3 第三・四・五章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章  
 まえがき
  一 第三章の一 ◀ 
   原文・意訳・注  
   案内・講師のことば
   講  話  
   座談会  
  二 第三章の二  
  三 第四章   
  四 第五章   
  補 説  
 4 第六・七章  
 5 第八・九・十章  
  謝  辞  
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一 第三章の一 「人間であるということ」


    座談会 「善とはなにか
                                        司会 中 村  勉 (農業)

 司会 今夜は、ぼくに司会の順番が回ってきましたので、まあ、ふなれですが、司会をさせてもらうことにいたします。
 この「歎異抄に聞く会」も、会ごとにだんだん盛会になってきておりますが、出席する人、発言する人も決まってきておるようなわけで、座談会となるとどうしても話が出にくいようです。それで、いつもあとで座敷に残って、ザックバランにやっている調子で、おねがいします。

     いつもよりわかりやすい話

 司会 それで、今夜のテーマは「善とはなにか」ということですが、善人というのは、われわれシロウト考えでは、まあ、正直な人のことだと簡単に考えておりましたが、今日の先生の話や、第三章を読んでみますというと、悪人の方がすくわれるんだとあって驚いているようなわけです。
 それで、山本さん――、むかい水というか、話の糸口をつくってもらえませんか――。
 山本 今晩の先生のお話は、よくわかりました。いつも、こんな調子だと――。
 伊東 ちょっと、理クツっぽくないかなあ、と思っていたのですが。
 西山 いや、ぼくらも、あのように話してもらう方が、わかりよいです。
 中村常 先生の話は、いつも歎異抄を前提としていわれる。だから、いつも聞くぼくらとの間に、ある程度のズレがある、これは仕方がないと思うのですが、今夜のような話で、それが、ある程度、埋められたのとちがうかナ。
 伊東 今夜のような――といわれても、いつも、こんな調子にいくかどうか、わかりませんが、これまでの意見ですと、へタでむつかしいぼくの話にしては、今夜は、ケガの功名ということですか――。
 しかし、とにかく、第一章もそうですが、また第二章にしても、歎異抄は、なかなかむつかしいんですね。
 すきかってに、ことばを選び出して、そのときそのときの感想をしゃべればいいというわけでなくてこの会では、ともかく、そのときの感想をまじえて聞いていただくにしても、一応、歎異抄を、始めから終りまで読みたいということですから、やっぱりいろいろむつかしい問題が、ことばの背後にあるわけですね。
 第一章なんか、まず「弥陀(みだ)誓願(せいがん)不思議(ふしぎ)にたすけられまいらせて――」というような調子で、内容がグッとつまっている。つまり、密度が高いでしょう。
 だから、それを一語一語ほぐしていくというか、解説しながら――ということになったら、月に一回ですと、二年や三年では、とてもすみそうにありませんね。
 それで、その第一章、第二章は、一応すませてしまって、これからは、これまでの話を少しずつ補うことにしたいと思います。そして、必要があれば、その都度、また第一章、第二章にかえって考える――と。

     石・(かわら)(つぶて)のごとくなるわれら

 中村常 先生のお話にあった「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」ですが、こういう発想というか、こういうことばは、当時の社会としては、ものすごく大きな反響を呼んだのではないかと思いますが――。
 それで、さきほども話されたのですが、悪人ということは、その人の自覚をとおしていなければならない、と。それはよくわかります。それで、そういう自覚というものが、ほんとうに自分の心に響く人間というものが農民である、漁民である、と、こう親鸞はみていたのではないでしょうか。
 伊東 そうですね。たとえば、第十三章に「海川にあみをひき、つりをして世をわたるものも、野山にししをかり、鳥をとりていのちをつぐともがらも、あきないをもし、田畠をつくりてすぐる人も」と、非常に具体的に生きるすがたが出てきておりますね。
 こういう人たちのことを、われわれは、現代の概念というか、今日の常識でもって、これは農民だ、漁民だ、猟師だ、商人だ、武士だなどといいます。一応は、それで間違いはないのでしょうけれども、ゲンミツにいいますと、こういう職業というか、こういうなりわいをしていた人は、「いのちをつぐともがらも」という、まったくきびしいことばがありますように、いわば人間のなかまには入れてもらえなかった――、というか、人間扱いされなかった人びとなんでしょうね。
 『唯信鈔(ゆいしんしょう)文意(もんい)』という書物をみますと「商人・猟師などは、石・瓦・礫のごとくなるわれらなるを――」とありますが、つまり「人」とはいうものの、今日のわれわれが考えるような「人」ではなかった。そういう人びとの中に、親鸞は流罪ということを機縁として入っていって、そうして、そこに「人であること」のすがた、というか、ねうち、というか、そういうものを発見したんだと思います。
 だから、このごろの労働運動、社会運動でいうところの「人間を人間らしく扱う」とか、現代の民主社会において「人権をみとめる」というような問題とは、共通性をもっているけれども、また、それだけでは、はっきりしないような性質の問題があったんだと思います。
 中村常 それで、そういう生活をしていた人たちは、自分は悪人だという自覚をもっていたんですね。

