3 第三・四・五章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章  
 まえがき
  一 第三章の一  
  二 第三章の二  
  三 第四章   
  四 第五章   
   原文・意訳・注  
   案内・講師のことば
   講  話  
   座談会  
  補 説  
 4 第六・七章  
 5 第八・九・十章  
  謝  辞  
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四 第五章 「いのちの歴史」


     座談会 「人類のねがい」
                                            司会 村 瀬 信 一(銀行員)

 司会 今夜は、わたしに司会をするようにとのことです。いたらぬ者ですが、みなさんに、おおいに意見をはいていただいて、よい座談会にしていただきたいと思います。

     座談会のあり方・進め方について

 司会 テーマは「人類のねがい」ということですが、あまりにも大きすぎますので、どの辺から解きほぐしていったらいいか、わかりかねます。何でもよろしいから、どなたか意見を出してください。
 伊東 このテーマは、どういう話し合いから出てきたのですか。
 松井 はじめは、「わたしのねがい」としようかといっていたのですが、先生の話題が「父母(ふぼ)孝養(こうよう)」でなくて「いのちの歴史」となっていましたから、いろいろ話しているうちに、こういうテーマになったわけです。
 高田 ぼくが「人類のねがいしといったのですが松井君は、はじめ「わたしのねがい」といった。
 その時に話をしたのですが、たとえば、いま、ベトナムという一つの国が二つに分れて戦争をしている。しかし、「ねがい」というなら、分れて戦っていても、あちらの国の人びとのねがい、こちらの国の人びとのねがい、それから、わたしたちのねがい――、これらには、共通するものがあるのではないか、と思ったわけです。
 森本国 その、ベトナムの問題でしたら、いまの日本の状態というか、戦争がおさまった状態が、共通のねがいということになる。
 小杉 どうも、いつも、そういうふうに話が進むけれども、伊東先生のお話を聞くことと、座談会のテーマのとらえ方が、全然別個であるために、話がまとまっていかぬように思う。歎異抄を読みながらその話を聞きながら、というのなら、平行線をたどっていくような題材は選ばぬ方がいいと思う。
 高田 ほんとうは、テーマにこだわらずに話せると一番よいと思うが――。
 小杉 でも、テーマがないと話しにくい。座談会は、要点、要点だけをとりあげていくのが、よい方向だろう。
 山本正 しかし、この「人類のねがい」というテーマは、講話と全然別個のものとはいい切れない。
 小杉 ベトナム問題にしても、アメリカとソ連では、意見も全然ちがうし、それを、いま、われわれ日本人がとりあげて、どうのこうのいうても仕方がない。
 森本国 いや、しかし、ベトナムのことを新聞でみていると、仏教のことがよく出てくるじゃないか。

    具体的なねがいと根源的なねがい

 高田 ぼくが、人類のねがいといったときには、単純に、幸せとか平和ということが、すぐ頭に浮んだ。それで、幸せとか平和という問題が論じられるのではないかと思った。
 司会 そういう意味で、ねがいの究極は、平和とか幸福とかにあると思いますが、また、ねがいというものは個人個人によってちがう。つまり、年令や性別、環境によってもちがう。そういう点は、どうでしょうか。
 中村常 たしかに、ねがいは個人によってもちがうし、時代によってもちがう。結局、それは、わがいといっても、限定されたねがい――。
 わたしは、これこれの仕事をやりたいとか、こういうものになりたいとか、と、具体的には、限定されたかたちで出てくる。だから、まさか徳川時代に自家用車がほしいとも思わぬだろうし、ロケットに乗りたいというねがいもないだろうけれども、現代では、ロケットに乗って月の世界に行ってみたいというねがいもおこってくる。
 いまのベトナム戦争の場合でも、第二次大戦という大きな歴史を経験してみて、それぞれの見方が出てくると思う。
 だから、ぼくらが、いつも具体的にねがいとしてもっているものの中には、まず、現代社会の中で生きている、この社会全体の中から出されたようなねがいというものが、あるように思う。
 最近の大学生の中には、「家は小さくても、芝生が少々ある家に、奥さんだけと住みたい、そして、子供は二人ぐらいがいい」というものがあるという話を聞いたことがある。このような、社会状況の中でねがわれていることと、そして、もっと根源的なねがいとがあると思う。ねがいというものが、だれかによって、わざと作られたというか、これがねがいだと強制されたようなものもある。
 そういう、具体的なねがいと、生命のねがいというか、根本的なねがいというものが、どういうところでかかわってくるか。これが、問題だと思う。
 森本国 一般的なねがいというか、自分がやりたいこととなるとわかるが、真剣なほんとうのねがいということになると、むつかしい。
 司会 自己を中心にするせまいねがいと、それから、広く社会一般に通じるねがいとにはちがいがありますね。

