3 第三・四・五章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章  
 まえがき
  一 第三章の一  
  二 第三章の二  
  三 第四章   
  四 第五章   
   原文・意訳・注  
   案内・講師のことば
   講  話  
   座談会  
  補 説  
 4 第六・七章  
 5 第八・九・十章  
  謝  辞  
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四 第五章 「いのちの歴史」


     講 話 「いのちの歴史」

いのちの歴史にめざめる
 今夜は、そうとう雨がきついようです。こんなにひどい雨だと、歎異抄に聞く会も、よっぽど魅力がないと、ちょっと集まりにくいな、と、さきほど座敷で、中村君と話していたことです。まあ、恋人のところへでも行くのですと、道が険しければ険しいほど、楽しみも大きいということかも知れませんが、この会が、そういう調子にいきますか、どうか。
 さて、ご案内に書きましたように、今回は、第五章を「いのちの歴史」というテーマで拝読したいと思います。従来の解説書をみますと、ほとんどの書物が
 「親鸞は、父母(ぶも)孝養(きょうよう)のためとて、一返(いっぺん)にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」
とありますから、この第五章には「父母孝養(ふぼこうよう)」というような題目がつけてあります。が、わたしは、これを、特に「いのちの歴史」を語ることばだと領解したいのであります。
 といいますのは、わたしたちは、日頃「わが父のため」、「わが母のため」などともうします。もっとも、最近は、嫁に行くなら「家つき、カーつきで、そして、ババぬき」(笑)などというけしからぬヤカラがふえてきているようですが、ともかく、わたしたちは、自分の父自分の母というものを考えるのであります。しかし、われわれ一人ひとりの、いのちの歴史に秘めた意味というものは、実は、もっと深く、もっと広いものであろう、と。そういうことを、親鸞は
 「そのゆえは、一切の有情(うじょう)は、みなもって世々(せせ)生々(しょうじょう)父母(ぶも)兄弟なり」。
つまり「というのは、すべて生あるものは、みな、長き世をかけて生まれかわる間に、互いに父母ともなり、兄弟ともなってきたのである」ということばで語っている。すなわち、親鸞は、父母の孝養ということを手がかりとして、すなわち機縁として、一人ひとりの「いのちの歴史」にめざめてほしい、と語りかけているのだ、と、このように考えるわけであります。

父母孝養と追善供養
 ところで、この第五章は、前の第四章と、次の第六章と、特に内面的に深い関係があるということができます。歎異抄と『観無量寿経』の関係については、これまでにも、しばしば述べたことでありますが、いまの、前後三章の問題は、『観無量寿経』に説かれる三福(さんぷく)ということ、つまり、第一に世福(せふく)、第二に戒福(かいふく)、第三に行福(ぎょうふく)といいますが、これと深い関連があるわけであります。
 まず、第四章には、愛の真実とは、いったい何であろうか、慈悲とは、いったい何であろうかということが説かれてあった。これが第一の慈心不殺(ふせつ)――慈悲の心をもって殺生しないということであります。いわば、これは、愛をどのようにみるか、生命をどのように考えるか、ということで、第四章は、愛の問題には違いありませんけれども、これを、わたしは、生命観をあらわすもの、と、こう考えようと思います。
 それから、いまの第五章ですね。まえのところをみますと、愛の真実とはなにか、それは「念仏もうすこと」である。それなら、そんなに結構な念仏なら、それを父母の追善供養のために(とな)えたらどうか。「念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろう」と。こんな立派な念仏なら、親の供養になるんじゃないか、と。そういう問題が出てきております。ここで「父母(ぶも)孝養(きょうよう)」というのは、もともと親にたいする孝行(こうこう)という意味だったのですが、それが転じて、ここでは「追善供養」――、なくなった父や母にたいする供養という意味に用いられております。
 まあ、親鸞のお弟子のなかには、「念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろう」というなら、それでは、まずもって父母の孝養のために、「そのすぐれた念仏をとなえたらどうだ」というものが出てきた。それで「親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」と。
 この、孝養ということですが、一般によく「親孝行をしたいときには親はなし」などといいますが、わたしの友人で、これを逆説的に「親は、あるうちに不孝をしておくものだ」なんていっている人がいます。要るに、親孝行などということばはあるけれども、実際に出来るのは不孝ぐらいのことだ、という反省をいっているのでしょう。
 そして、この「孝」という感情は、人間独特のものだといいます。親が子を一人前にするにはどんなに大きな犠牲を払うことか。子を持った経験のないわたしには、それをいう資格はないわけであります。しかし、子を思う獅子は、子を谷底に落すといいますが、そのような親の気持ちはわかりますね。ところが、子から親にたいする愛は、人間以外にあるのかどうか。わたしには、そういうことはよくわかりませんが、この、子が親を憶う愛情、つまり親にたいする孝というものは、人間独自のものといってもいいのじゃないでしょうか。

両親はわたしを叱ってくれない
 それが、徳川時代、封建時代はいうにおよばず、第二次大戦までは、家長制度というものが生きていて、親――、とくに父親の権力が絶大だった。そういうことから、親が子に向って親孝行を強要する、必要以上にイバッたり、子供を犠牲にしたりしたものだから、いま、その反動が来ている、といってもいいのじゃないでしょうか。家の中で、親が小さくなっている。親らしさというものを失って、子供にたいして、ビクビクしている、と、そういう状況があるのでないかと思います。
 かって、東京の研究所におります頃、「人生相談」という小さい看板も出していたものですから、ときどき、そういう相談ごとにあずかっておりました。それで、突然、ある日、女子高校生から電話がかかってきた。内容は、要するに、「わたしは、これから、どう生きていったらいいのでしょうか」というような、きまりきった人生相談なんですが、それによると、学校の先生にも適当な相談相手がない、家でも話し相手がない。こういうときには、なにかピシャッと叱ってくれればよさそうなものを、お母さんも、お父さんも、わたしの顔色をみていて「叱ってくれない」、「よう叱らないんだ」といって、グチをいっているわけです。これなど、ちょっと常識では考えられませんね。うっかり叱れば、家出でもされては――というのが、いまの親の気持ちでしょうが、それくらい教育に自信がない、ということは、自分自身にも自信がないわけですね。

