3 第三・四・五章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
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二 第三章の二 「悪人・ブッダとなる」


     座談会 「慈善運動について」

                                           司会 藤 谷 英 史(教員)

 司会 今回の座談会のテーマとしまして、案内状にもプリントしてありますように、一応「慈善運動について」と題を出してありますので、そういうことについてお話し合いねがったらと思います。

     慈善運動の経験

 司会 慈善というのは、字に書けば、慈悲の慈とそれから善悪の善ですが、目下、歳末助け合い運動シーズンで、いろいろ話題もあることかと思います。慈善運動いうことの意味も広いかと思いますが、どういうことからでも結構でございますから、どなたか、どうぞ――。
 中村常 慈善ということは、ぼくら、あまりした経験がないナ。赤い羽根を買うぐらいのことで。
 松井 この仏教青年会で、それらしいことをしたのは、新潟地震のときのカンパと、小中学生の水泳脱衣場の小屋を建てるときぐらいのことだったか。
 村瀬 十二月の十四日でしたか、松阪で、慈善運動の「ミュージック・イン・マツサカ」というのが愛知学院大学の主催でありました。その演奏会を聞きに行きましたが、大学生などは、自主的に慈善運動というものをやっているんでしょうね。
 司会 そういった団体で、集団的に慈善運動をする場合と、赤い羽根や歳末助け合いに協力するというような、個人的な慈善運動とがあると思います。まあ、それにこだわらずに、どしどし意見を出してください。
 林善 これは、質問ですが、善意銀行というのは実際、どういうことをしているのか、教えてください。
 中村常 あれは、たとえば、ぼくはテレビの修理ができる。それで、その技術を本部へとどけるわけです。そうして、その技術を奉仕する。草刈りができるなら、そういう労力を奉仕する。
 松井 芸能人は、その芸をもって、養老院を訪問するとか、サンパツ屋さんが、日をきめて奉仕するとか――。
 林善 そうすると、仕事は生活の手段ですから、一応の限界があるわけですね。ところで、その本部は、三重県では、どこにあるのですか。
 中村常 さあ、よく知りません。
 林善 あまり知られていないところをみると、慈善運動には、それほど関係がないというか、そういう運動はやりにくいでしょうね。
 松井 いつか、新聞で、どこかの坊さんが本部を作ったとか、そうとう大きく書いてあるのを読みましたが、まだまだ小さな動きじゃありませんか。
 竹田 先生は、ご存知ありませんか。
 伊東 ぼくも、あまりよく知りません。こちらが教えてほしいくらいです。ただ京都では、市の社会福祉協議会というのがあって、そこの仕事になるらしいですね。
 林善 すると、みんなあまり知らないわけですか。ぼくも、中村君が説明したぐらいのことは知っておったのですが。(笑)
 (ここで中日新聞の記者が、記事にするための写真をとりたいので、きちんと、コの字型に坐りなおすように要求。しかし、まあ、写真の方は適当にやってくださいということで、大勢には変動なく、会を続ける)
 司会 わたしの単純な経験では、一つの慈善運動をするのには、かなりの勇気がいるように思います。そして、先月も問題になっておりましたが、なにか善いことをしてやるんだ、という気持ちにフッとなるということがあります。それは、心の持ち方としては、いけないことなんでしょうが――。
 林憲 司会者がいうておられるのは、自分が慈善運動の中心になろうとする場合ですか、それとも、慈善運動に外から協力しようとしているときですか。
 司会 街頭などで、協力を求められた場合です。個人的に協讃するとき――。
 森本国 そんな気持ちは、バスの中で、老人に席をゆずるときにもおこることがあります。
 中村常 なにか、テレるという感じですね。
 松井 赤い羽根を買って「つけましょう」といわれると、「いいよ、いいよ」という調子で、自分でそっとエリの裏につけたりしてね。
 中村常 しかし、カンパという意味で、同じねがいをもっている人たちを支えるために出すのは、実に気持ちがいい。それは、出すことによって自分も参加しているわけですから――。でも、慈善というとなにか押し売りみたいな感じがする。

