4 第六・七章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章  
 4 第六・七章  
 まえがき  
  一 第六章の一  
   原文・意訳・注  
   案内・講師のことば
   講  話  
   座談会  
  二 第六章の二  
  三 第七章の一   
  四 第七章の二   
  補 説  
 5 第八・九・十章  
  謝  辞  
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一 第六章の一 「みな友である世界」


   座談会 「迷信について」

                                      司会 中 村 常 郎(電気商)

 司会 先生も最初に話されましたように、この会も、今回で一周年を迎えました。座談会のテーマは「迷信について」となっていますが、今日これからまた新しく出発するんだ、という意気ごみで、この会を続けていきたいと思います。

     話が聞けるようになってきた

 司会 それで、これまでの反省というような意見だとか、ああもしたかった、こうもしたかった、という話でもいいと思います。はじめはむつかしかったけど、聞いているうちに、少しずつわかってきたという問題もあるかと思います。村瀬君――、どうですか。『文集』に「だんだんわかってきた」というようなことを書いていましたが――。
 村瀬 だんだんわかってきたというより、だんだん聞けるようになってきた、かすかながら、そんな気がします。
 高田 いまも話していたことですが、今晩の話もむつかしかったし、先月の話もむつかしかった。だから、ぼくもよくわからんのだけれども、それでも毎回出てくる。会が開かれる日になると、「ああ、今晩やったなあ、また行けるなあ」と思う。だからわからんといいながら、なにか一つわかっているものがあるんじゃないか。そうでないと、足がここへ向いてくるはずがない。
 それで、「迷信」というようなことより、「むつかしい」とか「わからんけど、わかる」というふうにテーマを変えた方が、話がしやすい。(笑)

     今日はツイテいないということ

 司会 まあ、しかし、テーマを出してありますから、それで話を進めることにしましょう。
 ところで迷信ということですが、それには、ツミのない迷信、たわいのない迷信もあるし、また病気が重くなっても医者にもかからないというような、ほっておけない、重大な迷信もある。迷信といっても、ピンからキリまである。
 それで、まず、ぼくらが気のつかないような迷信、見逃しているような迷信、という点から考えてみたら――、と思います。
 松井 ふだん、気がつかぬような迷信というので思い出したのですが、先日「現代の迷信」という本を読んでいたら、パチンコで負けたり、野球に負けたりすると、「今日はツイテいない」という、これも迷信だと書いてありました。
 ツクとかツカヌとか、ふだんよく何の気なしに使うことばですが、そういわれてみると、これも一つの迷信かも知れない。とくに運命というようなことを考えてみたことがないにしても、ツイタとかツキが悪いとか、平気でいっているところをみると、いつでも迷信にひっかかるようなものを持っているんだナ、と思います。
 司会 ぼくにも、そういう経験がある。前に、カブに乗って自動車の免許を取りに行ったとき、カーブで、すてんとこけた。そのとき、トタンに、「試験にスベルな」と思った。結果は試験に合格したのてすが、いつも、スベルんじゃないか、と思っていたわけです。そういうように、なにか、カツグということがよくあります。
 高田 自動車の話ですが、ぼくの車と中村君の車には、お守り札がぶらさがっていない、と、よく人にいわれる。そういう人は、迷信だと知っていながら、万一のときにはなんとかなるように、とか、なにかにすがりたい、なにかを持っていて安心したいという気持ちがある。
 松井 それで君は、お守りをさけていないで、なんとも思わないの――?
 高田 別になんとも思わない、ということもあるし、また「君はお守りをつけておらん」といわれていると、だんだんそれを誇りにしたいような気持ちにもなる。(笑)
 伊東 神さまというのは、ほんとうに、いろんな形にすがたを変えてくるものですね。昔では考えることもできなかったような神さまが、いまは沢山あります。
 松井 交通の神さま、入学の神さま、就職の神さまもできましたね。
 中村勉 ぼくが、びっくりしたのは、二、三年前ですが、農協(農業協同組合)で新車を買うたとき、禰宜(ねぎ)さん(神官)をやとってきた。ちょうどそこへ通り合わしたので、「中村君、きみも参列してくれ」という。三十分ほど、まつりごとをされたが、参列していて、ほんとうに、こんな気持ちで運転すれば、事故はせんじゃろなあーと思った。あんなバカなことして、と思っていたのが、まつりごとに参列していて、一応、精神の安定というものを感じた。
 どこでも、新車を買うたら、みな、あげんするんかいなあ――。(あのようにするのかなあ)
 高田 ほとんどするのとちがうかナ。原子力発電所でも、お(はら)いをするんだから。
 松井 ああいう儀礼というものは、民間より、官公庁の事業ほど、よくやるんじゃないですか。
 高田 そして、あれは効果がない、ということもみんな知っている。
 司会 バカバカしい、と思っていても、習慣的にやる場合もあるでしょうね。

