3 第三・四・五章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
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三 第四章 「愛の真実」


     座談会 「愛 に つ い て」
                                           司会 竹 田  弘(農業)

 司会 今晩ここへ来ましてから、急に「お前、司会をせよ」ということですので、これから、わたしが司会をさせてもらいます。

     あい・こい・どじょう

 司会 それで、今晩は「愛の真実」について、先生から、いろいろお話をお聞きしましたが、その話にこだわらずに、感じておられますこと、思いあたったことを、話し合っていただきたいと思います。
 伊東 先月、ぼくが休んだときには、どんなことが話題になったんですか。
 司会 「同情について」というテーマでした。(あい)(こい)泥鰌(どじょう)は、魚でいうとちがう。だから、魚でいうと区別がつくが、愛と恋と同情の区別はわからんというような話がありまして――(笑)。
 中村常 「誘惑きれて捨てられて」という映画ができましたね。今度、松阪で上映されたら、みてこようと思っております。
 高田 ぼくは、今夜の話、むつかしかった。いつも、ねむたくなることはないのに、今晩は、ねむたくて、ねむたくて、もうしわけないと思いながら、聞いていました。
 ところが、ひょこんと目をさまされたところがあったあの「念仏して、いそぎ仏になりて」というところで、「いそぎ」を「いま」と結びつけて話されたところです。あのところは、なんとなく読みすごして来ていましたので、特に心に残りました。
 それから、ぼくは、愛農会の道場で、愛についてよく話を聞いたのですが、今日の話にもありましたように、普通の愛と真実の愛ということで、キリストの愛はアガペ(Agape)ですか、真実の愛であると教えられてきました。
 伊東 そうですね。人間の愛をエロス(Eros)というのにたいして、神の愛はアガペ。もともと、ギリシャ時代から、エロスとアガペの二つが考えられていたのを、特にキリスト教の『新約聖書』の時代になると、特にアガペが深い意味をもつようになった、と聞いています。

     惜しみなく与え・惜しみなく奪う

 中村常 まあ、普通、愛ということばで、すぐ思いつくのは、ラブ(love)ですね。「愛は惜しみなく与え、惜しみなく奪う」という愛。
 ぼくは、案内のことばを書く場合に、愛なら愛ということばを使って、それを書いたとたんに、もう愛ではないようなものを感じます。
 先日、テレビの深夜劇場で、「禁じられた遊び」をみましたところ、少年を十字架にかけるような場面がありました。それを、映画でみるとよくわかるのですが、ことばであらわすと、どうしてもイメージがはっきりしてこない。
 「惜しみなく与え、惜しみなく奪う」というと、もう、なにか肉体的な感じがするのですが、やはりこういう愛は、エロスなんでしょうね。
 伊東 「愛は惜しみなく与え、惜しみなく奪う」といったのは有島武郎でしたね。そういことばで、ほんとうの愛惜を表現したいんでしょうが、なにかちょっと聞くと、「ギブ・アンド・テイク」というような、交換条件的なやりとりと考えられやすい表現ですね。
 「惜しみなく」というようなことばを聞くと、無償のもの、無条件なものをいおうとすると解することもできますが、なにか直情的ではあるが、感情的な、人間的なものを感じる。そういう意味で、やはりエロスの愛なんでしょうね。
 中村常 講話の中で、渇愛ということをいわれました。あれは、非常に、われわれの感党にピッタリする。
 松井 以前にも、座談会で、「捨身の愛」というテーマで話し合ったことがありました。最近、ちょうど、そのところのテープを整理していたんですがあの時にも「与える、奪う」ということが出ていました。
 そしていま「誘惑されて捨てられて」という映画の題も出ていましたが、「愛されたい」とか「愛されている」というような受け身ではなく、積極的に「愛していく」というところに課題があるというようなことも出ておりました。

