある心、などといいかえることができるわけですが、このことに気づけば、人前に裸を露出しなければ、この身とともに生きているという事実がわからぬなどということはない。たしかに、裸になれば、この肉眼に見えなかったものが見えてくる、ということはある。そして、この肉眼に見えるということは、見えないのとは、まるで違う、といわねばならない。けれども、では肉眼に見えれば、それで裸の正体が、何もかもわかったといえるのかどうか。
 信心は、自己自身にめざめるということでありますから、着物をつけて装っていれば、人にはこの裸はわからないはずだ、などという思いが、間違っているということに気づく。一応は、身を包んで隠している。けれども、ひとたび裸の正体を見きわめた眼の前に立てば、これは裸でいるのと同じなんだ、ということに気づく。そうすれば、なにもわざわざ露出狂のようなマネをする必要もない、ということになるのであります。

光にあえば闇はきえる
 時間も、だんだん過ぎてゆきますから、この「自然(じねん)」ということばの意味についてあまりゆっくりお話しすることもできませんが、これについて親鸞は、こういっております。
 「自然」というは、「自」は「おのずから」という。行者(ぎょうじゃ)はからいにあらず。「然」というは「しからしむ」ということばなり。行者の(はからい)にあらず。
と。そして、また
 「自然」というは「もとより(しか)らしむ」ということばなり。
ともいってあります。これは、われわれの生活のすべてが、アミダのはたらきのなかに見出される、ということでありましょう。ほんとうの人間生活を成り立たせるものが、アミダのはたらきである、と、このように親鸞は領解しているのであります。
 それで、この「自然の(ことわり)」ということを、われわれの身近な経験に即して申しますと、「光にあえば、闇がなくなる」ということ。「光に遇うて、闇は消える」。あたりまえの話ですね。「この世はヤミだ」というのは、「光がない」ということなんだ、と。それが、自然(じねん)の道理。
 この光と闇の関係について「正信偈」には、
  摂取(せっしゅ)の心光、常に照護したもう、
  (すで)に能く無明の闇を破すと(いえど)も、
  貪愛(とんあい)瞋憎(しんぞう)の雲霧
  常に真実信心の(てん)(おお)えり。
といってあります。むつかしいことばですが、これは、アミダの光に遇うことによって、闇が破られた。しかし、闇は去ったが、光に照らされてみて、はじめて雲や霧が天を覆うている、というこの現実が明らかになってきた、ということであります。「摂取の心光――」というのは、摂取して捨てないというアミダの光は、常に平等に一切のものを照し護ってくださっている。ということにめざめて、すでに無明の闇は破られた。

雲霧があっても闇夜ではない
 が、闇夜では気づかなかったけれども、太陽が出て夜があけてみると、はじめて曇った空、霧のかかった空がはっきりしてくる。と同じように、貪愛――むさぼり愛着する心、瞋憎――いかりにくしみの心、があって、真実の信心をおおいかくしている、と。
 この貪愛とか瞋憎の煩悩が、いろんな人生の問題をひき起してくる原因なんですが、そういうものの正体が、闇夜つまり無明のなかではわからなかった。つまり、いままでは、空が晴れているものやら曇っているものやら、全くわからなかった。けれども、光に遇い、闇が去ってみて、人生問題の原因がみつかってきた、と。こうして、ここに改めて求道ということがはじまります。もちろん、求道心というものは、ズーッと昔からあるのだけれども、闇が破られ、煩悩の雲霧を発見するところから、新しく出発する。いよいよ道を求めねばという気持ちが起ってくるわけであります。
 それで「正信偈」には、続いて
  (たと)えば、日光の雲霧に覆われども、
  雲霧の下、明らかにして、闇無きが(ごと)し。
とあります。太陽が出て、はじめて晴天ではない、曇り空である、ということがわかってきた。しかし、なるほど太陽は雲霧に覆われてはいるけれども、この世界をはっきり見ることができる。つまり、もはや闇ではない、と。
 ここでは、無明の闇ではわからなかった道がみつかった。たとい曇天であるとはいっても、その道を、もはや見失うことはない、ということを教えているのであります。闇の中では、煩悩(ぼんのう)の正体がわからなくて、右往左往するのだけれども、光に遇えば、たとえ雲霧があるにしても、「ああ、今日は曇りだなあ、霧だなあ」と、今日の一日を軽やかに受けとって、雲霧の晴れるときを待つことができる、と。