     テーマの動機と内容をめぐって

 中村常 だいたい、このテーマを出したのは、だれでしたかね。
 小杉 この前「善とはなにか」ということを話し合ったときに、意識しないでやるのが善いことだとか、これは善いことだとはっきり見きわめてやろうというような意見が出ていました。
 それで、最近は、歳末のことでもありますし、同情袋のようなものが回ってきたりする。それで、慈善ということを考えてみたらどうかと思ったわけです。もっとも、「運動について」という字は、だれかがつけたのです。(笑)
 司会 そういう点で、もうすこし――。
 小杉 司会者もいわれたように、街頭で募金などをたのまれたとき、積極的に金を入れるより、躊躇する場合の方が多い。
 それで、ほんとうに何の気なしに入れるのが慈善行為なのか、強要されてまでするのが慈善行為なのか。また、強要してまでするのが慈善運動なのか。いろいろ検討してみなければならぬと思います。
 最近、同情袋というのが回ってきますが、あれは名前からいってもよくないと思います。与えるというのは、利害を抜きにして与えるのが、ほんとうの慈善ではないか。「人にくれたってもええわ」(人にやってもいいわ)というようなものを出すのは、ほんとうに与えたことにならぬ。まあ、袋が回ってきたので仕方がない、つき合いにでも入れようかというのでは、慈善といえないと思う。
 伊東 それで、思い出しましたが、新潟地震のときのことです。新潟の友人が、いろんな救援物資をもらったときのことをいってましたが、いろいろなものが全国から集まってきた。ちょうど終戦直後のときのように、シャツや衣類の着古したものとか、なかには、オムツの古いのまであった、と。
 せっかくもらったのですから、ありがとうと受け取るわけですが、実際には使ってみようがなくて、処置に困るようなものもあったといっていました。この頃の社会状況のことですから、せっかくもらっても、ありがた迷惑だった、と。
 だから、なんでもかんでも、出せばいい、協力すればいいだけではすまされぬ問題がある。どういうふうに協力するかという方法や態度の問題ですね。
 林憲 要するに、慈善運動というのは、さっきの先生の話にあった「世間善人(せけんぜんにん)」という世界のできごとやナ。
 松井 えらく、簡単に結論を出してしまいましたね。
 林憲 この座談会には、ころあいのテーマというわけだ。はじめからの悪人は、ここにはおらんのやから。(笑)

     慈善することの検討

 竹田 最近、「われ一粒の麦なれど」という映画をみたのですが、小児マヒに生ワクチンを使用するという映画で、芸術祭に参加して、何か賞をもらったようです。
 何という医者でしたか、生ワクチンを使用することで、一応、目的が達せられた。ところが、「あなたは、それで満足かも知れぬが、まだ救われないものが沢山いる」といって、ポリオの収容所へつれていかれる。すると、そこには、足の親指と人差指の間にエンピツをはさんで字を書いたり、また、野球をしても、とんでもない方へ球が飛んだり、走ったりする、というような、相当醜い場面をみせる。
 ところが、あるポリオの患者が、突然、たおれておきあがれない。それを助けあげようとすると、「いや、自分で立ちあがるまでそのままにしておけ」という。つまり、よけいな同情は、かえって患者のためにならぬというわけです。それをみて、いろいろ考えさせられました。
 松井 たしかに、わたしたちは、ものを施すとか助けるのが慈善だと考えがちですが、そこには、ただものを施すということだけでなくて、その人を立ち上らせるようなものを与えるというか、そういう力を一緒に磨いていけるようにしてあげるのが、ほんとうの慈善だ、ということもあるのでしょうね。
 山本正 そういわれてみると、われわれの慈善行為にたいする通念というものも、考え直さねばならぬのでないかと思います。現在の社会では、慈善行為が賞讃されるというか、場合によっては、表彰されるということがあります。
 中国の昔の話だったと思いますが、ある親孝行の青年が、母親を川向うに渡すのに、背負って渡った。それが、たび重なって世間の評判になり、その青年が表彰された。ところが、その時の中国の君主ですか、王様が、一人の青年を表彰するというよりも、それを機会に一日も早く橋をかけよ、といったという話です。
 それで、こうした慈善運動の問題は、一日も早くなくするように努力することが、文明国家としての国民の責任ではないか。だから、ある意味では、慈善運動で表彰するなどというのは、文明国家の恥であって、そういうような恥をなくすことにエネルギーをつかうことも大切じゃないか。最近の、表彰ばやりは、少し問題じゃないかと思います。