     ねがいを検討するということ

 中村常 なにか、この、社会から強制されているようなねがいをもって、それだけがねがいだと思うてしまうということがある。
 たとえば、金を持ちたいというねがいが、いまの社会にはある。それで、金持ちが成功者だ、というかたちになってくる。しかし、そのようなねがいというものは、歴史的に、現在では、過去では、未来では、と、いろいろと具体的にちがってくる。
 たとえば、いまテレビで「太閤記」をやっているが、あの、乱世の時代のねがいもあるし、徳川時代のような、封建制のかたまってしまった中で、作り出されたねがいもある。また、いまの日本のように歴史的に非常な変革期にあるという状態の中でのねがい、と、いろいろ具体的にある。
 それで、ぼくは、ある意味で、そういう具体的なねがいが大切で、そのねがいを、いろいろ検討してみる必要があると思う。
 そのように、いまの自分のねがいはどうなのかと具体的なねがいを問うていくと、その中に、ほんとうの生命のねがい、根本的なねがいがみつかってくるはずだと思う。
 山本正 中村さんは、時代によってねがいは変わっていくというが、個人の幸せという面からいえば社会が平和でなければならない。だから、いま、ベトナムの問題も出たけど、いつも人類が究極的に、というか、共通して求めているものは、平和というものだといえるのではないか。歴史的にみても、社会というものを構成するようになってからの人類のねがいは、やはり、平和というものだった。が、その平和ということばだけではもの足りぬ、もう少し具体的にはっきりしたいという気持ちがおこる。
 中村常 それで、「ねがい」ということで、さきほどの伊東先生の話を聞いていると、もう、なにもしゃべれない状態になる。座談会をする必要もないようなことになる。
 そうでなくて、ぼくがいいたいのは、ぼくらの中に、具体的にねがいとして出てくるものを検討してみる、そして、それが、ぼくらの考えているほんとうのねがいと、どういうふうに結びつくか、ということです。金持ちになりたいとか、ベトナム戦争に反対して、とか、そういうねがいを検討する。
 だから、さきほどは、ねがいは時代とともに変わるといったけど、またある意味では、ほんとうのねがいは、人間になったときから、土器をこしらえかけたりしたときから、ずっと変わらない、そういうような人間としてのねがい。そういうねがいは、幾千年昔でも幾万年昔でも、現代でも変わらぬはずだと思う。
 そういう、ほんとうのねがいと、それから歴史的・社会的な制圧のなかで、愛したり憎んだりしながらねがっていることと、それらが、どこでどうつながっているのか、ということを考えてみないといけない。そうしないで、人類のねがいは「これこれである」と、ポンと意見を出したって、もうそれでおしまい――。なんの意味もないことになってしまう。
 林善 テーマの頭に「人類」ということばがついているために、話がしにくいのです。だから「わたしのねがい」ということから、だんだん「人類のねがい」ということへ話を運んでいっては――。
 高田 ぼくは、テーマを出したときに、人間というものを問題にするなら、そういう人間のねがいは最初もいまも変わらぬはずだと思った。それなのに実際には、いろんな相異がある。それはどうなんだろう、と、そういう問題を深めたかった。
 小杉 中村君のいう、具体的なねがいの問題ですが、それは、この「歎異抄に聞く会」の始った頃なら通用するかも知れんが、今日でもう十二回目。だから、もう、そんなことは、いらんのとちがうか。(笑)
 中村常 いやーあ、どうかなあ。それは、問題やなあ。(笑)
 山本正 とにかくテーマがこうなっているんだから、今晩は、これで話そう。