     業を知るもの

 伊東 要するに、さきほどもいいましたように、七〇〇年前には、人間だったにもかかわらず、人間扱いされなかったということがあります。仏教では業ということを大事な問題としますが、それは他人のことではなくて、そういう自分の業というものを知っていた人を、親鸞は悪人とよんだのでしょう。
 まあ、もともと人間だったものが、この頃になって、やっと人間らしく扱われる、というか、人間扱いをしようという時代になってきているわけですから、これからは、人間全体が、というか、人類の全体が、というか、その人間を人間らしく扱わなかったという業をつくさねばならぬと思います。
 つまり、業というものは、メンドウなもので、一人だけの業ということもあるけれども、業を共有しているということもある。今日では、そういう社会問題、人類の問題がおこってきているともいえますね。
 中村君の質問から脱線しているようですが、そういうわけで、いろいろやって、とにかく「いのちをつぐともがら」――、親鸞の教えを聞いて、業というものの正体を知った、そうしてみれば、親鸞のいう「悪人」なんていうことは、自分らと無関係な、そらぞらしいものじゃない。そういう意味で、親鸞が、「いわんや悪人をや」といったことばには、なんの抵抗もなく、「ハイ」といえた。「それは、わたしだ」と思えた。
 流罪の間、親鸞は、自分のたべものを作った。そういう意味では、親鸞も農民だったわけです。このごろでは、浄土真宗の本願寺の、宗祖(しゅうそ)という位置においてみるから、高僧である、名僧であるという予定概念が入るけれども、しかし、越後では、生きるために田を耕していた。だから、親鸞は、社会的には、当時の法律で罰せられた罪人で、そして、やっている仕事の内容は農民ですね。
 職業というものは、それをしなければメシを食えない、という意味がある。ですから、親鸞は、北越の厳冬の自然とたたかって生きている農民に同情したというような、そらぞらしいものじゃなくて、「いのちをつぐともがら」というなかから、「いわんや悪人をや」といいきるようになるには、ずいぶん苦労をしたにちがいない。そうして、われとわが身にうなずいて「いわんや悪人をや」といった。つまり、親鸞にとって、農民は、農民というものをみておって、そして、こうだ、というようなものじゃなかった、ということですね。
 野呂賢 ぼくも、歎異抄を読んで、一番はじめに感じたのは「善人もすくわれるならば、当然、悪人もすくわれる」と。こんなバカなことがあるか。善人がすくわれて、そして、悪人はすくわれないのが普通なのに、と考えました。
 こういう疑問をもって、『出家とその弟子』という本を読んだときに、ここでいう善人というのは、自分のすることは何でも正しいことだと思っているもの、すごく自我の強いもの。それで、悪人というのは、自分というものにたいして、絶えず反省を持っている人のことではないか、と。いまも、そういうように感じているんですけど -。

