3 第三・四・五章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章  
 まえがき
  一 第三章の一  
  二 第三章の二 ◀ 
   案内・講師のことば
   講  話  
   座談会  
  三 第四章   
  四 第五章   
  補 説  
 4 第六・七章  
 5 第八・九・十章  
  謝  辞  
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二 第三章の二 「悪人・ブッダとなる」


     
講 話 「悪人・ブッダとなる」

年の瀬に思うこと
 十二月も終りに近づきまして、年の瀬もせまってまいりました。今年一年はどうであったか、と、ふりかえってみますと、日本の国内にも、また世界各国にも、いろんなことがあった、と、思い出されます。新潟の大地震、東京オリンピック。それから、ソ連のフルシチョフ首相の解任、中共の核実験。それから、池田首相が交代するとか、アメリカの原子力潜水艦の寄港問題だとか――と。
 それから、明日の夜は、クリスマス・イブですが、都会では、あいも変らずクリスチャンでもない人たちが、クリスマスだというのでドンチャンさわざをします。雑誌かなにかのマンガに、「日本のクリスマスは、七面鳥がクルシミマスだ」といって、ヤジっていましたが、年の瀬に除夜の鐘を聞くときは仏教徒、一夜あければ初詣で神道、と、これからしばらくの間は、またまた日本人の宗教的寛容さ――?というより、宗教的な無節操さが話題にもなる時期であります。
 まあ、正月が近いからといっても、わたしほどの年になりますと、子供の頃のように、「もういくつねるとお正月」というような、はしゃいだ気持ちにはなりません。それよりも、「また、一つ年をとるんだな」という感じの方が強いわけであります。
 さきほども座敷で、取材のために名古屋からこられた記者(中日新聞の)が、中村君に「あなた、年が明けるといくつになりますか。二十いくつ――?一つでも若い方が、いいでしょう」などといっておられました。こうして、年のことを考えながら、過ぎ去っていく日々のことをふりかえり、そうして、また、今後のことをはっきりと見定めていかねばならない、と、こう思うわけであります。

善人と悪人を相対させる意味
 ところで、さっそくですが、歎異抄の第三章であります。先回は、これを「人間であるということ」という題目で、いろいろ考えてみたのですが、今回は、「悪人・ブッダとなる」つまり「悪人成仏(あくにんじょうぶつ)」というテーマで拝読したいと思います。
 で、これまで、なんどももうしたことですが、この人生というものは、なにかわからぬままに他から「人」と呼ばれている存在――、この「人」と呼ばれているものが、「人らしい人」になっていく過程である。ほんとうの人間、つまり「真人(しんじん)」となる生のいとなみ、これを人生というと。仏教では、ブッダ(仏陀)のことを「真人」といいますが、実は、この、人が真人となる過程に、どうしてもくぐらねばならない一つの関門がある。それが、「人間の本性は悪人である」ということにめざめることである、と、このように第三章は語っているのであります。
 それで、この「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」という文章をみますと、まるで善人と悪人と、二種類の人間があるかのように書いてありますが、実は、ここに注意しなければならぬ問題があると思うのであります。
 この次の第四章にも
 「慈悲に聖道(しょうどう)浄土(じょうど)のかわりめあり」
とあります。慈悲、つまり愛の真実であるものに、聖道の愛と浄土の愛とがあってちがう、と。この、愛に二種類があるということも、一応はそうでもありましょうが、再度考えてみれば、おかしい。愛の真実、つまり慈悲に二種類があるはずはありません。と同じように、いまの善人・悪人も、一応、そういうように分けて、次第に「人間とはなにか」ということを明らかにするわけであります。
 また、自力・他力にしても、そうですね。さきほど、やはり座敷で、「禅は自力で、真宗は他力でしょう」という質問が出ておったのであります。こういうふうに、わたしたちは、一般に、自力と他力を二つ並べて考えるわけでありますけれども、つねづねもうしますように、他力とは自力を発揮させる道である。われわれの持っている力を出しつくさせる道、自力をつくさしめる道、それが他力である。これを、いいかえますと、われわれは、生かされて生きているのだ、と。たしかに、われわれは生きておるのだけれども、生きているのは、生かされて生きているのだ、と。

