4 第六・七章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章  
 4 第六・七章  
 まえがき ◀ 
  一 第六章の一  
  二 第六章の二  
  三 第七章の一   
  四 第七章の二   
  補 説  
 5 第八・九・十章  
  謝  辞  
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まえがき


【推薦のことば1】

 十数年ほど前、私が生の意味を疑い、私のような人間は生きるに価しないのではないかと思ったとき、私は歎異抄を読んだ。当時の私には、親鸞の信仰の喜びは、わからなかったけれど己の業の深さにたいする彼の痛烈な自己反省が私の心をうった。親鸞によって救われたなどととてもいえないが、あの有名な「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」という言葉が私の心のなぐさめになったのは事実である。「地獄の思想」という私の本もあるいは、無意識のうちに昔読んだ歎異抄からの着想かもしれない。
 私は今一度歎異抄にあたってみたいと思うが、その点、伊東慧明氏の『歎異抄の世界』は、私に多くのことを教えてくれるものである。
                                 立命館大学教授 梅原 猛

【推薦のことば2】

 私の読書生活は、研究という目的にしぼられてつづけられてきた。そして、今後も研究のための読書がつづくと思っている。私とて、研究とはなれた読書を求めていることはいうまでもない。そのような読書生活のなかで、研究とはなれた読書、しかも、それ以来私の人生の指針となるような書物があらわれた。それが、歎異抄であった。歎異抄は、現代に生きる私に、あらゆる人生のあり方を教えてくれる。学問のあり方、子弟の関係、宗教の役割等々である。
 このような歎異抄を、現代人の生活のなかでとらえた書物が生まれてもよさそうに思っていた。そうした時に、この『歎異抄の世界』が発刊されたことは、私の宿願がかなったような気がする。
                                東京大学教授  笠原 一男


     ま え が き

 ブッダ(覚者)の燈明(ともしび)を高くかかげて、人間のあり方や、行くべき道を説いて教えた釈尊(しゃくそん)が、この地上の生活を去って入滅するときを間近にしたある日、従者のアーナンダ(阿難)にたいして、次のようにいわれた、と伝えられています。
 「アーナンダ(阿難)よ、この世で、みずからを()とし、みずからを依りどころとして、他人を依りどころとしてはならぬ。法を洲とし、法を依りどころとして、他のものを依りどころとしてはならぬ」と。(洲とは、河のなかの島、つまり、依りどころのこと)。
 この説法は、「自帰依(じきえ)法帰依(ほうきえ)」(みずからに帰依し、法に帰依せよ)、あるいは「自燈明、法燈明」(みずからを燈明とし、法を燈明とせよ)の教えとして、周く知られた有名な話であります。わたくしは、このことばのなかに、ブッダの、智慧ある愛によって発見された人間の尊厳性が明らかにされてある、と思います。人間は、いかなるものにも隷属してはならない、いかなる場合にも奴隷となってはならない。また、人間は、いかなるものをも自己の(しもべ)としてはならない。いかなるときにも人師(にんし)(指導者)となる誘惑に負けてはならない――、と。したがって、このことばには、釈尊の教える人間社会(教団)の基本的な性格と、ブッダの道を行こうとするものの根本的な態度が、明碓に示されてある、と解されます。
 そして、この仏教の伝統を正しく身にうけついだ親鸞は、同朋たちの「わが弟子、ひとの弟子」という争いを誡めて、「親鸞は、弟子一人ももたず」と断言するのであります。
 その意味において、第六章は、ブッダの智慧ある愛のひろがりを説くものである、すなわち、仏教の社会観、親鸞の社会観を明らかにするものである、といえましょう。このことを念頭におきながら、この『歎異抄の世界』の第四巻では、まず第六章を「みな友である世界」と「人生の教師」と題して、二回に分けて拝読しました。ブッダの法においては、人間と人間の基本的な関係は、相互に友として絶対に平等である、といわねばなりません。
 しかも、このように、ブッダの法において人間相互に独立者であるということは、その法が、他のなにものにも依らないところの独尊子(どくそんし)を誕生せしめるはたらきである、すなわち、絶対無限のはたらきである、ということを意味するものであります。
 そのことを明らかにするために、親鸞は、『教行信証』の「化身土(けしんど)(まき)」に、次のような意味の経文を引用しております。つまり「ブッダに帰依(きえ)したからには、他の神がみに帰依(きえ)してはならぬ」(涅槃経)、「仏道以外の道には一切つかえてはならぬ、天を拝んではならぬ、神がみを(まつ)ってはならぬ、吉良日(きちりょうにち)()てはならぬ」(般舟三昧経(はんじゅざんまいきょう))と。
 ここに、親鸞は、ブッダの智慧の光りに照らして、正しい宗教と誤った宗教を判然と区別します。そして、ブッダの道(仏道)こそ、なにものにもさわりのない、ただ一筋の白道である、と結論します。そして、それを第七章に、「念仏(ねんぶつ)者は、無碍(むげ)の一道なり」というのであります。
 したがって、この第七章には、親鸞の仏教観、念仏観をとおして、真実の宗教とはどのようなものであるかという宗教観が語られている、といえましょう。これについて、本書では「現代の神がみ」と「さわりなき道」という二つのテーマで考えてみました。まことにブッダの宗教、念仏の宗教は、罪福(ざいふく)信仰を克服したところの、自覚の宗教であります。
 このように、第六章と第七章は、それぞれ、親鸞の社会観と宗教観を述べたものである、と領解されます。しかし、ここに語られる親鸞独自の己証(こしょう)は、すでに明らかなとおり、「自燈明、法燈明」という仏教の伝統から生まれたものである、といわねばなりません。
 なお「歎異抄の諸問題」においては、これらの問題点について補説するとともに、前半の師訓(しくん)十章のうち、とくに第六章以降の五章が、なにを教えるものであるか、ということについて考えてみました。歎異抄の原文を読まれる場合の参考になりますならば、まことに幸甚であります。

     一九八七年一〇月一八日
                                           京都上賀茂にて
                                                伊  東  慧  明


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