    慈善を必要とする現実

 中村常 いろんな慈善運動ということを、どうして上からやるのかナ。いっそう、やめておけばいいのに――。
 林憲 しかし、やっぱり慈善運動ということは、いいことだ。ああいうことでもしなければ金は集まりません。多少、抵抗を感じる人でも、結局は金を出してくれるし、出すのに勇気がいるといっても、やれば金は集まる。集めるために、費用が相当消えていくという話ですが、とにかく、ぼくは、あの運動も必要だと思う。
 新谷 ぼくは、大阪へ行っていたときに、同級生十人ばかりと、釜ケ崎へ、ある研究のことで行きました。そのとき、あるお婆さんに、「あなた、いま何が一番欲しいですか」と聞いたら「たべるものが一番欲しい」といった。あるお爺さんは「ショウチュウが欲しい」という。いろいろ、人によって欲しいものがちがっていました。
 新潟地震のとき、先生の友だちは、オムツの古はよくないといわれたそうですが、それも、もっと貧しい人に与えられたら、どれほど喜ぶことかと思います。三度の食事も食べられない人をみていると、少しでも恵まれた人は、たとえ十円でもいいから出し合って、慈善を押し進めていかねばと思います。
 生活保護をうけている人は、粥見あたりでは、一人当り月に三千円ぐらいですか。それだけでは、食べるだけにも足りぬ。ぼくらは、恵まれているおかげで、そういう人のことを考えないで、あまりにも平凡に、ノンキに生きているのでないかと思います。
 司会 学校におりましても、つい最近、三重県へ国体を誘致したいというので、県の体協の方でも金を集めるために、エンピツを売ってほしいとか、それから赤い羽根とか、青い羽根とか、いろんな団体から話があるので、学校も協力することが多いんです。
 たしかに、おっしゃるように、善し悪しはともかくとして、そうしなければ実際に成り立っていかないということがある。そういう事実があることは認めていかねばならぬのではないかと思います。
 中村常 そうですね。事実をおさえていかねばなりません。慈善運動はいいといわれれば、たしかにそうかも知れませんが、しかし、慈善運動をやってその助けをうけないとやっていけない人たちがいるということは、もっと大切だ。それを忘れて、慈善運動といっても、何にもならぬと思います。
 森本国 ぼくは、慈善ということは、行なうべき人が行なわないから、人道主義的な考えで、知らぬ顔ができぬ、という行為だと思うのですが――。
 高田 ちょっと、もういっぺん、いうてくれ(笑)(もう一度いってください)。
 森本国 行なうべき人――、政治にたずさわる人というか、そういう行なうべき人が行なわないからみてみぬふりができない。人間として、あたりまえの行為というか、それはしなければならないというか。

