3 第三・四・五章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章  
 まえがき
  一 第三章の一  
  二 第三章の二 ◀ 
   案内・講師のことば
   講  話  
   座談会  
  三 第四章   
  四 第五章   
  補 説  
 4 第六・七章  
 5 第八・九・十章  
  謝  辞  
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二 第三章の二 「悪人・ブッダとなる」


     案内のことば

 はたして王さまは裸なのでしょうか?それとも、世にも美しい着物を召していらっしゃるのでしょうか。たしかに、わたしの目には、裸に見えます。しかし、裸だといったら?ああ、申しますまい、申しますまい。そんなことをいったら、みんな、わたしをバカだ、悪党だといって笑うことでしょう。さてさて、わたしはバカであってはならないし、悪党であってはなりますまい。
 友人から、こんな話を開きました。「やれ親鸞だ、歎異抄だといっている自分がはずかしい。そんな立派なことがいえるおれか、おまえか」と。なるほど、もっともな問いのようにも思えます。しかし、いったい、なににはずかしいのでしょう。その、はずかしい気持ちが、実は世間体(せけんてい)といわれるものへの気兼ねであり、他人の評判を気にしている私不在(わたくしふざい)があるからではないでしょうか。歎異抄は立派な古典です。しかし、歎異抄に聞くわたしが立派だなどと、誤解してはならないと思います。くりかえしますが、歎異抄だ、親鸞だといったって、チットモ立派ではありません。要するに、あたりまえのことなんでしょう。童話『裸の王さま』の中で、真実を見ぬいたのは、子供たちです。子供たちは、なんの臆するところもなく、いいました。
 「ワーィ、ワーィ、王さまは裸だ」。
 そうです、たしかに王さまは裸です。王さまは、これ以上、カゼをこじらせて肺炎にならないように、用心しなければなりません。しかし、王さまが、ほんとうに裸が好きなら、わたしたちが、なにをいうことがありましょうか。肺炎になるまでです。それがイヤなら、ほんものの着物を着なければなりません。どんな着物を着るか。それは「めんめんのおんはからい」(第二章)なのでしょう。
  昭和三十九年十二月十六日                      飯南仏教青年会

     講師のことば

 権力をカサにきて威張りちらす人、知識をふりまわして知ったかぶりをする人、さも道徳家のように善人ぶる人――こういう人に出会うと、わたしたちは、鼻もちならぬ気持ちになります。が、そのように批判するものの方も、「自分は悪人だ」と徹底することは、なかなかできるものではありません。
 「いや、わたしにも、悪いところはあるけれども」などといってゴマ化しています。
 善もチョッピリ、悪もチョッピリ。こんな不徹底なところに、安心のあるはずがありません。
 しかし、よく考えてみますと、他人の眼はゴマ化せても、自分自身をだましとおすことはできません。これが人間です。「だから」と、第三章は語っております。「そのような人間を、ジッとみつめているのが、アミダの本願である」と。
 「アミダは、自己の現実を正しくみて、悪のほかにはないとめざめた人を、正客として迎えるのだ。自分の自性(じしょう)の、どん底にまで徹底している人を、正機(しょうき)とするのだ」といいます。今回は、そういう問題を、「悪人・ブッダとなる」というテーマで考えることにいたしましょう。


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