行きさきは養老院か
 ともかく、「孝」ということばの意味が、わたしたちの子供の頃とは随分変ってきたのはたしかです。ある先輩から聞いた話ですが、非常に優秀な、できのいい子供が、優等成績の作文を学校からもらって帰って来た。それには、どんなことが書いてあったか――。
 「自分は、お母さんが大好きだ。だから、一生懸命に勉強して、いい学校を卒業して、そしていい職業について、安楽に暮させてあげたい。そのために、ゆくゆくは立派な養老院に入れてあげたい」
と。立派な設備のととのった養老院へ入れてあげたいというのが、いまの優秀な小学生の常識を代表する考えである、とすると、ちょっと考えさせられますね。
 これも、一ヵ月ほど前の朝日新聞のマンガ「サザエさん」に載っていたものですから、みなさんもごらんになったかと思いますが、まず、最初の一コマで、イソノさんが知人をたずねて「こんにちわ、おじいさんはどこへ行きましたか」というと、子供が出て来て「知らぬ」という。「ぜひ会いたい」と重ねていうと、子供は、「おじいさんは、いつも、自分の行くさきは、どのみち養老院だから――、といっていた。だから、養老院にでも行ってみたら――」と、こう返事をしているのです。
 さきほどの作文と、いまのマンガと、現代の子供の世界のこととして一連のものがあるのを感じますが、このように話してきますと、よく、老人の歎きというようなことばで扱われる社会問題が思い出されます。これも、ある新聞に載っていた投書ですが、息子は一人前に成長して、いい会社に就職している。お嫁さんも、いまは何でも機械がやってくれるし、孫のお守りもバアちゃんにまかせておくわけにはいかない、と。それで、そのおバアちゃん――というには可愛そうな年ですが、七十歳そこそこで、もう何もすることがないからというので、自殺でもするほかないという投書をしているのです。
 つまり、子供は、バアちゃんッ子になったのでは困る、と。昔なら、孫の世話とか、洗濯とかボロきれのつくろいとか、いろいろあったのですが、いまでは、もうそんなことをする必要がないから、おバアちゃんは、ひとりで遊んでいてくれというわけです。

生きているかぎり仕事がある
 若夫婦にしてみれば、これで老人をいたわっているつもりなんですが、実は、ここに一つの社会問題がある。つまり、何もすることがない、毎日がタイクツである。
 人間は、なにもすることがないくらいやりきれないことはない。わたしは、いつも、生きているということは、ちゃんと立派な仕事があるんだ、仕事があるから、生きているんだといっているのですが、まあ、その場合の仕事というのは、世間で常識的にいう仕事――、なにがしかの労働をして、そうして、なにがしかの報酬をうるというような仕事ではありませんから、ちょっとやそっとではわかってもらえませんね。
 ともかく、このタイクツということは、昔から、哲学的にも一つの大きな問題になっているのですが、今日では、社会福祉が進んで、老人たちの仕事がなくなるということが新しい社会の問題になってきております。日曜日に、スエーデンの公園に行くと、うつろな眼をして空を見ている老人が、幾人か坐っているというような話をよく聞きますが、たとい、そのように生活様式が変わっていくにしても、いのちの問題、親子の問題が根本的に変わるとも思われません。
 ことに、スエーデンのように、社会福祉、社会保障の制度が発達すればしたで、新しく発生してくる問題があるわけですが、たとえば、いまのタイクツというような問題を根本的に解決する方策が立てられないとダメだと思います。そして、こういうところにこそ、実は、宗教の問題があるのじゃないか、と思うわけであります。
 要するに、宗教問題というものは、理想が実現すればこうなるんだということと同時に、そこへ到達する過程の毎日まいにち――、ただいま現在というものを問題とします。あるべきすがたはこうである。そのためにはこうしなければならぬ、が、いまはこうである、ということの全体を、自己のいのちの問題として引き受けていく覚悟というものが宗教によって与えられるのでしょう。そういう意味で、いまの、タイクツというような問題も、社会制度が徹底していくプロセスだけのこととしてはすまされないものがあると思うわけであります。

他人のことなら平気でいいのか
 それで、現に、わたしたちは、自分の父をもち、自分の母をもっている。そうして、自分の父が病気でもしたら、他人のこととちがって飛んで行くでしょう。
 隣の人が交通事故にあったのなら「ああ、気の毒になあ、この頃の交通事情は悪くなったから、注意しないとダメだなあ」ぐらいのことでカタづけるのですが、自分の父とか母とか、自分の肉親がバスで谷底に落ちたとでも聞いたらたいへんなことです。
 このように、われわれは、この社会の秩序の中で、家族をもち、一応は、わが父、わが母、わが兄、わが妹と、こういう差別をもって生きておるわけでありますけれども、実は、こういう差別の中にあるところの真実は、この、いのちを共有しているのだ、と。こういいましても、すぐには納得がいきかねるかとも思いますけれども、よく考えてみると、われわれは、いのちを共有して生きているんだ。やはり「世々生々の父母兄弟なり」で、いのちを共有しているということにまで徹底しないで、「おれが」「わたしが」といいあっていたのでは、ほんとうに生きていけないのではないか、と、こういう問題を親鸞は提起しているわけであります。
 でないと、さきほどの新聞の投書のように「わたしの生きがいがない」ということになってしまいます。そういう人は、タイクツのあまり自殺してしまう。自殺して夢を未来に托そうというわけですが、しかし親鸞は、そういうように未来に夢を托して、自殺をしていく人を見すごすわけにはいかないという。なにか、そのとき――。いつも、そのときどき――。たしかに差別ということはあるんだけれども、しかし「一切の有情は、みなもって、世々生々の父母兄弟なり」。

