3 第三・四・五章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章  
 まえがき
  一 第三章の一  
  二 第三章の二  
  三 第四章   
  四 第五章   
  補 説  
   1 第三章について  
   2 第四章について
   3 第五章について  
 4 第六・七章  
 5 第八・九・十章  
  謝  辞  
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補説 歎異鈔の諸問題


   1 第三章について

     a 親鸞の人間観

 第三章は、歎異抄の中でも、ことに人口(じんこう)膾炙(かいしゃ)された有名なことばですが、これは親鸞の人間観を語るものであると解されます。すなわち、ここには親鸞の、自己自身に徹底する深い自覚が捉えた人間観が明らかにされているのであります。
 さて、第三章の御物語は、まず「善人なおもって往生をとぐ」と、善人の存在を認めながら、それを承けて、「いわんや悪人をや」と展開するのでありますが、これによってみると、人間には、善人と悪人の二種類があるかのようであります。しかし、これをさらに読み進みますと、このような善悪を相対する表現も、実は、われわれに、人間の真相を正しく教えようとする深い配意にもとづくものであると知られてきます。
 これについて仁戸田六三郎氏は、「悪人正機(あくにんしょうき)の悪人は(中略)、善人に対する悪人だけではなかろう。人間実存そのものが悪であるから、この悪人は人間存在すべてをも意味するものと解したい」(親鸞教学第五号)といい、また林田茂雄氏は、「かれ(親鸞)の、自覚からすれば、人間ぜんたいが本質的に悪人なのである。かれ(親鸞)にとっては、悪人とは人間の別名なのだ」(親鸞をけがす歎異抄)といっております。すなわち、第三章は、人間であることの赤裸な自性は悪人である、ということにめざめさせて、その悪人がすくわれてブッダ(仏陀)となるところの道理を明らかにするものであります。
 したがって、先輩たちは、これを
 一 悪人正機(あくにんしょうき)章(悪人こそアミダのすくいの正客である)           妙音院了祥
 二 悪人の往生                              倉田 百三
 三 悪人正因(悪人こそ、まさしくブッダとなるべき因位の人である)     金子 大栄
 四 倫理的・道徳的な迷いを打ち破ろうとしたものである。          小野清一郎

などと了解されておりますが、曾我量深先生は、これについて、
 「第三章は、悪人正機について、『機の深信』を示すものである。」(歎異抄聴記)
と述べておられます。
 「()深信(じんしん)」とは人間にたいする深いめざめであります。アミダの法の光りに摂取された人間の自覚、念仏の数えの伝統に生かされて生きるものとなった人間の自信であります。それゆえに親鸞は、主著『教行信証』の「信の巻」を別開して、真実の信心(すなわち自覚、自信)とはなにかということを明らかにされたのであります。

     b 真実の信心

 親鸞の教えの根本精神は、第一章に「弥陀(みだ)誓願(せいがん)不思議にたすけられまいらせて」といい、また第二章に「弥陀の本願まことにおわしまさば」とあるとおり、アミダの本願であります。そして、その教えの具体的な事実は「ただ念仏して」ということのほかにはありません。それゆえに歎異抄の第一章には、念仏の教え(教)が説かれ、第二章には、その伝統(行)が明らかにされたのであります。それを承けて、いま第三章は、念仏に生かされて生きる人間の信念を述べるのであります。
 「信の巻」をひらいてみますと、
 「思うに、信心を得ることは、アミダ(阿弥陀)の本願にもとづくのであり、真心を明らかにすることは、シャカ(釈迦)の啓蒙によるのである」(別序取意)
 
註 「それ、おもんみれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す。真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕彰せり」(別序)
という意味のことばからはじまる文章、つまり「別序」とよばれている一段があって、親鸞が、とくに「信」の問題をとりあげて解明しようとする所以(ゆえん)が述べられ、ついで、「信の巻」の本論の劈頭(へきとう)には、
 「至心(ししん)信楽之願(しんぎょうのがん)  正定聚(しょうじょうじゅ)之機(のき)
標挙(ひょうこ)されております。「至心信楽の願」とは、「念仏を心から信じてアミダの世界に生まれようとおもえ」という本願、すなわち、四十八願に表現されるアミダの本願の根本的・中心的な本願(第十八願)であります。そして、「正定聚の機」とは、アミダの本願にもとづく信念によって、「必ずブッダ(仏陀)になる身と定った人」という意味であります。
 これは、アミダを求める人びとの自覚内容には浅深の差別がある、ということをあらわすものでありましょう。人びとの自覚に応じて、アミダの本願も、さまざまに表現されるのであります。本願は、「アミダの世界に生まれよ」(第十九願)、「念仏してアミダの世界に生まれよ」(第二十願)、「とらわれなく正しく念仏を信じてアミダの世界に生まれよ」(第十八願)と説かれるように、深くより深くと展開するのでありますが、このようなアミダの心に誘われて、われわれ人間の心は、次第に純化され深められていくのであります。
 この「自分の行く手はアミダの世界である」ということについて、親鸞は、それぞれ
 一 決めた心(邪定聚、すなわち、よこしまに定めた人びとのこころ)
 二 決まらない心、決められない心(不定聚、すなわち、不定の人びとのこころ)
 三 決った心(正定聚、すなわち、正しく走った人びとのこころ)
と区別があることに注意しております。
 そして、この「正定(しょうじょう)」の心境を、第二章には「いずれの(ぎょう)もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」と表白されたのでありますが、第三章には、そのような信念の由来するところ、そのような信念の人について
 「いずれの(ぎょう)にても、生死(しょうじ)を離るることあるべからざるを(あわれ)みたまいて、願をおこしたもう本意(ほんい)、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり」
というのであります。これを「信の巻」との関聯(かんれん)からいえば、「願をおこしたもう本意」は「至心信楽之願」にあり、「他力をたのみたてまつる悪人」こそ「正定聚之機」にほかなりません。
 それゆえに「信の巻」には、第三章にいう「煩悩具足(ぼんのうぐそく)のわれら」の自覚が、次のように表白されます。
 「常に、(なや)みに沈む凡愚(ぼんぐ)、業に流転(さすら)群生(ぐんじょう)も、無上の妙果(さとり)が成り難いのではない。ただ真実の信楽(しんじん)が実に()がたいのである」(金子大栄・口語訳教行信証)
 
