3 第三・四・五章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
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四 第五章 「いのちの歴史」


     第五章の原文

 一、親鸞は、父母(ぶも)孝養(きょうよう)(一)のためとて、一返(二)にても念佛もうしたること、いまだそうらわず。そのゆえは、一切の有情(うじょう)(三)は、みなもって(四)世々(せせ)生々(しょうじょう)(五)父母(ぶも)・兄弟なり。いずれもいずれも(六)、この順次生(じゅんじしょう)(七)に佛になりて、たすけそうろうべきなり。わがちからにてはげむ善にてもそうらわばこそ、念佛を廻向(えこう)して(八)、父母をもたすけそうらわめ(九)。ただ自力をすてて(十)、いそぎ(十一)浄土のさとりをひらきなば(十二)、六道(十三)四生(ししょう)(十四)のあいだ、いずれの業苦(ごうく)(十五)に沈めりとも、神通方便(十六)をもって、まず有縁(うえん)(十七)()(十八)べきなりと云々(うんぬん)

     現代意訳

 親鸞は、父母への追善(ついぜん)供養として、まだ一度も念仏を(とな)えたことはない。というのは、すべて生あるものは、みな、長き世をかけて生まれかわる間に、互いに父母ともなり兄弟ともなってきたのである。だから、だれをもかれをも、念仏する人は来生(らいしょう)にブッダとなって、助けるはずである。念仏が、もし、自分の力を信軒しておこなう善行(ぜんぎょう)であるならば、供養のために、念仏を手向(たむ)けて父母を救うこともあるであろう。
 ただ、われわれにとって大切なことは、自力にたいする過信をすてて、ただちにアミダの浄土に生まれるものとなることである。浄土のさとりを聞くならば、たとい地獄道でも、餓鬼道でも、また畜生道でも、どんな境遇で、どんな苦しみに沈んでいても、自由自在のはたらきで、まず身近なものから救うことができるからである。と聖人はおっしゃった。

     注  釈


(一) 孝養。
 きょうよう。亡き父母にたいする追善供養(ついぜんくよう)のこと。親孝行という意味から転じたものです。
(二) 一返にても。
 いっぺん。一遍も、一度も。
(三) 有情。
 うじょう。いきとしいけるもの。心情を有するもの、ということで、衆生(しゅじょう)と同義です。
(四) みなもって。
 原文には、いずれの本にも「みなもて」とあります。「あらゆる生きものは、みな」という意味。
(五) 世々生々の。
 せせしょうじょう。永劫(ようこう)の過去から未来にかけて。長き世をかけて、いくたびも生まれかわる間の。
(六) いずれもいずれも。
 それら父母兄弟の、だれをもかれをも、ということ。
(七) 順次生。
 じゅんじしょう。次の生、来生(らいしょう)。現在の生についでうける生涯で、一番近い未来のことです。
  ここは、このことばの前に、「念仏する人は」の一句を補って、「いずれもいずれも――だれをもかれをも」、(念仏する人は)、「この次の生にはブッダとなって」(人びとを)「助けるはずである」と解します。
(八) 廻向して。
 えこう。追善供養(ついぜんくよう)のために、念仏を、たむけて、ふりむけて、ということ。すなわち、ここでいう廻向とは、自分の善を他のためにふりむけて、自分が仏となるためのもとにしようとすることで、これを自力の廻向といいます。したがって、この、念仏も、自力の善行(ぜんぎょう)を意味します。
 これにたいして、親鸞は、ほんとうの念仏は、われわれを救済するアミダのはたらきである、したがって、廻向は、アミダの徳をわれわれに与えてくだざるはたらきである、これを本願力廻向(ほんがんりきえこう)他力廻向という、と、このように教えています。
(九) たすけそうらわめ。
 たすけましょう。たすけもしましょう。
(十) ただ自力をすてて。
 「ただ」は、ただこれ、ひとすじに、まったく、という意味。自力とは、自分の力にたいする過信、自分の力にたいする依頼心のことで、わが身をたのみ、わが心をたのみ、わが力をたのみ、わがさまざまの啓行をたのむこと。つまり、自分の力に執(とら)われる心です。
(十一) いそぎ。
 いそいで、ということばのなかに、「即時にアミダの世界に生まれるものとなり、不退転の位に即(つ)く、(即ち往生を得て、不退転に住せん)」というアミダの本願のこころ(本願成就の文の意)が読みとられます。
(十二) 浄土のさとりをひらきなば。
 じょうど。アミダの浄土に生まれて、ブッダとなるならば、という意味。「浄土のさとり」は、自力のさとりにたいするもので、アミダ如来の浄土に生まれるものなり、やがて必ずブッダとなるという、他力のさとり、念仏に与えられるさとり、をいいます。
 なお、蓮如本によれば、「浄土の」がなく、「いそぎさとりをひらきなば」となっています。
(十三) 六道。
 ろくどう。道とは、ブッダや菩薩(ぼさつ)のさとりにたいする、迷いの世界と、そういう境遇に生存するもの、およびその生き方をあらわすことばです。これには、苦しみの最もはげしい地獄(ぢごく)、満足することを知らぬ餓鬼(がき)、弱肉強食する畜生(ちくしょう)、つねに闘争する悪神の修羅(しゅら)、この世の苦と無常と不浄とを知る人(にん)、そして、こんにちの神とでもいうべき天(てん)、の、六種がかぞえられます。
(十四) 四生。
 ししょう。迷いの世界における生まれ方を分類したもので、人間のように母胎より生まれる胎生(たいしょう)、鳥のように卵殻から生まれる卵生(らんしょう)虫などのように湿気から生まれると考えられていた湿生(しっしょう)、以上の三とは異って、天とか地獄などのように、まったく忽然(こつねん)とかりの姿をあらわすと考えられていた化生(けしょう)、の四種をいいます。
(十五) 業苦。
 ごうく。かってなした行いの結果として受ける苦しみ。すなわち、六道・四生の苦をいいます。
(十六) 神通方便。
 じんづうほうべん。自由自在に人びとを救済するはたらき。超人的な力。すなわち、ブッダとなれば、人間の力ではなく、すぐれた法のはたらきが身にそなわることを意味します。
(十七) 有縁。
 うえん。ゆかりのあるもの、縁のあるもの。
(十八) 度す。
 どす。迷いの此岸から、さとりの彼岸にわたす。すなわち、救済する、ということ。


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