慈悲の父母
 これは、この差別のある世界のなかにありながら、差別に耐えて、そうして、差別のなくなることを願っていることばだといえましょうか。自分の親だ、自分の兄弟だという差別が、厳としてあるなかに、事実としては、みな生命を共同して生きているんだということを知ることが大切なんで、こういう人生にありながら「一切の有情は、みなもって、世々生々の父母兄弟なり」という信念がなければ、ほんとうに安心して生きてはいけないんだ、ということでありましょう。
 このように、親鸞は、亡き父母の追善供養のための念仏は一返もしなかったといいますが、それじゃ親鸞は、父母のことを憶うて念仏したことはなかったのであろうか。ご承知のように、親鸞の伝記はわからない。が、幼少の頃から父母に別れて暮らされたことはたしかのようであります。
 母とは早く死別されたといいますし、父とは、あるいは生き別れであったともいわれております。
 いずれにしても、九歳で得度して、比叡山に登られたのでありますから、死に別れか、生き別れか、事実はともかく父母と別れて暮されたことに間違いはないわけであります。「(まぶた)の母」という長谷川伸の有名な小説がありますが、九歳で別れてから、十年、二十年と、その父のすがた母のすがたを(おも)わぬわけはありませんし、そのときに、念仏が出なかったはずはないと思います。
 親鸞は、自分自身の一身上のことすら書かなかった人ですから、まして自分の父、自分の母のことなど書くはずはありませんけれども、親鸞の信仰を伝えた書物を見ますと、たとえば「お釈迦さまと、アミダさまは慈悲の父母である」という意味のことをいっております。つまり『和讃』に「釈迦、弥陀(みだ)は慈悲の父母(ぶも)」と。
 また「行巻(ぎょうのまき)」には、ナムアミダ仏の名号のことを「徳号(とくごう)慈父(じふ)」といい、アミダの智慧を「光明の悲母(ひも)」と、このように、念仏を父、智慧を母になぞらえておられます。
 これなどから思うのですが、生別・死別した父母は、ほんとうの父母ではないのであって、その父母を憶うことを縁として、ほんとうのいのちの父母を探しあてることができた。早くから生別し、死別した父母とは、いったいなにかと求めた結果、ほんとうのいのちの父母を求めた結果それを釈迦とかアミダのなかに見出すことができた。念仏とか、アミダの智慧の光明のなかに見出すことができた、と。それを慈父とか、悲母ということばであらわそうとしているのでなかろうかと思うのであります。ですから、それが、いま、ここには「一切の有情は、みなもって、世々生々の父母兄弟なり」という信仰表白のことばとして出てくるわけでしょう。
 だから、親鸞が、父母のことを憶わなかったはずはない。が、親鸞は、亡き父母にたいする追善供養のために――、つまり、わが父母のために念仏もうしたことはない、と、こういうわけであります。ですから、親鸞が念仏もうすのは、亡き父母を憶うことを縁として起ってくる場合もある。が、それは、亡き父母を縁として起ってくるものであって、その父母の追善供養じゃないと、こういうことをいうわけであります。

曾我量深先生と祖父のこと
 まあ、わたしは、幸いにして両親が健在でおりますので、この、亡き父母にたいする追善供養というようなことではお話ができないわけであります。それで、今回の題目を「いのちの歴史」としましたのも、さきほどもいいましたような理由がないわけじゃないのですが、また正直にもうしまして、「父母の孝養」では、お話しにくいということもあるわけであります。
 もう十四年ばかり前になりますが、その頃から、わたしは、いわゆる親孝行なんてできないものだとアキラメているのです。というのは、その頃、大学を出たのですが、ずいぶん長い間苦労をして、やっと大学を出してくれたのをよく知っている。それなのに、学生時代の不注意という恩義か、不セッセイというか、その結果、その大学の卒業式が京大病院への入院式というようなことになってしまったわけです。その頃からでしょう、親孝行などはできないものだが、もしできることなら、せめて親より一日でも二日でも長生きをしたいものだなあ、と、このように思うようになりました。
 それは、可能性としてはあるはずなんですが、それにしても諸行無常(しょぎょうむじょう)だというならば、それまでのことです。まあ、しなきゃならんことは沢山あるのに、何一つできないでいる。そのうちのどれだけか、やりたいことと、やるべきことが一つになることをねがってやっていく、ということですか。だから、ここで「父母孝養」などというテーマでお話せねばならぬことは、随分苦痛なんですが、これ、また、いのちの歴史、いのちの秘義を考えるための、ご縁というものでありましょう。
 で、父母は元気なんですが、すでになくなった祖父母を憶うということはあります。わたしは祖父母ともに顔を知らないんですが、たまたま大谷大学に入学したので、曾我量深先生にお会いした。祖父と先生とは学校が一緒だったものですから、先生に会っていると、そういう意味でなにか他人のような気がしない。もっとも学問の分野もちがうし、思想的にも、個人的にも、特に親しい交わりがあったわけではないようですが、大学に入った当初から、祖父と曾我先生のことは、父や叔父からよく聞かされておりましたから、なにかしら気分的に親しいものを感じておったことはたしかです。
 はじめて先生にお会いしたときだったと思いますが、「ああ、君は、伊勢の伊東さんのお孫さんですか。あなたのおジイさんと最後に別れたのは、親鸞聖人の六百五十回忌のとき、東本願寺のあの山門のところでしたよ」と。もう、五十年も前の話なんです。
 それで、曾我先生が、わたしの祖父であるはずはない。けれども、なにか近頃では、先生からいろいろ真宗のお話を聞くという以上の親しみを感じているわけです。先生が祖父であるわけはないけれども、にもかかわらず、そこに祖父を感ずる。これは、感じなんですから、そういうふうに聞いてもらうより仕方がありません。なにか、こう「世々生々の父母兄弟なり」というか、先生と祖父を一緒にしては、もったいないという気持ちと同時に、そのすがたのうえに祖父があるというか――。

ナムアミダ仏にいのちの共感がある
 それで、話がくだけてきますが、学生諸君が恋愛相談なんかにやってきますと、ナマイキな話ですが、開口一番、「君、ナムアミダ仏がわからぬと、君の恋愛は成功しないぞ」といって、おどかすのです。すると、たいてい、はじめはイヤな顔をしますが、だんだん話をして、そうして、ナムアミダ仏がわかってもらえるようにと心掛けております。それで、いまもって、その気持ちに変わりはありません。
 わざわざ相談なんかにくるものですから、そういうことばを、わざと口にはしますが、そうでなければことさらに「ナムアミダ仏」とはいいません。「ナムアミダ仏」とはいいませんが、ナムアミダ仏の心というようなものは、たとえば若い人なら、恋愛の経験でもなければなかなかわかりにくい。もちろん、恋愛でなければわからぬということではなくて、病苦だとか、家庭問題、入試問題、いろいろナムアミダ仏にふれる機会はありますけれども、たとえば、ナムアミダ仏というような心は、相手のことを想う、その憩いのなかにいのちを共感している、とでもいいましょうか。相手のことを想う、その想いが、いのちを共有して生きているのだという世界を開く、とでもいいましょうか。
 実は、つい先日、この春、短期大学の方を卒業する学生が遊びに来まして、「郷里に帰ってしまえば、もう先生にも会えませんから」というので、おおかた半日近くも話して行きました。「蛍の光」じゃありませんが、卒業となると、つい感傷的になって、ふだんは話さないことをいろいろいうものですが、会話の終り頃になって、わたしは、こういった。「今日、半日ほども君と話していて、いおうかいうまいか、迷ったあげく、とうとういわなかったことばがある。君!別れだというけれども、ナムアミダ仏があるじゃないか」と。
 すると、その学生が、「先生――、先生は、わたしをつきはなすのですか」というのです。まあ、死んでいく人間にたいしてならともかく、生きた人間同志の別れに「ナムアミダ仏」というのは、世間の常識にはないことでしょうね。
 「が、そうじゃない。君は、大学で、真宗学や仏教学を教えられたはずだ」といってはみましたが、「よくわからぬ」というのです。「汽車の中で、腹でも痛くなったとき、ナムアミダ仏ということばがでてきたことはあるけれども、実感としてはわからない。改めて、ナムアミダ仏といわれると、別れのことばとしか受けとれない」と。
 それは、そうでしょう。「ナムアミダ仏がわからぬと、恋愛は成就しないよ」などという、わたしのことばの方が唐突なんで、常識的ではないわけです。けれども、では、いま別れつついく世界のなかで、いのちの共感をおぼえることばが、ほかにあるか、と、こう改めて問うてみればどうなるか。いま離れていく、いま別れていく、この生のなかに、「再び」という保証がどこにあるか。別れのなかに、しかも、結ばれているという共感がどこにあるか。その、ことばにならぬ世界を、親鸞は、ことばにあらわして「ナムアミダ仏」と、こういうわけであります。