註 「然るに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じ難きにはあらず、真実の信楽、実に獲ること難し」(信の巻)
と。そして、信念の利益が
 「たまたまかかる浄信を()れば、この心は顛倒(さかさま)でなく、この心は虚偽(いつわり)ではない。これに依りて極悪深重の衆生(われら)も、大慶喜心を得て、もろもろの聖尊(ほとけたち)重愛(いとしみ)を獲るのである。」(口語訳教行信証)
 
註 「遇、浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。ここをもって、極悪深重の衆生、大慶喜心を得て、諸の聖等の重愛を獲るなり」(信の巻)
と説かれるのであります。

     c 悪 人 成 仏

 すでに第一章の第三節に、アミダの本願は、「罪悪深重(ざいあくじゅんじゅう)煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の衆生をたすけんがための願」であるといって、そこに「悪人を正機(しょうき)とすること」が説かれ、次いで第四節には、「善も要にあらず」「悪をもおそるべからず」と、不週の心境が明らかにされてありました。
 その絶対悪にめざめる人間のすくいが、いま、
 「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」
と語られるのであります。人間であるならば、この語りかけを聞いて感動しないものはおそらくありますまい。これこそ、宗教に対する鋭い啓蒙であるといわねばなりません。ところが、このことばは、次の、
 「しかるを世の人つねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや」
という常識説との対比から、一般に「逆説的な提言である」(小野清一郎・歎異抄講話、本多顕彰・歎異抄入門など)と解されています。たしかに、これは、世人の常識からすれば逆説であるともいえましょう。しかし、親鸞にとっては、「いわんや悪人をや」という提言こそ、自信ある「正説」でありました。なぜなら、親鸞は、人間であることの根は、われわれの知解するはたらきの深みに根ざすものである、赤裸な本能の(宿業の)大地に根ざすものであると信ずるからであります。
 さて、ここで、わたくしは、この第三章が、従来、悪人正機を説くものと領解されている点に改めて留意したいと思います。つまり、これは一般に、「悪人―正機」「信心―正因」という解釈を加えて読まれてきているのであります。ところが、この原文を素直にみますと、「他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正機なり」とあるのでなく、また「他力をたのみたてまつる信心、もっとも往生の正因なり」とあるのでもありません。
 これについて曾我量深先生は「大体、文章には、生きた文章と死んだ文章とがある。……歎異抄などは、その点において、まことに秀れたものである」といい、「他力をたのみたてまつる悪人こそは、悪人であるということが、もっとも往生の正因である」(歎異抄聴記)といわれます。すなわち、第三章は「アミダのこころ(本願他力の意趣)は、悪人がブッダとなる(悪人成仏の)ためである」、だから「アミダをたのむところの(他力をたのみたてまつる)悪人が、往生の正因である」というのであります。
 思えば、自己の根源悪にめざめるということはアミダのはたらきによるものであり、アミダの本願は「悪人成仏のためしにおこされたのであります。だから、「悪人、もっとも往生の正因なり」といわれるところの「正因」は、成仏の果(結果)にたいして、他力の信にめざめる悪人こそ正に浄土に生まれるべき因位(いんに)の人(もとの位についた人)である、ということであります。
 このように、アミダのはたらきのなかで、自己の正体を知り自身を深く信ずることのできる「悪人」を、親鸞は「信念のある人」(信心の行者)であるといいます。そして、アミダの本願はそのような信念の人を「正―機」(正定聚の機)として救済を実現するのであります。

     d 唯 除 の 機

 すでに明らかなとおり「正―機」とは、真実の人間成就をあらわすことばであります。したがって、親鸞は「信の(まき)」に、真実の信心を得た人を「真の仏弟子」とよぶといいます。ブッダ(仏陀)から「親しき友よ」と呼びかけられるというのであります。いうまでもなく「真」とは、「かりのもの」(仮の仏弟子)「いつわりのもの」(偽の仏弟子)にたいする真実の人(真人)であります。ところが、「信の巻」には、その「真の仏弟子」について述べた直後に、
 「誠に知る、悲しい(かな)。愚禿鸞(おろかな親鸞よ)、愛欲の広海に沈没(ちんもつ)し(愛欲にしずみおぼれ)、名利の大山に迷惑して(名誉利欲にまどうて)、定聚(じょうじゅ)の数(ブッダとなるなかま)に入ることを喜ばず、真証の証(ブッダのさとり)に近づくことを(たのし)まない、恥ずべく、傷むべきことである」(信の巻の取意)
 