     ウマの日(年)は火高い

 司会 林さん、どうですか。
 林善 さきほど、松井さんのいわれた、ツイテいない、という話ですね。わたしは、それを迷信のワクの中に入れたくないんです。それは「つくべき縁、離るべき縁」という縁の中へ入れていただきたい。したがって、ツイテいるとか、ツイテいない、ということばは、やはり人生の縁の解釈であって、迷信じゃない、と思うのです。
 それから、わたしたちの身辺には、迷信でない、迷信らしいものが、沢山あるんじゃないでしょうか。
 たとえば「ウマの日(年)は、火高い」といいますね。あれは、考えてみますと理クツがあるんです。ウマは、馬でなくて「(うま)」という字を書きます。十二支の一番はじめは「()」ですが、()は子供で、ものの芽ばえ。そして、一番おしまいは「()」、すべてのものがなくなってしまって、もう最後に残ったものということ。その中間が「(うま)」なんです。
 稲でいえば、芽を切ったときが「子」で、葉を繁殖させ、花を咲かせ、もうこれ以上大きくなれないというところが「午」。そして、実をみのらすためには、茎も葉も枯れ、根もくさる。そうして、最後に実だけが残る。それを一日にあてはめて、(うま)(こく)正午(しょうご)という、それで、いまでも正午の字が残っているのです。
 もののはじまりから、ものがなくなるまでの、いわゆる因縁のすがたをあらわしているのが十二支。それを「ねずみ」とか「うし」とか「うま」とかに当てはめて、わかり易くしたのが、現在の干支(かんし)「えと」なんです。
 だから、()というのは、一番温度の高い、空気の乾くとき、一番火に気をつけねばならぬ時間です。それで、午の時間に火をたくときには注意しなさいよ、という昔からのいい伝えが「(うま)の日(年)は火高い」と。ですから、そのことばのもとを、お互いに理解すれば、警防団がやかましくいう「火の用心」のための、一つの啓蒙運動にもなります。そして、そういうように解釈すれば、迷信ではなくなると思います。
 司会 それでは「丙午(ひのえうま)」というのは、どうですか。
 林善 あれは、人を十干十二支にあてはめていったので、あそこまでいくと迷信ですね。
 西尾 ここに、丙午(ひのえうま)に差支える人はいませんかなあ。(笑)わたしの知っている範囲では、丙午の女の人は、後家さんになっている人が多い。そういうこともあるようです。
 松井 ぼくは、先祖から伝ってきたこと、経験をとおして出てきたことば、というものを、それが迷信だとか、科学的であるとか、というのでなしに、そういう経験が生み出したことがらも、時代がたつにつれて、迷信にしてしまう、というところに問題がある、と思います。
 ツクとかツカヌという問題も、林さんのいわれたとおりだと思いますが、その縁を、迷信にしてしまうということがある。たとえば、いい方をみても、ツキが善い、ツキが悪い、という。つまり、ツカヌのは悪い、という表現ですね。ツクということ、縁ということを、すぐ善いとか悪いとか、ということにくっつけて、運命的に解釈する。そこに、迷信になっていくものがある。
 林善 そういうように解釈すると、たしかに迷信になりますね。