     他力をたのみたてまつる悪人

 司会 ぼくも、前に、愛農会の講習会へ行ったときに「善人地獄、悪人極楽」という話を聞いたことがあります。それで、それと、今日聞かしてもらった話と比べて、なるほど、こういう解釈もできるかと思って聞いていたのですが――。
 山本 まあ、しかし、生ある人間は、善も悪も持ち合せて生きているということでしょう。はたしてわたしが善人であるか悪人であるかは、はっきり決定できない。自分の性格を、はっきり判断できる人は、おそらくおらんのでないかと思いますが、そのように、結局、善も悪も持ち合せて生きておるということですね。
 とにかく、自分のすがたをみつめて、悪行をしようとする自分を誡めて、善行に善行に、と転換していくということが大事なんじゃないですか。
 林善 いま、山本さんのいわれた善人・悪人の解釈の仕方と、親鸞の善人・悪人の解釈の仕方とはちがうと思います。
 悪人というものは、罪のある自分というものにめざめたことで、罪のある自分でした、というところに、悪人の自覚というものがあるのではないか。それを、倫理の世界における善人・悪人と同じに解釈する場合が、おうおうあるので、そこに、善人・悪人ということばの解釈のむつかしさがある。
 それで、なかには間違って「悪いことをしたら、極楽へ行けるんだ」というような解釈も出てくる。もっと違うことばで、親鸞さんがいってくださればわたしたちのように低級な頭でもわかるのに――。(笑)
 それで、わたしは、悪人ということを、「罪人(つみびと)としての意識」というふうに解釈したいんです。したがって「他力をたのみたてまつる悪人」とつけ加えてあるので、それが悪人ということばの本質ではないか――と。
 こういう、つけ加えのことばがあるために、親鸞のいう悪人ということばの意味が、少しわかるような気がします。
 中村常 たしかに「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」というときの感じと「他力をたのみたてまつる悪人」といった場合の悪人とは、ちょっと悪人の響きがちがいますね。
 最初「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」と、こう読んだときには、オヤッというか、なにか間違ったように感じます。しかし、あとになって「他力をたのみたてまつる悪人」というときは悪人の自覚がいわれていると思われます。
 伊東 その「他力をたのみたてまつる」ということですね。みなさん、この他力をたのみたてまつるというような表現にひかかる――、というようなことはないですか。もし、あるとすれば、そこに一つの問題がありますね。
 今晩の講話では、まだ、そういうところまでいっていませんが、要するに、ここの意味内容は、着飾った着物をぬいで、人間の素朴なところに帰るということだと思います。
 森本国 ぼくも、中学を出て、三年ぐらいの間に愛農会へ行って、なん回も、この話を聞きました。それでも、ぼくは、この悪人ということがわからんのです。
 しかし、ここへ勉強に来ているのは、この「悪人」ということばの意味が、わかるようになるためです。

    善人地獄・悪人極楽

 伊東 愛農会でも、この歎異抄のことが話されるんですか。
 司会 愛農会の小谷会長は、キリスト教の人ですが、『聖書』を解釈してくれるときに、この問題が出てくるのです。「善人地獄・悪人極楽」ということを、いつもわかりやすく説いておられます。夫婦の間でもこうやっていけと教えられるわけです。
 伊東 それは、どういうことですか、もうすこし――。たとえば、相手が悪いのではない自分が悪ものなんだ、というか。そういうように、お互いに悪いということに気づいておれば、家庭もうまくいく社会もうまくいく、というようなことを教えられるのですか。
 司会 まあ、そういうことですが――。
 伊東 とすると、倫理の問題、人倫の問題ということなんですね。いま、この歎異抄でもって、『聖書』の話をされるといわれたから、おたずねしたんですが。
 森本国 そうではないと思います。ぼくも、いまよくわからぬのですが、歎異抄を勉強するというのは、この悪人ということが、ほんとうにわかるために勉強する。まあ、一般的な意味の善人とか悪人というのは、わかりますから――。
 伊東 ぼくは、愛農会のことは、よくわかりませんから、いまのところは、ただ、お話だけ聞かせてもらっておきますが、さきほどの「善人地獄・悪人極楽」ということばはなかなか面白いといっては語弊がありますが、ちょっと特異なことばですね。がそれを、どのように理解されるのか、どのように考えられるのか、一歩ちがえば、ことばは似ていても、いおうとする意味内容は、親鸞とは全く異質なものになってしまいますね。その点がどうなのか、気にかかります。
 野呂賢 ぼくが小学校のとき、先生が、「おい、君たち、善い人ばっかりの家庭と、悪い人ばっかりの家庭と、どちらが円満にいくと思うか」と聞かれたことがあります。それで、ぼくらは「善い人ばかりいる家庭の方が円満にいく」と答えた。そうしたら、先生は、「それは違う。悪人ばかりおる家庭の方がうまくいく」といって教えてくださったことがあります。
 たとえば、ここに一つの湯呑みがあったとする。すると、だれかが歩いて来て、ケトバシた。そして湯呑みが割れた。そのとき、割った人は、「わたしが、もっと気をつけていたら割らずにすんだ」といい、もう一人の人は、「わたしが、そんなところへ湯呑みをおかなかったら割らずにすんだ」という。もう一人の人は「わたしは、そこに湯呑みがあるのを知っていながら、のけておかなかった。あのときのけておいたらよかったのに」という。
 この話を聞いて思いますのは、みなが「わたしが悪かった」というのは悪人にはちがいありませが、こういう場合「わたしは悪人だ」ときづいたとき、もうそのときには、すでに善人になっているのではないか、と思います。