註 「誠に知んぬ、悲しき哉、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快まず、恥ずべし、傷むべし。」(信の巻)
と、悲しみ痛みが表白されてあることに注意せねばなりません。
 そして、それに次いで、親鸞は、ブッダ(仏陀)に(そむ)く人間を、根治しがたい三種の病いにたとえて、すくいがたい三様のタイプの人(難化の三機)として明らかにしております。それは、まず、五逆(ごぎゃく)の人(すなわち、父母を殺害したり、仏法にかかわりのあるものに損害を与えたりするなど、人間として最も重い五つの罪を犯す人)、そして、正法を誹謗する人(すなわち、ブッダの正しい法をそしる人)、さらに、ブッダとなる可能性がないのかと思われるような一闡提(いっせんだい)(すなわち、梵語イッチャンティカを音写したもので、断善根ともいわれる人)であります。
 この、すくわれがたい人間の自覚が、すでに歎異抄の第二章には「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」とあり、第三章には「いずれの行にても、生死を離るることあるべからず」とありました。ここでは、五逆と謗法と闡提から離れることのできないような自己が、「煩悩具足のわれら」「いずれの行もおよびがたき身」と捉えられているのであります。したがって、第三章の「自力作善の人」(自分が善人であるかのように思っている人)にたいする「悪人」の自覚にあっては、「五逆と謗法(ぼうほう)闡提(せんだい)」の正体がつぶさに明らかにされているものと思われます。
 ところが、『大無量寿経』をみますと、釈尊は、この五逆と謗法の人は、アミダの本願から除かれてある、アミダの本願の外にある(これを唯除の機という)と警告しておられます。
 
註 「たとい我、仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽して、我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん、もし生まれずば正覚を取らじ。唯、五逆と正法を誹謗するとをば除く」。(第十八願の文)
 
「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に廻向せしめたまえり。彼の因に生ぜんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せん。唯、五逆と正法を誹謗するとをば除く」。(第十八願の成就の文)
 すなわち、五逆と謗法の人は、アミダの本願からも、その本願の成就からも「(ただ)(のぞ)かれる」
とありますが、わたしたちは、このことを、いったいどのように領解すればいいのでしょうか。
これについて、金子大栄先生は
 「唯だ除く」と(のたま)いしは、一筋に廻心(えしん)を待ちたもうものである。その廻心を待ちたもう願に(おい)て、逆謗(ぎゃくほう)の身こそ、正機であることを思い知らねばならない。(口語訳教行信証)
といわれます。まことに「廻心」とは「自力の心をひるがえして、他力をたのみたてまつる」こと(第三章)、「もとの心をひきかえて、本願をたのみまいらする」こと(第十六章)であります。
 だから、親鸞は、これを解釈して
 「唯除(ゆいじょ)」というのは、ただのぞくということばである。五逆の罪人を嫌い、謗法(ぼうほう)の重い(とが)を知らせようとされるのである。この二つの罪の重いことを示して、あらゆる人びとが、すべてみ な漏れずにアミダの世界に生まれるように、ということを知らせてくださるのである。(尊号真像銘文の取意)
といわれたのであります。そして、この精神によって『教行信証』の「総序」には
 「釈尊(しゃくそん)の大悲は、正しく五逆と謗法と闡提に恵みをあたえようとされるのである」(取意)
 
註 「世尊の悲、正しく逆・謗・闡提を恵まんと欲してなり」
といい、また、「信の巻」では
 「大聖釈尊の教えによれば、難化(なんげ)の三機、難治(なんぢ)の三病(逆・謗・闡提(せんだい))は、アミダ大悲の本願をたのみ、利他の信心に帰依せよ。そうすれば、これをあわれんで治し、これをかなしんで療してくださるのだ。これは醍醐(だいご)の妙薬が、あらゆる病をなおすようなものである。だから、濁世(じょくせ)の人びとよ、穢悪(えあく)の人びとよ、金剛のごとき信念を求め、アミダ本願の醍醐の妙薬をその身に得よ」(取意)
 
註 「今、大聖の真説に拠るに、難化の三機、難治の三病は、大悲の弘誓を誓み、利他の信海に帰すれば、斯を矜哀して治し、斯を憐愍して療したもう。喩えば醍醐の妙薬の一切の病を療するが如し。濁世の庶類・穢悪の群生、金剛不壊の真心を求念すべし、本願醍醐の妙薬を執持すべきなり」(信の巻)
と述べて、信念を確立せよと勧められるのであります。


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