水の主となって泳ぎをたのしむ
 この「自然の理」ということについて、いま一つ例を出して考えてみましょう。これは、以前にも話したことですが、やがてまた水泳のシーズンがやってきます。水に入って、水に体をまかせると自然に浮く――。これであります。カナヅチの、泳げない人は、水がこわいものだから、手足をバタつかせます。手足をバタつかせるものだから、それで、かえって沈みます。水の、浮かせる力が、逆に沈ませるようにはたらきます。
 ところが、そこに水泳のできる先輩がおりますというと、「水をおそれず、疑わずに、身をまかせなさい」「体の力をぬいて、水にまかせば、自然に浮きます」と教えてくれます。教えるだけでなしに、実際に実行して見せてくれます。泳げない人は、それをマネてやってみる、くりかえしくりかえし試みる。これが訓練であります。そして、そうするうちに、泳ぎのコツを会得します。コツさえのみこめば、人を浮かせる水の力が、浮かんだ人の力に加って、力のかぎり泳いでゆけるようになるのであります。
 ここで大切なことは、泳げない人がまず泳ぎ方をおぼえて、そうして泳げるようになるには、安心のできる先輩が――、先生がなければならぬ、ということであります。バタバタやっているうちに、独りでにおぼえるということもありましょうけれども、そういう人は例外というものであります。
 それから、泳ぎ方――泳ぎの要領というものは、教えることができる、教えてもらうことができるのでありますが、泳ぎのコツを会得するのは、一人ひとりであります。水は、一人ひとりに差別なく平等にはたらく。それなのに、泳げる人もあれば、沈む人もある。全くおかしなことであります。
 この、泳ぎができるのと、できないのとの別れ日は、水に身をまかせるかどうか、の違いであります。「身をすててこそ、浮かぶ瀬もあれ」ということばもありますが、畳の上で、どんなに練習してみても、どんなに理クツに合ったいい恰好(かっこう)ができても、実際に泳ぐには、水に入って、水に身をまかせねばならない。この「思い切り」が、つまり道にたいする決断であります。
 教えられたとおり、思い切って水に飛びこんで、教えられたように手足を動かす、というと、そこには、自然の道理がはたらいているのですから、一人ひとりが水の主となって、自由に泳ぎを楽しむことができるようになる。そうなってみれば、泳ぎを教えてもらった恩恵(おんけい)というものが知られてきて、心から「ありがとうございます」ということができるようになるわけであります。

ブッダの恩と師の恩
 さて、それで、話を第六章にもどしますと、ほんとうに念仏を信ずるということは、「弟子一人ももたず」といい切ることのできるような人生が、はっきりするということである。人びとは、「みな友である」といい切ることのできるような世界に生きるものとなる、ということである。が、そういう道を明らかにしてくださったのは、さかのぼればブッダ(仏陀)のご恩である、ブッダ(仏陀)のおかげである。そして、そういうことを教えてくださったのは、身近には師のご恩である。師のおかげである。
 だから「自然(じねん)(ことわり)にあいかなわは、仏恩(ぶつおん)をも知り、また師の恩をも知るべきなり」と。つまり「自然の道理にかなうならば、すなわちアミダの本願のはたらきにしたがうならば、ブッダ(仏陀)の恩をも知り、また師の恩をも知るはずである」と。
 親鸞にとって、終生かわらぬ教師は、法然上人である。だが、親鸞は、法然の奴レイなのではない。法然上人の教えによって、親鸞は、親鸞自身の道を往くものとなることができたのである。だから、法然上人にだまされても後悔などしないのである、と。この、法然上人のおかげだといいながら、また、法然上人にだまされても後悔しないという――。こういう表現にかくされた機微にふれる、ということが大事なんですね。
 「親鸞――わたしは、ほんとうに心から、わが『人生の教師』とよぶことのできる法然上人にあえたので、こんなにまで育てていただきました。ありがとうございます。だから、たとい法然上人にだまされても、後悔なんかいたしません。いや、要するに念仏の世界には、だますだまされるなどということのあろうはずはありません」と。
 それで、このようにいい切ることのできる自信というものは、教えの歴史に身をおいている、という確信にほかならない。つまり、この自信は、如来よりたまわったものである。したがって親鸞は、アミダに直結しているのである、わが人生の根源であるところの、アミダに帰る道に立っているのである、と、このように、念仏の教えを証明する人になっているのであります。
 ですから、われわれは、この親鸞を「人生の教師」とするのである。そうして、お互いが友として結ばれながら、親鸞の歩んだ道を「わが道」として、一人ひとり、根源のアミダに帰って往くものとなるのである、と、このように思うのであります。
 では、これで第六章を終りまして、次回は、第七章を拝読することにいたします。
                             (昭和四〇・五・二二)


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