第五章は仏教の歴史観を語る
 まあ、それにしましても、親鸞が生きていた鎌倉時代の、一般社会の通念としましては、念仏の功徳(くどく)廻向(えこう)して、そうして、死者の冥福を祈るというふうに思われている。そこでは、念仏は、オマジナイ、呪術(じゅじゅつ)のように考えられていたまあ、法要の仕方によっては、地獄行きの人も浄土に住所を変えることができる、と。そういうことが、マジメに考えられていた時代だと思います。そして、そういう考え方は、ある意味では現代にも通じるものがあるといっていいのじゃないでしょうか。こういう素朴な、というか、人間が、ふだんは一番忘れているような問題は、時代をかえても変わらぬとみえて、歎異抄の第十八章をみますと、施入物(せにゅうぶつ)の多い少ないによって、大きい仏、小さい仏になるというようなことが問題になっています。施入物、つまり寺院とか僧侶などに寄附のものが多ければ優れた仏になりそれが少ないと劣った仏になるのでないか、という問題がマジメに考えられていた。
 そういう時代にあって、親鸞は、孝養の倫理というか、「父母の孝養のための念仏は、一返ももうしたことがない」といいきることができたわけです。当時の常識がそうであったにもかかわらず、それにたいして、真向うから、そういうための念仏はもうしたことがない、というわけでありますから、いわば世人の心をうち驚かすようなことばであったわけですが、それは、どうしてだったのか、親鸞は、どうしてそんなことをいってのけることができたのだろうか。
 それについて、親鸞は「そのゆえは」とおさえて、そうして「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」と、こういうわけであります。この一句の意味するものは、何であろうか。これについて、前に、第四章は、仏教の生命観を語るものではないかといいましたが、この第五章は、仏教における歴史観を語るものではないだろうか、と、こう考えるのであります。愛の真実、つまり慈悲の深さというものをあらわすとすれば、これは、仏教における歴史観であると。
 そして、このついでといってはなんですが、この機会にもうしておきたいと思いますのは、次の第六章ですね。ここには、
 「親鸞は、弟子一人ももたずそうろう」
という有名なことばがありますように、仏教における愛の広さ、慈悲の広さがあらわされている。これは、つまり、仏教における社会観というものをあらわすものである、と、このように理解するわけであります。
 「そのゆえは、一切の有情は――、」というこの文章を、わたしの意訳でもうしますと、
 「親鸞は、父母への追善供養として、まだ一度も念仏を(とな)えたことはない。というのは、すべて生あるものはみな、長き世をかけて生まれかわる間に、互いに父母ともなり兄弟ともなってきたのである。だから、だれをもかれをも、念仏する人は来生(らいしょう)にブッダとなって、助けるはずである」
と。「世々生々の父母兄弟なり」というのでありますから、ただ単に歴史観のみならず、世界観も包まれているようでありますけれども、しかし、まずもって歴史観が語られる。
         
ノー・モア・ヒロシマは人類の歴史
 そして、この、歴史でありますが、「いずれもいずれも、この順次生(じゅんじしょう)に仏になりて、たすけそうろうべきなり――。」なにか、こういうことは、理クツでは説明できない。残念ながら、どう説明してみても、一応の説明にしかならない、ということがある。たしかに、歴史というものは、説明をとおして知ることは、一応はできるわけでありますけれども、説明や解説で理解した歴史は、生きた歴史ではない。ともうしますと、歴史学専門の学者がたから、そういうものを歴史というのだと、一言あるのかも知れませんけれども、要するに生きた歴史というか、生きている事実というか、そういうものは、どれだけ解説してみてもカタのつくものではないわけであります。
 つまり、キリストが誕生したとされるときをもって西暦の元年と定める。紀元節は、いつと決める。それに従って、二年にはなにがあり、三年にはなにがあったと、編年体にあらわされた年表のようなもの、それにもとづいて綴られた文章を、われわれは歴史であると定めておるわけです。ところが、そういうように歴史というものを考えておるわたしと、生きたわたしの歴史的事実というものには隙間がある。両者は、歴史的な知識でもってつながってはおりますけれども、実は、考えられている歴史と、考えているわたしとの間は、相対している、と。
 そうでなくて、生きた歴史――、この、わたしの生きた歴史は、わかるわからぬをこえて、ここに、こうして立っているわたし全体である、と。いつかも話したことですが、ここにおられる大部分のみなさんは、原爆を知らない。少なくとも、あの当時は生まれていない。が、はたして原爆を知らぬかというと、そうはいえないのですね。みなさんの母が知っている、父が経験している、という意味で、やはり、みなさんの歴史にも、ちゃんと原爆の経験がある、と、こういわねば在りません。
 そういう意味では「ノー・モア・ヒロシマ」ということばのなかには、原爆経験者は、当時、広島にいた人だけではない、日本人だけではない。なるほど「原爆手帖」は、あの頃、広島周辺にいた人だけに当っておりますけれども、原爆は、日本人だけが体験したのではないのです。原爆は、人類全体の体験である。衆生の体験である。ここに「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」という親鸞のことばの、生きた事実があると思います。ですから、この「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」というようなことばは、理クツではない。いのちの歴史というものにふれている感動というものが、こういうことばで語られているわけです。