     お祓いと祈りと願い

 林善 それから、自動車の「お(はら)い」ですが、わたしは、愛農会で、「祈る」ということを教えられてきました。だから、祈るという気持ちで、お祓いをするのなら、いいと思いますが――。
 お守りがなくても、それにとらわれぬ運転手さんなら、それでいい。やはり、お祓いをしたり、お守りをつけたりするところには、割り切ることのできないなにかがある。それを、迷信だと解釈してしまうのは、ちょっとまだ納得のいかないものがあるのです。
 お祓いというのは、一つの形式であるけれども、安全を折るという心持があれば、そのお祓いが、ハンドルをにぎる運転手さんの心の支えになるんじゃないでしょうか。
 それなら、この本堂にアミダさんが、おまつりしてなくてもいいんじゃないですか。自分の心の中に仏心があるんだから――、仏心に向って合掌するのなら、ビロウな話ですが、セッチン(トイレ)でも念仏ができます。けれども、やはり対象があって、ナムアミダ仏が出る。そこに自分の仏心を見出す。
 お金をかけて本堂をキンキンにして(美しくして)よごれてくれば挨もとり、お燈明もあげて、荘厳(しょうごん)する。荘厳されたところに向って、合掌するところに教えを受けた心持ちになる。それが縁になる。
 だから、自動車のお祓いでも、キリスト教でいうような祈りの心で行ない、そういうような祈りの気持ちで、ハンドルをもつなら、これは迷信じゃないと思うのです。
 松井 迷信というものは、ものにあるとか、かたちにあるとか、というものでなくて、いつもなにかを手段化していく、というか、ものを手段的に受けとっていくところにあるのだ、と思います。
 だから、アミダさんがまつってあっても、迷信になっているかもわからん。いくら拝んでも、功利的な拝み方、偶像礼拝的な拝み方なら、対象がアミダさんでも、迷信とかわらぬことになる。
 それで自動車の場合でも、お祓いさえしておけばいいんだ、というような気やすめが表にあらわれてほんとうの祈りがかくれると、迷信になる。だから林さんのいう祈りというか、形式やいい伝えにおける願いの回復、というようなことが、大切なんでしょう。
 伊東 いま、松井君は「願い」ということばをつかいましたし、林さんは「祈り」といわれました。どの宗教にしても、祈りとか願いということばでいいあらわしたいものを説いています。が、そこで一つ大切なことは、その祈りの純化というか、願いの徹底というか、そういう問題があるということです。
 自動車のお守り札の場合ですと、札を下げていても、いなくても、人間というものは、みな、それに類するようなものを持っている。自動車にお札は下げていないが、縁起をカツグということはある、という調子です。だから、その場合には、自動車にお札を下げていないからといって、得意になってはいけない。
 最近、タクシーやハイヤーに乗ると、お札が目につく反面、お札のない車も案外多いのに気づきます。それが、もし、お札などにたよらない、と、はっきり自覚してのことなら別ですが、そうでないとすると、それも一つの問題です。
 だから、わたしたちは、いつもお札にでもすがりたくなるようなものをもっている、と、はっきりさせて、それを克服しなければならない。その上で、お札がいらない、といえるようにならねばならない。
 そのときには、親鸞の教えによれば、ナムアミダ仏――、いつ、どこにいても、人間の主体性、自主性というものをとりもどせるナムアミダ仏を忘れてはならない。そこまで徹底していく。それを、祈りの純化というのでしょう。

     幸福のカギ

 林善 迷信に関連してですが、「幸福のカギ」というのを送ってきました。ここに、ご縁のあった方もあるかと思いますが、五年くらい前と、十年くらい前に二回きた。二十年くらい前には、父の名できた。そして、今度またきた。
 すぐ焼きすてましたが、そうでなくても郵便ストだとかというて、忙しい時代に、十円切手を貼ってこんなものを五人も六人もに送る必要はない。こんなもので不幸になるような人生の組み立てなら、もう、飯南町の人は、不幸な人ばかりだと思いました。
 村瀬 ぼくのところへは、昨日きました。
 林善 ああいうものにこだわって、とらわれているすがたをみると、ほんとうの教えがひろまっていないということが、よくわかります。あれは、はっきり迷信である、世の中の毒だと思います。みんな協力して、あんなものは、なくしていきたい。
 西尾 林さんは、いろいろ、よく研究しておられますが、「月の七日に旅立ちするな。帰るまいぞよ九日に」といいますね。あれは、どうでしょう。(笑)
 林善 さあ、そこには、なにかいわれがあるのでしょうが、よくわかりません。
 なくなったわたしの母が、火事のときに「水を一杯飲んで行きな」と、よくいった。「昔から、火事のときには、水を一杯飲んで行くと、ケガをせんという」と、まじないのようなことをいった。
 ところが、そうじゃないらしい。半鐘(はんしょう)がなって家を飛び出すときに、コップ一杯の水を飲むだけの余裕があれば、火事場へ行っても、お役に立つし、あわててケガをすることもない、という理由があったらしい。それを、昔の人はまじないのように信じていたというけれども、これは、迷信ではない。
 司会 さきほども話の出た干支(かんし)、「えと」と迷信についてはどうですか。
 林善 いろいろの迷信になったのには、日本ですと、仏教が悪かったんじゃないですか。仏教が伝わってきた昔から、祈祷をやった。病気や災害からのがれたい、なにもかもお祈りで解決しようとした。そういうものが、いまも残っているんじゃないでしょうか。だから、責任は仏教にある。(笑)
 松井 しかし、そんな昔の、先祖のことをいい出すと、林さんの先祖は、その時代の坊さんだったかも知れませんよ。(笑)