     善について

 司会 野呂君の、いまの湯呑みの話は、愛農会の道場でよく聞く解説の仕方と同じですね。ああいう話を、伊東先生の前でしたら、それは倫理の問題だといって負けるのがオチやから、話を出さんわけですが――(笑)
 竹田 しかし、伊東先生にいえば負けるというけど、いうてもいいことやないか。別にイジめるわけでもないが、率直にいうたら、君には、話をして負けたらかなわん、(負けたくない)という気があるからいえぬのやないか。別に、伊東先生に負けたってあたり前のことやしナ(笑)
 森田貞 やっぱり、ぼくには、歎異抄の善人悪人というのと、法律や道徳でいう善悪と、どうちがうのか、よくわからぬのですが。
 山本 今日、先生のおっしゃった、人間とはそもそも何かというようなことと同じ問題で、善悪とはそもそも何を基準にして論ずるのか、ということに納得がいかないのではないですか。
 伊東 さっきの森田さんの質問ですが、そういう問題をはっきりさせようとして、今日は、第三条の前半を「人間」というようなテーマで考えてみたわけですし、もう一度、来月は「悪人こそブッダとなる」というテーマで考えてみたいと思っています。
 わからぬといわれると、話しているものの責任が重大ですが、いまたずねられていることは、まあ、この第三章だけでなしに、歎異抄全体の、親鸞の教え全体についての、非常に大事な問題ですね。そういうことで、会を重ねて、少しずつ考えを深めていきたいと、このように思います。
 松井 悪ということばかりにこだわっているようですが、この辺で、もっと善にもこだわって考えてみることにしてはどうでしょうか。
 山本 この第三章は、悪人のことのみが書いてあるのではない。けど、「悪人こそすくわれる」という、そこの内容が、よく消化しにくい。
 小杉 この第三章の意訳をみると「自分の力を信じて善行を積み」と、こう訳されているけど、自分というものを信じて善行を積むというのは、ぼくは偽善行為だと思う。ほんとうの善行というものは、自分を捨てて、はじめて善といえると思う。そういう解釈からいくというと、悪人というのは、ふつうの凡人というか、それにめざめた人といえると思います。
 松井 その問題を、先生の意訳や、講話を手がかりとして、もっとつっこんでいくと、善とはなにかということがでてくると思いますが。

