3 第三・四・五章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章  
 まえがき
  一 第三章の一 ◀ 
   原文・意訳・注  
   案内・講師のことば
   講  話  
   座談会  
  二 第三章の二  
  三 第四章   
  四 第五章   
  補 説  
 4 第六・七章  
 5 第八・九・十章  
  謝  辞  
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一 第三章の一 「人間であるということ」


     案内のことば

 「悪い奴ほどよく眠る」といいますが、あまり寝つきのよくない人種は「さて、おれは、よほどの善人らしい」と自問したくなります。しかし、また「汝のごとき罪深き者、夜は永遠に戦場のドラと化すであろう。善良なる人びとよ、そなた達には、幼児のごとき安らかな眠りが与えられるであろう」ともいいます。こういわれると、どちらが善人やら悪人やら、よくわからなくなります。
 もっと(すご)いのに「悪魔のような」というのがあります。むかしむかし、西洋で、教会と封建制を守るために、魔女裁判なるものをデッチあげました。その記録によれば、よなよなバッカスの山の(ふもと)で、悪魔と魔女が、ドンチャンさわざをやったとあります。しかし、魔女裁判は、むかしむかしのお話だけではありません。現代でも、松川裁判、帝銀事件など、よくわからない魔女裁判があります。もっとも、「東洋の魔女」というのは、バレーの上手な女性のことですが……
 「悪魔のような!」
 まあ、まあ、よいではないか。これは、悪魔のお話ではありませんが、阿弥陀経(あみだきょう)(伊東先生著『阿弥陀経に聞く』参照)の中で、雷神アスラが、ブッダ世尊の説法に、心はれやかとなり、意気揚々と引きあげていくさまを想像して、思わず、カンラカラカラと笑ってしまうのです。
                                                飯南仏教青年会
  昭和三十九年十一月十七日


     講師のことば

 スーダラ節の植木等は「悪いとわかったらやめるんだというのは、生きた、ナマの人間ではない」といいます。「わかっちゃいるけど、やめられない」。これが、かれの凡夫観(ぼんぶかん)だそうです。
 けれども、わたしたちは、やはり善意を信じ、善行に期待します。そして、悪をにくみ、悪をおそれます。
 近頃、各地ではじめられた「小さな親切運動」の輪が、全国にひろまりつつあるといいますが、たとえ、どんなにささやかでも、人の善意にふれるのは嬉しいものです。
 このように、人間は、いつ、どこで、どのように暮らしていても、善悪の問題から離れることはありません。
 では、いったい、人間の自性(じしょう)とは、どんなものなのか。今回は、歎異抄の第三章を読みながら、「人間であるということ」について考えてみたいと思います。


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