4 第六・七章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章  
 4 第六・七章  
 まえがき  
  一 第六章の一  
   原文・意訳・注  
   案内・講師のことば
   講  話  
   座談会  
  二 第六章の二  
  三 第七章の一   
  四 第七章の二   
  補 説  
 5 第八・九・十章  
  謝  辞  
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一 第六章の一 「みな友である世界」


     第六章の原文

一、専修念佛(せんじゅねんぶつ)(一)のともがら(二)の、(わが)弟子、人の弟子という相論(そうろん)のそうろうらんこと(三)、もってのほかの子細(四)なり。親鸞は弟子一人(いちにん)ももたずそうろう。そのゆえは、(わが)はからい(五)にて、人に念佛をもうさせそうらわばこそ、弟子にてもそうらわめ。ひとえに禰陀(みだ)の御もよおしにあずかりて(六)、念佛もうしそうろう人を、わが弟子ともうすこと、きわめたる荒涼(こうりょう)のことなり(七)。つくべき縁(八)あればともない(九)、離るべき縁あれば、離るることのあるをも(十)、師をそむきて、人につれて(十一)念佛すれば、往生すべからざるものなりなんどということ(十二)、不可説(十三)なり。如来(十四)よりたまわりたる信心(十五)をわがものがおに、とりかえさんともうすにや(十六)返々(かえすがえす)(十七)あるべからざることなり。自然(じねん)(ことわり)(十八)にあいかなわば(十九)佛恩(ぶつおん)(二十)をも知り、また師の恩(二十一)をも知るべきなりと云々(うんぬん)

     現代意訳

 念仏ひとすじに生きる人びとのなかに、「これは自分の弟子だ、かれは他人の弟子だ」といういい争いがあるとは、全く、とんでもないことである。
 親鸞は、弟子を一人ももっていない。
 というのは、自分の力量で、ひとに念仏を称えさせるのであれば、弟子ともいえるのであろう。しかし、まったくアミダの力にうながされて、念仏を称えている人を、自分の弟子であるなどというのは、驚きいった乱暴さである。
 結ばれるべき縁があれば連れとなり、離れるべき縁があれば離れる、ということもあるのに、「この師にそむいて、他の人にしたがって念仏したのでは、アミダの世界に生まれることはできないはずだ」などというのは、もってのほかである。
 アミダ如来からたまわった信心を、自分のものであるかのように、とりかえそうというのであろうか。そういうことは、決してあってはならないことである。自然の道理にかなうならば(すなわち、アミダの本願のはたらきにしたがうならば)、ブッダの恩をも知り、また師の恩をも知るはずである。
と聖人はおっしゃった。

     注  釈


(一) 専修念仏。
 せんじゅねんぶつ。もっぱら念仏を修(しゅ)すること。アミダの本願を信じて、ただ念仏を称(とな)えることをいいます。
(二) ともがら。
 人びと、なかま、むれ、輩のこと。
(三) 相論のそうろうらんこと。
 そうろん。いいあらそいいさかい、のことで、争論、諍論、と同じ意味。「そうろうらんこと」は「ありますこと」。
(四) もってのほかの子細。
 しさい。もってのほかの次第、とんでもないこと。「もってのほか」は、思いもよらぬこと。この原文は「もてのほか」(蓮如本・永正本・端の坊旧蔵、大谷大学所蔵写本)となっております真子細は、次第というほどの意味。
(五) 御はからい。
 わが。自分の思い、自分の分別(ふんべつ)。意訳では、力量としました。
(六) ひとえに弥陀の御もよおしにあずかりて。
 みだ。まったくアミダのお手まわしをこうむって、ひとえにアミダのお導きにうながされて。「御もよおし」は、おてまわし、うながし、企図、発意などの意味に解されます。「あずかりて」は、お蔭をこうむって、ということ。蓮如本では「あずかて」となっています。
(七) きわめたる荒涼のことなり。
 こうりょう。まことにもって途方もないことである、とんでもないことである。荒涼とは、すさまじく、途方もないこと、とりとめもないことで、荒量とも書きます。
(八) 縁。
 えん。因縁(いんねん)業縁(ごうえん)宿縁(しゅくえん)などと熟して、人生の真実を明らかにする大切なことばですが、ここでは、結ばれるべき関係にあるならば、というほどの意味です。
(九) ともない。
 連れとなり、ということ。
(十) あるをも。
 あるのだのに。
(十一) 人につれて。
 他の人にしたがって。
(十二) 往生すべからざるものなりなんどということ。
 おうじょう。アミダの世界に生まれることはできないはずだ、往生は不可能だ、などということ。
(十三) 不可説。
 ふかせつ。もってのほか、言語道断、沙汰のかぎり。
(十四) 如来。
 にょらい。ここではアミダ如来のこと。道に迷うているわれわれをすくうために、アミダのさとりの世界(すなわち如・にょ)から、衆生(しゅじょう)の世界へ来るはたらきを如-来といいますが、迷っているわれわれを、さとりの世界へつれ去るという意味で、如-去(にょこ)ともいいます。
(十五) たまわりたる信心。
 しんじん。アミダよりいただいた信心、アミダが廻向(えこう)してくださった信心。
(十六) わがものがおに、とりかえさんともうすにや。
 自分のものであるかのように、とりかえそうというのであろうか。「もうすにや」は、いうのだろうか、という意味です。
(十七) 返々も。
 かえすがえすも。くれぐれも、断じて断じて。
(十八) 自然の理。
 じねんのことわり。自然の道理(どうり)のことで、アミダの本願のはたらき(願力自然・がんりきじねん)をいいます。すなわち、アミダの本願はわれわれ人間のはからいをこえて自然に発動するカであると、いうことです。
(十九) あいかなわば。
 一致するならば、適合するならば。
(二十) 仏恩。
 ぶつおん。ブッダのご恩、まことの信心を与えてくださったアミダ仏や、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)のご恩ということ。
(二十一) 師の恩。
 しのおん。先生、先達(せんだつ)のご恩。アミダの本願のはたらきにしたがうならば、ブッダのご恩をも知り、また師の恩をも知るはずである。


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