     「いそぎ」と「いま」の関係

 松井 高田君は、「いそぎ」ということが「いま」に関係すると聞いて、目をさましたといいましたが、その、愛するということを自分の問題として、「いま」というところでおさえると、どうなるか。というのが、前の座談会から残された問題ですね。
 司会 その「いそぎ」と「いま」の関係ですが、われわれ、普通に考えて、全然別なものと考えます
 伊東 その点については、講話でもふれたので、くりかえすことになりますが、ことばそのものは、たしかに「いそぎ」と「いま」と、ちがうわけですね。「いそぎ仏になりて」だから、「いま仏になりて」ではない。けれども、その「いそぎ」と「いま」は、内面的に深い関係がある。
 この「いま」ということは、ことばをかえていえば「即時」ですね。そして、親鸞の解釈によれば、この「即時」の「即」は「即位」につうじる。つまり、「(くらい)()く」という意味である。
 では、その「位」とはなにか、と、こういいますと、「正定聚(しょうじょうじゅ)の位」である、「必ずブッダになると決定した人びとの位」。この位に、ただちにつく。「即は、すなわちという、すなわちというは、時をへだてず、日をへだてぬをいうなり」。これを「現生(げんしょう)不退(ふたい)」ともいいます。現生――、まあ、これは、現在と考えてもいいのでしょう。
 ところが、親鸞の当時、念仏しても仏になれるものやら、なれぬものやら、まったく自信がもてない不安である、ということがあった。それで、もし念仏してもダメなら、浄土に往生(おうじょう)して、生まれなおし、修行しなおしてでもブッダになろう、というふうに考えられていた。それにたいして、親鸞は、念仏すれば、「必ずブッダとなる」という位に、現在ただちに即く、と。それで「いそぎ念仏して、仏になりて――」。
 中村常 先生のお話にあったように、本多顕彰さんは「急いで仏になって」というのは、「急いで死んで仏になって」という意味だといわれます。あれは、本多さんが、あのように解釈されたのでしょうか。特に「死んで」とカッコに入れて強調してありますね。
 伊東 あの点は、唯円は、親鸞のいう「往生」ということを誤解しておったのだ、「往生」を死と了解していたんだという本多氏の解釈が前提になっています。あの「いそぎ仏になりて」を解釈するのに「往生」ということを入れ、その往生について本多氏からみた唯円の理解というものが入ってくる。それで話がメンドウになるのでしょう。
 とにかく親鸞のことばとしては「急いで、死んで仏になって」ということばはない。ここでは、その点だけをはっきりさせておくことにしましょう。
 まあ、「往生」とか「成仏(じょうぶつ)」ということは「死」つまり「死生」とか「生死」と深い関係があることはいうまでもありません。しかし、いわゆる死、肉体の死が、ただちにブッダとなるということ、成仏ということと関係があるとはいえません。
 死んだ人を「ほとけ」と、俗にいうけれども、その仏になったはずの人が、また迷って出るとか、仏になったはずの祖先が、あとの人を苦しめるなどという俗話もあるわけですから――。

     奪う愛から与える愛へ

 高田 ところで、真実の愛というのは、「惜しみなく与え、惜しみなく奪う」というのでなしに「与え、かつ与える」というか、そういうふうに教えられたこともあるけれども、その「与える」ということばもおかしいと思う。「与える」というと、すぐそのみかえりを連想する。真実の愛というのは、もっと自然に出てくるものではないでしょうか。
 松井 ほんとうの愛情は、自然に出てくるもので「与える」というと、なにか不自然なものを感じるといわれる。それは、たしかにそうだと思う。
 しかし、自然に出てくるというと、われわれの愛する努力というか、われわれが関与する余地を見出すことがむつかしく思われますが、そのへんのところは、どうなのですか。
 高田 愛情を、ずっとつきつめていくというと、むしろ、本能的な愛というものになる。
 松井 では、その本能的な愛というものが、そのままで真実の愛につながるのでしょうか。まあ、本能も、意味のとり方で、いろいろになってくると思うけど、ぼくは、本能的な愛というものは「与え、かつ与える」というより、むしろ「奪い、かつ奪う」ということになると思う。
 だから、自然にまかせるというと、「与える」というのでなしに、「奪う」というかたちになっていくのが普通でないかと思うが――。
 高田 いや、ぼくが、自然といったのは、きれいな愛というものには、自然的な要素が入っているという意味。だから、生活の上では、普通の愛を、きれいな愛へ、近づけようとしなければならない。
 松井 その、近づけようというのは、努力ということですか。
 高田 その努力が、奪う愛を、与える愛へと変えていく。
 松井 ところが、その「与える」という意識がなくなるようなところまで、努力するということになると、大変だと思う。
 奪うというような性質の愛を、努力によって、与えるというようなきれいな愛にまで高めていく。そこまではわかる。が、その、与えるということにおいて、ほんとうに自分を忘れるというか、自然であることができるか、ということになると、これは、どうも、そうなれない。
 とにかく、自分の愛が、そんなきれいな、ほんものの愛ではないということだけは、わかるように思うのですが、ほんものでないならどうなんでしょう。また、どうすべきなのでしょう。
 大西喜 努力する、といわれましたが、そんなに努力せんと(努力しないと)ほんとうの愛というものは生まれんのだろうか、と思います。
 松井 たしかに、「努力」と、わざにいうと無理があるようにも思える。しかし、それかといって、ひとりでに出てくるのが愛なら、別に、ここで問題にしなくてもよいことになりますし―― 。