大松博文の「おれについてこい」
 この、自力・他力ということで、ふといま思い出したのですが、東京オリンピックで一躍有名になった大松博文さんですね。もう二年ばかり前、日紡の貝塚チームが、モスクワでソ連チームを破った、そうして東洋の魔女といわれるようになってから、今度の中共遠征まで、一七五連勝ですか――真昨日、大松監督と、それから河西主将はじめ一行が、中共から帰ってきたというニュースを聞いて、前に読んだベストセラーの、『おれについてこい』という本のことを思い出したりしておるのですが、あの本の中で、大松さんは、よく選手に「自我を殺せ」というのだ、と書いております。
 「人を死地におもむかせるには、みずからもまたそこにおもむくだけの用意と覚悟がなければならぬ。人を働かせるには、自分がそれ以上働くことだ」とか、また「自己を犠牲にしてやり抜く精神が、人間修業の最良の道であり、進んで人の犠牲になる精神が、土性(どしょう)(ぽね)土根性(どこんじょう)をつくる基となると思う」などということば――。これは、大松さんがいうから生きたことばになるわけですが、この「自我を殺せ」ということを徹底していくというと、そこには「無我であれ」ということがある。なにか「自己に勝つ」などということを聞くと、自力の権化(ごんげ)のように思われますけれども、しかし、自力だけを信じて頑張っていて、それで、ほんとうに自分に勝つことができるかどうか。「自己犠牲」ということにしても、そうですが、それに徹する方向には「無我」ということがあるわけであります。
 それで、大松さんと魔女たちの力を合せて、その持てる力を百パーセント発揮させたものがある。発揮したのは、それぞれ自力でありますが、その発揮している力のなかに、発揮させる力がある、と。もし、そういうことに気づかないとしますと、今日の栄光は、やがて過去の栄光となってしまって、そういう想い出に、かえってしばられるということにもなるでしょう。力を出しきったということが、単なる想い出になるのでなしに、その時その時を生きる自分の力となり支えとなるには、やはり生かされて生きているという事実を、はっきり見定めるということがなければならぬと思うのであります。

悪人とは人間の別名である
 で、このように、自力と他力は、ほんとうは相対的な関係にあるものではない。また、慈悲にしても、聖道と浄土と、二種類があるかのようにみえるけれども、それは深さの関係でとらえられねばならない。つまり、聖道の慈悲を徹底するところに浄土の慈悲がはっきりしてくるのである、と。ですから、善人・悪人も、やはり相対的な関係ではなしに、人間観の深さ、自覚の深さをあらわすものであると、こう領解するわけであります。この問題について、林田茂雄氏は、こういっております。親鸞が、「善人とよんだものは、人間のなかの、いわゆる善人でもなく、人間いがいの、どこかにいる善人でもなかった。それは、自分を善人だと思っているもの・善人になれるかのように感ちがいしているもの・自分のみにくさ、罪のふかさに気がつかないでいるもののこと、いいかえれば、他力にまかせきれぬ、自力定散(じょうさん)のともがらのことだった」と。この定散というのは、定善・散善のことで、悪をやめて善をおこなうことによってブッダとなろう、自力で成仏しようとする人の選ぶ宗教行のことをいいます。

 次いで、林田氏は「いわゆる善人とは、らくな生活をのぞまぬものになれそうなつもりのもの、食欲も性欲も問題にしないで、いわゆるおえら方からおしつけている善悪の基準に、ためらいなく従ってゆきぬけるかのような顔をしてるもの」と。要するに、無自覚ということをいっておられるのでしょう。
 ですから、「悪人とは人間の別名なのだ」ともいわれておりますが、悪人とは、すべての人間がそうだという、人間の本質をいいあてたことばであります。そういう人間の本質である悪人にめざめるということ、それが、人が人となっていくために、必ず通らねばならぬ関門である、とこういうことを第三章は語っているのであります。

農民も猟師も漁民も商人も
 しかし、善人と悪人を、一応は相対して書いてあるわけで、親鸞の生きた鎌倉時代において、善人とよばれたのはどういう人であったか、悪人はどうであったかということを、いろいろ学者たちも研究しているのであります。それについて、先日も、ちょっとふれましたが、東京大学の笠原一男氏は「大部分は、領家・地頭・名主と隷属関係にあった農民たちである」と。これにたいして、京都大学の赤松俊秀氏は「農民よりも、むしろ商人だったろう」と。
 当時、鎌倉地方を中心に、商人が勢力をのばしてきておったのですが、この商人は、武士や猟師に近い罪の意識というものを持っていた。ところが、農民は、宿命感は持っていたかも知れないけれども、罪悪感は、あまり持たなかったのじゃないか、と、赤松氏は、こういっておられます。
 このように、いろいろ論議がありますが、農民には罪悪感は稀薄だったと、一概にきめてしまうのは、どうでしょうか。農民とか商人の一般論なら、いろいろ考えることもできるでしょうがここで問題になるのは、親鸞の教えを聞いた人びとのことであります。だから、だれよりも深い罪悪感から、念仏を説く親鸞のことばを聞いて、一人ひとりが内に持っている罪というものに気づいていかないはずはない。そこには、農民だの武士だの商人だのという区別はない。ですからどのような職業の人が、当時、悪人よばわりされたのか、それについて、ここでは、これ以上の詮索はやめて、そういう問題は、歴史家の研究にまかせておくことにしましょう。
 要するに、当時の社会においては、支配を受ける側の人びとで、その多くは、ほとんど文字も知らぬような、愚かな人たち、これが悪人とよばれた人たちであった。そして、その中には、第十三章に
 「海川に、あみを引きつりをして、世をわたるものも、野山に、ししをかり、鳥を取りて、いのちをつぐともがらも、あきないをもし、田畠をつくりてすぐる人も、ただ同じことなり」
とあるように、漁民や猟師や、商人や農民など、それに下級武士といった人びとがいたのでしょう。
 そして、そういう人びとは、「いわんや悪人をや」という親鸞の教えを、自分自身にたいする語りかけだと親しく聞いたにちがいありません。つまり、悪人とは、どういう階級の、どういう職業の人なのか、というような説明などを必要としない。「悪人それは、わたしです」と、こう、ジカに身に響くような、ナマナマしい生きたことばとして聞いたにちがいありません。だから「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」ということばは、深い感動をもって、みんなに受けとられていった。そのように、悪人というのは、生活のなかの生きたことばであったと思います。

