3 第三・四・五章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章  
 まえがき
  一 第三章の一  
  二 第三章の二  
  三 第四章   
  四 第五章   
  補 説  
   1 第三章について  
   2 第四章について
   3 第五章について  
 4 第六・七章  
 5 第八・九・十章  
  謝  辞  
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補説 歎異鈔の諸問題


   3 第五章について

     a 親鸞の歴史観

 すでに明らかなとおり、第三章には「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」と、善悪のことを問題にしながら、それによって親鸞の人間観が語られてありました。また、第四章には、「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり」とあって、慈悲(すなわち愛の真実)とはなにかと問うことをとおして、親鸞の生命観が述べてあり生した。そして、いま第五章には
 「親鸞は、父母の孝養のためとて、一速にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」
という最初のことばからわかりますように、一応は、われわれに身近な「()父母(ふぼ)への孝養(こうよう)」すなわち、追善供養(ついぜんくよう)を問題にしたものであるといえましょう。それゆえに、先輩たちも、これを
 一 浄土の孝養                           倉田 百三
 二 父母孝養の問題                         蜂屋賢喜代
 三 往く人、送る人                         金子 大栄
 四 念仏不廻向章(念仏は人間の自力で称えるものではない)      妙音院了祥

などと領解されたのであります。
 ところが、第四・第五・第六の三章と『観無量寿経』に説かれる三福(世福・戒福・行福のうち、ことに世福)との関係からみれば、第五章は、ただ単に父母にたいする追善供養を説くのみにとどまるものではありますまい。すなわち、ここには、さきに語られた「いのちの真実・愛の真実」を承けて、その愛の深さが、いのちの歴史として明らかにされていると思われます。したがって、これは、親鸞の歴史観をあらわすものであると、領解するわけであります。
 たしかにここに直接提起された問題は、「父母の孝養」であります。しかし
 「そのゆえは、一切の有情(うじょう)は、みなもって世々生々の父母(ぶも)・兄弟なり」
といわれるように、親鸞は、父母と自己とのかかわりを正しく知ることをとおして、いのちの歴史の秘義を明らかにしようとするのであります。だから、われわれは、父母を憶うということを機縁として、一切の有情(いきとしいけるもの)と共にすくわれねばならぬ(自利・自信をうる)という生の事実を認識し、一切の衆生をすくうものとならねばならぬ(利他・教人信する)という責任と使命を果さねばなりません。そのことを、親鸞は
 「いずれもいずれも、この順次生(じゅんじしょう)に、仏になりてたすけそうろうべきなり」
というのであります。

     b 還相の廻向

 さて、いま第五章には、人びとをすくうという課題について、「すべて生あるものは、みな、長き世をかけて生まれかわる間に、互いに父母ともなり兄弟ともなってきたのである。だから、だれをもかれをも、念仏する人は来生にブッダとなって、助けるはずである」といい、そして、
 「ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなは、六道・四生のあいだ、いずれの業苦に沈めりとも、神通方便をもって、まず有縁を度すべきなり」
と結論されます。すなわち、ブッダとなるならば、そのときには煩悩の世界に来訪して、あたかも遊ぶがごとく、自由自在のはたらきで、まず身近なものからすくうことができるというのであります。親鸞は、このようなはたらきを、われわれ自身がすくわれていく「往相廻向」にたいして、「還相廻向」というのであります。
 「証の巻」をみますと、
 「還相廻向と(げんそうえこう)いうは、すなわちこれ利他教化(りたきょうけ)(他の人びとをすくい、教えみちびく)の境地を与えられることである」(口語訳教行信証)
 
註 「還相廻向というは、すなわちこれ利他教化地の益なり」
とあり、また「正信念仏偈」には
  煩悩の林に遊びて神通を現じ (なやみの人生に遊んで自由なはたらきをあらわし)
  生死の薗に入りて応化を示す (まよいの人生に入って自在のはたらきをしめす)
とあります。これについて、曾我量深先生は
 「仏となれば、その時に、還相(げんそう)して教化地(きょうけぢ)に至り(アミダのはたらきをもって人びとを教えみちびく境地にいたり)、煩悩の林に遊んで押通を現わすことができる。真実に煩悩の林に遊んで、しかも煩悩にけがされない。煩悩の林に遊ぶことは、煩悩をおこすことに自在である。びくびくしておこすのではなく、真実に心の底から煩悩をおこされる。真実に心から親を愛し、妻子眷属(けんぞく)を愛する。これすなわち煩悩の林に遊んで神通を現わすことである」(歎異抄聴記)
といい、さらに「心は『煩悩の林に遊んで神通を現わし』、身は『生死の園に入って応化を示す』。心と身である」と述べておられます。
 このあとの第七章には「念仏者は無碍(むげ)の一道なり」とありますが、アミダの浄土のさとりは、さとりを求めてアミダに向って往く相も無碍であり、また、さとりをあとにしてアミダから還る(すがた)も無碍であります。それゆえに、いまここでは、その往還の無碍のすがたが、「ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば」といい、「神通方便をもって、まず有縁を度すべきなり」と教えられるのであります。




   伊 東 慧 明(いとう えみょう)

     1930年 三重県松阪市に生まれる
     1953年 大谷大学文学部卒業
     1962年 大谷大学大学院文学研究科 真宗学専攻 博士課程終業
     現 在 大谷大学学監・事務局長・文学部講師
     著 書 「阿弥陀経に聞く」(教育新潮社)


  
歎異抄の世界 3


    昭和42年9月1日 初版発行
                 ¥ 300
      著 者   伊 東 慧 明
      発行者   田 中 茂 夫
      印刷所   中村印刷株式会社

      発行所   文 栄 堂 書 店
          京都市中京区寺町通三条上ル
               振替京都2948
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