3 第三・四・五章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章  
 まえがき
  一 第三章の一  
  二 第三章の二  
  三 第四章
   原文・意訳・注  
   案内・講師のことば
   講  話  
   座談会  
  四 第五章   
  補 説  
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 5 第八・九・十章  
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三 第四章 「愛の真実」


第四章の原文

一、慈悲(一)に聖道(二)・浄土(三)のかわりめ(四)あり。聖道の慈悲(五)というは、もの(六)をあわれみ(七)かなしみ(八)、はぐくむ(九)なり。しかれども、おもうがごとく(十)たすけとぐる(十一)こと、きわめてありがたし(十二)。浄土の慈悲(十三)というは、念佛(十四)して、いそぎ佛になりて(十五)、大慈大悲心(十六)をもって、おもうがごとく衆生(十七)を利益する(十八)をいうべきなり。今生(十九)に、いかにいとおし(二十)不便(二十一)とおもうとも、存知のごとく(二十二)たすけがたければ、この慈悲(二十三)始終なし(二十四)。しかれば、念佛もうすのみぞ、すえとおりたる(二十五)大慈悲心にてそうろうべきと云々。

現代意訳

 慈悲に、聖道(自力)の慈悲と、浄土(他力)の慈悲のちがいがある。聖道の慈悲というのは、自分の力で、あらゆる生きものを、あわれみ、可愛がり、育てあげようとする心である。けれども、思うように救いを実現することは、きわめて困難である。
 浄土の慈悲というのは、念仏を称えて、ただちにアミダの浄土に生まれるものとなり、いそぎブッダとなって、大慈大悲の心を身にえて、思いのままに人びとを救うことである。
 この世では、どれほどいたわしい、気の毒である、と思っても、意のままに救うことはできないから、このような聖道の慈悲は、首尾一貫しない。
 だから、念仏を称えることだけが、ほんとうに徹底した大慈悲の心、すなわち愛の真実である、というべきものであろう。
と聖人はおっしゃった。

注  釈


(一) 慈悲。
 じひ。真実の愛のこと。慈は、サンスクリット語のマーイトレーヤ maitreya またはマーイトリー maitri の訳で、いつくしみ愛して、楽を与える心(与楽、よらく)、悲は、カルナー karuna の訳で、かなしみあわれんで、苦しみを取り除く心(抜苦、ばっく)。
 いわゆる愛は、トゥリシュナー trisna の訳で、欲望の満足を強く求める渇愛(かつあい)、ものをむさぼり執着する貪愛(とんない)ですが、同じ愛をあらわすプレーマ prema には、あらゆるものを慈愛する法愛(ほうあい)、すなわち慈悲の心という意味もあります。愛に種々相があるように、慈悲にも深浅がありますが、もっとも徹底した慈悲の真実、愛の真実を、大慈悲、浄土の慈悲、アミダの無縁(むえん)の慈悲といいます。
(二) 聖道。
 しょうどう。聖(ひじり)の歩む道、すなわち自ら修行精進の努力をはげんで、この世においてさとりを得ようとする、自力難行(じりきなんぎょう)の道。
(三) 浄土。
 じょうど。凡夫(ぼんぶ)の歩む道、すなわち、自己のおろかさにめざめ、アミダの浄土に生まれてブッダとなろうとする、他力易行(たりきいぎょう)の道。仏教を聖道と浄土に分けるのは、中国の道綽禅師(どうしゃくせんじ)の書いた『安楽集』(あんらくしゅう)ですが、親鸞は、自力の修行に耐えられると思うは、自己の力にたいする認識が不徹底である、すべて人間はアミダの浄土に生まれるものとなってこそ、はじめてブッダのさとりを得ることができるといい、さらに、この浄土門(じょうどもん)に、真実と方便があると教えて、われわれの自覚が徹底するようにとうながしております。
(四) かわりめ。
 ちがい、区別、けじめ。
(五) 聖道の慈悲。
 しょうどうのじひ。ブッダになろうとする人間の努力によって成り立つ慈悲。
(六) もの。
 生きとし生けるもの、衆生(しゅじょう)のこと。これは、仏教語の「物」(もつ)の和訓です。
(七) あわれみ。
 あわれむ(憐れむ)は、かわいそうに思う、いとしがる、いたわしく感ずる、ということ。
(八) かなしみ。
 かなしむ(愛しむ)は、可愛がる、いとおしむ。また、かなしむ(悲しむ)は、なげく、うれえる、あわれむ。現代意訳は、前者によって訳しました。
(九) はぐくむ。
 育む。いとおしみ育てる、養育する、扶育する、ということ。
(十) おもうがごとく。
 思うように、思いのままに、
(十一) たすけとぐる。
 救いとげる、救いを完徹する。
(十二) きわめてありがたし。
 きわめて困難である。ありがたしは、有ること難し。
(十三) 浄土の慈悲。
 じょうどのじひ。人間の、自力を過信する立場をひるがえしたところに、おのずからはたく
 慈悲。アミダの慈悲。
(十四) 念仏。
 ねんぶつ。ナムアミダ仏と称(とな)えること。称名念仏(しょうみょうねんぶつ)すること。
(十五) いそぎ仏になりて。
 なによりもまず、いそいでブッダとなって。この「いそぎ」は、まず、現在の足下を凝視するところから「ただちに、アミダの浄土に生まれるものとなって」、そして「いそいでブッダとなって」という親鸞の心を語るものと解されます。第五章には「いそぎ浄土のさとりをひらきなば――」とあり、また第九章には「いそぎ浄土へまいりたき心のそうらわぬは――」ということが問題にされております。
(十六) 大慈大悲心。
 だいじだいひしん。ブッダの捨身の愛、無償の愛、平等の愛、これを大慈悲の心、無縁(むえん)の慈悲の心といいます。
(十七) 衆生。
 しゅじょう。いきとしいけるもの。いのちあるもの。現代意訳では、「人びと」と訳しましたが、動物のように心情を有するもの(有情、うじょう)ばかりでなく、広い意味では、草木山河大地などの非情(ひじょう)を含めていうことがあります。また、一般には迷いの世界の存在をさす場合が多いのですが、ブッダや菩薩(ぼざつ)をも含めて衆生ということもあります。
(十八) 利益する。
 りやく。さとりに導く、救済するという意味。利益とは、恩恵や幸福のことですが、その最高のもの、ほんとうに人間を幸せにするものを、ブッダのさとりといいます。
(十九) 今生。
 こんじょう。この世、現在の生涯、迷いの生。
(二十) いとおし。
 いたわしい、気の毒である、かわいそうである。
(二十一) 不便。
 ふびん。気の毒、かわいそう。
(二十二) 存知のごとく。ぞんち。思うように、意のままに。
(二十三) この慈悲。
 この聖道の慈悲。
(二十四) 始終なし。
 しじゅう。始終は、首尾、本来。したがって、首尾一貫しない、徹底しない、ということ。
(二十五) すえとおりたる。
 徹底した、終りまですじの通った。


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