     ささやかなわたしのねがい

 森本国 それで、「わたしのねがい」ということで、これは、ささやかなねがいだけど、ぼくは中学生の頃から、百姓をやるというように強いられていたので、なにか、百姓が、ぼくには宿命的なもののように思っていた。
 ぼくらのところは、百姓といっても、昔ながらの原始的な百姓だったで、果樹園とか牧場をもったような百姓を、夢に描いていた。オレは、果樹園のようなところでクワをもって、百姓をしたいなあ――と。そういうことが、いまも頭から離れない。けどこういう、ささやかなねがいを、空想している間は楽しい。
 山本正 ささやかなねがい、というけど、実際、われわれは、そういうことに全神経を集中しているのとちがうか。
 司会 そういう、ささやかなねがいが、ある程度かなえられたときに、それが、大きなねがいというか、平和とか人類の幸福ということにつながっていくのとちがいますか。
 中村常 しかし、ぼくは、その、ささやかなねがいというのは、案外、クセモノだと思うナ。ささやかなねがいというところへ、逃避する危険性もある。
 司会 しかし、ささやかなねがいが全て実現可能となったときには、平和になる――。
 中村常 というわけにはいかないと思う。平和ということは、ただ単に、わたしだけの平和というわけにいかない。
 伊東先生がいわれたけど「万物一体」という問題がある。それで、わたしだけの平和なんてものは、あり得ない。わたしの周囲だけのとか、わたしのささやかな家庭の、というのは、逃避やと思う。
 司会 個人個人が集まって、全人類がある。それで、たとえば平和ということが出ていましたが、平和が個人のささやかなねがいとなる。そういう個人個人の小さなねがいが実現可能となった場合に、そこに全人類の平和が成り立つのではないですか。
 中村常 それは、わかります。けれども、ぼくはそういうふうにいうたびに、自分のことも、世の中のことも、なにもしないのに、ああだこうだという問題だけが出てくる。それが問題だと思うのです。
 たとえば、自分のことと世の中のことと関連がある場合に、自分のことを解決するというのは、かえって世の中へ出ていく中で、一緒に解決されていく。そういうような問題もあるのとちがうかナ。わたしだけに閉じこもっているのでなしに――。
 わたしのねがいが実現され、わたしのねがいが、あっちこっちに見出されてきたときに、そこに人類全体のねがいがはっきりしてくる、と、そういうふうにいえないこともないと思うけど――。

     自利と利他

 山本正 その点で、先生におたずねしたいのですが、純粋な自利(じり)利他(りた)に通ずるということは、仏教的な解釈でいえるのですか。
 伊東 その自利とか利他ということばは、仏教の専門語、つまり術語なんですが、それを、どういうように理解しておられるかですね。
 いま、おっしゃった表現だけをとって考えてみると、講話でも話したことですが、親鸞は、「すなわち自利を利他と名づけるのだ」といっております。けれども、この自利とか利他は、単なる人間のねがいではない。『和讃』をみますと
  浄土の大菩提心(ぼだいしん)
  願(がん)作仏心(さぶつしん)をすすめしむ
  すなわち願作仏心を
  度衆生心(どしゅじょうしん)と名づけたり
とありますし、また
  尽十方(じんじっぽう)無碍光仏(むげこうぶつ)
  一心に帰命するをこそ
  天親論主のみことには
  願作仏心とのべたもう
 
