3 第三・四・五章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章  
 まえがき ◀ 
  一 第三章の一  
  二 第三章の二  
  三 第四章   
  四 第五章   
  補 説  
 4 第六・七章  
 5 第八・九・十章  
  謝  辞  
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まえがき


【推薦のことば1】

 中野好夫君が、目下自分は無宗教だが、もし選ぶとすれば親鸞だと書いていた。気むづかしい知識人の心を何が捉えたのか。それは類をみないほどの強烈な罪の意識を抱く親鸞のせいであろう。
 私は、現在ある新聞に「親鸞」を連載中だが、小説の原動力は、罪の意識をどう扱うかにかかっている。親鸞は、無慚無愧の極悪人だと自分のことをいった。その無慚無愧を徹底させたいと思っている。日本人は恥を知る国民といわれているが、その恥は外に対してばかり感じるもので内に向ってはまるで忘れている。歎異抄は、それを教えてくれるものと私は解している。
 その意味から、この書が多くの人びとに読まれることを願う。全巻の完結がまたれるのである。
                           作  家   丹 羽  文 雄

【推薦のことば2】

 歎異抄は真実の信仰に生きる永遠の人間像を語っているものである。それは常に古く同時に常に新しいものである。この人間像を現在の時点において生かすことは現代人の責務である。これをみごとに実践しているのが本書である。
 この本には、著者を中心とする若い魂が多角的に真実の信仰に生きようとする姿が、如実に描かれている。現代に生きる喜びを与えてくれる書物である。老若を問わず心ある人々にすすめる次第である。
                           早稲田大学教授  新戸田  六三郎


     ま え が き

 「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」という歎異抄第三章のことばは、親鸞の思想と信仰を代表するものとして、多くの人びとに知られた有名なことばであります。これについて、倉田百三氏は、その著『法然と親鸞の信仰』のなかで、「これは、勿論、ふつうの常識とはあべこべの提言だ。道学者(どうがくしゃ)は眉をひそめるだろう。しかも、親鸞は真顔でこれを提言し、提言せずにはおれないのだ」といっています。
 これは、道学者ばかりではなく、一般に世人の常識を打ち破る逆説的な提言であると理解されています。ところが、世人の多くは、これを、難解で疑問の多い思想である、人びとをあやまらせる危険な思想であるとして、避けるのであります。なかには「歎異抄の悪人礼賛はみておれない」とまでいって、これを批判する人もあるほどです。しかし、そこにまた、このことばが、人間の本質を正しく知ろうとする人びとの共感をよぶ原因もあるわけであります。
 この小著『歎異抄の世界』に、はげましのことばを寄せてくださった丹羽文雄氏は、「中野好夫君が、目下自分は無宗教だが、もし選ぶとすれば親鸞だと書いていた。気むづかしい知識人の心を何が捉えたのか。それは類をみないほどの強烈な罪の意識を抱く親鸞のせいであろう」といわれます。
 親鸞は、赤裸な自己を凝視して、自分は無慚無愧(むざんむぎ)の人間である、罪悪深重(ざいあくじんじゅう)の人間であるといいきります。すなわち「悪人とは人間の別名である」というのでありますが、そのような親鸞にとって、「いわんや悪人をや」という断定は、たんなる逆説ではなくて、むしろ自信ある正説であるというべきであります。
 そこで、この『歎異抄の世界』の第三巻では、まず親鸞の透徹した人間観を語る第三章を「人間であるということ」と「悪人・ブッダとなる」という二つのテーマで考えてみたわけであります。すでに第一章には「アミダの本願を信ずれば、他のいかなる善も必要ではない。念仏よりもすぐれた善はないからである。いかなる悪をもおそれることはない。アミダの本願をさまたげるような悪はないからである」とありました。それを承けて、いま第三章には、本願の念仏は、相対的な善悪をこえたものである。すなわち、いわゆる善悪の彼岸の声であるということが明らかにされているのであります。
 ついで「慈悲に、聖道(しょうどう)(自力)の慈悲と、浄土(じょうど)(他力)の慈悲のちがいがある」ということばにはじまる第四章には、親鸞の生命観が語られていると思われます。それを、ここでは「愛の真実」と題して考えてみました。
 そして「親鸞は、父母への追善供養(ついぜんくよう)として、まだ一度も念仏を(とな)えたことはない」とある第五章は、親鸞の歴史観を語るものといえましょう。すなわち「すべて生あるものは、みな、長き世をかけて生まれかわる間に、互いに父母ともなり兄弟ともなってきたのである」と述べられるところには、「いのちの歴史」の秘義が明らかにされてあるのであります。
 なお、このあとの「歎異抄の諸問題」では、さきの講話でふれることのできなかった要点について、かぎられた頁数のなかではありますが、いそぎ足に概略を補説しました。
 さて、こうして、ここにようやく第三巻をおとどけすることができるようになりましたが、発刊の予定日を、すでに三か月も過ぎてしまいました。熱心な読者のみなさんからは、毎日のように催促の手紙をいただきましたし、なかには「刊行を断念したのか、もう廃刊したのか」というきびしいお叱りも受けました。ここに、ご迷惑をおかけした方々にたいして、心から遅延のお詫びを申しあげます。

    一九六七年七月一七日

                                        京都上賀茂にて
                                        伊  東  慧  明


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