    「アメリカに丙午はない」か

 竹田 ところで、また丙午(ひのえうま)ですが、アメリカには丙午はないのでしょう。(笑)
 伊東 昔のアメリカにはなかったけれども、最近は、東西文化の交流だとか、日本ブームだとか、といわれて日本のものがどんどん伝っていきます。玉石混交で伝っていきますから、これからのアメリカには丙午も出てくるかも知れん。(笑)すくなくとも、それに類するものは出てくるでしょう。
 林善 そういうのは、祈祷仏教の中で作られて、現代まで残っているのではないですか。
 司会 いや、丙午ということは、徳川時代まではあまりいわれなんだらしいですよ。
 林善 とにかく、あの、もって生まれた星で、運命が約束されているという。一白、二黒、三碧、四緑とか、五黄、六白、七赤、八白、九紫など――と。そういうことは、現代人でもいいますよ。
 それから、女の人の誕生石にも、なにかあるんでしょう?
 竹田 けど、そんな石のことは、いっこう、わしらには関係はないわナ。(笑)
 林善 われわれには関係がなくても、こだわっている人には、ある。
 中村勉 そんなこといい出すと、この辺によくくる山梨県の判屋(はんや)さん――、あの人にみてもらうと、わしの名前は、さっぱり、前途は、まっ暗――。
 司会 新聞でみたんですが、人の名前をみて占うというサギで、つかまった人がだいぶあった。
 林善 しかし、名前にしても、顔の相にしても、手相にしても、生まれながらにして持っている、いわゆる因があるんだから、ある程度はたしかです。
 先生がいわれた、なおすことのできない病気を持って生まれた人――、これは、その、なおらない病気を持って生さなければならない。そういうように、生まれながらにして持って生まれた因というものがある。それが、名前にあらわれるか、顔にあらわれるか、手にあらわれるか。やはり、あらわれるらしい。
 しかし、因が暗らければ、果が暗いとかぎらないのじゃないでしょうか。縁があるから――。たとえば、(もみ)をまいても、手入れをしないと、白穂(しらほ)になってしまって、ガタガタになる。
 伊東 姓名による運勢判断というものも、なかなかなくなりませんね。というより、むしろ、さかんになりつつあるのかも知れない。
 芸能人など、名前が悪い、字の画数がよくない、というので、占ってもらったように改名したら、トタンに有名になった、などという体験談が、週刊誌に大きくとりあげられる。すると、読んだ人は、そうかなあ、という気になるわけです。
 たしかに「名は体をあらわす」で、名前というものは大切です。改名を機会に、心機一転してガンバる、ということが成功につながることはあるんでしょうが、運勢判断の基準が字画の数じゃ、どうもうなづけない。ところが、それを本気にするほど、運勢問題は、人間をわからなくしてしまう、ということですね。

     宿命・運命・宿業

 西尾 先生におたずねしたいのですが、いわゆる迷信ということから、ちょっとはずれますが、宿命(しゅくめい)ということを、どう受け取ればいいのでしょうか。宿命ということは、仏教では、どう解釈するのでしょうか。
 伊東 宿命の「宿」というのは「むかし」ということ、「過去の世」ということで、宿命は、むかし生きていたすがた、過去の世で生きていた状態のことですが、この場合、仏教では「しゅくめい」でなくて「しゅくみょう」と読みます。
 人間には及びもつかぬような、すぐれた力のことを「神通力(じんづうりき)」といいますね。そのなかに「宿命通(しゅくみょうづう)」というのがあります。これは、むかし生きていた状態をことごとく知ることのできる力ですが、むかしを知るからこそ、また、いまを知ることもできる。いまのもとにある、むかしを知るということが、とりもなおさず、いまを知ることにつながるわけです
 しかし、これを、宿命と読んだ場合は、ことばの感じが、ちょっとちがってきますね。これと似たことばに、(いのち)を運ぶと書いて運命と読むのがあります宿命は、自分の意志をこえて、むかしから決められている命、そして、運命は、自分の思いをこえて、なにかによって運ばれていく命、というように考えられることが多いようです。そういう場合は、結局あきらめるほか仕方がない。解決の道がない、というように――。
 たしかに、人生には、自分の意志をこえて決まってくるということがあります。人間の自由意志といいますが、短い射程距離で考えれば、意志で自由になったようであっても、意志の自由になったことが、次には、まったく思いがけない自分に規定してくるということがありますね。
 それで、親鸞は「()の毛・(ひつじ)の毛の先にいるちりばかりもつくる罪の、宿業(しゅくごう)にあらずということなし」といっています。ここに、宿業ということばが出てきましたが、これなど、まったく運命論的な表現だといえますね。
 しかし、この宿命と、運命と、宿業と、よく似たことばですが、意味は違います。これは、この人生というものを、たとえ自分の意志をこえて与えられたものにしても、これが人生の事実なんだ、と受けていける態度、受けていける心境にある、ということと、これはまったく押しっけである、だから、いやいや承知せねばならぬ、とあきらめるのとの違いである、といえましょう。
 この、承知できないものを承知せねばならぬ、ということと、承知できないものがあるということこそ人生の事実である、と受けとれることの違い――これが正信(しょうしん)と迷信の違いであろうと思います。