  願作仏の(しん)はこれ
  度衆生のこころなり
  度衆生の心はこれ
  利他真実の信心なり
とある。これからもわかりますように、自利すなわち利他なんですが、この利他は、ほんとうの信心のはたらきである。だから
  信心すなわち一心なり
  一心すなわち金剛心(こんごうしん)
  金剛心は菩提心(ぼだいしん)
  この(しん)すなわち他力なり
ということで、親鸞は「ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらく」という、つまり、これは他力の信心なんですね。
 だから、自利といえば、この自分が利益をうるということにちがいないけれども、だからといって、エゴイスティックな、利己的なものをいうのではない。普通、われわれは、これが自分だと思うているけれども、それは、考えられた自分であって、もっとも具体的な自分というものは、みんなのなかにある、というか、みんなとともにある、というか。
 中村常 ぼくは、山本さんの話を聞いておって、最高道徳のことがピンと頭にきた。ぼくは、最高道徳のことはよく知らんけど、結局、もうけられるものは、どんどんもうけてもいいということを奨励しているのとちがいますか。
 山本正 経済の問題ですか。まあ、いまの場合、話がちょっと離れているので、問題にしてもらわぬ方がいい。わたしは、道徳科学の立場に立って、話をしようとしているわけではありませんから――。
 わたしは、個々のねがいがかなえられる状態になっていけば、社会全体のねがいが実現するということにつながっていく、という考え方について話しただけですから――。
 中村常 ぼくのいいたいのは、いまの世の中で、たとえば、経済的な問題を考えると、一つの社会の中での富というものは一定だから、自分にとって金のもうかることなら、他人にとっては損なんだ、ということを、ハッキリさせておきたいと思って――。

     やりたいこととやらねばならぬこと

 伊東 話が横へ行くかもわかりませんが、「ねがい」ということを、自分の「やりたいこと」とおきかえると、もう一つ「やらねばならねこと」というのが出てきますね。
 それで、具体的に、生きている中では、やりたいことにしたがっていくか、場合によっては、それを断念してでも、やらねばならぬことをとるか。具体的には、それを選択して生きておるわけですが、そういう場合、みなさんはどうしておられますか。
 それは、毎日の生活のなかでは、ささいな問題でしかないのかも知れない。けれども、たとい、ささいなかたちでも、それを決断し、選択して生きているわけです。
 そうして、三年か五年か、あるいは十年か。人生におけるエポックにあたってみて、改めて、そのことに気づいて、決意をして選択するわけです。
 この、やるべきこと、なすべきことは、自分のおかれた社会とか、境遇とか、立場とか、いろいろな条件が決めてくることですが――。
 中村常 やったことは、すべて、やりたかったことなんでしょうね。
 伊東 そうなんでしょうね。実際には、なかなかそうは思えないものが沢山ある、やっみて、こんなはずじゃなかったなどということが、いくらもあります。
 しかし、どんなことでも、やったこと、おこったことで、自分が、それを望まなかったものはない、自分がねがったからこそ実現したんだ、というのが仏教の人生観だと思います。
 高田 やりたいことと、やるべきことは、ダブッテいるような感じもするし、また、やるべきことに追いかけられて、やりたいことをやっていないという気もします。
 森本国 ぼくは、やりたいことが主体になってしまって、やらんならんこと(やらなければならねこと)を、いつもおろそかにしているように思える。
 伊東 こういうことを、なぜいったかといいますと、卒業の時期になると、毎年、学生たちが悩むのです。それぞれやりたいことと、やらねばならぬことが矛盾するために――。
 それで、普通は、やるべきことのために、わたしのねがいは犠牲にしなければならぬ、と考えられているのではないか。たとえば、まだ日本では、ベトナム派兵というようなことは問題になってこないけれども、隣の韓国にはある。その場合、派兵される人は、もっとほかにやりたいことがあるかも知れない。
 中村常 人間には、たしかに、やりたくないことを、やらされるということが、実際にはあると思う。
 たとえば、こういうことばがある。「奴レイには鎖をたち切ろうとする自由がある」と。鎖までたち切ろうとしなくなったら、それこそ、ほんとうの奴レイだ。だから、この現実にも、やらされるということはあるけれども、その鎖をたち切る自由は自己にあると思う。
 それが主体性のある人物とちがうかナ。これならどういう状況の中でもやっていける、ということがあると思う。
 司会 そうすると、やりたいことと、やらねばならぬこととの関連は――。
 中村常 ほんとうにやらねばならぬことは、やりたくなるはずだ、と思う。やらねばならぬことは、やりたいんだ、と思う。