清沢満之の「万物一体(ばんぶついったい)
 ところが、わたくし、大学生の頃のことでした。なにごとも理クツがはっきりしないとわからぬということで、ここのところが、どうもはっきりしない。そのとき、清沢満之先生の書物を読んでおりましたら、そのなかに「万物一体」という文章がありまして、「ははあ、これは、あの歎異抄の第五章に語られている、あれかな」と思ったのを記憶しております。
 少し長い文章ですが、いま、その書物を持ってきましたから、その一部を、ご紹介しましょう。
 「万物一体の真理は、吾人(ごじん)がこれを覚知(かくち)せざる間も、常に吾人の上に活動しつつあるなり(われわれが知らないでおっても、つねにはたらいているんだ、と)。吾人は、空気や日光や山川や草木や鳥獣や他人やをもって、吾人より別離せる外物(がいぶつ)となすにあらずや。
 然れとも、吾人は空気なくして生存する能わざるなり、日光なくして生存する能わざるなり」
 空気や日光は、一応は、外物にちがいないけれども、われわれは、空気なくしては、日光なくしては生きてはいけないではないか、と。こういう非常に素朴なところから、清沢先生は、考えてこられるわけですね。だれでも知っているぐらい、バカらしいような話だけれども、しかし、イヤとはいえないところの生きている事実。
 「山川や草木や鳥獣や他人やに至りては、その関係、空気や日光やの如く近切ならずと(いえど)も、それ或は衣服の材料を供給し、或は住居の材料を供給するによりて見れば、それ吾人の生存と離れざること、弁をまたざるなり」
 このように、山川草木がなければ、衣服はないじゃないか、食物はないじゃないか、住居はないじゃないか。すると、われわれの生は成り立たんじゃないか。あるいは、われわれの精神の世界においても、やっぱり同じことがいえるんじゃないか、と。
 「さらに吾人の精神界につきてこれをいえば、吾人の精神内に存するところの知識思想の多くは、これ吾人以外の人物について()(きた)るところのものとして、()の人物なかりせば、決して存する(あた)わざる者たるなり」。
そうして、
 「それ、かくの如く、万物一体の真理は、常に吾人の上に活動しつつあり」
と、このようにいっておられます。これらは、平常、わたしたちは、あまり深く考えないことですが、しかし、イヤといえない点を、一つ一つ厳密におさえてあると思うのであります。
 それで、さきほどは、原爆の例を出しましたが、かりに海の彼方で原爆の実験が行われるとします。すると、すぐ「死の灰」というようなことが問題になりますが、それからもわかりますように、原爆の実験ですら、海の彼方の出来事ではすまないということですね。つまり、われわれ人間というものは、もっとも具体的に、いのちを共同して生きているんだということ、つまり、生命の共同体的存在なんだということ、であります。

宮沢賢治の「永訣の朝」
 むかし、わたしは、よく宮沢賢治の詩を読んだことがあります。宮沢賢治の詩をどのように評価するかということについては、みなさん、いろいろご意見もあるかと思いますが、だれでも知っている、親しい詩は「雨ニモマケズ、風ニモマケズ――」ですね。
 冷害や旱魃(かんばつ)でいためつけられている東北の農民と生活を共にして、そして、そういう生活によってかえって体をいためて早死にをした。詩人として、あるいは童話作家として、才能をのばすということもしないで、むしろ、農民たちと一緒に生活をするということのなかに終っていった。そういう意味で、おしい人だったといえば、まったくおしい人だったですね。もっともっと、農民の声を詩にする、童話に書くということで、彼の天分が十分発揮できたとも考えられるわけですから――。
 その、宮沢賢治は、ご承知のように仏教徒ですね。というより、あまり一般には、仏教徒だったということは知られぬのかも知れません。が、賢治の詩は、大乗仏教の精神、ことに『法華経』をぬきにしては、よくわからないんだろうと思います。
 いま、手元にある岩波文庫の『宮沢賢治詩集』、これは谷川徹三氏が編集したものですが、その解説をみますと「賢治の詩は、その発想と表現との上から、ほぼ五つの種類に分けることができる」といい、そして「その根源の感覚、並びに世界感情は、自然体験と宗教体験と社会体験との三位一体の上に立つ。そして、これはひとり賢治の詩のみならず、その童話をも独特のものたらしめている、その当のものなのである」といっておられます。
 まあ、賢治のことについては、くわしいことはよく知りませんし、また、それをもうしている時間もありませんが、そのなかでも、わたしの好きな詩を、一、二ご紹介しますと、まず「永訣の朝」ですね。可愛かった妹が、病弱な賢治に先立ってなくなっていく。この詩が、なぜか、どうも忘れられないんです。
  けふのうちに
  とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
  みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
   (あめゆぢゆとてちてけんじゃ)
  うすあかくいっそう陰惨な雲から
  みぞれはびちょびちょふってくる
   (あめゆぢゆとてちてけんじゃ)
  青い蓴菜(じゅんさい)のもやうのついた
  これらふたつのかけた陶椀に
  おまへがたべるあめゆきをとらうとして
  わたくしはまがったてっぽうだまのやうに
  このくらいみぞれのなかに飛びだした
   (あめゆじゆとてちてけんじゃ)
  蒼鉛いろの暗い雲から
  みぞれはびちょびちょ沈んでくる
  ああとし子
  死ぬといういまごろになって
  わたくしをいっしょうあかるくするために
  こんなさっぱりした雪のひとわんを
  おまへはわたくしにたのんだのだ
   ……………………………
   ……………………………
  あんなおそろしいみぞれたそらから
  このうつくしい雪がきたのだ
   ……………………………
   ……………………………
  どうかこれが兜率(とそつ)の天の食に変って
  やがてはおまへとみんなとに
  (きよ)資糧(しりょう)をもたらすことを
  わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

「寄鳥想亡妹」
 まだ、いろいろありますが、たとえば「寄鳥想亡妹」という長い詩がありますね。「この森を通りぬければ」ということばではじまる詩――、そのなかに
  螢が一そう乱れて飛べば
  鳥は雨よりしげくなき
  わたくしは死んだ妹の声を
  林のはてのはてからきく
ということばがあります。つまり、ここで、賢治は、鳥たちの()く声をとおして妹と対話している。行基(ぎょうき)菩薩は
  ほろほろと ()く山鳥の声きけば
  父かとぞおもう 母かとぞおもう
と歌ったといいますが、いずれにしても、これらは、人間の肉声からだけ父母兄弟の声を聞くのではないということですね。つまり、自然の音は、ただ自然の音にすぎないというのではない。なにか、もっともっと、深い世界から聞こえてくる声を聞いている――。賢治も行基も、それをことばにあらわしたのである、と、このようにいえると思うのであります。
 それから、「春と修羅」一の「序」のなかで、
  これらについて人や銀河や修羅や海瞻(うに)
  宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら
  それぞれ新鮮な本体論もかんがえましょうが
  それらも畢竟(ひっきょう)こころのひとつの風物です
ちょっとことばに解説のいるような、むつかしい詩ですが、そのあとのところに
  (すべてがわたくしの中のみんなであるやうに みんなのおのおののなかのすべてですから)
ということばがある。これですね、万物一体感というのは――