     死にめざめる愛

 司会 話が、だいぶ、ややこしくなってきたので整理できん。だれか、ほかの方、助けておくんな。(助けてください)。どうか、もっと、愛情をもって愛について話しておくんな(話してください)(笑)。
 中村勉 わたしも、愛農会の小谷会長に聞いたのですが、結局、愛というものには、真実の愛と、ニセものの愛があって、それが紙一重、宝石のにせものとよく似たちょうしで、よく見分けがつかぬ、という、たとえ話を出された。
 いま、その話を、よく覚えておりませんし、これが真実の愛だということも、よういいませんが、むつかしい問題だと思います。
 高田 普通の愛と真実の愛に分けて、真実の愛というのは、テクニックをつかわないというか、技術的なものでなしに、親猫が子猫をかばうように、完全に自分を殺すような純粋な愛をいう。
 与える愛を真実の愛として、そして、わたしたちがそれを受ける、その、受ける愛を高めていこうというのが、愛農会で教えられたキリストの愛ではないかナ。
 中村常 まあ、愛するというけれども、結局、身の問題なんでしょう。動く問題でしょう。どのように動くか――と。
 松井 その動くということも、相手を考えずに勝手に動くということではないだろう。だから、その動くというところに、努力ということがあるのだろう。
 小杉 子供の頃のことですが、夏の夜空を眺めておって、「きれいやなあ、あの星からは、四十光年とか五十光年とかかった光が、地球にとどいている」。と、そういうことを考えておったら、突然、「いつかは、自分は死ぬ」ということを想像して、自分が死んだらどうなるんやろ、と思った。
 そうしたら、いままでの「きれいやなあ」という気持ちが、トタンに「恐怖」に変わった。そして、泣き声を出して「おかあさん――」と、母親の胸へ飛び込んで行ったのを覚えています。
 それで、ほんとうの愛というのは「死」というような点から出るのじゃないかと、ぼくは、思うのですが。
 恋愛はきれいでなくてはならないとか、なんとかいって、理クツづけるけれども、それらは、みな、口でいうておる普通の愛であって、真実の愛は、「いずれは、みな、死ぬ」というところから――、その、自覚からはじまるのではないか、と。
 伊東 なかなか、いい話ですね。みなで、よく考えてみたい、含蓄のある話ですよ。
 それで、たとえば、恋愛ですね。これも、ただ恋愛とだけみれば、それだけのもので、非常に浅いもの、現象的に移り変っていくもの、ということかも知れませんが、恋愛には、恋愛しているものがある。愛憎(あいぞう)違順(いじゅん)ということばがありますが、この場合だと愛しているもの、憎んでいるものがある。
 つまり、恋愛には、恋愛しているものがあるということで、そこには、その底があるわけですね。子供の頃、ふと「死」を感じたというのは、その生命の底からの声を、ふと聞いたのでしょう。日常の生活では忘れているけれども――。
 善導は「出離の縁あることなし」と、自分の方から、この死をのがれる術はないと自覚したが、子供心には、そういう死の世界を直観した。その、感覚的に、ふとふれたものと、それを自覚するというのではちがいますが、いずれも、生命の底にふれたことを問題にしている。そして、そこから「愛しという問題を考えている。