     遵法する態度

 山本正 やりたいことと、やらねばならぬことが相反する場合、たとえば、いま、ベトナムへの派兵が決ったとする。すると、個人ではやりたくないという場合、君の意見だと、それは、どうするのです。
 中村常 かりに、ぼくが韓国人だと仮定する。そして、韓国からベトナムに送られるとする。そのとき――、これは仮定だから、どういうふうに思うているかわからぬ、といえばわからぬが、しかし、ベトナム行きが正しくないと思ったら、ぼくは、精イッパイ抵抗したい。
 山本正 すると、法律にたいする抵抗もあるわけやナ。
 中村常 それは、当然ある。
 森本国 やっぱり、ぼくも、そういう人間になりたいナ。
 山本正 法律は人間が作るものだろう。だから、法が決まるまでは努力も必要だが、決った法にたいしては、やはり、ソクラテスがやったような方法が正しいと思う。そうしないと、世の中の統制がとれぬ。
 中村常 「悪法も法なり」ということもあるが、それなら、法律なんて変わらないと思う。ところが歴史的にみて、法律が、ずっと変わってきたのは、どういうわけだろう。だから、いまある法律も変わらねばならんわけだろう。
 山本正 しかし、たとえ指導者が決めたとはいえそれが悪法なら、当然、変わっていくと思う。しかし、法が決まっている間は、遵法の精神というものが世の中を統制する基本原理だと思う。
 中村常 しかし、だれが法律を変えるのか、というと、やはり、大衆の力で変える。
 山本正 すると、それは、どんな非合法な手段をとっても変えるべきだ、という説をとるのですね。
 中村常 非合法というけれども、ぼくは、法律というものは、相対的なものだと思う。絶対的な法律はありえない。たとえば、ぼくも交通規則は守る。そういうのと、悪い法律は変えなあかん(変えねばならぬ)というのは、別だと思う。
 だから、あんたは、どんな非合法なことをしても変えるかというが、そういういい方は通用せぬと思う。たとえば、ぼくは、この法律はあかん(ダメだ)といって、竹棒をふり回わしても、なんにもならんと思う。そういういい方とちがう、法律があるけれども、それを変えなあかんと思ったら、変えるように努力すべきだ。

     合法と非合法

 山本正 それで、自分が、その法に触れた場合、現在の社会に生きている以上は、現在の法で裁かれなければ仕方がない。それでも、まだ抵抗していくのですか。
 中村常 あんたは、すぐ、そういうところへ話をもっていく。もちろん、最後には、そういう抵抗があるかもわからん。しかし、そういう極端論でなしに、現実に、こういう法律は改正した方がいいということなら、そのために、いろんなかたちで参加できる。たとえば、選挙の投票でもそうだと思う。
 山本正 わたしも、こと投票ということに関しては、自分の正しいと思う人に入れる。しかし、その他に、どんな方法があると思う。
 中村常 それは、いろいろある。
 山本正 それを、わたしは、あくまで合法的な手段をもってやるべきだと思う。非合法にそれをするのは、現段階では、わたしは賛成できん。
 中村常 あんたは、非合法というけれど――。
 山本正 はっきりいうと、あんたの考え方は、国会をとり巻いて、おどしにかけてでもやりたいというのだろう。それが賛成なんだろう。
 中村常 いまのぼくは、やはり人民の力が結集したら、それができると思う。それが大衆のカ――。
 小杉 聞いていると、自民党と社会党の会談みたいやで(会談のようだぞ)(笑)。
 山本正 しかし、これは自民党の考えやろうか。わたしは、法にたいする考え方は、悪法にも順じたソクラテスやキリストの立場が正しいのでないか、と信じているのだが――。
 中村常 しかし、それは、悪法に順じることによって悪法を糾弾した場合だろう。
 山本正 その結果において、悪法を糾弾したのはやはり合法的にやったからだろう。非合法ではなかった。問題は、そこだと思う。悪法を悪法で続けるのは不賛成だけれど、それを、現在の急センポウのインテリが、合法的にどう裏づけているのか。裏づけの思想なしに感情をぶっつけるような方法しか、とっておらないように思う。
 中村常 それは違う。ただ問題は、大衆にたいする信頼だと思う。