    意識する善と無意識の善

 小杉 自分で善いことをしようと思って、意識的にすると、どうしても偽善がカゲについてくる。それでは、ほんとうの善行ではない。だから、結果は善か悪か、ともかく自分を捨ててやることが第一だと思う。
 松井 すると、自分を捨ててやる善いことというのは、具体的には、どういうことですか。
 小杉 意識してやることにたいして、無意識に、自然にする善行がある。それは尊いと思う。
 森本国 小杉さんは、意識せずにするのが善いことだといわれました。それは、よくわかるのだけれども、ぼくらには、意識せずに善いことができないという悩みがあるのとちがいますか。
 松井 そういうこともあるでしょうが、意識せずに善いことをするというと、その善いことは、結局なんでもないことになるのではないか。知らぬ間に知らないことをしておったら、それが善いことになっていただけだという話になってしまわないか、ということですね。
 やはり、なにか、意識するということがあるのではないか。そうでないと、善いことをするという意識もおこらないことになる。その辺のところが、もう一つ問題になると思うのですが――。
 中村常 今回の「講師のことば」に、小さな親切運動というのがありましたが、意識してでも善いことをやれば、悪いことをやったのよりも気持ちがよいということがある。
 小杉 結果が、善いか悪いかはともかく、意識して善いことをやるには、やはり意識の努力がいる。しかし、トッサの行為が人に喜んでもらえるとか、倫理的にいっても、無意識のうちに善いことを、トッサの間にやるということがある。そういうのが、ほんとうの善行というものではないか。
 森本国 やっぱり、世の中には、善いことをするんや、というて、善いことをするということも大切だと思う。
 松井 だから、その辺の、意識とか無意識ということのかかわりがむつかしい。無意識的にするのが善だというてしまえば、それじゃ、善いことにたいする努力は不必要か、と。現代社会では、そういうことをいってすまされないものがある。
 小杉 最初から、こういう善いことをやろうというスローガンをかかげてやるのは、一つの社会運動だと思う。けど、自分自身がやる場合は、どうしても偽善というカゲがついてくる。
 森本国 結局、偽善というのは、それに何かの結果というか、効果を求めた場合でしょう。善いことをやろうと思って、善いことをやって、それで何の期待もしないなら、偽善にならぬと思う。
 中村常 電車やバスに乗って、坐っていると、おジイさんなり、おバアさんなりが乗ってくる。すると、すぐ席を立つ。すぐ席を立てば、案外、気持ちがいい。ところが、ちょっと立ち遅れるとか、立ちそびれると、なにか中途半端な気持になる。ああいう場合でも、ぼくは、意識して席を立つ。こういうことは、意識してやることが善いことだ、と、ぼくは思う。
 小杉 まあ、最初は、なにごとも意識してやる。そのうちに自然に、意識しないでやれるようになる。それが、ほんとうの善いことだといいたいわけです。
 高田 席を自然に立つ、というところまでは善いことでしょう。しかし、あとに、立ってやったんだという意識が、どうしても残りやすい。それが悪いんで、そのとき善が悪に転回する。

     頭デッカチが考えた善

 高田 それから、親鸞のことばは、なにか、ことばのトリックにかかったような気がする。はじめから善いものは善いものなんで、悪いものは悪いものだと思う。
 伊東 その、親鸞のことばのトリックということで、君のいおうとすることはわかりますが、そのあとのところは――。
 高田 善とか悪とか、善人とか悪人とか、と、ことばとしては、いろいろいわれるけれども、歎異抄でいわれるのも、一般に善いことといわれるのも、結局、善という点では同じでないかと思います。それを、なにか、ことばにひっかかって、あれこれ、あやつられているような感じです。
 竹田 高田君に聞かしてもらいたいのですが、席を立ったところまではいいということと、それから立ってやったんだということで悪に転回する、と。それからまた、善いことは善いことなんだともいわれました。ところが、ほんとうに善いということを問題にするなら、世間一般では、立ってやったんだということが残っていても、やっぱり善いことだというでしょう。
 だから、世間一般でいう善というものと、ここで求めている善というものとは違いがあるのでないか。法律的な善、道徳的な善とまでいわなくても、小さな親切で、おれが立ってやったんだということがあったにしても、やはり善なんでしょう。
 だから、その人が「立ってやったんだ」と思うことによって悪になると思うなら、それはもう、道徳的な善悪をこえて、ほんとうの善悪を求めているわけでしょう。
 それで、歎異抄でいう善というのは、一般的な道徳の観念というか、いわゆる、ぼくらの、頭デッカチな善のことをいうているんだと思うんだ。
 森本国 この歎異抄の善人・悪人というのは、一つの教え方の方法だと、とってはいけないんでしょうか。
 たとえば、野呂君のいったように、善人の家よりも悪人の家の方がよい、というようないい方がありますね。そういう場合は、教えの方法ととっていいのでないか。
 歎異抄の場合も、そうなんかどうか。考えているうちに、だんだんわからぬようになってくる。
 伊東 なるほどね。教え方の方法――。そういう意味に理解することもできますね。たとえば、こういうように表現することによって、だんだんと親鸞の教えに導いていこうとする、と。
 小杉 考えてみると、われわれが、日常生活において、あいつは善いヤツやという場合は、自分にとって都合の良いヤツにたいしていうている。自分に都合の悪いのは、悪いヤツということになっている。だから、ほんとうに善いということは、むつかしい。
 松井 そういう意味では、自分は悪人だときめている人でも、また、ちがう人からみたら善人だということもありうるわけですね。
 森本国 一般には、自分に利益があるということを基準にして、善人・悪人というていることが多い。
 松井 そういう場合もそうですが、また、自分が善いことをする場合も、自分に都合がいいからするというようなこともある。それが、さきほど、小杉さんがいわれた、偽善のカゲがつくというのと関係が出てくる。

