案内のことば
凍てついた田ンボの畦を歩いていると、サクサクといい音がします。
「冬が去った。春が来た。」そんなことを、つぶやいていると、北風に、いやというほど、ほっぺたを叩かれます。むきになって、いいます。「冬が去った。春が来た。夏の暑さに負けない種を。」種は、胸の中で芽をふきました。
わたしたちは、厳冬にふるえるとき、いつも、あたたかい春を想います。それは、春への「期待」というよりも、もっと直線的な「いのり」の心です。
もちろん、期待だって悪くはありません。恋人への期待、子供への期待、さては青年への期待など。ただ、期待というのは、案外にエゴイスティックなところがあります。たとえば、親の利己的な期待に窒息してしまった小天才の悲劇など、そのいい例ではないでしょうか。とくに最近やかましい「期待される人間像」などは、まっぴらごめんです。
「おーい、北風、きみともお別れだ。」
北風に向って、さけんでみました。寒い季節ですが、夜のひととき、春のあたたかさを語りあおうではありませんか。
昭和四十年二月十四日 飯南仏教青年会
講師のことば
さる一月十一日、中央教育審議会(文部大臣の諮問機関)から『期待される人間像』についての草案が中間発表されました。
その第一章「個人として」には「正しく自己を愛する人となれ」とあります。また、第二章「家庭人として」には、「家庭を愛の場とせよ」とのべて、夫婦の愛、親子の愛、兄弟姉妹の愛などの「愛情の体系としての家庭の意義を実現しなければならぬ」と強調しています。「いうは易く、おこなうは難い」ことが、いろいろ書いてあります。
いうまでもなく、わたしたちは、愛なくしては、一日だって生きておれません。愛と生は、切っても切れない関係にあります。だから、人生の真実を明らかにし、生甲斐を求めるわたしたちは、また、愛の真実を知らねばなりません。
人間相互の愛は、はたしてほんとうの愛なのかどうか、それは、エゴイズムの変形ではないのだろうか、と、いわゆる自己愛を鋭く批判し、いわゆる人類愛を深く反省しなければならぬと思います。そこで、今回は、「慈悲」という言葉でもって「愛の真実とはなにか」を語る第四章を拝読いたしましょう。
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