4 第六・七章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章  
 4 第六・七章  
 まえがき  
  一 第六章の一  
  二 第六章の二  
   案内・講師のことば
   講  話  
   座談会  
  三 第七章の一   
  四 第七章の二   
  補 説  
 5 第八・九・十章  
  謝  辞  
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二 第六章の二 「人生の教師」


     案内のことば

 人と物との最も基本的な関係、たとえば、わたしとクツとの最も基本的な関係は、まず、わたしの足が人なみはずれてデッカイところから始まります。十一文半のわが足をもてあましながら、サイフの中みと、色は黒だとか茶だとか、やれ最近の流行は先がとがっているとか丸いとか、その他もろもろの要求と妥協によって、わたしのクツは完成します。完成したクツは、歩行を快適にして、ほぼ三十分間は幸せでした。ところが、どうしたことか、くるぶしが痛みはじめたではありませんか。「ああなんということだ」。わたしは、痛む足をひきずりながら、クツ職人と、わがクツをのろいました。わたしに従属しないクツは、わたしをいらだたせるばかりです。
 「弟子一人ももたず」という第六章のことばを、伊東先生は「人と人との最も基本的な関係だ」といわれました。ところが、人の労働力が金で買われている社会では、人と人との関係が、人と物との関係のようになっているのではないでしょうか。
 「同法のみなさん!」こんな呼びかけが、すっきりとできるときは幸せです。しかし、ベトナムで、ドミニカで、いまも血が流されています。そんないま、わたしたちは呼びかけます。
 「同法のみなさん!」と。

   昭和四十年五月十二日                       飯南仏教青年会
         (カゲの声「トクをしたのは伊東先生だけではない。」)


     講師のことば

 「人に教えようとする言葉に教えられる人はいない。人は、みずから教えられている人の言葉に教えられるのである」。
 たしかに「おれは先輩だから」とか「おれはおやじだから」というような、いわゆるお説教を、本気で聞く人はいないといってもいいでしょう。教師には、自分でなるのではなくて、みんなから教師とされるのです。ですから、歎異抄の筆者、唯円(ゆいえん)は「弟子一人ももたず」といい「すべての人は同朋だ」といい、また「愚禿(ぐとく)(親鸞)すすむるところ、さらにわたくしなし」といった親鸞を、終生かわらぬ教師として尊敬したのです。
 長い一生の間で、たくさんの人を先生と呼んで暮らすことはあっても、一つの道に結ばれた生涯の友をもち、人生の真実を教えられる教師にあうことはまれでしょう。しかも、わたしたちは、ほんとうの師に会い、友をえなければ、しょせん人生を意義深くすごすことはできません。
 そこで、今回は、とくに「人生の教師」というテーマで、第六章に語られる、うるわしい師弟の関係を聞くことにしたいと思います。


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