     宿善ということ

 林善 これは、第十三章にも、この問題が出てくるので関係があると思いますが、十三章には「善き心のおころも、宿善のもよおすゆえなり」とあります。だから、善き心のおこるのは、善き心が宿っておる。それで、善き心を宿すためには、やはり善き心を宿す人にならねばならぬ、というところへ行くのではないかと思います。
 昨夜でしたか、テレビをみていたら、保育園の子供が、出園の途中に、八百屋の前で、リンゴやミカンを適当に一つずつとって毎日食べるということが話題になっていました。それは、父兄の責任なのかそれとも通園中は、園長の責任か、という問題をおこしていました。
 これにたいして一人の先生は、ともかく悪いことだから直さなければならぬ。子供には、お母さんからもらったリンゴも、店頭のリンゴも同じことで、ただ食欲をみたすためか、あるいは、無心とでもいうような本能的な行動であって、盗んだという罪の意識はない。だから、店頭のものをだまって食べるのは、悪いことですと教えるところに、先生とか先輩とかというものの責任があるんだ、といっていました。
 それで、実際に、こんなことをしてはいかん、これは悪いことだと教えたら、子供たちは「なんで、あかんのや」(どうしてダメなのか)と聞いたそうです。こんな子供の世界から、わたしどもは成長してきたのですから、無意識の世界の善行というものができるまでには、相当、意識的な世界で苦労をしないとダメだと思うのです。
 いま、いいましたのは、一般的な善悪の例で、親鸞の善悪とどうなるのかよくわかりませんが、要するに、宿善(しゅくぜん)の行というものが一人一人の間におきなかったら、善はできないのではないかと思います。
 西山 ぼくも、こうして話を開くと、だいたい一週間ぐらいは、自分の行動にたいして、善悪の意識というものを感じますけれども、かりに、オヤジと意見が合わなかったりすると、そんなときは、必ずオヤジが間違っておるとカンをたてる。ということは、自分を悪人だと思っていない時間の方が、一日中で多いということでないかと思います。だから、結局、自分を悪人と思えない。
 いつでも自分が悪人と思えるような、そういう意識がはたらくだけの修養というか、そういうものを積んで、はじめて、歎異抄の、こういうことばが成り立つのではないかと思います。
 林善 たしかにそうですね。さきほどの保育園の子供と同じような行為が、わたしたちにはある。それで、人に注意されても、「なぜ、それをしてはあかんのか(ダメなのか)」と反パツしなければならぬ問題は沢山あるのでないでしょうか。
 森本国 それで、ぼくは、やはり悪人がわかるというのは、さとったということになるのやないか、と。なにか、そういう深いものがあるように思う。

     話を聞いても変わらない

 竹田 この、ぼくには、悪人ということがわからぬからかも知れません――。話題がヨコにそれるようですが、ぼくは、この頃、お話を聞いても、自分がちょっとも変らぬように思えてならぬのです。
 実は、今晩、この会へ来るときも、家のものから「今晩は仕事で遅くなったから、会へ行くのはやめにしたら」といわれた。けど、「いや、オレ、行かんならんで行くのや」(行かねばならぬから行く)というた。そうしたら「行ったって、どうせ変わらせんのやし」(変わらないのだし)という。それで、「うんどうせ変わらせんのやけどナ」というて出て来た。そういうことは、いろんな講習会のようなところへ行く人にたいしても「ちっとも変わらせん」というようにいわれる。なにか、自分にたいして、ナサケない気がしてならぬのですが――。
 中村常 それは、こういうことだと思う。それは「食われんのや」と、自分で、パッといえるような君に変わった、と。
 竹田 そういえば、理クツでは、そうや。けど、しかし、変わらん。心から変われん。
 中村常 しかし、たとえば、親鸞は「地獄一定(いちじょう)」とか「いわんや悪人をや」といえたということは、そういう親鸞に変わった。
 竹田 しかし、君は、そういう親鸞の位置にいつでもおれるか。四六時中、悪人だと感じておれるかどうか。
 松井 いや、それは、ことばを相手にかえすような問題ではないと思う。変われないというのなら、四六時中、悪人と思えぬから変われぬという。けど「変われぬ」とほんとうにいえたのなら、四六時中そこにおるかどうか、そんなことは問題でなくなるのではないかナ。
 「君は、四六時中おれるか」というような問題がおこるのは、変われぬといいながら、いつかは変われるのでないか、ということがあるからだろう。
 中村常 「変われぬ」ということは、結局、ものすごく変わったということを逆にいうているのとちがうのか。歎異抄を読めば、ものすごく変わった人がいうていることばだということがよくわかる。
 高田 変わる、変わらぬよりも、この会へ来て、それでよかったなあーと思ったら、それでいいのとちがうのかナ。なにも、それをとりあげて解釈する必要はないように思う。
 ぼくも愛農会へ行って、「お前も変わらんでないか」といわれたことがあるが、ただ、ぼくは、キリストの教えが、ちょっとでも自分の中に形成されてよかったなあーと思うだけだ。
 伊東 「変われんのやなあ」(変われないのだな)「変わらんのやなあ」(変わらないのだな)という気持ちが「変わらせずにはおかぬ」というような大きな力にふれて、そういうことばになってあらわれるんだといえるのでしょう。「変わらせずにはおかぬ」というはたらきにふれて、そうして「変われない」ということばが出てくる。そういう意味では、そのことが問題になるのは、どうでもいいことではないといわねばならぬと思います。
 しかし、そういう一点だけを、特にとりあげて固執するというと、問題が変になってくる。