     因縁と宿命について

 西尾 釈迦の教えの中心は、因縁(いんねん)といいますか、縁起といいますか、そういうことだと聞かしてもらっています。その、因縁、縁起ということと、宿命ということの関係は、どうでしょうか。
 伊東 たしかに、あなたのおっしゃるように、因縁とか縁起というのは、釈迦の教えの核心をあらわすことばですね。つまり、因縁というのは、この人生の事実をいいあてたことばなんです。
 このことばを説明的にいいますと、ある結果が生まれるには、そうなるところの内側の直接的な原因、つまり因と、外側の間接的な原因、つまり縁とによるのである。それで、あらゆるものはみな、因縁によって生じ、因縁によって滅するのである。因縁によって起ってくるのである。そして、これを縁起ともいうわけです。
 要するに、この人生は、因縁の道理によっている因縁の道理によってある、と、このように、人生を素直に、そして積極的に受けとっていくことを、因縁の道理に気づくとか、めざめるといいます。
 が、宿命ということになりますと、同じこの人生を、どうしても素直にハイと受け取れない、という心がはたらいている。この人生を、自分の考えで、いろいろ解釈して、こんなはずはない、これじゃ承知できない、と思う。
 西尾 ところが、一般に因縁という場合――、それが、わたしの頭にこびりついて離れんのですけど因縁の悪循環ということをいいます。悪い親を持った子は、悪い因縁を受けつぐ、と。
 そういう悪循環は、悪循環として、あくまで残るのか。どうすれば、その悪循環が断ち切れるのか。さきほどの宿命は、つねに悪循環して続いていくのでないか、と考えているのですが。
 伊東 そうですね。宿命というのは、人生の事実がわからない、因縁を道理だと信じられない、だから、自分の考えをもとにして、あれこれ解釈する。ですから、そういう考えが、根本からあらたまりませんと、どこまでも続いていく、ということになる。そして、それを悪循環だということもできましょう。悪循環は、流転です。
 弱い体の親から、弱い体の子が生まれる。一生なおらないような業病(ごうびょう)を、親から受けつぐ、ということもあります。が、それを、いまただちに断ち切ることは、どうしてできるか――、といいますと、それにたいして親鸞は、「ただ念仏を称えよ」と教えています。
 業病にとらわれていたのでは、業病からすくわれるはずがありません。業病を縁として、念仏もうす。業病になやむいのちを縁として、ナムアミダ仏のいのちにめざめる、そのほかにすくいはない、と教えています。

     運命は受胎のセツナに決定するのか

 西尾 ここにおられる青年のみなさんとちがってわたしは、もう相当の年配ですが、自分の生きてきた過去をふりかえってみますと、自分の意志でどうにもならぬ結果が生まれてくる、ということがありました。
 ある教え――、これは淘道(とうどう)というのですが、それによりますと、母親の胎内に受胎したとき、その人の運命は決まるんだ、といいます。それによって、その人の歩むべき道は、大体、予想される、と。だから、あんたは、こういう運命のもとに、こういう性格をもって生まれているのだから、つつしんで心がけをよくしなければならぬ、というような教えなんです。
 けど、はたして母親の胎内に受胎したセツナに、もう運命が約束されているのか、どうか。そう聞きながら、一抹の疑いをもっておるのです。が、自分の人生をふりかえってみて、どうにもならんことがあったのは、たしかです。それで、その教えも、まんざらでないなあ、とも思います。
 伊東 人間が生まれるについて、だれを父とし、だれを母として生まれるか、ということは、運命的とでもいうほかに、いいようのないような厳シュクなものであることはたしかです。
 人間のいのちは、この世へオギャーと生まれてきてからはじまるものではない。だから、幼児の教育なども、幼稚園ではおそいばかりか、生後すぐにはじめてもおそい。胎児教育といって、母親のおなかの中にいる間から教育しなければダメだ、などといわれますね。
 考えてみますと、受胎されてはじまるいのちにはその背景に、受胎されるまでのいのちがあるにちがいない。それは、われわれの知性とか理性でもって考えても、よくわからないことがらだけれども、母親の胎内にはじまったいのちには、すでに、そこにはじまるようないのちがあるにちがいない。それが因縁あって、その母の胎内のいのちとなった。そして、それが因縁あって、胎外に出て、この世にはじまるいのちになる。
 すべては、因縁の道理のままに動いていくのであって、それを、受胎のときにだけ限定して、何もかもがそこで運命づけられるかのように考えるのは、正しいとは思われませんね。
 人間というものは、母親の胎内にいたときのことを想い出そうとしても、想い出すことができない。記憶として、この頭の中に残っていない。だから、そのときのことを、神秘的にいわれると、そうかなあ、と思う。もうそれで決まっていたんだ、といわれると、そうかなあ、とも思う。いろんな神さまが繁盛したり、運勢占いがなくならぬ原因は、そんなところにあるわけです。
 それから、因縁を悪循環と受けとるということ。それにも、一つの解釈が入っているわけですね。因縁そのものには、幸いも悪いもないわけですが、この因縁の人生を、悪いと受けとる。ということは、その裏には、また、善いと受けとる、ということもあるわけです。
 善い因縁、悪い因縁といいますが、人間というものは、この善悪を離れては生きられない。生きているということが、もう善だとか、悪だとか、ということを問題にしているものなんです。が、そこで大切なことは、善いと受けとるのも因縁、悪いと受けとるのも因縁で、ともに人生の事実は因縁である、とめざめることですね。
 西尾 それは、人生のできごとは、因縁という場合もあるし、考え方によっては、宿命であるとも思える、ということですか。
 司会 こういうこともいえるのでないですか。宿命だとあきらめる場合と、もう一つ、宿命を背負うていく、という積極的な立場と、二つある、と。
 伊東 背負うていく、といえば、ことばのひびきが強いわけですが、それを、人生の事実を事実として受けとる、といってもいいのでしょう。その受けとれる心を、めざめ、つまり自覚といいます。宿業を自覚する、と。

