2 第四章について
a 親鸞の生命観
さきの第三章には、親鸞の人間観が明らかにされていましたが、それにたいして第四章には、親鸞の生命観が述べられると解することができましょう。さきには、いつわりのない人間の現実相を正しく知ることをとおして、本来的な人間のあるべき真実相が明示されてありましたが、ここでは、人間愛の現実から、愛の真実へと誘うことによって、愛として表現される人間の「いのちそのもの」が教えられるのであります。
第四章をみますと、まず、
「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり」
とあって、一応は、慈悲の二種を相対してありますが、しかし、その「聖道の慈悲」は「今生にいかにいとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし」と批判され、捨離されて、「しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべき」と「浄土の慈悲」に帰結されるのであります。
この「浄土の慈悲」を、わたくしは、「愛の真実」といいあらわしたのでありますが、換言すれば、愛の真実とは、慈悲の真実、寿命の真実であり、そしてそれは、すなわちアミダの心であります。このアミダの光明は無量であり、アミダの寿命は無塵であるといわれます。光明は、かたちのない智慧のかたちであり、寿命は、慈悲のはたらきの具体的な表現であります。
これについて、先輩たちは、それぞれ
一 慈悲差別章 妙音院了祥
二 愛の完成 蜂屋賢喜代
三 すえとおりたる慈悲心 倉田 百三
四 人間愛と人間悲 金子 大栄
五 慈悲と念仏の一行との関係を明らかにしている 小野清一郎
と語られております。このように、あらわされたことばに相違はありますが、これらはみな、第四章が「愛の現実から真実へと導くことを説くものである」と領解される点においては、共通するものであると解することができましょう。
この愛の真実、すなわちアミダの心について、『観無量寿経』には
「仏心(アミダの心)とは、大慈悲これなり。無縁の慈をもって、もろもろの衆生を摂す」(第九章身観)
といい、また
「念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」(同上)
と説かれてあります。いま、第四章は、この『観無量寿経』のこころを承けつつ、『大無量寿経』に説かれるアミダのさとり「浄土の慈悲」について端的に、
「念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益する」
といい、そして「念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきなり」と教えられるのであります。
b 浄土の真証
さて、第四章では、「もの(ひと)をあわれみ、かなしみ、はぐくむ」心、「いとおし、不便とおもう」心が問題とされますが、換言すれば、それは、人びとをたすけ、人びとをすくおうとする心(庶衆生心)であるといえましょう。
これが慈悲でありますが、しかし、人間愛は、いったいどこまで徹底することができましょうか。人びとをすくう心は、すくわれた人の心でなければなりません。人びとをすくってブッダとならしめる心は、すなわちブッダの心でなければなりません。それゆえに、親鸞は、なによりもまず「念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益」するものとなれ、と、浄土のさとりを得ることを勧めるのであります。
「証の巻」をみますと、
「真実の証とは、アミダのすくいが円満した位であり、無上涅槃の極りである」(取意)
註 「謹んで、真実証を顕さば、即ちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり」(証の巻)
といい、そして
「煩悩から離れられぬ凡夫、まよいに沈む人びとが、アミダよりたまわる念仏の心を獲れば、ただちにブッダとなる人びとのなかまとなる(正定聚の数に入る)。正定聚に住するから、必ず減度(さとり)に至る。」(取意)
註 「煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萠、往相廻向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するが故に、必ず滅度に至る」。(証の巻)
と説かれています。
すなわち、第三章には「真実の信心」が明らかにされてありましたが、それを承けて第四章にはそのアミダの「信」は、必ずアミダの「証」に直結するものである、したがって、いま、われわれに最も大切なことは、なによりもまず自らが「念仏するものとなる」ことである、というのであります。
これを和讃して、親鸞は
願作仏の心はこれ
度衆生のこころなり
度衆生の心はこれ
利他真実の信心なり
といいます。「まず自らがブッダとなろうとする心、これがそのまま人びとをすくう心である。人びとをすくおうとする心、それはすなわち、アミダよりたまわる真実の信念にほかならない」と。
そして、また、次のように和讃されます。
願土にいたればすみやかに
無上涅槃を証してぞ
すなわち大悲をおこすなり
これを廻向となづけたり
と。これは「アミダの浄土に到達すれば、ただちに無上のさとりを得て、ブッダの心、すなわち大悲の心をおこすのであるが、このような愛の真実が実現するのは、アミダのめぐみ(如来の廻向)によるのである」という意味に解することができましょう。これによって明らかなとおり、親鸞は、愛(慈悲)の究極的なもの(真実なるもの)の実現を、アミダの浄土の証に期するのであります。
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