わたしの知らないわたし
 わたくし、松阪駅を毎月一度とおるたびに見て思うのですが、あの安積得也とはどういう人ですか。みなさんも、見て知っておられるんだろうと思いますが、一番ホームの陸橋のところに、三角形のゴミ箱があります。この安積というのは、どういう人なのか調べたけれども、よくわかりませんが、その箱に、こう書いてある。
  わたしのなかに わたしの知らないわたしがある
  みんなのなかに みんなの知らないみんながある
と。あそこを通るたびに、これを歌った人の気持は、どういうふうなのかなあ、それを知りたいなあ、と思いながら、今日に至っております。この「わたし」と思っているわたしの意識の、さらに底に、意識的には、わたしだと思っているのよりも、もっとたしかな「わたし」がある。と同じように「みんな」がある。
 それで、話が横にそれたようですけれども、「一切の有情(うじょう)は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」と。こういうことばは、これまでもうしますように、いのちあるすべてのもののうえに自己をみる、と。山鳥の(ささや)く声に父母の声を聞き、亡き妹を想うといいますけれども、これを徹底すれば、すなわち、一切の有情の上に自分自身をみる。自己中心的なエゴイズムを離れて自己をみる、と。そういう共感を表現したものでありましょう。
 一切の有情ということは、いのちあるすべてのもの、いきとしいけるものということでありますから、ことばをかえていえば「衆生」ということ。ですから、この自分は衆生の中にある、衆生とともにある、ということをいうのでありましょう。
 わたしのいのちの歴史というものは、実は、一切有情の歴史であります。つまり、大衆の歴史であります。その大衆の歴史の中に、自分のいのちの歴史を見出した自覚――、それが「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」。

念仏は歴史のはたらきである
 ここで、大衆ということばを使うと、いかにも唐突なようですが、ともかく、一切有情の歴史の中に、自己の歴史を見る、そういう歴史の力を語るのが、次の
 「いずれもいずれも、この順次生(じゅんじしょう)に仏になりて、たすけそうろうべきなり」
ということばだと思います。
 歴史の力というものは、親鸞のことばをかりていえば、アミダの本願の力、つまり、ナムアミダ仏でありますが、だから、ここで
 「念仏を廻向して、父母をもたすけそうらわめ」。
といわれる。「念仏が、もし、自分の力を信頼しておこなう善行(ぜんぎょう)であるならば、供養のために、念仏を手向(たむ)けて――廻向して、父母を救うこともあるでありましょう」。
 「わがちからにてはげむ尊にてもそうらわばこそ、念仏を廻向して、父母(ぶも)をもたすけそうらわめ」。
しかし、親鸞の信ずる念仏は、実は、個人意識をこえた歴史の力の念仏、つまり本願の念仏である。そういう本願のはたらきに救われていく、それを本願力廻向といいます。
 ふつう、「念仏を廻向して」というときには、「自力の廻向」のことをいいます。念仏がもっている徳を仏に手向けて――、仏にふりむけて――ということをいいますけれども、ここで使われている「廻向」ということばは、歴史の力、つまり本願の力。その、本願のはたらきの中に自分がみつかるということが、実は、廻向ということである、と。
 「いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり」。この「順次生」ということばも、わかりにくいことばですが、文字通りいえば「次の生、来生」ということで、つまり未来への望みを語ることばであります。未来への期待を語ることばでありますが、その「未来」というものは、われわれ個人が考えるところの明日(あす)とか明後日(あさって)というものではない。
 それは、さきほどから繰り返していいますように、われわれの個人意識が破られた世界――、つまり、さきほどのことばでいえば衆生の歴史、大衆の歴史が転ずるところに開かれる本願の歴史のなかの未来――。そういう未来というものを信じて、われわれは生きておるのである、と。
 それは、未来を信ずるから生きておれるとか、あるいは、生きておるのは未来を信ずるのだ、と、こういえば適当でないかも知れませんね。つまり、われわれが、いま、生きておれるということと、未来を信じているということは一つなんだ、と、こういった方が適当かも知れません。

やりたいこととやるべきことと
 たとえば、わたしは、はからずもある大学の講師をしている。すると、この会の案内状が朝日新聞や中日新聞に出るのに、「講師 大谷大学講師 伊東慧明」となっている。まあ、自分の三十余年間をふりかえってみると、穴があったら入りたいような気持ちでいる、そんな肩書きは、できたらない方がいい。自分では、学問なんかやる資格があるとも思われんけれども、社会的には、もう、そういう人たちのグループに入ってしまっている。大谷大学なんて特殊な大学で、とか、小さな大学で、などということは、みな弁解にすぎない。
 では、こういう状態のなかで、どうして、わたしが京都におれるか、大学におれるか、と、こうもうしますと、自分の一番やりたいこと、というか、一番やらねばならぬと思うことをやるためには、こうしておらねばならぬという、自分なりの判断があるわけです。
 いわゆる学問というか、社会の人が認めるような学問というか、そういうものをやるということを考えてみれば、まず、その器ではない。けれども、人間と生まれてやりたいこと、やらねばならぬことを、与えられた境遇のなかで、セイ一杯やるには、社会的にはどうであれ、人がどのようにいうにせよ、この道が一番いい、と。
 まあ、考えてみますと人生五十年が、最近は、科学の力で六十年になり七十年になったといいますけれども、われわれのいのちの射程距離というものは、三大(さんだい)阿僧祇劫(あそうぎこう)なんでしょう。アミダの寿命(いのち)は永遠でありますが、仏教では、また、三大阿僧祇劫ともいいます。これも、まあ、理クツをいえば、これだけの長さ、あれだけの長さということができますが、要するにいってみれば永遠に近い時間ということができるわけですね。
 長い長い時間のなかで、生まれかわり死にかわりしながら、自分がやりたいことをやる、自分のやるべきことをやりとげる。つまり、やりたいことと、やるべきこととがほんとうに一つになるまでやりぬくのだ、と。そういうものがあるから、自分の思いをこえて、重い肩書きにも耐えて今日の、このときを生きていくことができる、と。そういう気持ちは、わかっていただけるかと思うのですけれども、なにか、そういうような未来ですね。そういう未来というものを、親鸞は「順次生」といっているのだろうと思うわけであります。ですから、「いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり」という気持ちも、ナムアミダ仏の歴史の中に見開かれてくる未来の願い――、とでもいいましょうか。
 要するに、親鸞は、われわれのエゴイスティックな自己関心は無効なんだといいますね。自分はこんなものだ、とか、自分の能力はこれだけのものだ、というような、自分の能力を計ったり決めたりすることも信用しない。だから、個人意識にたよる、自己の力を信頼するということをやめよ、と教えます。そうして、もっともっと大きく広く、そして長い長い歴史の力に身を托して生きるべきである、と。