     愛の現象と本質

 小杉 極端な話ですけれど、ここにおるメンバーを十日間、ここにカンヅメにしたら、その結果、どういう現象がおこるでしょう。
 伊東 なかなか、おもしろいことを着想しますね(笑)。それで――。
 小杉 そのとき、だれのことを一番想うか。いままで愛していた人のことを、果して愛せるか、どうか。
 朝から夕方まで、山をみていると、同じ山の色でも、いろいろ変わる。
 松井 たしかに、気分的に愛するというような場合には、衝動的なものが入ってきますね。
 司会 さきほどの与えるということですが、われわれのいうている愛の概念というか、愛らしいものは、やはり、かけねなしに与えるもの、と思うていますね。
 小杉 しかし、ギブ・アンド・テイクというようなことは、近代的なように聞こえるけど、要するに、ものの売り買いと同じようなものやナ。
 司会 けど、愛の本質というようなものは、与えるということじゃないか。これが愛だとはっきりさせることは、なかなかむつかしいことですけど――。
 森本国 ぼくは、変わった考え方かも知れませんが愛情というのは、人間は何のために生きているのかということを考える――、そういうものと結びついているような感じがします。
 伊東 その、愛と生は、講話でも話しましたように、非常に深い関係がある。本質的なかかわりがある。そのとき、同義異語でないかということも話しました。
 森本国 ぼくには、ぼくなりの友人とか先輩とかいろいろ人間関係があります。その中で、神経をスリへらすというような場合もありますが、しかし、ぼくみたいなものにも、なにか、ジワジワとひざしまるものを感じることがよくあります。
 そういうとき「なにかやらな」(なにかやらねば―)という気がおこります。そして、なんのために生きているのかということと共に、生かされているというか、そういうことを感じます。
 中村常 しかし、現実にある愛は「与え、かつ奪う」ということになるのでないかナ。
 西山 その、真実の愛とか、普通の愛とか、ゴチャゴチャにして話し合っているから、よけいわからなくなるのとちがうか。真実の愛なら真実の愛と、話題をシボって、進めぬと――。司会者、ほんとにゼロやぞ(司会者よ、きみは零点だ)。(笑)
 司会 とうも、すみません。(笑)

     オレもサッパリわからん話

 松井 しかし、どうでしょう。はじめから、そう分けて考えると、妙なことになるのとちがいますか真実の愛なら真実の愛と、こう決めて話し合っていくと、ぼくらとかけ離れたものになっていく。そうすると、理論のための理論というか、理クツになっていくのではないか。
 西出 すると、自分に密接した愛というか、そういうもので話を進めていく――?
 松井 そう、その密接した愛というより、ぼくらは、そこにしかいないというようなもの――。それ以外に、なにか愛といってみてもウソになる。
 それで、この愛情論は、ゴタゴタしているけれども、このゴタゴタしているのが、ぼくらのほんとうのすがたではないですか。愛というと、ぼくらに身近で、ゴマ化せない。それで、よけいにゴタツクのでしょう。
 中村勉 西出君のいうのは、話がむつかしいということなんでしょう。
 現在の話より、もっと程度を下げて、講話なり座談会をしてもらわんと、ダメなんじゃないですか。
 高田 それは、話がおかしいと思う。このメンバーで、ここまで話し合ってきたのだし、この会を作りあげてきたんだから、それ以前にもどって、話をしていたら、何にもならん。もちろん、要望としてはわかるけど――。
 森本国 中村さんの話が出たので、ぼくもいいますが、この間、友人のところへ誘いにいったら、「オレは、あんなもの、サッパリわからん」と。それで「この会へ行くものは、よっぽどかしこいものか、アホやなかったら、いけん(いけない)」という。(笑)
 それで、ぼくもヨワってしもうて、「実は、オレも、サッパリわからんのやけど、まあ、根気よう聞いておって、それでも先生の話がわからんようなら先生の話は、ウソなんやぞ」というて帰ってきました。(笑)
 松井 たしかに、仏教の話は、自分をとおして話すだけに、そう簡単にわかるものでない、ということはありますね。しかし、それと同時に、また、全部はわからなくても、なにか一つは必ずわかる、ということがあります。
 中村勉 また、ポイントをハズレたような話をしてすみませんが、実は、このグループとよく似たグループが、他にもあります。そこへ、この間、農業改良事務所の普及員が来て話をされたが、かわってきたばかりで、その会へ行くのに、行きにくかった話しにくかったというサンゲ話をされた。つまり、かたくるしい会だったという感想でした。
 そういう点が、もしこの会にもあるなら、それは問題です、だから、話し合っていても、ポイントがなかなか合わない、というので、いま司会者への注文が出たのだと思います。