     親鸞の場合

 司会 問題が横へ移って、時間がたっていきます。
 林善 いまの話を聞いて、両方に軍配をあげるような話をしますから、まあ、聞いてください真法治国家の国民である以上は、法を守るのは当然なんです。法を守るだけでなしに、法を超えた道徳を守っていかなんだら、人間の社会というものは成り立たぬのです。畠山みどりの歌ではないが「人と人とはもたれあい」です。法をさらに超えた、山本さんのいわれるような最高道徳の世界、その世界をお互いに生きなかったら、これは人間生活ということはできない。だから、山本さんの説もわかる。
 ところが、決った法だけで、それを守っていかなければならぬという社会だったら革新もない、前進もない。極論をいえば、親鸞聖人は罪人です。罪人になっても、わたしはお念仏をやめない、といわれた、あの思想――。
 山本正 それは、法という意味のとり方がちがうのではありませんか。
 林善 あんたのいわれるのは、法律でしょう。親鸞聖人は、念仏禁止令で流し者になっている。流し者になりながら、なお、「わたしは念仏をやめない」という、あの信念が、今日まで聖人の教えを伝える原動力になっている。だから、法律をやぶるということも、社会をよくする、前進させるということの手段であった、といえる。話は、二つになる。

     戦争反対ということ

 中村常 それで、ぼくがいいたいのは、たとえば現実の社会では戦争反対といえるだろう――? なあ、山本さん。だから、いま現実に戦争をやろうと法律が決められたら、遵法だといって賛成するか?おそらく、しないだろう。ぼくは、そこだと思う。
 山本正 まあ、いいはじめた意見だからいうけどしかし、そのときは、再軍備ということがさきに論議される。もし、指導者が、大衆をゴマ化して、再軍備へ移っていた場合、その、ゴマ化された大衆にも責任がある。しかし、それが與論の大勢を占めてわたし一人が反対して、全部が賛成なら、わたしはしたがう。
 中村常 わたし一人が反対して、全部が賛成なら――というようないい方はおかしいと思う。具体的に、そんなことがあるかナ。もっと現実社会の中で考えたら――。
 山本正 おそらく現在の段階では、自分もそうだが、戦争は絶対反対というものが多いだろう。だから、世論としては賛成は少ないだろうが、しかし、もし、――、かりに賛成ということが法律で決った場合、わたしの方が少数なら、非合法な手段をとってまで反対はせん。自分にゆるされた範囲においては反対するけど――。現在では、アメリカの力がなければ、日本は共産主義社会より守れないといわれているではないですか。
 中村常 合法非合法という場合をぬきにして、また、大多数が賛成で反対は少数だという仮定もぬきにして、あんたは、いま、戦争に反対だという気持ちはあるわけでしょう。
 山本正 わたしの場合は、戦争に反対でも、それが合法化されればしたがわねばならぬということ――。
 中村常 それなら、戦争賛成にしたがえといえばしたがうということになっていくが、そうですか。
 山本正 まあ、そこへ行くかも知れんが、日本の場合、多数の世論によって、それを決めたなら、その多数の意見にしたがわねばならない。
 中村常 それなら、過去の第二次大戦のときに、戦争に反対した人が正しかったか、賛成した人が正しかったか、それについては――。
 山本正 それは――、まあ、そのことは、やめにしとく。
 中村常 うん、この話は、また後にしよう。
 松井 話し合っていることがらは大事なことですが、このまま続けてもらうと、二人のねがいと、わわれわれみんなのわがいと、くいちがってくることになるので(笑)また、あとにしてください。