     遺伝は宿業である

 西尾 どうも、いまのわたしを支配している考えというものは、お釈迦さんのいわれる因縁とちがうものかも知れませんが、善因縁の善循環は結構ですが、悪因縁の悪循環をどうしたらいいか。どうすれば断ち切れるか、ということです。
 伊東 どうすればいいか、といわれれば、さきほども申しましたように、「ナムアミダ仏と称えなさい」と親鸞は教えている、としか答えようがありません。それしかないんでしょうね。要するに、自分でそれを実験することです。
 因縁ということ、善いとか悪いとか、ということについては、これも、さきほどからいろいろ解釈して、説明申しているとおりですが、解釈だけでは、なかなか本心から納得できませんからね。
 西尾 さっき、先生のお話の中に、金子大栄先生のお名前が出てました。先生の歎異抄の本の「はしがき」だったと思いますが、歎異抄を一貫するのは善悪が問題じゃなくて、人の問題だ、というふうに書いてあった。間違っているかも知れませんが――。
 そういうことも、わからんこともないのですが、実際の世の中の事実として、悪因縁の悪循環のために困っている人間が沢山いる、と思います。
 伊東 善悪を離れて、人生はないし、人として生きるということは、善いとか悪いとか、ということの中に生きていることである。ですから、歎異抄はその人間の問題を、善悪問題として明らかにする、といってもいいし、善悪問題の解決ということをとおして、人間の問題に、根本的に答えるものであるといってもいいのでしょう。
 それはともかく、くりかえし申しますが、一つの因縁を、ただ悪いとしか受けとれない。そういう考え方、生き方に問題がある、と、問題を見る目をはっきりさせませんと、それこそ悪循環を断ち切ることはできません。
 たとえば、現代の医学をもってしても治らないような病気を、遺伝として親から受けついだ、という場合。これは、本人はもちろんのこと、親の立場からしても、全く深刻な問題ですね。
 この遺伝ということは宿業であると、曾我量深先生がいっておられますが、宿業とは、生きているということを、わたしの責任として感じる、ということなんです。つまり、宿業感は、自己の生命(いのち)にたいする責任感であります。だから、業病をもらったからといって、親を(のろ)わない。親に向って、責任を転嫁しない。
 ところが、これはわたしの知らぬことである、親に責任がある、また親をそんなにした運命が悪い、という調子でいくと、どこまでいっても責任の所在が、ぐるぐる廻って果てしがない。そして、結局、終りがないものだから、運命の神さまを考え出してそこに責任をなすりつけて、「神も仏もあるものか」と、神さまを呪う。運命を呪う。宿命を呪う。
 しかし、呪ってみても、それでは本当に落ち着けないものだから、自分のいい分を聞いてくれそうな新しい神さま、仏さまを探すことになる。あきらめるのだけれども、あきらめきれない。そんなところに問題の眼があって、そうして、迷信というようなものもなくならない、解決しない。

     科学で説明できる迷信

 司会 それで、話が迷信のところにもどってきましたが――。
 村瀬 一つ不思議なことがあるのです。行者さんが護摩(ごま)をたきますね。そのあとに(おき)ができる。祈祷をしている人は、みな、その上を跣足(はだし)でわたる。それでも、熱くないといいます。
 司会 そういうことは、異常な状態だが、科学的に、生理学的にも説明できるらしい。
 村瀬 ところが、酒を飲んでいる人がわたったら神さまがおこったとかいうので、ものすごく熱くてもうわたれないようになった、と。これは、ぼくの近くの、赤桶(あこう)の不動さんの話です。
 司会 やっぱり、それは、酒のために神経がなんとかなっていたんだろう。それも科学的に説明できるにちがいない。それを、神さまがおこったとか、と、神秘的なものに結びつけるから、話がおかしくなるのとちがうかナ。
 伊東 たしかに、迷信のなかには、科学的な無知からくるものが多い。わからないものだから、おかしいと思っても、そうでないと断定できない。が、そういうものの正体を、科学がはっきりさせてくれる、ということがありますね。