     きたないことときれいごと

 司会 ありがとう。たしかに、ここで、どんなにきれいごとをいうても、めいめい(おたがい)は、きたないところで生活をしているのですから――。
 しかし、歎異抄を勉強していく上からは、この本は難しいのやで、いくらか理クツ的になっていくのも仕方がないのでないかナ。
 松井 しかし、いままでの意見で、そんなにむつかしいとか、あるいは、きれいごとの話があったかなあ。ことばズラをとらえてくれば、きれいごとになっているかも知れんが――。
 西出 ぼくは、今日、はじめてなので、ちょっともわからなかった。これ、わかったら、たいしたものだと思うナ。親鸞も、ハダシで逃げるわ。
 森本国 ぼくも、よくわからんが、ようわかったわかりやすい話やった、というのも、おかしいと思う。ぼくは、そんな帰り方はできない。けど、疑問は残っても、回数を重ねると、だんだん身についてくるというか、生きてくるものがある。聞いたことを、ヒョコン、ヒョコンと思い出したり――。
 西出 それは、そうでしょうね。
 司会 松井君らでは、さっきから、きたないことをいうているように思うかも知れんが、われわれのレベルは低い。
 松井 いや、レベルが低いとか高いとかいうことでなしに、たとえば努力する、身で動くという話が出ましたね。
 この、ことばをどのように聞くか知りませんけどそれは、どこまでもどこまでも清めていかねばならぬもの、つまり、きたないものを持ち合わせているということでないですか。きたないものがあるから努力するとか、動かねばならんということが問題になったのでしょう。
 西出 たしかに、そういわれてみるとわかる。けど、一方では真実の愛ということが出てくる。ところが、また人間的な愛が問題になっていた。それで両方を論議していくのか、どれか一方をつきつめていくのか、ということで、迷っていたので――。
 いや、話は、だんだんわかってきました。

     愛の自覚を深める

 伊東 こういうこともあるのではないですか。真実の愛ということが問題になっていた。ところが真実でない愛が出てくる。そうすると、真実と、真実でない愛と、二つある、と。
 これは真実で、これは真実でない、と、こう、わかった人に聞いて「はあ、そういうものですか」といえば、それですんでいくのでしょうか。
 ところが、その真実の愛とはなにか、ということになると、それぞれ立場があって、考えがちがうから、そこで議論が出てくる。
 が、そういうように、立場のちがう議論、真実というものについての考え方のちがう議論というものは、水かけ論に終る危険が多分にありますね。お互いに、これが真実だというものを予定概念としてもっていて、ゆずらぬ場合には――。
 それで、ぼくは「愛の真実」というテーマを出したのです。愛ということがわからぬ人はないはずです。が、この愛は、これでいいのか、これが真実かと、そういうように話を出してもらえばいい。それを出してもらえば、みんなの問題になるのではないでしょうか。
 愛のない人はないんだから、それを、これでいいのかと問うことが真実へと方向しているのですから――。そういう問題を、お互いにディスカッションする。そして、愛の自覚をおおいに深める。
 西田 なるほど。やっと、そこまできました。これからが本論ですね。
 中村常 これまでにも「捨身の愛しとか「友情について」とか「同情について」とか、いろいろ話し合ってきました。いつも話しにくいといいながら、それぞれ活溌に意見を出していた。ところが、今度は、なかなか出にくい。ということは、それだけ、いろいろ考えるようになったからだと思う。
 松井 森本君が、この頃よく愛というものを感じる、なんとかせんならん(なんとかしなければならぬ)という。その、なんとかせんならんというのは、やはり努力だと思う。
 愛情を感じた動きは、みんなを大事にしていかねばなら出し」同時に、まず、自分が、ボサボサ(ぼんやり)しておれぬ、ということになってくる。