宗教における倫理性
 だから、先回ももうしたことですし、また座談会でも問題になっておりましだがここでいう善人・悪人は、いわゆる法律や、倫理道徳でいわれる善悪だけにつきるものではない、と、こういうべきでありましょう。これについて、小野清一郎氏は、
 「第二章は、念仏者における学問的・思想的な迷いを打ち破ろうとしたものであるが、この第三章は、その倫理的・道徳的な迷いを打ち破ろうとしたものである」
といっておられます。この前の、第二章は「学問についての問題」が論議されておったのにたいして、いまは倫理の問題なんだ、と。たしかに、人間であるということ、そのことが倫理的存在なのでありますから、宗教的な存在というものも、具体的に生きるとなりますと、この倫理ということを離れてはありえないともいうべきなんでしょう。だから、この、倫理性というものは、宗教のなかにまで深く入りこんでいるわけであります。
 が、この、善悪という問題を、倫理の面だけでとらえようとするのは、どうでしょうか。それは、浅い意味での、いわゆる倫理道徳だけではなくて、もっと深く、宗教における倫理性を問題にするのだといってみても、宗教には、それだけにつきないものが残ります。宗教が、深いかかわりをもつところの、生そのものが持っている善悪問題――。それは、「倫理の問題である」というだけでは、いいあてることはできぬと思います。

独参湯(どくじんとう)の「忠臣蔵(ちゅうしんぐら)
 ところで、話が脱線するようですが、毎年、十二月がきますと、思い出されるのはあの「忠臣蔵」ですね。いま、テレビでも連続ものをやっていますが、わたしは、もう長い間みておりません。テレビでは、討入りは、もうすんだのでしょうか。ときは元禄十五年、十二月十四日の深夜から、十五日の早暁にかけて、赤穂の浪士、四十七人が、主人・浅野内匠頭(たくみのかみ)長矩(ながのり)の怨みをほらさんものと、吉良(きら)邸に討入った、と。
 「忠臣蔵」といえば、だれも知らぬものはないわけですが、ことのおこりは、討入りの前の年元禄十四年の三月十四日のこと。浅野は、江戸城中の松の廊下で、抜いてはならない刀を抜いて高家(こうけ)筆頭(ひっとう)の吉良上野介(こうずけのすけ)に切りつけた。ソデの下を包むのを怠ったということで、さんざん吉良にいじめられた。それで、もうガマンができぬと、刃傷ザタに及んだのですが、その罪を問われて浅野は即日切腹、家は断絶、城は明け渡し、という裁決をうけたけれども、吉良の方は、なんのお咎めもなかった。
 それから、一年と十か月、家老の大石内蔵助(くらのすけ)良雄(よしたか)を中心とする四十七士は、苦心サンタンの末、吉良の邸に討入り、吉良の首をとって、これを芝高輪(しばたかなわ)の泉岳寺にある主君の墓前にそなえたわけであります。そして、これによって、赤穂の浪士は、たちまち「義士」と呼ばれるようになりました。
 やがて、この元禄十四年と十五年の二つの事件を一つにまとめて、これが、浄瑠璃や歌舞伎で演ぜられるようになりますが、討入りから四十七年もたってから作られた『仮名手本忠臣蔵』になって、たいへんな評判をとるようになったわけです。そして、講談、浪曲、芝居、それに小説や映画と、まったく、あきられもせずに今日に伝っております。それで、「忠臣蔵」のことを「独参湯(どくじんとう)」という、と。つまり、どんな不況のときでも、生きかえる人参風呂のように、これさえ出せば客が殺到する、と。
 しかし、この「忠臣蔵」の話が語っているような世界は、いま、わたしたちの生活の中には、もうなくなって、ありません。大石良雄に代表されるような「忠臣」は、一応は、ないといわねばなりません。が、では、今日でも「忠臣蔵」が日本人の心をとらえるのは、どこに原因があるのでしょうか。生活の様式や規範や、そして、それに合せた考え方というようなものからいえば「忠臣蔵」の江戸時代と、現代はちがいます。が、たとえ、それが演劇であっても、人の心をとらえるというところには、なにか現代のわれわれにも通ずるものがあるにちがいない、心をとらえるというかたちで、現代にも生きているものがあるにちがいない、と、このように考えることができるかと思います。
 わたしたちは、これを、一つの演劇としてみるのでありますが、このストーリーは、もう十分に知りつくしている。けれども、なんど繰り返してみても、そのプロセスが面白いとか、演ずる役者に魅力があるとか、ということでしょうか。あるいは、自分を徹底的に犠牲にして、いのちがけで一つのことに打込むすがたに惹かれるのでしょうか。辛苦に耐えて、一つの目的を達成するということが、人びとの共感をよぶのかも知れません。また、結局は、悪玉(あくだま)が亡んで、善玉(ぜんだま)が勝つわけですが、それが「忠臣蔵」のいのちを長びかせているのでしょうか。