「いそぎ」ということばの内意
 それで、
 「ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなは、六道(ろくどう)四生(ししょう)のあいだ、いずれの業苦に沈めりとも、神通方便(じんずうほうべん)をもって、まず有縁(うえん)()すべきなということばがでてくるのだと思います。
 ここに、また「いそぎ」ということばがでてきましたね。この「いそぎ」ということは、いうまでもなく「至急に、早急に」ということなんでしょうが、しかし、こういうことばの内意としてといいますか、こういわれている気持ちのなかに、「いま」という問題があると思います。「いそぎ仏になりて」だから「いま仏になりて」ではないし、「いそぎ浄土のさとりをひらきなば」だから「いま浄土のさとりをひらきなば」ではありませんけれども、「念仏して、いそぎ――」であり、また「ただ自力をすてて、いそぎ――」とあります。

仏を迷わせるのは人間である
 そして、
 「ただ、われわれにとって大切なことは、自力にたいする過信をすてて、ただちにアミダの浄土に生まれるものとなることである。浄土のさとりを聞くならば、たとい地獄(どう)でも、餓鬼道でも、また畜生道でも、どんな境遇で、どんな苦しみに沈んでいても、自由自在のはたらきで、まず身近なものから救うことができるからである」。
 ここで、「まず有縁(うえん)を度すべきなり」で、一番はじめから問題になっていた「父母孝養」つまり、なくなった父母にたいする追善供養とは出てこない。広い意味で「有縁」といえば、「身近なもの」「ゆかりのあるもの」ということですから、その中には、当然、父母も入っておるのでしょう。
 けれども、いま亡くなった父母といえば、親鸞にとっては「仏」なんですね。だから、ここには「まず有縁を度す」とは出てきても、「まず亡くなった父母を渡す」とは出てこない。仏を救うということはありえない。
 それで、ごく身近によく聞くことですが、「あなたの家の、亡くなった幾代目かの先祖さまの霊が迷っている。あなたの家の不幸は、そのたたりなんだから、手厚くほうむってあげねばならぬ、立派な法事でもしてあげねばならぬ」などということを、もっともらしくいう人がありますし、また、案外、そんなことにひっかかって新興宗教の信者になる人が多いようですが、ほんとうは、亡くなった父母が迷っているはずはない。
 念仏者は、なくなればきっと仏になっているわけですから、迷ってなどいるはずはないのですけれども、後に残った人間が、その父母を迷わせている。どうしているんだろうかと疑ったり惑ったりする心で、父母を迷わせている。つまり、安心できない心が仏を迷わせているんだろうと思います。

一体として感応する本能界
 安心とか、信心というものは、「念仏もうす」ということなんですが、その、念仏もうす安心のなかに亡くなった父母兄弟、さらにいえば一切の有情はブッダとなって生きてはたらいている。
 なにか、神秘的な表現で、みなさん、どうも素直に受けとれぬとおっしゃるかも知れませんがそうでなくて、念仏もうすなかに、一切の有情として、亡くなった父母兄弟もブッダとしてはたらいている。仏となって、生きてはたらいている。それが、実は、歴史の事実というものであると、こう思います。もし、そうでなければ、万物一体とか、生命共同というようなことも成り立つはずはありません。
 「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」という、この第五章は、仏教における歴史観を語るものではないか、と、こうもうしましたが、禅宗なんかでも「父母(ぶも)未生(みしょう)以前の本来の面目(めんもく)」ということを問題にしますね。生まれざるさきのわれ、この父母未生以前ということを、わたしなりに解釈しますというと、つまり、いかなる意味でも、分別をもつようなものとして考えられているような「われ」以前。そのような父母未生以前のわれというものを、親鸞にいわせれば「世々生々の父母兄弟なり」。
 それで、ごく一般的な例でもうしますと、だれかと、初めて会うた、けれども、どうも「初めて――という気がしませんね」ということがある。一応、会うたのは、たしかに初めてだし、相手の名前もいま初めて聞いた。そういう意味で、経験としていえば初めてにちがいないけれども初めてのような気がしない、ということがある。そんな気分的なことでは、たよりないというかも知れぬけれども、しかし、そういう気持ちの世界――、それが本能の世界でしょうね。人間の気分とか、気持ちというものには、ずいぶん不純なものが混っておりますけれども、いま、なんとかいいあらわそうとするような気持ちの通ずるところ、そういうところに本能界があるのでしょう。
 それほど親しく、初めて会った気がしないという人がかりにあったとしても、会っているうちにだんだん親しくなる、親しくなりたい。これは、なにも男女だけの感情ではないので、心が一つでありたい、そうなりたいという気持ちがはたらく。ということを、もうひとつ押していえば、心が一つでありたい身が一つでありたい、ということ。つまり、ここに、それぞれの体験、経験というものはちがうけれども、お互いに、それ以前の、本来にふれたい、本能界にふれたい、と。それが、いのちの根元に帰ろうとする気持ちである、と、このようにわたしは考えるわけであります。

和辻哲郎の土下座の体験
 ところで、和辻哲郎という有名な人がありますね。『風土』という有名な書物がありますが、その和辻氏が『面とペルソナ』だったと思います。そのなかに、こういう話を書いているのです。この人のおジイさんは、お医者さんだったのですが、亡くなったので葬式に田舎へ帰った。ところが、その土地の風習で、式がすむと、親セキのものが、葬儀場の入口に土下座(どげざ)して会葬者を送る。この松阪の近辺でも、場所によっては、やっぱりこれをやっておりますね。
 和辻さんといえば、東京帝国大学の教授――。その書物の中に書いてありますが、はじめ土下座をしかけたときは、まったくみじめな気持ちて、こんな昔風な、封建的な習慣はなくせばいいと思っていた。そして、しきりにハラが立った。が、まあ、土地の習慣だからというのでシンボウして座っていた。それは、帝大の教授が、田舎の百姓に向って、ただ「葬式ありがとうございました」だけをいうのに、土下座するのですから、たまらなかったでしょうね。
 ところが、しばらくすると、前を通る足だけが見える。足音だけが聞こえる。ワラぞうりだったか、ゴムぞうりだったか知りませんが、百姓のジイさん、バアさんの足ばかりじっとみている。すると、そのうちに、こういう人たちに囲まれて、いま、自分の隣に座っている父も育てられたんだ。とすると、この自分も、いまは東大教授といっているけれども、こういう人びとに育てられてきたんだ、と。
 こういう足音の中から、祖父は生まれてきた、父は生まれてきた、この自分は生まれてきた。そのことに気づいてきたら、土下座することが(おが)めるようになってきた。土下座にたいして、頭が下るようになってきたわけですね。はじめは、土下座は、土地の習慣として強制的にはじまったわけですが、そのうちに、それを機縁として、それらの足音のなかに、自分のいのちの由来(ゆらい)するところを聞きとっているわけであります。