     その態度と方法について

 中村勉 方法を考えねばならぬということですね。実は、十一月のことですが、三重県の護国神社で戦死者遺族の参拝があった。父が風邪で寝ていたのでわたしが代りに行ってきました。その帰り途、護国神社に参拝している遺族の前で募金しているのに出会いました。聞いてみると、三重県の出身者で、沖縄で戦死した人が相当あるらしいのですが、まだ三重県人の墓地だけができていない。その墓地造りの募金なんです。
 参拝した人たちは、自分たちに関係の深いことですから、五十円なり百円なり、献金をされるわけですが、それをみて、この人たちに献金させる前に、国なり県なり、この犠牲者以外の手で、何んとかできないものかと、その募金に、反パツを感じました。
 それから、わたしたちのグループで、このあいだ日光へ行ったときにも、白衣の傷痍軍人の服装をした人が、参拝する人相手に、「助けてください」といって、ナべをもって立っている。何とか助けてあげたい、という気持ちはありながら、憤りやら反パツやら、複雑な気持ちになって――。
 慈善運動もさかんですが、ほんとうにあたたかい気持ちでするのか、イヤイヤするのか。むしろ、憤りのようなものを感じながら、血のかよわないものを与えておる、という場合が多いので、極端にいえば、かたちだけにとらわれているのが、現在の慈善運動のすがたではないか。そんな感じがします。
 中村常 それで、慈善運動することは善いことだとしても、それだけでは解決しないものがあるということをはっきりさせておかなくてはならない。慈善運動をして、なにか善いことをしたような気持ちになって、それでボンヤリしてしまうと、大変だと思う。
 司会 すると、結局、一つの事実としては、慈善運動の必要な事柄が、いろいろありながら、その肝心の、運動すべきものが、ほんとうに心から参加できないような状態におかれておるということですね。
 それには、自分から、そういう状態にしてしまうこともあるし、方法というか、やり方がゆがめられる場合もある。そういったところのかねあいを、われわれは、どういうふうに解決していったらいいのでしょう。
 ただ、このままなら、いつまでたっても同じことで、また来たか、またせんならんか(しなければならぬか)ということで終っていくのでないかと思うのです。そういうことに関してはどうでしょう。
 林善 わたしも、慈善運動の場合の、運動ということについて、反抗を感じる。たとえば、赤い羽根運動が始った頃は、まだ、みな気分が新しかったので、だいぶ協讃した。ところが、緑化運動で緑の羽根が出た。炭坑を助けようというので黒い羽根が出た。ぼせぼせ(ぼやぼや)していると、交通事故で困っている人に黄色い羽根運動が出てくるかも知れんし、北海道の冷害を助けようと灰色の羽根が出るかも知れぬ。(笑)
 というようなことになれば、そういう運動を仕事にするような悪徳業者というものが、社会に横行してくるかも知れんし、そうなっているのかも知れない、というような、ウラのウラを探るような反抗を感じているのが現実じゃないんでしょうか。
 たとえば、わたしの親セキに松阪市の民生課に勤めているのがおります。まあ、この地方の民生保護者というと、万人が認めておる方をご同情もうしあげて、そして、国家の社会保障を受けておられるわけです。
 ところが、松阪市まで行きますと、そうじゃないんだそうです。なかには株を買うているような民生保護者がおる。お昼ごろになると、肩に手ぬぐいをかけて、銭湯へ行ってきて、株の状態をみては電話をかけて売買をやっている。民生課のサラリーマンで、そういう保護者以下の生活をしている人もいるということです。それが全てであるかどうか、ともかく、そういう社会の実状がある。そういうようなことが、現実の社会において行われておる。

    二人の「委員第一号」

 林善 それから、これは、わたしが、いま現に問題になっていることですが、ある神社から寄付を募ってくれという寄付帳が、わたしのところへ来ておるのです。
 その通知表にいわく、「貴町内の委員第一号としてお願いいたしますから、近隣の方がたにもご厚志をたまわるよう、おとりはからいいただきたい」と。これはなんとかせんならん(しなければならぬ)と思いまして、一番わたしの相談相手になる二軒離れたところにおる男のところへ相談にいった。「こんなものが来ているが、どうしたものか」と。すると、相手も「実は、オレのところにも来ているのさ」ということで、その男も、「委員第一号」(笑)。
 それで、わたしは、こういう男ですので、ムッときまして、もってのほかだということで、「神さまにおそなえをするのは結構だ、しかし、委員第一号が、三軒と離れないところに二人もあるという、そういう募金の方法には、賛成できない。だから、勧進の業務についてはお断りします。ただし、ご遷宮なさるということについては、少しでもおそなえをしたいからしといって、金一封を入れて、芳名録を返しました。
 こういう処置の善し悪しについての、ご批判は、この席でしていただくのも結構だと思いますが、こういう社会のあり方に反パツするということは、だれしもあると思います。ありながら、さきほどの話ではないが、「同情袋が回ってきた、仕方ないね」、「赤い羽根をたのまれた、仕方ないね」ということで、ひどいのになると「また、赤い羽根じゃげな。(赤い羽根だそうだね)昨年のどこにしまってある――」(笑)という人間が生まれてくる。
 だから、この慈善運動というものの、根本的な改革というものが、大いに必要じゃないでしょうか。
 司会 新聞の投書欄をみていると、毎年、春とか秋とか、きまって、神社や、その他、町内会の強制寄付のことが問題になっている。寄付金は公平にとか、強制しないようにとか。それでも、年々歳々、同じことをくりかえしている感じですね。