善玉・悪玉から罪福信仰まで
 最近、どのテレビでも、子供向けの空想科学映画をやっています。それをみてますと、どれもこれも、きっと善玉・悪玉が出てきます。それが、子供の正義感に訴えるのでしょうが、この善玉・悪玉は、映画、演劇、小説などに、なくてはならぬものになっている。善が困り苦しみ、悪がはびこるけれども、しまいには悪は亡び、善が勝つ。人間というものは、そうなっていないと承知しないものを持っているようです。だから、科学を駆使する映画にさえ、善い人間、悪い人間が出てくるのでしょう。
 これは、善因善果、悪因悪果ということ、善の行為は善の結果として楽をもたらす、悪の行為は悪の結果として苦をまねく、ということが、素朴に信じられているからだと思われます。たしかに、善因楽果、悪因苦果は、因果の道理ですから、道理として真実であります。
 ところが、そこに、だから善をたのみ悪をにくむという心がはたらく。つまり、われわれに幸福をもたらすと思うから善を欲する、そして、われわれを不幸にするところの悪をおそれる。そして、この、根の深い思いは、善をみて、悪をみまいとする心だといえましょうか。この心が、善と悪の、ほんとうのすがたをわからなくしている、というか、自分のなかの善悪の正体を、知ることができないようにしている、と、このように思うのであります。
 そして、こういうような、善を欲し悪をにくむ心があるからこそ、そこに倫理ということも成り立つわけであります。ところが、このような心が、そのまま信仰というかたちをとってあらわれると、それが罪福信(ざいふくしん)といわれるようなものになる。で、今日、一般に、宗教だと思われているものは、ほとんど、この罪福信仰だといってもいいのでしょう。
 親鸞のいう念仏の教えというもの、もっと広く仏教というものは、この罪福信仰を克服したものなんですが、しかし、一般には、罪福信仰が宗教であるかのように思われている。これは、非常に残念なことでありますけれども、そういう現状があるわけであります。
 つまり、善悪と深いかかわりを持っているところの倫理性というものが、信仰のなかにすがたをあらわして、そうして罪福信というものになるわけですが、この場合、信ずる心が、実は、自分を束縛する。信ずることによって、かえって自分が縛られることになる。信ずるのは、いろいろな悩みや苦しみからのがれたい、解放されたいと願って信ずるのですが、その、信ずる心が、新たに自分を縛ってくる。これが罪福信の正体であります。
 このように考えてきますというと、いわゆる倫理や道徳でいうところの善とか悪とか、ということ以前に、いつでも罪福信につながるような心を持って生きている、善をたのみ悪をにくんで罪福信に迷うようなものを内に持って生きている、と、こういう事実に気づかねばならない。つまり、善をたのみ悪をおそれるような、こういうかたちでとらえられる相対的な善悪というものの実体を、よく知らねばならぬと思うのであります。