五体を投地していのちの足音を聞く
 ここで思い出すのは、あの『観無量寿経』の話ですが、まず悲劇がおこってイダイケ(韋提希)夫人は、「いったい、どうしょうか」と歎き苦しみます。そのあげく、「お釈迦さま、あなたじきじきのおでましではもったいない、だから、お弟子の目連(もくれん)阿難(あなん)をおつかわしください」。
 「我、今愁憂(しゅうう)せり。世尊は、威重(いじゅう)にして見たてまつることを得るに由無し。願わくは、目連と尊者阿難とを遣わし、我と相見えしめたまえ」
と、このようにお願いした。ところが、イダイケ(韋提希)夫人の意に反して、というか、夫人のほんとうの意中を知って、お釈迦さまは、王舎城の悲劇のおこっている渦中に来られた。
 ここのところの経文に注意してみますと、こうありますね。
 「時に、韋提希、仏世尊を見たてまつり、自ら瓔珞(ようらく)を絶ち、身を挙げて地に投げ、号泣して仏に向いて(もう)して(もう)さく」
と。つまり、はじめに、まだ「あなたに来ていただくのはもったいない」といっていたときにはあたりまえの話ですが、大国のお(きさき)の資格で話を聞こうというわけですね。つまり、聴聞するのに、まだ分別が間に合っていた。ところが、いまはちがう。これまでは、妃として聞いてきたけれども、いまは分別が間に合わぬ。だから、妃の資格を捨て、五体を地に投げて、号泣して問います。
 「世尊、我、宿(むかし)、なにの罪ありてか此の悪子(あくし)を生める。世尊、また、なんらの因縁有りてか提婆達多(だいばだった)と共に眷属(けんぞく)たる」。
 「わたしは、むかし、どんなことをした罪の報いで、こんな悪い子を生んだのでしょうか。それから、わが子をそそのかして悪事を思いつかせたダイバダッタ(提婆達多)は、お釈迦さまのいとこだし、また、お弟子でもあるが、それはまた、どういう因縁があるのですか」と、このようにイダイケ(韋提希)の口からまったく思いがけないグチと怨みが出てきます。
 和辻氏が、東大教授の資格を離れて、土下座したとき、自分のいのちの故郷の声が聞こえてきたのを思い出しますが、いま、イダイケ(韋提希)は五体を投地して、はじめて、これまで考えてもみなかったグチと怨みをいいます。実は、そこに純粋な本能の世界といいますか、「世尊、我宿、なにの罪ありてかこの悪子を生める」と、このように、自分の宿業に気づくことができるようになっているわけであります。
 つまり、イダイケ(韋提希)にしてみれば、これまで、「王舎大城の大夫人でございます、ビンバシャラ(頻婆裟羅)王の妃です」と、身に瓔珞なんてものをつけている間は聞こえなかったブッダの声が、それを捨ててみてやっと聞こえるようになってきた。グチと怨みにおおわれて見えなかった真実が見えてきた。五体を投地して、いのちの足音が聞こえる身になった。これを、アミダを観る、すなわち「無量寿を観る」というわけであります。
 つまり、「世々生々の父母兄弟なり」というアミダの世界が観えてくる。イダイケ(韋捉希)もアジャセ(阿闍世)も、ビンバシャラ 頻婆裟羅)も、ダイバダッタ(提婆達多)も、そして釈尊もみんな一つの世界にいるんだということがみえてきた。
 この、五体投地とか、土下座ですね。こういうことが、歎異抄のここでは「ただ自力をすてて」と表現されているのでありましょう。「ただ自力をすてて」というが、われわれは、自分の足で大地に立っているのでありましょう。それが人間だというけれども、しかし、土下座をするということは、手も足も大地にかえす。手も足も大地にかえしてみて、始めて、われわれの生のよりどころというか、生のはじまりというか、つまり由来するところが明らかになる。手足を大地に帰してみて、始めて大地と共にある生に気づく。

大会衆(だいえしゅ)の歴史とその根源
 それで、この大地というのは、いうまでもないことですが、譬喩的表現であっていわゆる、あの(つち)じゃありません。たしかに土下座は、あの土の上に座ることだし、五体投地も、土に身を投げるということにちがいありませんけれども、その土は、肥えた土地とか、酸性化した土地とか、あるいは、一平米、なにがしかの土地ということでないことはいうまでもありません。
 分別で考えた大地、計量した大地ではなくて、そこからいのちがはじまり、そこにいのちが帰るような、本能の大地。そういう本能とか、大地とか、というものを、親鸞は、衆生といい、群萠(ぐんもう)といい、そして、また「一切の有情」といったのではないでしょうか。
 仏教には「大会衆(だいえしゅ)」ということばがあります。わたしなりに解釈しますと、野放しの大衆ではなくて、教えのなかにある大衆、それが大会衆である。だから、大衆とか衆生の歴史という歴史が、教えを聞くことによって、大会衆のものに転ぜられる。
 まあ、「いのちの歴史」ということで、第五章を拝読してきましたが、われわれは、自分に一番身近な父母を憶うということを機縁として、みずからのいのちの歴史ということを憶う。そして、その、いのちというもののすがたは、いったいどういうものであるかというならば、それは、大衆の歴史、衆生の歴史といってもいい。が、より正確にいえば、その大衆の歴史というものが転ぜられた「大会衆の歴史」である。
 その、大会衆の歴史を、ナムアミダ仏というのでありますが、そういう歴史の根源を、親鸞はアミダの浄土というのでありましょう。だから、そういうナムアミダ仏の歴史、ナムアミダ仏の世界というものがないというと、現代社会の生活様式はどんどん変わっていくわけでありますが、その変わっていくすがたを一つのプロセスとしか受けとれないで、どうしても、生きているところの、この「いま」に安んずることができない。
 いわゆる歴史というもの、単なる学問ザタのみの歴史しかわからぬとしますと、過ぎさったことの追跡調査であったり、また、未来の歴史というものへのあわい単なる願望であったりして、要するに、ほんとうに「いま」に安んずることができないのじゃないかと思うわけであります。
 まだまだ、いろいろ問題を残したままですが、これで第五章を終りまして、次からは、第六章に入りたいと思います。                         (昭四〇・三・一六)


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