     なにが慈善か

 司会 現在行なわれている慈善運動の問題点というものが、いろいろあげられておりますが、それでは、慈善運動とはどういうことか、どういうのが慈善運動なのか、ということについて――。
 林善 慈善ということばの意味は、いまさら別に解釈する必要はないと思いますが、いつくしみの心をもって行なう善い行為、善行ということだと思います。
 そこで、いつくしみの心とは何か。先生のお話にもいろいろあったわけですが、禅宗のことばでいいますと「菩提心(ぼだいしん)(おこ)すというは、(おの)れのいまだ(わた)らざるさきに、一切衆生を度さんと発願し、いとなむなり」というような行為でないかと思うのです。
 だから、自分が、極楽浄土へ往生するという時期がきても、自分が極楽へ行かないで、まずさきに一切衆生をすくうんだという、あわれみというか、いつくしみ。そういう心持ちがおこってこそ、はじめて慈善行為ができるのでないかと思うのです。そこで、簡単なことばでいうと、つぐないを求めない行為が、慈善行為じゃないかと思うのです。
 先生のお話に「善因善果、悪因悪果」とあったので思い出したのですが、高松先生の『青い麦のように』という本に出ていました。若い女の子が、乗物で、席をゆずってやった。自分では、たいへん善いことをしたように思っていたけれども、相手のお婆さんは、「あたりまえだ」というような平気な顔をして、こしかけたということに、たいへん不快を感じた、と。
 これは、いわゆる凡夫であって、わたしどももそうであろうと思いますが、しかし、それなら、ほんとうの慈善でないと思うのです。
 真宗でもいいますね。あの回向文というのですか。「願以此功徳(がんにしくどく) 平等(びょうどう)施一切(せいっさい) 同発(どうほつ)菩提心(ぼだいしん) 往生(おうじょう)安楽国(あんらくこく)」。((ねが)わくは、()の功徳をもって、平等に一切に(ほどこ)し、同じく菩提心を(おこ)して、安楽国に往生せん)という、あのことばが、ほんとうに心の底からわき出たときにはじめて慈善行為といえるのでないでしょうか。
 曹洞宗の場合は「願わくは、この功徳をもって、善く一切に及ぼし、われらと衆生と、みなともに仏道を成ぜん」と、こういうのですが、そういうふうな答えの求め方のできる運動が、ほんとうの慈善運動といえるのでないでしょうか。
 運動というと、スケールが大きくなりますし、話がむずかしくなりますが、わたしども子供の頃には荷車をひいて坂道を登る人が多かった。そういうおじいさん、おばあさんと出会ったとすると、なんということなく後から手をかけて押してあげた。そのとき、押してもらった人もうれしいでしょうけれども、押した方も、なにかしら、いうにいわれぬ気持ちになった、そういう心。そんな心からおこったものでなければ、ほんとうの慈善行為ではない。
 実際は、坂道で車を押してあげたのですから、えらい(苦しい)のです。自分に負担がかかるのですけれども、そういうことが、一切心の中に残らないで「ああ、ええこと(いいこと)をした」ということまで残らないで、なにかしら気持ちのいいすがたになる。そこまでいかなかったら、ぼくは、慈善もダメじゃないかと思います。
 司会 慈善というものの、ほんとうのあるべきすがたというか、そういったものについて、なにかピッタリといっていただいたような感じなのですが、そこに行きつくまでの過程といいますか、そこが大きな問題でないかと思うのですが、それについてはどうでしょうか。
 松井 われわれは、何か善いことをする場合、「してやった」というか、善をたのみにするというか、過信する。そして、できたからいいんだとか、したからいいんだというような、自分を安心させる場所にしてしまうのではないかと思う。だから、それを、どう越えるかというのが、慈善するものの側の、大きな問題だと思います。