王舎城(おうしゃじょう)の悲劇
 それで、第三章では、一応は、善人と悪人とがあるように説いてありますけれども、悪人でないような人間はいないんだ、というところに、次第に導いていきますが、実は、こういうことを教えているのが『観無量寿経』という経典であります。
 それは、まだ、お釈迦さまが在世された頃のことですが、インドのマカダという大きな国の首都、王舎城――、これは、いまのラージギルと呼ばれているところですが、そこに、突然大へんな事件がおこった。これは「王舎城の悲劇」として、よく知られている話ですが、それは、アジャセ(阿闍世)という名の王子が、悪友のダイバダッタ(提婆達多)にそそのかされて、突然、父親のビンバシャラ王(頻婆娑羅)を補えて牢獄にぶち込む。そうして、食べ物を与えないようにして餓死させようとする。それをみかねて、内証で食物を運んでいた母親のイダイケ(韋提希)夫人もそれが露見して、また、あやうく殺されかかるという事件がおきた。
 といいますと、これは、全く偶然の出来事のようでありますけれども、実は、この事件は起るべくして起った。それには、そうなるべき歴史的な必然性というものがある。そういうことが『観無量寿経』や『涅槃経(ねはんぎょう)』を読むとわかるのでありますが、ここでは、それをくわしくお話している時間がありません。
 で、そういう事件のなかから、イダイケ夫人は、お釈迦さまの教えを聞くことによって救われていく。その、イダイケ夫人の方を中心にして説いたのが観無量寿経であります。そして、事件をひき起したアジャセも、やがて大変なことをしたと後悔する、慚愧(ざんき)する、そうして、最後にはやはりお釈迦さまをたずねて救われる。このアジャセの救いについては涅槃経の方にくわしく書かれています。

上品の自覚と下品の自覚
 それで、観無量寿経をみますと、その悲劇のなかから、「わたしは、アミダの世界に生まれるものとなりたいと思います。それには、どうすればいいのでしょうか」と、イダイケがたずねるわけですが、それにたいしてお釈迦さまは、まず「定善」と呼ばれる十三とおりの観法(かんぽう)を説かれます。この定善について、善導大師は、「(おもんぱかり)()めて心を()らす」といっております。つまり、あれこれと思いはからうことをやめて、心を一点に集中する、そうして、アミダの世界を明らかにする、と。
 それで、思い出しましたが、わたしも大学の頃、友だち三人で座禅をしたことがあります。それは、二年生のときですが、ナムアミダ仏ですくわれる、念仏ですくわれるということがどうしても納得できません。それで、ひとつ修行をしてこようというので、永平寺の臘八接心(ろうはちせっしん)に行った。妙心寺の接心は、これからはじまりますが、十二月一日から一週間、お釈迦さまがさとりを開かれたという八日早暁の成道会(じょうどうえ)まで、ずっと坐ったわけです。
 わたしたちは外来者ですから、禅堂の中へは入れてもらえない。禅堂の前の廊下、その壁ぎわに、すこし高くして、一畳はばで、ずっと畳が敷いてある。そこで、朝の二時に起きて、それから夜の十時まで坐る。わたしたちが眠るのは座敷ですが、座禅にはそこへ出かけるわけです。眠くなると合掌する、「どうか叩いてください」と合図するわけですが、そうすると師家(しけ)が来て、警策(きょうさく)という棒で肩を叩いてくれる。それにたいして、合掌して「ありがとうございます」と感謝するわけです。叩かれて、ありがとうはおかしいと思われるかも知れませんが、つまり励ましにたいする感謝なんです。
 まあ、わたしは、座禅について語る資格はありませんが、そのときの経験で記憶しているのは毎日、屋根からつららがさがっているほどの寒さのなかで素足だったものですから、まず寒かったこと。そして睡眠時間が短いので、眠かったこと。それから、短時間に食事をする要領が覚えられなかったので、いつも空腹だったこと。壁に向って坐るわけですが、壁は、一週間も向い合っておりますと、決して茶色でもなければ白くもない。まったく妄想のスクリーンで、あれこれ思うことが、その壁いっぱいに映る、というようなわけで、息慮凝心(そくりょぎょうしん)(おもんぱかりをやめて、こころをこらす)などとは、ほど遠いことだったのを思い出します。
 さて、それから、お釈迦さまは、その定善を説いたあと、「散善」と呼ばれる宗教行を説かれる。これは「悪を廃して善を修めること」つまり廃悪修善(はいあくしゅぜん)であります。ここでは、上輩(じょうはい)の者の、高度な宗教行から、中輩、下輩と、だんだんに宗教行を説かれるのですが、この上中下をさらに上上(じょうじょう)、上中、上下、そして中上、中中、中下、下上、下中、下下(げげ)と、計九種類にわけられます。そうして、それぞれ宗教行というものを明らかにしながら、その宗教行を実践することのできる人は、どんな人であるかということを、順次、説いていかれます。
 これを、善導大師の解釈によってみますと、まず、上の三種は、大乗の教え、仏教のなかでもことにすぐれた大乗の教えに遇うた人びとである。そして、中の三種は、小乗の教えに遇うた人びとである。それにたいして、下の三種は、悪に遇うた凡夫である、と。だから、上品(じょうぼん)の人は高い宗教行でさとりを開くことができるかのように説いてありますが、下品(げぼん)になるというと、悪を廃して善を修めるとはいうものの、これは全く悪人である。どんな宗教行にも耐えられない。とくに下下の人は、ただ「ナムアミダ仏」と称えることだけしかできない人である、と、このようにいってあります。