     個人のねがい・歴史のねがい

 小杉 さっきから聞いていると、ささやかなねがいも、これはダメ――。それで、伊東先生のおっしゃるように、生命の共同体の中に生きて、いのちといのちの共感をよびおこし、感動のある歴史をつづるという生活が、一番のねがいだと思う。それにはわれわれの心がまえというか、生きる態度が問題になる。
 が、結局は、個人個人ねがいはちがう。高田君は牛乳を値よく売って儲ける。わたしなら、日頃勤めている小グループが円満にいけばいいというようなささやかなねがいになってくる。だから、どれ、とねがいをきめるわけにいかん。
 森本国 けど、ささやかなねがいというものもあるが、その中にまた、本質的なねがいというものもあるわけだろう。
 松井 ささやかなねがいではダメだと、簡単にいってのけるが、それが、どこでいえるかということが大切だ。ささやかなねがいは、毎日毎日、いろいろなかたちで起ってくるのだから、ダメだと思っても起ってくるのだから、それがほんとうにダメならどうしてダメだと認識できるか、だ。
 中村常 ねがいというものは、最初にもいったように、いつも、その時代のねがい、そのときのねがいというものがある、それと根源的なねがいが、どこで、どうかかわるか、ということだろう。
 司会 大変、むつかしい問題になっておりますが――。
 山本正 えらいところへ脱線してしまいまして、どうも済まんことで(笑)。
 司会 では、先生、最後に、なにか――。
 伊東 さあ、座談会をまとめるということになるかどうか、ともかく感じたままにもうしますと、まず、「ねがい」というものは、その時代の、その状況の、その人の、というように個別的なものであると同時に、また、歴史を貫いて変わらぬものがあるんじゃないか、ということですね。われわれの願望とか欲望というものは、極端にいえば、刻々に変化しているわけでしょう。が、ほんとうのねがいは、歴史を貫いて変わらぬものであるはずだ、と。

     アミダの本願

 伊東 それで思うのですが、アミダは四十八のねがいをおこされたと、お経(大無量寿経)に書いてあります。これを四十八の本願といいますが、その一番はじめには「わが国には、地獄も餓鬼も畜生もないような、そういう国でありたい」とある。もっとも具体的ですね。三悪趣(さんまくしゅ)のないことをねがう。つまり、ベトナム問題なんかおこらないような世界でありたい、と。
 第二の本願は「いのち終って後、また三悪道にかえるようなことがない世界にしたい」。つまり、歴史はくりかえすといいますが、そういうような流転は終りにしたい。
 それから、第三の本願は「悉皆(しっかい)金色(こんじき)の願」で、「みなが金色の人であるように」と。「金色」ということで、最高最善のものをあらわすのでしょうし「(ことごと)(みな)」ということで、平等をあらわす。いわば黒人問題なんかおこらぬところにしたいということですね。こういうように、四十八種の本願がちかわれておりますが、それこそ、歴史を貫いて変わらぬ永遠の、普遍のねがいというものである。
 それから、わたしのねがいということについて、さきほど、「やりたいこと」をやるか、「やらねばならぬこと」をやるか、事にあたって、どちらをとるか。どちらかと決断をせまられたら、どうするかということをもうしました。ぼくは、「ねがい」ということを、いつも、こういうかたちで問題にしているのですが、みなさんも、そういうことについて考えていただきたい、と思います。
 人間として「やらねばならねこと」は一つで、いつも変わらないが、わたしの「やりたいこと」は、どんどん変わる、と、こういうこともできる。けれども、いま、もうしますように「ねがい」というものが、アミダのねがいとして、つねに変わらぬものだとすると、その「やりたいこと」にたいして「やらねばならぬこと」の方がむしろ変わっていく。
 いずれにしても、そういうことを決める基準を、どこにおくか。この時代の中に生きている、わたしのねがいというなら、その時どきの状況によって、ねがいは変わっていく。にもかかわらず、「やりたいこと」と「やらわはならぬこと」を選択し決定する基準を、どこにおけばいいんだろうか。そういう場合、親鸞は、仏法による、教えに聞く、と、こういうわけであります。ブッダの語った真実の教え――それによって事にあたる、アミダの本願を信じていく、と。
 それで、「やりたいこと」と「やらねばならぬこと」は、われわれの場合、なかなか一つにならぬ。ほんとうは、一つであるはずなんですが、バラバラというか、チグバグというか、二つは矛盾する。それで、二つは、ほんとうに一つなんだ、「ああ、そうであった」といえるところまで、それをたしかめながら生きていきたい、と、こう思っているわけです。
 それについて、もっとも具体的に生きているのは「いま」である。そういう意味で、われわれは「いま」を真剣に受けとめていかねばならぬ。この「いま」というのは「ねがいの成就(じょうじゅ)」ですね。ねがいはいま、いまのかたちにおいて成就しつつある。それを、どう受けとめていくか、ということが、一つであるはずのものが二つのままである世界にいるか、それとも、二つに分裂した状態を正しく知るなかから、一つになる世界に方向するものとなるか――。

