3 第三・四・五章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章  
 まえがき
  一 第三章の一  
  二 第三章の二  
  三 第四章   
  四 第五章   
  補 説  
   1 第三章について  
   2 第四章について
   3 第五章について  
 4 第六・七章  
 5 第八・九・十章  
  謝  辞  
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補説 歎異鈔の諸問題


 2 第四章について

     a 親鸞の生命観

 さきの第三章には、親鸞の人間観が明らかにされていましたが、それにたいして第四章には、親鸞の生命観が述べられると解することができましょう。さきには、いつわりのない人間の現実相を正しく知ることをとおして、本来的な人間のあるべき真実相が明示されてありましたが、ここでは、人間愛の現実から、愛の真実へと誘うことによって、愛として表現される人間の「いのちそのもの」が教えられるのであります。
 第四章をみますと、まず、
 「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり」
とあって、一応は、慈悲の二種を相対してありますが、しかし、その「聖道の慈悲」は「今生(こんじょう)にいかにいとおし不便(ふびん)とおもうとも、存知(ぞんち)のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし」と批判され、捨離されて、「しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべき」と「浄土の慈悲」に帰結されるのであります。
 この「浄土の慈悲」を、わたくしは、「愛の真実」といいあらわしたのでありますが、換言すれば、愛の真実とは、慈悲の真実、寿命(いのち)の真実であり、そしてそれは、すなわちアミダの心であります。このアミダの光明(ひかり)は無量であり、アミダの寿命(いのち)は無塵であるといわれます。光明(ひかり)は、かたちのない智慧のかたちであり、寿命(いのち)は、慈悲のはたらきの具体的な表現であります。
 これについて、先輩たちは、それぞれ
 一 慈悲差別章                           妙音院了祥
 二 愛の完成                            蜂屋賢喜代
 三 すえとおりたる慈悲心                      倉田 百三
 四 人間愛と人間悲                         金子 大栄
 五 慈悲と念仏の一行との関係を明らかにしている           小野清一郎

と語られております。このように、あらわされたことばに相違はありますが、これらはみな、第四章が「愛の現実から真実へと導くことを説くものである」と領解される点においては、共通するものであると解することができましょう。
 この愛の真実、すなわちアミダの心について、『観無量寿経』には
 「仏心(アミダの心)とは、大慈悲これなり。無縁の()をもって、もろもろの衆生を(せっ)す」(第九章身観)
といい、また
 「念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」(同上)
と説かれてあります。いま、第四章は、この『観無量寿経』のこころを承けつつ、『大無量寿経』に説かれるアミダのさとり「浄土の慈悲」について端的に、
 「念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益する」
といい、そして「念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきなり」と教えられるのであります。

     b 浄土の真証

 さて、第四章では、「もの(ひと)をあわれみ、かなしみ、はぐくむ」心、「いとおし、不便(ふびん)とおもう」心が問題とされますが、換言すれば、それは、人びとをたすけ、人びとをすくおうとする心(庶衆生心)であるといえましょう。
 これが慈悲でありますが、しかし、人間愛は、いったいどこまで徹底することができましょうか。人びとをすくう心は、すくわれた人の心でなければなりません。人びとをすくってブッダとならしめる心は、すなわちブッダの心でなければなりません。それゆえに、親鸞は、なによりもまず「念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益(りやく)」するものとなれ、と、浄土のさとりを得ることを勧めるのであります。
 「証の(まき)」をみますと、
 「真実の(さとり)とは、アミダのすくいが円満した(くらい)であり、無上涅槃の(きわま)りである」(取意)
 
註 「謹んで、真実証を顕さば、即ちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり」(証の巻)
といい、そして
 「煩悩から離れられぬ凡夫、まよいに沈む人びとが、アミダよりたまわる念仏の心を獲れば、ただちにブッダとなる人びとのなかまとなる(正定聚の数に入る)。正定聚に住するから、必ず減度(さとり)に至る。」(取意)
 
註 「煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萠、往相廻向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するが故に、必ず滅度に至る」。(証の巻)
と説かれています。
 すなわち、第三章には「真実の信心」が明らかにされてありましたが、それを承けて第四章にはそのアミダの「信」は、必ずアミダの「(さとり)」に直結するものである、したがって、いま、われわれに最も大切なことは、なによりもまず自らが「念仏するものとなる」ことである、というのであります。
 これを和讃して、親鸞は
  願作仏の(しん)はこれ
  度衆生のこころなり
  度衆生の心はこれ
  利他真実の信心なり
といいます。「まず自らがブッダとなろうとする心、これがそのまま人びとをすくう心である。人びとをすくおうとする心、それはすなわち、アミダよりたまわる真実の信念にほかならない」と。
 そして、また、次のように和讃されます。
  願土(がんど)にいたればすみやかに
  無上涅槃を証してぞ
  すなわち大悲をおこすなり
  これを廻向となづけたり
と。これは「アミダの浄土に到達すれば、ただちに無上のさとりを得て、ブッダの心、すなわち大悲の心をおこすのであるが、このような愛の真実が実現するのは、アミダのめぐみ(如来の廻向)によるのである」という意味に解することができましょう。これによって明らかなとおり、親鸞は、愛(慈悲)の究極的なもの(真実なるもの)の実現を、アミダの浄土の(さとり)に期するのであります。


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