悪人であることにめざめる
 これは、さきほどからもうしますように、上から下まで、善人と悪人とがあると一応は説いてありますけれども、実は、これによって自覚の深さをあらわすものと思うのであります。だから、九品(くぼん)は九種類の人とその宗教行だといいますけれども、それは、九種類もの人間がいるということではないのであって、釈尊の説法を、この身にひきあてて聞いていきますというと、だんだんと自覚が深くなって、やがては、どんな人でも下下品(げげぼん)に摂っていく、ということに気づくにちがいない。

 だから、この観無量寿経を説き終ろうとするにあたって、お釈迦さまは、「これまで、いろいろ説いたけれども、要するにナムアミダ仏の念仏を忘れないように」と結ばれます。
 「汝、よく、この語をたもて。この語をたもてとは、すなわち、これ、無量寿仏(アミダ仏)の名をたもてとなり」
と。それで、善導大師は、このことばを解釈して、「これまで定善と散善について、いろいろ説いてきたけれども、アミダの本願からいえば、要するに、そのこころは、人びとに一心に、一向に、ナムアミダ仏と称えさせることにあるのだ」と。つまり
 「上来(じょうらい)、定散両門の(やく)を説くといえども、仏の本願に望むれば、意、衆生をして、一向に(もっぱ)ら、弥陀仏名(みだぶつみょう)を称せしむるにあり」。
アミダの本願からいえば、ナムアミダ仏と念仏させよう。それが本願の本意である、と。
 でありますから、善人と悪人があるかのように並べて説くということは、方便である。それは方便というもので有るが、その方便のあらわす真実は、下下の悪人が成仏するということ、悪入がブッダ(仏陀)と成るということである。悪人こそブッダ(仏陀)と成る。したがって、悪人であることにめざめることこそ、人間が、真人すなわちブッダ(仏陀)と成るために、どうしても通らねばならない関所である、と。

善人も善人のままではすくわれない
 だいぶ時間もたってまいりましたが、歎異抄の本文にかえってみますと、一応、善人・悪人を相対させて、「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」という。が、これにしても容易に理解されない。「いわんや悪人をや」ということばは、まったく常識を破って、日常的な意識を驚ろかすことばですが、そういわれてみても、なかなか納得しがたい。それで「しかるを、世の人つねにいわく。悪人なお往生す。いかにいわんや善人をや、と」。これが常識というものである。
 ところが、
 「この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり」。
これは、一応は、もっともなことのように思われるけれども、アミダの本願のこころにそむく、と。この「本願他力の意趣」というのは、さきほどの「仏の本願に望むれば、意、衆生をして――」とあった、あのことばに相い応ずるものです。
 それは、どうしてか。「そのゆえは」と理由がのべられます。ここに「そのゆえは」と、これで三回でてきました。まず第一章に
 「弥陀の本願には、老少・善悪の人をえらばれず、ただ信心を要とすと知るべし。そのゆえは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします」
とありましたが、これは、アミダの本願には「めざめ」を肝要とするということについてのべたもの。それから、第二章には
 「念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。そのゆえは、……。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」
と、その「めざめ」の内容が表白されてありました。また、このあと第五章にも、第六章にも「そのゆえは」ということばでもって、親鸞の信念の内景というものが明らかにされているのであります。
 それで、第三章では、
 「そのゆえは、自力作善の人は、ひとえに他力をたのむ心かけたるあいだ、弥陀の本願にあらず」
といってあります。
 「というのは、自分の力を信じて善行を積み、それでもってさとりを開こうとするような人はただひとすじに他力を信ずる心が欠けているから、アミダの本願に反するといわねばならない。けれども、もし、自力を過信するような思いあがりをひるがえして、他力を信ずれば、真実の世界へ生まれて、真実に生きることができる」。
ここで「自力の心」とあるのを「自力を過信するような思いあがり」と意訳しましたのは、自力がダメなのではなくて、自力をたのみにする心、自力の執心がいけないのだ、と、そういう点に注意したいからです。
 そして、「自力の心をひるがえして」、と。この「ひるがえして」というのは、「廻心して」ということ。でありますから、ここまで読んできますというと、はじめに、一応は「善人なおもって往生をとぐ」とありましたけれども、善人が善人のままで救われるのではない、自力作善の善人も「自力の心をひるがえして」廻心して、そうして、悪人であることにめざめれば、すなわち他力を信ずれば、救われる、と。くりかえしていいますと、善人も、すべての人間の本質、つまり悪人であることにめざめれば救われる、と。だから、ここで、善人が救われるといっても、自覚の不徹底な善人のままで救われるのではない、と、このように、ちゃんとおさえてあるのであります。