     「転生」というべき一つの課題

 中村常 ぼくは、今日の先生のお話の中で、むつかしかったのは、最後のところ――。
 「念仏を称えることだけが、徹底した大慈悲であります」と、こういわれて、そこから、念仏生活における新しい問題がおこってくる。「念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろう」というあとから「ものを、あわれみ、かなしみ、はぐくむ」ということも出てくるじゃないか。それを「転生」とでもいうか、それが、わたしにとっての一つの問題である、といわれた。その点です。
 ぼくらが生きておるというのは、具体的な社会に生きておる。現在、一九六五年の日本に生きておる。だから、愛というのは、その時代にとっての、具体的な愛というものがあるように思う。もちろん、それは、大慈悲心というようなものでなくて、限定的なものであるにしても――。
 「あわれみ、かなしみ、はぐくむ」という気持ちが残るわけだから、その残るところの具体的なもの実際の社会で要求されているようなものを明らかにしていくということが、ただ抽象的な愛をしゃべっているよりは、実際の問題として、大事なんではないか。そこに、愛を作っていくというか、松井君のいう、努力という意味があると思う。
 高田 ぼくは、その愛というものは一つである。が、その愛の表現の仕方に、真実と、それから真実でないものがあるということで、自分では、まあ、わかっているつもりでいた。
 それが「いそぎ」ということが「いま」と関係があると聞いて、わかっていると思っていたことが、まあ、わかっていなかったんだなあ、と、ひびいてきた。それでねむけが一ぺんにさめたわけです。
 森本国 これは、反対的なことばになるかも知れませんが、ぼくは、愛情だと感じるものだけでなしに、愛情でないと感じるのも、それも愛情というものがわかったんだ、というような気がします。

     聖道の慈悲と浄土の慈悲

 司会 話がなかなか軌道に乗らなくて、やっと本論らしくなってきたところですので、まだ、いろいろご意見があるかと思います。が、もう十一時近くになりましたので、今日は、この辺で終らせていただきたいと思います。先生――、最後にしめくくりをしてください。
 伊東 話の中にも出ていましたように、愛情がないと感ずるところに、ほんとうの愛というものがあるんじゃないか、ということですね。自分には愛がないといったって、それでも、人間であるかぎり、かならず「あわれみ」とか「かなしみ」とか「いとおしい」とか「ふびんだ」とか、あるいは「愛されたい」と思うとか、と、いろいろ愛を感じます。
 そういう感情をもっているところに、われわれが具体的に生きているというすがたがある。にもかかわらず、愛がないというのは、実は、自分の思っている愛以上のもの、というか、真実の愛にふれておるのでしょう。そこで、愛がないということばが出てくる。
 けれども、なんどもいうように、聖道の慈悲は、すえとおらないといったところで、それは、人間の中の最高の愛である。それを超え出るということは人間にはできない。
 そして、聖道の慈悲というものを離れては、人間というものはない。「ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむ」心をもったもの、それが人間らしい人間である。
 だから、愛がないということは、人間そのもの全体が行きづまるというか、坐折するというか、その時に、はじめて出てくる。つまり、自信をもって、愛がないといえるときには、その人間を超えた愛というか、愛の真実にふれているにちがいない。
 その、愛がないということばでしか語れないような愛を、親鸞は、浄土の慈悲というわけです。「今生(こんじょう)に、いかにいとおし、不便(ふびん)とおもうとも、存知(ぞんち)のごとくたすけがたければ、この慈悲始終(しじゅう)なし」と。
 人間親鸞は、そこにおる。「始終なし」一貫しないという、その愛のないところに、徹底した親鸞のおる場がある。自覚がある。だからこそ、そこに浄土の慈悲が開けてくる。
 どんなに親しい間にあっても、もし自分が愛しているのが、ほんものだと思うているなら、その目は曇っている。ところが、幸い、われわれには、自分の中の愛というものだけに満足しないものがある。愛が、真実であることを求めて動いている。だから自分の愛は、これでいいのだといわさぬものがある。
 それで、ぼくも、この会のはじめ頃は、「真実の愛」といっておりました。それでも間違いではないともいえますが、二か月ほど前に気づいたのです。どうも、「真実の愛」では不的確だ、と。
 お互いに「真実の愛」を語り合うことになれば、どうしても、それぞれ立場をもっている以上、口論になる、いい争いで終ってしまう。
 そうじゃないのであって、みんなの中に、真実の愛があると信ずることができるなら、われわれの方の問題は、その「愛の真実」とはなにか、と問うていく。そのことが大事なことであると、最近は、そう思うようになったわけです。その点を、どうか、もう一変、考えていただきたいと思います。
 司会 愛という問題は、なんべんも話し合ったしまた、身近な問題なので、わかりやすいはずでしたが、どうも、まとまりのない司会をしてしまいました。
 この座談会の話は、後で、めいめい(各自で)、まとめていただくことにして、今日は、これで終らせていただきます。


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