     永遠にして普遍なるもの

 要するに、今日、こうして話し合って、なかなか話が展開しないのは、「人類のねがい」といいながら、その「人類の」ということのたしかめもなされない。だから、同じ「ねがい」ということばで、人間の欲望も希望も、また、そういうねがいの坐折したところからはじまるブッダのねがい、アミダのねがいというものも、よく整理されないままであった。そこに一つの原因があると思います。
 で、親鸞に聞けば、いま、われわれが「人類のねがい」ということばで、いいあらわしたいようなねがいは、「アミダのねがい」であるというにちがいない、と、こう思います。
 もちろん、「人類のねがい」は、すなわち「衆生のねがい」でありますから、厳密にいえば、それは「アミダのねがい」ではありませんが、たんなる「わたしの」でなくて、「人類の」というところには、そういうことばでもって、永遠でしかも普遍なるもの、つまりアミダということをいいあらわしたいわけでしょう。
 それから、こうなっている現実をおさえてみればこれは明らかに「わたしのねがい」であった。わたしがねがったものが、いま、このように実現しているのである。逆説的ないい方になりますが、実現しているということが、これが、わたしがねがったということの、何よりの証拠である。善いとか、悪いとか、意にみたぬとか満ちたとか、と、いろいろいっている現実に、わたしのねがいの正体がある。
 けれども、人間には、平和でありたいとか、性別や民族やヒフの色などで差別されないように、平等でありたいとか、というねがいがある。けれども、そういうものを、ただ、この「わたしのねがい」ということはできない。アミダが「わがねがい」というような意味での「わたしのねがい」である。
 だから、ねがいの種々相というものは、よく吟味しないとダメだと思うわけであります。いわゆる「わたしだけ」のものなら、かならず限界がある、壁につきあたる、坐折がある。
 そのような、わたしのねがいの正体をたしかめるということが、われわれに、アミダ永遠のねがいとその実視ということを気づかせてくる。この、人間の欲望とか願望というもののゆきづまりが、アミダのねがいへと転じられていく。
 はなはだ抽象的な表現で、おわかりになりにくかったと思いますが、まあ、思いつくままの話をお聞きいただいたことです。
 司会 先生に、うまくまとめていただきましたが大変むつかしい問題で、いろいろ問題が残ると思います。けれども、それは、またの機会にしていただきまして、今日は、これくらいで終らせていただきたいと思います。では、おそくまで、どうも、ありがとうございました。


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