自力の限界を知ること
 そして、ついで
 「煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死(しょうじ)を離るることあるべからざるを哀みたまいて、願をおこしたもう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり」
とありますが、これは、まずもって「煩悩具足のわれら悪人は」ということ。これを第一章には「罪悪深重、煩悩熾盛の衆生」といってありました。つまり「あらゆる煩悩を、すべてみな持っているわれら悪人は、――」。
 「念仏よりほかの、どのような行をもってしても、この、終りのない迷いを離れることができないのを、あわれにおもわれて、本願をおこしてくださったご本心は、悪人こそブッダとなるということを、実現するためであるから、他力を信ずる悪人こそ、まさに浄土に生まれるべき因位(いんに)の人、である」。
ここには「われら」の自覚として「いずれの行にても生死を離るることあるべからず」とありますが、これが第二章では「親鸞におきては」とあって、親鸞の自信として語られていた、「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし」と表白されていたわけであります。
 考えてみますと、わたしたちが自分で生きるということと、生死の人生があるということは、ひとつであります。つまり、わたしたちは、この生死のなかに自力をもって生きているわけですから、自力で生死を抜け出る、生死を離れるということは、まったく不可能なことであります。
 これも、よく話す例なんですが、いまわたしは、ここに、こうして立っている。大地に立っている。これを自力で立っているとしますと、このわたしの体を大地からひきあげる、大地からひき離すということが、わたしの力でできるかどうか。まあ、五〇センチとか六〇センチとか、飛びあがることはできても、離れるのは束の間で、また大地にもどる。自力の行で、生死をこえ出ようとすることは、ちょうどこのように、自分の力で、自分の体を、大地から持ちあげようとするようなものである。これは、まったくナンセンスなこころみである、と。こういわねばならぬでしょう。
 たとい、月の世界めざして飛び立っても、人間は、やがてまた地球に帰る。出発点に帰る。もし、帰らないならば、飛んでいくということも無意味になってしまう。ですから、アミダのすくいは、この足下の大地を忘れて、天に向っていくのでなしに、まず、この、わたしのいのちのありか、すなわち大地に帰れと教える。「いずれの行にても、生死を離るることあるべからず」と知れ、自力無効と知れ、と。そこに、アミダが本願をおこしてくださった本意がある。だから、そこで、われわれは、アミダの本願に救われる、と。

悪人こそブッダとなる
 第一章に、
 「しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに」
とあって、これによって、アミダの本願とか念仏は、善とか悪とかという、相対的な善悪をこえたもの、いわば善悪の彼岸である、そうして、もし善ということばを用いるなら、それは、絶対善である、と、こういうことをいってありましたが、その善悪をこえた自信というものは、罪悪深重(じんじゅう)、煩悩熾盛(しじょう)の自覚において得られるものであります。
 親鸞の『和讃』にも、「罪悪の深くまた重いわれわれには、念仏以外の方法は全くない。ただ心からナムアミダ仏と称えることによってのみ、アミダの浄土に生まれることができるのである」といってあります。つまり、
  極悪深重の衆生は
  他の方便さらになし
  ひとえに弥陀を称じてぞ
  浄土にうまるとのべたもう
と。このようにして、アミダが、本願をおこしてくださった本意(ほんい)というものは、「悪人成仏のためなれば」、悪人がブッダとなるためであるから、だから「他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり」と。
 ここの表現が、ちょっとわかりにくいというので、いろいろ論議きれております。信心が正因というならわかるが、悪人が正因だというのはおかしいじゃないか。だから、ここの意味は、信心が往生の正因だと解釈すべきである、と。これについて、曾我量深先生は、
 「他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり、これは面白い言葉である。人を驚かす言葉である。悪人正機ということは一般に、皆さんも我われも聞いているが、悪人正因という言葉は、歎異抄しかない。これは信心を悪人と誤ったのでないかと常識人はいうが、そうではない。
 大体、文章には、生きた文章と死んだ文章とある。……本当に日本の国語を我が言葉として自由に使って書いてある聖典は得難いもので、歎異抄などは、その点において、まことに秀れたものである」
といっておられます。「悪人」ということばのなかに「わたし」を感じている人、というか、それこそ「わたし」であると考えている人にとっては、この、悪人こそブッダとなる、という親鸞の語りかけを聞いて、非常に感動したにちがいないと思います。
 それで、わたしは、正因というのは、従来、信心――正因と理解されていることばでありますけれども、そこにある「人」という意味を生かすために「まさに浄土に生まれるべき因位の人」と意訳しました。つまり、かならず浄土に生まれると決定した人、浄土を果(結果)というのにたいして、決定したいまを因(原因)といい、その因の位についた人、ということであります。
 これは、信心の利益について、いろいろあげることができるわけですが、その究極のものは、「入正定聚(しょうじょうじゅ)」つまり正しく浄土に生まれると決定した人びとのなかま入りをするということである、と、このように『教行信証』の「信の巻」にいってありますし、また「証の巻」にも
 「往相廻向の心行(アミダからたまわったナムアミダ仏の信心とそのはたらき)を獲れば、即時に(ただちに)大乗正定聚の数(かならず仏になる身と足った人びと)に入るなり。正定聚に住するがゆえに、必ず滅度(さとりの世界)に至る。必ず滅度に至れば、即ち是れ常楽なり……」。
とあります。
 こうして、悪にめざめた人、すなわち悪人こそ、まさにブッダ(仏陀)となるべき人である。
「よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人は」と結ばれるわけであります。

