4 第六・七章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章  
 4 第六・七章  
 まえがき  
  一 第六章の一  
   原文・意訳・注  
   案内・講師のことば
   講  話  
   座談会  
  二 第六章の二  
  三 第七章の一   
  四 第七章の二   
  補 説  
 5 第八・九・十章  
  謝  辞  
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一 第六章の一 「みな友である世界」


     案内のことば

 愛されているという確信にあふれる女の顔は美しいものです。アリストパネスの喜劇『女の平和』の中で、男たちが、はてしのない戦争をやめるまで、絶対に一緒に寝てやらないと、性的ストライキを敢行する女たちも、また、男性に愛されている確信にあふれていたのでしょう。男たちが、性的要求をストップされただけなら、ますます気負って戦ったでしょう。戦いに勝てば、味方の女も、敵の女も手に入るからでず。しかし、男たちは絶望しました。かれらは、いまのいままで、愛する妻や娘や恋人のために、いのちを賭けて戦っているつもりだったのです。ところが、彼女たちが、よりにもよって、敵の女と合流して、ストライキをするとは……。男たちは、戦う力がぬけてしまいました。彼女たちの愛されている確信と、夫や息子や恋人への愛が、勝利したのです。
 中尾ミエさんの唄う「アイドルをさがせ」も、なかなか面白い。「あなたのことばを、そのまま信じて、いつまでも愛して」といった調子で、いっこうに「愛する」という主体的なことばがありませんが、不思議と「愛する」女の情感があふれています。前にも「愛はおしみなく与え、おしみなく奪う」ということが問題になりましたが、おそらく愛ということばは、非常にダイナミックなことばなんでしょう。集まってくるわたしたちが、如来の摂取(せっしゅ)不捨(ふしゃ)の愛の前で、スネてみせるのも、案外、この程度のことなのでしょうか。
 「わたしゃ、あんたにホレとるばい。ホレとるばってん、いわれんたい」。これまた、念仏のこころかも知れません。

   昭和四十年四月十八日                        飯南仏教青年会


     講師のことば

 「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」という、福沢諭吉の有名な言葉があります。このような、「人間に差別はない」という思想は、ずいぶん昔からありました。釈迦も「四姓(註)は、みな平等である」と教えています。が、しかし、現代においても、ほんとうの人間尊重(ヒューマニズム)が実現しているとはいえません。
 人間は、いつの時代でも、他人に勝ちたいもの、勝って人の上になりたいもの、負けて下にいたのでは承知できないもの、といえましょう。差別などあるはずのない宗教団体の中でさえ、このような人間の優越感や劣等感を巧みに利用して、勢力の拡大をはかるものがあります。それを思えば、すでに七〇〇年前「親鸞は弟子一人ももたず」といい切ることのできた生き方のすばらしさ、偉大さに、驚嘆せずにはおれません。親鸞は、あらゆる人びとを、差別なく、みな友として生きた人であります。
 長い一生の中で、まったく友のない人はいないでしょうけれども、ほんとうの友を持っている人がはたして、どれだけあるでしょうか。今回は、第六章を拝読しながら、親鸞の語る「みな友である世界」について考えたいと思います。

(註) 四姓とは、古代インドにおける四種の社会階級で、一、バラモン教の僧侶(および学者)である司祭階級(ブラーフマナ)。二、王族と士族(クシャトリヤ)。三、農工商の平民階級(ヴーイシュヤ)。四、奴隷(シュードラ)です。「四姓の別も、仏教に帰すれば、あたかも四大河の水が、みな一つの海に注ぐがごとく平等にして差別はない。」(増一阿含経の取意)


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