     大きな力に流されていく

 竹田 さきほど西尾さんに、淘道(とうどう)というのを聞いたのですが、その道を知らぬものは、どうなるのですか。
 林善 それじゃ、歎異抄を知らぬものは、どうなる。
 竹田 歎異抄は、別に、どうなるこうなるといわぬ教えだ、と思います。しかし、他の教えは、聞くところによると、そうとう運命を支配するようにいうらしいので――。
 西尾 なにか知らんが、わたしは、絶対的なものに支配されている、というように思う。どうすることもできない力に、ひっぱられていく――。そういうように因縁づけられて生まれてきた、ということが否定できん。だから、自分は知らんでも、そういうことになっておる。淘道は、そういうことを明らかにするための、一つの方便(ほうべん)だといえぬこともなかろう、と思うのです。
 林善 そういう考えを頭から否定しませんが、やはり縁によって変わっていく、ということを、ぼくは強く思います。それがなかったら、世界は明るくならん。
 西尾 ここに一つの豆がある。それを、ここへ置いたままでは、花も咲かぬし、実もならぬ。これを畑に蒔くことによって、芽が出て、花が咲き、実になる。その内には、太陽の縁もあれば、水の縁もある、耕作するという縁もある。そうして、悪いタネを蒔いても、縁の力によって、善い結果が生まれる、と。そういうように教えられるが、さて、実際は、一つの大きな力に押し流されていくということが、強いんじゃないか――。
 林善 しかし、わたしどもは、縁によって世界が明るくなる、という希望を持たなければ、と思います。
 西尾 そうありたいと思います。しかし、大きな力に流されてきてますナ。
 松井 そこで思うのですが、その大きな力に流されてきたという実感が、暗いものか明るいものか、ということですね。ふつうは、大きな力に流されるとか、どうにもならないというときには、暗い。
 それは、わたしの考えだ、とか、あれは、あなたの考えだ、とか、いろいろな考えがあるのじゃなくて、わたしにはこれしかないのだという受けとり方が、暗いものでしかないのなら、それは、わたしの一大事だと思う。
 たとえば、ツキが善いとか悪いという問題でいえば、こちらの受けとり方が暗いから、ツキの問題を善悪で考えていく。そして、そういうように、なんでも迷信化していくようなものを持って歩いている。だから、それは、自分の生き方にかかわる大きな問題だ。
 西尾 そこで、親鸞の教えが必要になってくる。絶対他力の教えが必要になってくる。自分の現在の境遇が、どうあろうと、こうあろうと、結局、ただ一筋に親鸞の教えにすがっていく、ということじゃないですか、最後は――。いや、これは、いま、この場の場あたり的にいうのではない。真剣に、そう思う。
 わたしは、なにかを求めるという気持ちがあったので、最初は最高道徳の教えを聞いていたのですが、いま自分は真宗です。それよりしょうがない、というところへ押しつまってきています。土地の寺は禅宗ですが――。

     宗教教育を徹底する

 司会 まあ、時間もだいぶたちましたので、まだ話のある人は、座敷の方でしゃべっていただくとして、座談会は、一応、この辺で終りたいと思います。
 迷信という問題は、日頃、実際に感じていることなので、話もいろいろ出ましたが、最後のまとめを伊東先生にお願いしたいと思います。
 伊東 今日は、話の途中で、だいぶ口をはさんで自分の意見を申しましたから、話かダブルことになるかも知れませんが、今日の会で、まず第一に感じましたことは、教育ということの大切さですね。
 学校教育、家庭教育、社会教育というものを、大きく包んだような、広い意味での教育――、そこにおいて、宗教が、どういうふうに教えられているか。
 今日なお迷信が根強くあって、なくならない、ということは、宗教教育が不徹底だというところに原因がある。人類の先祖や先達が、たいへんな苦労のすえにかちとった智慧、生きる叡知というものを教育しないものだから、それが、いつの間にか忘れられてしまって、科学的な頭デッカチ、科学的な奇形児ばかりが多くなってきている。これは「残念だ」くらいではことがすまない、人類の大損失だと思います。
 とくに第二次大戦後、戦争に負けてからの日本というものは、学校でも、正しい意味での宗教を教えるということをしない。信教は自由だけれども、特定の宗教を教えてはならぬということを、どう間違えたものか、一切、宗教教育をしなくなった。特に公教育のなかから、宗教はカゲをひそめてしまった。
 最近では、倫理・社会の時間に、倫理とか道徳を教えようとしてますが、これも、何を基準に教育すればいいのか、はっきりしていない。それは、反動につながるものだという強い批判が出てくる。そういう一面があることからもわかるように、教育するものにも、教育する自信というか、自信のよりどころがない。まして、正しい宗教教育など、望むべくもないという有様ですね。
 しかし、正しい宗教を教えるということがない以上、迷信などなくなるはずがない。今日の教育の特徴は、「科学教育の徹底にある」ともいえるのでしょうが、科学を教えても、宗教を教えないものだから、その科学を迷信するというような、そんなバカげたことが、なくならない。これは、よく教えなきゃいけないことだと思います。
 そして、そういうことを知っていて、わたしたちは、自分の身辺の手近いところ、家の中でも、こうした集りでも、社会でも、正しい宗教教育が行われるように、と、努力せねばならぬ、という問題です。