     慈善と罪福信仰

 中村常 さきほどの講話で、先生は、「倫理的」ということをいわれましたが、慈善運動は、それに通じていると思う。「罪福信仰」ということもいわれましたが、そういうものもあるように思う。何か善いことをする行為によって、自分が縛られるというか、そういうものがあるよう思う。そういう問題をも組み合せて、先生、ひとつしゃべってもらえませんか。
 伊東 先月は、「善について」ということで、いろいろ話が出ましたし、今晩も「慈善について」みなさんのご意見がなかなか活溌に出ているようで――。ぼくにも、ぼくなりの感想なり意見なりがありますが、みなさんが話されたことのなかで、いま頭に浮びますのは、森本君の意見ですね。慈善活動を表彰するのは文明国家の恥だということもいわれていましたが、まず政治的に解決できる問題があるということです。
 たとえば、社会保障ということが十分されるなら慈善運動などしなくてすむというようなことは、ずいぶんたくさんあると思います。そういうことは、ひとつ大事な問題点ですね。その政治ということを問題にすることになれば、まあ、今日のテーマからは、はずれていくことになります。
 それで、政治的にも問題がある、社会保障も不十分なんだが、こういう現状のなかでは、ヒューマニズムに立って、やむにやまれずにやるんだともいわれました。そうせずにはおれない行為――、まあ、これが、今日の慈善運動の実情なんでしょうね。そして、その、ヒューマニズム、人道主義というものを離れては、われわれの生活はないんだといえるわけです。
 ただ、さきほどの「一切衆生とともに救われる」ということ。そういうことは、ぼくらも、しばしばいいますが、とくに「己れが度るのをあとにして、衆生を先に度そう」ということ。そういう気持ちは自分の中に、そうあるべきだという願いとしてあるということでしょうし、また、そういうふうに願われるということでもありましょうが、そういう願いに立って、厳しく現実を批判するということも忘れてはなりませんね。
 仏教では、慈悲というものを、一応、三種に分けます。これは、次の第四章に出てきますから、慈愛というようなことについては、来月お話いたしますが、愛情ということは、われわれ人間関係の中で生きていくのに、きわめて大切な問題である。
 ですから、慈善事業というのは、人間関係の中での愛情の問題、しかも、その愛情が、ほんものかどうか問われているような問題である、といえるのでしょうね。
 たとえば、この粥見で友だちであるとか、同じ日本人であるとか、そういう間の愛を衆生縁(しゅじょうえん)の慈悲といいます。が、その愛情問題を社会で、国家で、解決しなければならぬ、となると、その衆生縁の慈悲にとどまっておれないで、それが、法縁の慈悲に転ぜられねばならぬ。
 だから、赤い羽根運動というようなことも、動機は衆生縁のものですけれども、その衆生縁の慈悲が法縁に転ぜられていくといいますか、ね。われわれは、どんな生のいとなみをしておりましても、人間関係を離れない。それで、衆生縁ですが、それにとどまったのでは慈善はほんものといえない。だからいつでも、それが法縁に転ぜられていくということがなければならない。
 しかし、その法縁にとどまったのでは、また、その法に縛られる、ということがでてくる。法によってなした行為が、法によって縛られる。それで無縁の愛、無縁の慈善というものが出てくるわけです。そこまでいかなければ、愛というものは徹底しない。
 だから、無縁の慈悲というものは、われわれの中にあるということはできないけれども、しかし、それがなければ、われわれは一日だって一刻だって、自分の行為に安らぐことはできない。そこに、なにか、仏法が語るものを、われわれ一人ひとり、自分の中にはっきり見開いていかなければならない、という問題があるように思います。
 それから、罪福信と結びつけて、といわれましたが、われわれ人間にとっては、この慈善の行為というものが、行為即目的ということにならないで、なにかの目的のための手段にするという心をもっているのでしょうね。目的意識がはっきりしている場合もあるでしょうし、また、ぼんやりしていることもあるでしょうが、とにかく、何かのためにする、というと、その目的以前の手段が、つまり行為が、行為することを縛ってくる。
 神を信じ、仏を信じて――、となるから、宗教だといいますけれども、それは、多分に倫理性をおびた信仰である、罪悪とか、慈善ということと離れない、深いかかわりをもった信仰である、と、こういうので、罪福信というわけです。