     変わることと変わらぬこと

 伊東 「変われない」という自覚が徹底するというか、そういう問題がはっきりすると、今度は、変わるとか変わらぬとか、そういうことは、問題でなくなる。変わるだの、変わらぬだのと、いろいろに解釈するということ、そのことが問題ではなくなる。そういう世界が開けてくると思います。
 まあ、変わるのか変わらぬのか、という以前に、変わりたいという気持ちがあるんだし、また、変わらせずにはおかぬという力がある。これが事実ですよね。それが信じられたら、もう、変わる変わらぬは問題でなくなる。
 ただ、ことばの解釈というか、理クツをいうだけなら、変われるんだというてみても、変われない自分がここにおるじゃないか、と、落ち着かない。また変われないというたのでは、変わりたい自分がおるから、これまた落ち着かない。どちらにしても、解釈なら、落ち着くはずがない。
 だから、変わるとか変わらぬとか、そういうことをいう必要のない世界まで出ないと落ち着く場所がない。
 ぼくは、いま、大谷大学で一回生の学生に講義をしているのですが、その学生たちにね、名前を出して粥見の諸君とはいわないけれども、月に一回会う青年たちがいるが、かれらは、一回一回変わっている、というんですよ。
 竹田君のいうように、自分のこころを表現することばとして「変わらぬなあ」とか「変われぬなあ」ということはわかる。よくわかる。けれども、また反対に、君たちは、ずいぶん変わりましたよ。ぼくが、ここへ来るたびに、君たちは変わっていると感じる。だから、ぼくがいうのはヘンだが、君たちが変わったんだから、やっぱり、ぼくも変わったにちがいない。ぼくの先輩で、もう二十年ほどもつき合っている人がおりますが、みていると、やはり、どんどん変わっていく。
 だから、生活の中での実感としては、「人間というものは変わらぬものやなあ」ということもあるしまた「あの頃からみると、ずいぶん変わったなあ」ということもある。
 曾我先生に前の講義録を出版させてくださいといったら、「もう三年も昔のものでしょう。わたしはいつまでも同じところにいませんよ」といわれた。かと思うと、先生の処女作とでもいうべき『論集』などにたいしては、「あれからちっとも変わっておりません」ともいわれる。金子先生には『真宗の教義と其の歴史』という処女作がありますが、あれからみると、先生はずいぶん書物も書かれたし、思想的にも、信仰の深さという意味でもずいぶん変わられた。けれども、先生は「いま考えていることは、みな、あの頃に気づいていたのですね」といわれる。
 そういう変わり方には、教えに導かれるということがあるんでしょうね。だから、親鸞にしても、法然に会う前と、会うてからと、そして別れてからとどんどん変わられたにちがいない。
 まあ、それで、「変わった」ともいえるし「変わらぬ」ともいえるけど、この会をみていると、とにかく、みな変わっていく。成長していく。
 竹田 それでも、ぼくは、いっこうに進まぬように思えてかなわぬ。同じところばかりにいるようで――
 西山 ぼくも、自分自身にたいしては、我欲というか、欲望があるから、そういう面では変わらぬように思う。しかし、ものにたいする考え方については、ある程度、変わったように思う。
 高田 ぼくも、この前、愛農会へ行ったとき「仏青で歎異抄を聞いて変わっていくか」ということが話題になったとき、「変われぬ自分に気づいたことだけが変わったことであって、変われぬものはやはり変われん」といったことがあったが、これは、ちがうかナ。
 西山 ものの見方というものが変わる――。