と、おおせそうらいき
 さて、これで、第三章についてのお話を終ることにしたいと思いますが、最後の
 「と、おおせそうらいき」
ということばについて、ちょっとつけ加えさせていただきます。増谷文雄氏によりますと、この、第三章は親鸞のことばだというけれども、そのもとは法然にある、つまり法然のことばを親鸞が伝えて、そうして、「法然が、このようにおっしゃった」というのだ、と。つまり、「この悪人正機のおしえが親鸞独特のものであって、あたかも法然の所見と相対立するもののごとく印象づけてきた従来の宗学的解釈は、改められねばならない」。「その思想も、その表現をも、親鸞は、これを法然の直伝としてここに語っているのである」と。
 そして、三つの論拠をあげておられます。それによりますと、まず第一の証明として、いわゆる醍醐本(だいごぼん)といわれる『法然上人伝記』がありますが、その法然の語録に
 「善人(なお)(もっ)て往生す。(いわ)んや悪人をやの事。口伝これあり」
とあるということ。それから、第二は、本願寺第三代の覚如が書いた『口伝鈔』のなかに
 「本願寺の聖人(親鸞、黒谷の先徳(法然)より御相承とて、如信上人仰せられて(いわ)く、世の人つねにおもえらく、悪人なお往生す、況んや善人をやと。このこと遠くは弥陀の本願にそむき、近くは釈尊出世の金言に(たがい)せり」
とある。これによって、法然から聞き伝えたのだとわかる、と。そして、第三点は、いまの第三章の最後のことばで、つまり「と、おおせそうらいき」とは、法然がおっしゃったと解すべきもの、と、こういっておられます。
 こういう指摘は、なんでもかんでも親鸞の功績にして、ややもすると法然とその門弟の流れを軽視しがちになるという、本願寺の宗門内部の考え方を反省させるのに、大いに貢献するものといえます。が、増谷氏は、浄土宗のお寺の出身の方ですが、そういう点をあまり頑張られると、せっかくの問題提起がすりかわって、また新しい宗派我を主張するということにもなりかねないそういう点で十分配意しなければならぬと思うわけであります。

親鸞さらにわたくしなし
 まあ、親鸞にいわせれば
 「かたじけなくも彼の三国の祖師(インド・中国・日本の祖師がた)、おのおの一宗を興行す、ゆえに愚禿(ぐとく)(親鸞)勧むるところ、さらに(わたくし)なし」
ということですし、それはまた、「正信偈」が
 「唯可(ゆいか)信斯(しんし)高僧説(こうそうせつ)」  ただ、この高僧の説を信ずべし。
と結ばれるように、親鸞が、ことさら違ったことをいい出したわけではないのであります。しかし、それは浄土教の伝統が生み出したことばであり、法然のことばであるにしても、いま、それは、親鸞に聞きとられて、親鸞のことばになっている、それを唯円は、親鸞の教えとして聞きとっている、そういう事実を聞けば、それで十分じゃないか、と、こう思います。
 ですから、歎異抄にしても、一応は唯円が書いたといいますけれども、この歎異抄が生まれてくる背後には、無数の人びとがいる。その声は、肉の声としては聞こえてこないけれども、真実を求め、求め得て生きた人びとの、声なき声が、ここにある。だから、歎異抄が生まれたということはただひとり唯円だけの功績でもなければ、親鸞だけの功績でもない、また、法然だけの功績でもない。そんなところで、ああだ、こうだ、と、ガンバらないで、素直に、この歎異抄が語りかけることばの本音を聞きあてたい、と、このように思うわけであります。
 それから、この「と、おおせそうらいき」ということばは、第三章と、そして第十章の二か所にしか出てこない。了祥(りょうしょう)師は、この点に注意をしまして、前半の十章は、第三章で一区切りされる、といっております。一二三と展開してきたものが、ここで一段落する、それを承けて第四章から、さらに第十章まで念仏生活が展開する、と。そういう意味で、この、「と、おおせそうらいき」ということばは、なかなか大切な、注意すべきことばであると思います。
 さて、先月と今月と、二回にわけて第三章を拝読しました。くわしく読むということになりますと、お話したところから、まだまだ、いろいろ問題も出てくるわけでありますが、一応、これで第三章を終りまして、次回は、第四章にうつりたいと思います。  (昭和三九・三・二三)


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