     なした行為に縛られるということ

 林憲 その、縛られるということ、行為に縛られるということ、そして、またそれが転ぜられるということを、もうすこしくわしく説明してください。
 伊東 まあ、法縁の慈悲というものは、仏教の専門語でいいますと「因縁所生(いんねんしょしょう)の真理をさとっておこす慈悲」ということですが、今の問題におきかえていいますと、単なる慈善事業ではない。
 それで、どこかで災害を受けた人びとがある、とだれかに聞いたとか、何かで読んだとかで、たとえば義援金を出すとします。そういうことを知って、お金を出そうという気持ちになったのは、衆生縁の慈悲というものですけれども、せっかく善意をもって何かおこなっても、これまでにもいろいろ話題になっていましたように、その慈善の行為に縛られるということもありうる。しかし、それにもかかわらずその、なしている行為そのものは、単なる衆生縁、単なる人間関係を越えた行為に転ぜられていきますね。なにかをすればしたで、したことに縛られる。しなければしないで、しないことに縛られる。
 林憲 それまでは、よくわかります。
 伊東 ヒューマニズムに立っていえば、困った人のためには、何かつくすべきなんですね。が、すべきことだというかぎり、よく考えてみると、そこにしていないものがあるわけですから、慈善という行為にも限界がある。
 「己れの救いを後にして」ということも、それは願いとしてはあってもですね、正直にいって現実ではない。はだかにはならぬですよ。なかなか――。
 しかし、さきほどから、あれこれいっているようなことは、いますぐ、パァーッとはだかになれないでは、ほんとうは、いうことができないわけですね。だから、それは、どこまでも、自分の願いとしてあるのであって、その願いから、なすべきことが出てくる。だから、やばり、そこに倫理的なものが出てくるわけですね。なすべきことならば、そうしない自分がおるということは許されない、と。
 その場合、なすべきことをなしえたら善というし、なしえなかったら悪という。そして、善には自己満足のような感情がついて回るし、悪には自虐とか劣等感のようなものがついて回る。なにをやっても、なかなか、サラリといかぬわけです。
 荷車のあとを押す例が出ましたが、ああいうような経験が、われわれにも、まったくないわけではない。けれども、いつでもあるわけのものでもない。ああいう、わずかな経験をとおして、そういう世界にふれるというか、そういう世界があるんだと感ずることはできる。
 これは、大切なことだと思いますが、しかし、それも束の間のことにしかすぎない。そこに、ヒューマニズムが、倫理というかたちをとってきても、片づかないという問題があると思います。そういうことに気づかないと、「まあ、まあ――」でいくのならともかく、慈善に徹底しようということになると身動きならなくなる。自分の一挙手一投足に安心できなくなる。
 たった十円ばかりの赤い羽根が、長い間、自分を縛ってくる。十円を出したという行為は、有縁のなかで、去来した行為――。自分の思いをこえてはたらいているわけですが、十円出したという思いは、長い間、自分を縛っていますからね。

     はだかとまるはだか

 林憲 その、はだかになるということですが、要するに菩提心というのですか、自分が仏になる前に一切衆生を度したいという願い、十円で赤い羽根を買うのも、それは、はだかになっているのではないか。
 現実としては、自分がはだかになって他人を救うということはできないことですけれども、自分ははだかになってでもこの人たちを救いたいと、こういう願いのもとに赤い羽根を買ったとしたら、そのとき、その人は、はだかになっているのとちがいますか。
 伊東 たしかに、願いというものを、そういうように考えることができますね。人間の願い、菩薩の願いというものも、いまいわれるような気持のものにちがいない。そういう願いを徹底していくところに、仏教のいろいろな修行とか、善行を積むということも出てくるわけですね。
 ところが、その願いには、こちらが願われているということがある。
 林憲 ああ、そうですか。こちらの願いではないんですか。
 伊東 ええ、それは、願われている願いと、自分の願いとが一つになるのがのぞましいんですけれども――。だから、われわれは、その自分の願い、人間の願いが、ほんとうに願われている願いというものに純化する、というか、転化するというか、そういうことを願っているわけです。
 だから、いま、おっしゃったような意味においてそういう願いで赤い羽根を買えば、それがはだかなんだ、と、こう解釈してしまったんでは、自分を許すことになりますね。
 はだかになるというなら、まるはだかですね。その、まるはだかになれという願いを、自分の中にとりこんで、それでもって自分を、正統化しようとする、とすれば、その瞬間に、その行為は、全く異質のものになるじゃありませんか。
 林憲 はあ、わたしは、その願いということを、自分の願い、と、こういうように解していたものですから。
 中村常 それじゃ課題として、それを超えるにはどうすればいいんでしょうか。
 伊東 いや、たいへんな問題になってきましたね。まあ、これは、やはり課題――。
 が、しかし、頭でひねり出して、考えたものではありませんしね。「はだかになってでも」という願いをつくしながら、ほんとうの人間のすがたは「まるはだかなんだ」ということに気づけという広い世界に出ていく、といいますか――。とにかく、慈善の正体を見きわめることを忘れないことですね。
 次は、第四章ですから、慈悲ということ、愛といぅことですから、この慈善にも大いに関係があります。そこで、ぼくの考えを、もうすこし考えてもらうことにしましょう。
 司会 じゃ、どうも遅くまで、ありがとうございました。今月は、これで終らせていただきます。


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