     宗教における善と悪

 中村常 まあ、変わる、変わらぬということでもやはり、変わりたいと思っていることはたしかなんだ。悪だというてみても、善をしたい。だから、善ということも、ある点では、非常に意識しなければならないことだと思う。無意識だといっても、やはり、これが善だということは、意識して、はっきり見極めていかねばならぬと思うナ。
 司会 ぼくは、今日は司会だったんですが、この善悪については、よくわかりません。それで、司会は一言もいわないのが「善いこと」だと解釈して――(笑)
 それでは、最後に、先生のお話をうかがって、この会を終りたいと思います。
 伊東 いろいろ大事な問題を聞かせてもらって、そのときそのときには感想も浮んだのですが、一々それを覚えてもおりません。それで、出た問題をまとめる、整理するということは、できませんが――。まあ、断片的に、思うままをもうしあげますと――。
 まず、われわれが生きているということ、そのこととが、もう善を欲し悪を憎んでいるんだ、といえないかと思います。漠然としたいい方ですが、非常に素朴なところで、もう生きておることそのことが善を求めたり、善をたのんだりする。が、実際に生きていく中では、そういうことをさせないものがある。逆に、生きていること自身は悪をなしつつある、というか、悪をなさねば生きられないという現実がある。
 理想としては、善を求め悪を憎むということと深い関係をもって生きておるんだけれども、それは、ひとつの意識の世界での理想ということであって、現実ではない。だから、われわれが善を求める、善を欲するといっても、そういう生き方、考え方を成り立たせているものを、この際、退一歩してよく考え直さねばならない。
 すると、そこにエゴイズムというか、一人いてもエゴイスティックだし、ある集団のかたちをとっていてもエゴイスティックだ、というものにぶつかるそういうものが、信仰の世界では「罪福信(ざいふくしん)」というようなものになるのだと思いますね。
 だから、罪福信ということになると、すくわれたいから善を行うのだけれども、その、善を行うこと自体が、わたしを縛って、すくわれない、と、こういうジレンマにおちいる。
 自力をたのむ、他力をたのむ、ということばがありますが、自力の善をたのむ、神をたのむということ全体が、もう自分を縛っている。それで、善だ悪だと、いろいろ論議しますけれども、そういうことをいっている現実そのものが、もう自分を金縛りにするような、悪のほかなにものでもない、と、こう見出したところに、第三章に語られるような親鸞の人間観があるのだと思います。
 この、エゴイスティックなものから離れられないで生きている、そういう意味で、われわれは、善をたのみ悪をにくんでいるのだけれども、しかし、それだけでは満足できないものも人間にはある。さきほども、「自分を捨てて」ということばがありましたが、なにか、そういう世界へ帰りたい、というかそういう世界へ行きたい、というか。それが人間の本心というものではないか。願いというものではないか。
 その願いというものは、実は、人間の底の底からの願いである。いわゆる人間の底というようなものでなしに、底の底からの願い――、そういうものがわたしたちを動かしている。その願いを、アミダの本願というのですね。
 そういうアミダの本願ということについては、また、別の機会に、これから、もっとくわしく考えることにしたいと思います。
 それで、いわゆる法律というようなもので、善だ悪だし」いいましても、それは、一つの約束ですからね。それも大切だけれども、それだけではすまされないところに、具体的に生きている生身(なまみ)の問題があると思いますね。
 約束というものは、申し合わせが変わったら、昨日の善は今日の悪ということになる。が、そんな尊になったり悪になったりするようなものでは、実は人間のいのちは支えられてはおりません。その、善になったり悪になったりするようなところに、ほんとうの善悪が問題になるようなものがあるんじゃないか、と。そこに宗教の問題があるわけでしょう。まあ、まとまりませんが、思いつくままをもうしてこれで終りたいと思います。
 司会 どうも、ありがとうございました。これで一応、座談会は終りにしますが、このあと、いつものように、座敷でまた雑談会をやりますから、時間のゆるす方は、どうぞ残ってください。では、今月の会は、この辺で――。


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