3 第三・四・五章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
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一 第三章の一 「人間であるということ」


     第三章の原文

一、善人なおもって(一)往生をとぐ(二)、いわんや悪人をや(三)。しかるを(四)、世の人つねにいわく、悪人なお往生す。いかにいわんや善人をや、と。この(じょう)(五)一旦(いったん)(六)そのいわれ(七)あるににたれども、本願他力の意趣(いしゅ)(八)にそむけり。そのゆえは、自力作善の人(九)は、ひとえに他力をたのむ心(十)かけたるあいだ(十一)禰陀(みだ)の本願(十二)にあらず。しかれども、自力の心(十三)をひるがえして(十四)、他力をたのみたてまつれば、眞實報土(しんじつほうど)(十五)の往生をとぐるなり。煩悩具足(十六)のわれらは、いずれの行にても(十七)、生死を離るる(十八)ことあるべからざるを哀みたまいて、願(十九)をおこしたもう本意(二十)、悪人成佛(二十一)のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも(二十二)往生の正因(二十三)なり。よって(二十四)善人だにこそ(二十五)往生すれ、まして悪人は(二十六)、とおおせそうらいき。

     現代意訳

 善人でさえ、アミダの浄土へ生まれることができる。まして、悪人は、いうまでもない。それなのに、世間の人は、つねに、こういっている。「悪人でも、浄土へ生まれるのである。だから、善人が生まれるのは、いうまでもないことである」と。
 これは、一応、もっともなことのように思われるけれども、アミダの本願・他力のこころにそむくのである。
 というのは、自分の力を信じて、善行(ぜんぎょう)を積み、それでもってさとりをひらこうとする人は、ただひとすじに他力をたのむこころが欠けているから、アミダの本願に反するといわねばならない。けれども、もし、自力を過信するような思いあがりをひるがえして、他力を信ずれば、アミダの真実の世界へ生まれ、アミダの真実に生きるものとなるのである。
 わずらいなやむこころを、すべてみなそなえているわれら悪人は、念仏よりほかの、どのような修行をもってしても、この迷いの人生を離れることができない。それを、あわれにおもわれて、本願をおこしてくださったアミダの本心は「悪人こそ、ブッダとなる」ということを実現するためであるから、他力を信ずる悪人は、まさに浄土に生まれるべき因位(いんに)の人である。だから、善人さえ、アミダの浄土へ往生するのである、まして、悪人が往生するのは、いうまでもないことである。
と聖人はおっしゃった。