     教育は胎児のときから

 伊東 しかし、教育というものは、オギャーと生まれてきてから、あとで行われるものとは限っていません。胎児教育という話も出ていましたが、三才にもなれば、もう教育の基本は決まってしまう、だいたい、母親の胎内に生命がはじまったときから、もう教育がはじまっているんだ、という学者もあります。すくなくとも、そういうことを知っていて、できるだけの努力をする、というのが、親としての責任なんでしょうね。
 子供が小さいから、と油断して、子供をなめてかかって、そばでバカなことを話したり、バカなことをしたりする親がありますが、そういうことを、子供はちゃんと見て知っているものです。子供は、親が思っているほど子供ではない、というか、親のにごった思いより、よっぽど純心・純情ですから、ものごとに、へタな解釈など加えないで、スッと受けとる。油断したり、なめたりしている親の心まで、ちゃんと見抜いている。そして、その子供はすでにそういう教育を受けつつあるというわけです。
 それが胎内のことになると、記憶として頭にはありません。けれども、教育の結果は、生まれてきた子供の上にあらわれている。いわば、オギャーと生まれた赤ちゃんは、胎児教育十か月の産物である、ともいえます。
 こういう生の事実というものを、仏教では、因縁とか、宿業というようなことばで教えるわけですがわたしたちに大切なことは、こういうことばを聞いて、ことばの意味な正しく理解し、そして、このことばのとおりにうなづけるようになるということ。この教えに育てられるということ。これが、文字どおり教育ですが、こういう教育によって、生の事実にめざめませんというと、迷信がなくならない。

     正信と迷信のわかれ目

 伊東 一口に宗教といいましても、われわれを正しく育ててくれる教えもあれば、また、われわれを迷わせるような教えもある。が、では、正信と迷信のわかれ目は、いったい、どこにあるのか。
 それについて、親鸞は、罪福信仰は正しくない、といいます。人間は、生まれながらにして、というか生まれるに先だって、というか、そもそもの生のはじまりから、一つの信仰をもっている。それは、どこまでもどこまでも、自分が幸せであることを求め、苦の結果をもたらす罪をおそれる、罪をにくむ。つまり、エゴの色メカネでみた世界だけを世界と思い、エゴの色メガネに映った自分だけを自分だと思う。そう思いこみ、そう信じこんで、疑わない。が、実は、そこに迷信の原因があるのです。
 だから、罪福の心で信ずるものですから、すくわれたい、この自分から解放されたいと思って信じようとしながら、逆にかえって、信ずることによって自分が縛られる。罪福の信仰から解放されねばならぬのに、その罪福を疑ってみないのだから、何を信じても、みな、自分を縛ってくることになる。それを悪循環というわけです。
 そういう意味で、親鸞にとっては、罪福信仰をこえるということは、生涯をかけた一大事でありました。
 それで、祈りとか願いということが宗教心でありますから、これがなくては話にならぬのですけれども、その祈り、願いの中に、罪福信のカケラでもあるならば、それはもう、正しい宗教とはいえない。そういうことを、はっきり認識しなければダメだと思います。
 つまり、人間なら、だれでも迷信する心をもっているのです。だから、ひとの迷信を笑うような資格は、だれにもない。が、しかし、いつまでも迷信のとりこになっているのでは、ほんとうの人間とはいえない。人間にとって、迷信は、いたましいこと、悲しいこと、恥ずかしいことなんです。それで、わたしたちは、この、送信する人間から脱出して、正信する人間に生まれかわらねばならない。われわれは、そういう責任と義務をもっている、と、このようにいってもいいと思うのです。
 まとまりませんが、思いつくままを申して終ります。
 司会 どうもありがとうございました。では、今回は、この辺で――。


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