     注  釈


(一) 善人なおもって。
 ぜんにん。善人とは、一般に倫理的に過失のない人のことですが、ここでは、ブッダとなるために善行(ぜんぎょう)をつむ人のことをいいます。「なおもって」は、ですらも、でさえも、という意味。この原文は「なおもちて」(端の坊旧蔵、大谷大学所蔵写本)「なおもて」(蓮如本・永正本など)となっております。
(二) 往生をとぐ。
 おうじょう。往生とは、アミダの世界へ往き、アミダの世界に生まれ、アミダの真実に生かされて生きるものとなること。さとりを開き、ブッダとなる(成仏する)という人生の大目的を果すことを「往生をとぐ」といいます。
(三) いわんや悪人をや。
 あくにん。悪人とは、一般に倫理的な不善をなす人のことをいいたすが、ここではブッダとなるための善行(ぜんぎょう)をつむことのできない人、自分のありかたが悪以外にはありえないということにめざめた人のことです。
 「いわんや悪人をや」とは「悪人が往生することができるのは、いうまでもないことだ」という意味。「いわんや」は「いおうか、まあ、いうにもおよぶまい」ということ。
(四) しかるを。
 しかるに。そうであるのに。
(五) この条。
 このじょう。このこと。この点。
(六) 一旦。
 いったん。一応。ひととおり。
(七) そのいわれ。
 いわれは道理、理由。
(八) 本願他力の意趣。
 ほんがんたりきのいしゅ。ナムアミダ仏(念仏)を信じてくださいというアミダのこころ。本願とは、すべてを如来にまかせて、自分のはからいをまじえないものを救おうとするアミダのこころですが、意趣は、その本願の本旨、本意、ということです。
(九) 自力作善の人。
 じりきさぜんのひと。自分の力を信じて、ブッダとなるための善行をつむ人。換言すれば、ブッダとなるための善がおこなえると、自分の力を過信している人。つまり、力にたいする自覚の不徹底な人。
(十) 他力をたのむ心。
 たりき。他力(すなわちアミダの本願のカ)を信ずる心。アミダのはたらきに、生かされて生きているという、この人生の真実にめざめた心。
(十一) かけたるあいだ。
 欠けているから。「あいだ」はゆえに、ほどに。
(十二) 弥陀の本願にあらず。
 みだのほんがん。アミダ(永遠なる真実)のこころに相応(そうおう)しない、ということ。他力を信じない人が、アミダに救われるということはありません。
(十三) 自力の心。
 じりきのこころ。自分の力を過信するような、思いあがった心。自力そのものは、善でも悪でもありませんが、その自力に執われ、自力をたのみ、自力の実態を知らぬところに、われわれ人間の迷いがあるわけです。
(十四) ひるがえして。
 あらためて。これは、後悔して、悔い改めて、ということではなく、自力をたのむ立場をひるがえして、つまり廻心(えしん)して、ということ。
(十五) 真実報土。
 しんじつほうど。永遠なる真実の世界、アミダの浄土(じょうど)のこと。アミダは、すなわち真実ですが、そのアミダの真実の心に報(むく)いてできた世界という意味で、報土(ほうど)といいあらわします。また、これを極楽とも、涅槃(ねはん)とも、一如(いちにょ)ともいいます。まことの信心(アミダの第十八願の心)をえた人の生まれるところで、この真実報土(しんじっほうど)は、方便化土(ほうべんけど)、すなわち真実に誘導し、真実に自覚させるためにもうけられた方便の世界に対するところです。
(十六) 煩悩具足
 ぼんのうぐそく。心身をわずらわしなやます心を一つ残らず、みなそなえているということ。とくに、エゴイスティックなむさぼりの心(貪欲、とんく)、破壊的ないかりの心(瞋恚、しんに)、真実を知らぬ無知の心(愚痴、ぐち)を三大煩悩といい、このほか、邪見(じゃけん)、慢心(まんしん)、疑惑(ぎわく)などが主なものにかぞえられます。具足は、具備満足すること、ことごとくそなわっていること、欠くところのないこと。
(十七) いずれの行にても。
 念仏以外の、どのような善行(ぜんぎょう)をもってしても。
(十八) 生死を離るる。
 しょうじをはなるる。この、迷いの人生を超えること。生死(しょうじ)とは、いつ終るとも知れぬ流転(るてん)の人生、迷いの人生のことですが、この人生を、とくに生死というのは、生がはじまったとき、そのときすでに死もはじまっている、生は死とともにはじまったもの、生は死すべくはじまったものということをあらわします。
 人生には、生と死があるのではなく、これを一枚の紙にたとえれば、表が生(その肯定面)、そして裏が死(その否定面)であって、表裏ともに人生の一面であるといわねばなりません。
(十九) 願。
 がん。本願、アミダの本願。
(二十) 本意。
 ほんい。ほんとうのこころ。本心。
(二十一) 悪人成仏。
 あくにんじょうぶつ。悪にめざめた人がブッダとなる。すべての人間が、その自性(じしょう)としてもつところの絶対悪にめざめさせよう、そして、その自覚のある人をブッダたらしめよう、というのが、アミダの本願の心である、と、このように親鸞は教えています。
(二十二) もっとも。
 最も、第一の、最適の。原文(刊本首書歎異抄を除く)には「もとも」とありますが、ここでは「もっとも」に改めました。
(二十三) 往生の正因。
 おうじょうのしょういん。アミダの世界に生まれて、まさしくブッダとなるべきたね(種)。正因は、第一因、主因ということ。ブッダとなるものはまさしく他力を信ずる悪人でありますが、その意味で、「果」(か)としてのブッダにたいして、「他力をたのみたてまつる悪人」を「正しき因」といいます。この悪人は、果位(かい)のブッダにたいする因位(いんに)ということですから、現代意訳では「他力を信ずる悪人はまさに浄土に生まれるべき因位(いんに)の人である」と訳しました。
(二十四) よって。
 それゆえ、だから。なお、この原文は「よりて」(端の坊旧蔵、大谷大学所蔵写本)「よて」(蓮如本・永正本など)(ただし刊本首書歎異抄は「仍」よって)となっております。
(二十五) 善人だにこそ。
 善人ですら、善人でさえ。
(二十六) まして悪人は。
 まして悪人にあっては、なおさらのことである、悪人の往生は、いうまでもないことである、という意味。


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